2021 6月感想(短)まとめ

2021年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆幕末の動乱期、長州派維新志士として暗躍する “人斬り抜刀斎” と呼ばれた男の前に雪代巴と名乗る女が現れるるろうに剣心 最終章 The Beginning』(大友啓史監督、2021)は、なんとも練り込み不足がもったいない1作だった。

やはりなんといっても、谷垣健治アクション監督による剣戟アクションは相変わらず見応え十分。本作は時系列が過去編ということで、剣心が持つのは後の彼が使用する “逆刃刀(さかばとう)” という斬れない刀ではなく普通に斬れる刀なので、これまでの “るろ剣” 的アクションの特徴であり、新鮮さのひとつであった刀による打撃の連続技は使えないものの、これまでのスピード感溢れる殺陣とカメラワークのダイナミクスさを持ってアップデートされた時代劇アクションを楽しむことができるだろう。またクライマックスにおいて、まるでプレデターを待ち構えるシュワルツェネッガーもかくやに、仕掛け満載で剣心に挑む闇乃武の創意工夫も観ていて楽しいし、これまでの見せ場と違って雪の舞う薄ら寂しい白の世界での攻防の色合いも美しかった。

加えて、剣戟による直接的な流血や人体損壊描写をこれまで以上に入れ込んできたことは評価したい。冒頭での剣心が魅せる大立ち回りからクライマックスのアクションにいたるまで、スクリーンは鮮血で赤く染まり、彼の太刀筋の先にある腕は切り落とされる。巴の台詞にもあるように、剣心が「血の雨を降らせる」様子を存分に味わうことができるだろう。

ただ、そういったアクション・シーンにおいておや、若干呑み込みづらい点も少々ある。たとえば村上虹郎演じる新撰組沖田総司が剣心と対決しながら急に吐血することは非常に唐突である。もちろん、これは彼が肺結核だったと云われること──とくに本作では、おそらく子母澤寛新選組始末記』──を踏まえてのことだが、その前段階でちょっとでも具合の悪そうな描写を数カット挿入すればスムーズにその展開に持ち込めただろう。あるいはクライマックスの闘いにおいて、剣心が敵の策略によって聴覚や視覚を一時的に遮断されてしまうのだが、これも数カットぶんの描写──具体的には表情のアップとその動き──が薄いのが気になった。それがあったればこそ、意図せずして剣心が巴を──あるいは彼女としては意図して──殺めてしまう悲劇性も際立ったのではなかったか。

そして、ドラマ・パートに関しては、重厚さというよりも鈍重さのほうがいささか目立っていたのが残念。作品の展開は基本的にスロー・テンポであり、そのゆったりとした雰囲気が合致している部分もあるが、全篇とおして抑揚が平板に過ぎる嫌いがある。そして、やはり観客に対する信頼が薄いのか、映像もしくは音声によるフラッシュバックが頻出することもそれに拍車をかける。すこしでも展開が動くたびに「ハイ、これはさっきのこの人ですよ」「ハイ、これはさっきの台詞が伏線ですよ」「ハイ、このときこんなことを思っていたのですよ」と──なんなら5分前くらいに映されたことまで──やるものだから、鬱陶しいことこのうえない。

なおかつ、後半の展開は前作『~The Final』の中盤にて回想/ダイジェストされたものであり、これといって新しい情報もないので、余計に時間の進み方が鈍重に感じられたのは非常にもったいない。やはり前作中における回想は必要最低限の情報に絞っておくべきではなかったか。かといって本作、巴の弟である縁まわりのシーンは中途半端にカットするものだから、いよいよ判りづらい。またラスト、本作の物語が完全に終了しているにも関わらず長々と附されたフッテージ *1については噴飯もので、そんなものなくとも、その直前でラスト・ショットとしたほうが、いっそう納まりがよかったであろう。いや、名実ともに傑作であるOVA版『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』(古橋一浩監督、1999)と同じようなラストの構成にしたかったのと、これまでのシリーズとの関連性を際立たせようとしたかったという気持ちはわかるけれども、しかしなァ。

ことほど左様に、いささか練り込み不足が目立つ出来だったという印象は拭えない。カットすべき要素はきちんと落とし、入れ込むべき要素をきちんと盛り込んでの137分を期待していたぶん、これなら20~30分くらい短くてもよかったのではなかろうか。もったいない。

また、この『最終章』2部作を俯瞰して眺めたとき、それぞれの作品に散見されたプロット上の不自然さの原因は、やはり「前後篇」と銘打ちながら時系列を逆転させて公開したことにあったのではないかという疑念は拭えない。もし前篇『The Final』と後篇『The Beginning』を逆の順で公開するように編集がなされていたならば、語り口としてもよりスッキリしたろうし、現在それぞれが同時に上映されている劇場も多いなか、チケットを買う観客に無用の混乱を与えることもなかったであろう。

なんにせよ、全5作にてシリーズ完結とあいなった実写版『るろうに剣心』シリーズは、邦画エンタメ大作が持つ可能性と課題をどちらも見せつけるものとなった。今後、日本映画界はどのような「新しい時代」を我々にみせてくれるのだろうか。


     ○


◆人知れず歴史の裏側でおこなわれている人間界と魔界と闘いに場末の格闘家コールが巻き込まれる、同名人気格闘ゲームの約4半世紀ぶりの実写映画化モータルコンバット(サイモン・マッコイド監督、2021)は、もし普通の映画として観ようとするなら面喰うような、まさに格闘ゲームを体感させることに清々しいほど振り切った作品だった。

というのも、本作の作劇は、作中の設定や人物紹介、そしてドラマを可能な限りソリッドに削ぎ落としたものであり、残る上映時間に観客が目にするのは、とにかくキャラクターたちの戦闘に次ぐ戦闘、息つく間もなく戦闘だ。そういう意味では、1995年のポール・W・S・アンダーソン監督版はかなり『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督、1973)を意識した作劇だったぶん、いささか鈍重な印象 *2があったけれど、今回のリブート版はとにかくテンポがいい。

これはつまるところ我々が格ゲーをプレイするときの体感と同様だといえるだろう。いわゆる巻き込まれ型主人公であるコールの存在も、その一助となっている。コールの立ち位置は格ゲーないし『モータルコンバット』初心者のそれであり、本作の作劇は彼がコントローラーのボタン配置を覚え、コマンドを暗記し、「コンバット」の頭文字が本来の「C」ではなく「K」であることに突っ込んだりしたのちに、ようやっと必殺技を繰り出すことに成功するゲームプレイヤーそのものである。

もちろんゲーム『モータルコンバット』シリーズといえばの「フェイタリティ」も、本作はあますことなく再現している。これは対戦キャラクターをノックアウトさせたのちに複雑なコマンドを追加入力することで発生する追撃モーションなのだが、これがとにかく血みどろで、首を引っこ抜く、身体を真っぷたつにする、木っ端微塵に粉砕する、串刺しにする……などなど、笑ってしまうほど残虐極まるのがシリーズ最大の売りなのである。これもまた、1995年版ではレーティングの関係でオミットされた部分だったのだが、今回はレーティング有り──日本ではR15+──の容赦のない描写が目白押しで素晴らしい。

そして、本作の白眉はなんといっても真田広之であろう。彼が立ち回るチャンバラアクションのキレと美しさは相変わらずなのはもちろん、じつは彼の演じるハサシ・ハンゾウなる侍こそが本作の実質的な主人公である。それゆえに真田広之の見せ場も多く、ここ十数年来のハリウッド出演作にあった絶妙な不完全燃焼感は、本作で見事に払拭されるだろう。物語がいよいよ終盤を迎え、観客のテンションがアガリにアガリ切った瞬間に劇場に鳴り響く “あの” 曲── ! *3

といった具合に、ぜひとも劇場で観たい、もといプレイしたい作品だ。モォタルコンバーッ! ヘ(゚∀゚*)ノ ホエホエ!


     ○


◆“普通” の暮らしを目指す休業中の殺し屋ファブルの前に、かつて救えなかった少女ヒナコと殺せなかった男・宇津帆が現われるザ・ファブル 殺さない殺し屋』江口カン監督、2021)は、前作(同監督、2019)と比較して相当まともな作品となっていた。

もちろん、本シリーズ最大の売りである佐藤(仮名)ことファブルを演じる岡田潤一自身がノンスタントで立ち回るアクション・シーンは、本作ではいっそう素晴らしかった。冒頭のつかみである立体駐車場での暴走するワゴンカーからの脱出劇や、後半の見せ場である団地のマンション1棟をまるまる舞台とした戦闘シーンは、スピーディで立体的な殺陣や動き、そしてカメラワークの構築の連続が見事であり、同時に前作と転じてデイ・シーンなため画面が明るく観易いため、思わず手に汗を握ってしまう。休業中につき殺人はご法度であるファブル独特のハンディによって、倒しても倒しても敵の数が基本的に減らない──ただ、これで死人が出てないというのは無理があるだろうと思える部分が多々あるのはご愛嬌か──のも、本シリーズならではの楽しさだ。

また、前作でかなり方針のブレブレだった演出が、本作ではだいぶ一貫性を持ってなされていた点もよかった。とくに前作の前半にあったテロップ芸を代表とするような、テレビのバラエティ番組的な編集はほぼ封印されていた──ただ、序盤1ヵ所だけまさしくバラエティ的笑いを狙ったような編集があって逆に驚くのだけれど──ので、そういった寒々しさがかなり軽減され、より映画にのめり込むことができるだろう。相変わらず複数の作曲家の手による劇判も、一貫性のあるよう方向性が定められている点も改良点だろう。

もちろん課題がないではない。抑え気味とはいえ佐藤二郎演じるデザイン・オフィス社長の笑わせ芸はまだまだクドイし、それに引きずられるかのように山本美月演じる岬が現状の見せ方だと──いちおう前作のヒロインであるにも関わらず──割とイヤなヤツにしか見えないのは問題だろうし、堤真一が実に狡猾に演じる本作のヴィランである宇津帆の悪事に平手友梨奈──アニャ・テイラー=ジョイを髣髴とさせる独特の存在感がよかった──演じるヒナコがどれだけ関わっていたのか判然としないのはいささか呑み込み辛い。

とくに、前述の団地アクションの後に展開されるクライマックスは、そのシーン自体が愁嘆場であることに加えて、“その” 一瞬をいくらなんでも引き伸ばしすぎであることもあって、クドイというか鈍重というか……。もちろん、『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)のラストもかくやに超スローモーションで切り取られた映像それ自体は面白かったし、シーンそのものにアクションがないために見せ場としての盛りが必要だとの判断があったことは理解できるのだけれど、むしろもうすこしサッと──劇中でスピードとタイミングが重要だと、いみじくも語られるように──終わらせたほうが、緊張感の持続と解放にいっそうメリハリがあったのではないか。

ともあれ、前作よりアクションも完成度も格段に高まっていることに間違いないは作品だった。


     ○


◆優秀な技術者の青年・高倉宗一郎が、会社の共同経営者たちの画策によって冷凍冬眠で30年後の未来へ送られてしまう夏への扉-キミのいる未来へ-』(三木孝浩監督、2021)は、まとまってはいるけれどなァ……といった印象の1作だった。

本作は、ロバート・A・ハインラインによるタイムトラベルSF小説の古典的傑作『夏への扉』(The Door into Summer, 1956)の初映画化作品である。舞台をアメリカから日本へ移して再構築された脚本は、長編である原作を適度に端折りながらも大きな破綻もなく、タイムトラベルものとしてそれなりに手堅くまとまっている。キャラクターの改変についても、ヒロイン璃子の顛末などうまくいっている点もある。ただ、だから本作がよかったかと問われたなら、なにかもの足りない。それはおそらく、画や演出の細部が諸々弱いからであろう。

たとえば、原作での主人公ダグが発明した「文化女中器(ハイヤード・ガール)」──福島正実による名訳だが、さすがに今日日(きょうび)この名称は使えまい──の代わりに登場する人間型ロボット「PETE(ピート)」──原作では、ダグが物語ののちに発明するであろう次世代機──の見せ方が、CGなどで多少見てくれは良くなっているものの基本的に『ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)に登場する「M11」のころからなにも変わっていない *4のはどうかと思うし、彼なくしては『夏への扉』を語ることのできない主人公の愛猫「ピート」についても、序盤に彼が宗一郎といかに無二の相棒なのかという描写が薄い──ピートを演じた2匹の猫は、たいへん可愛かったけど──ので、クライマックスでのカタルシスが半減している。

あるいは、宗一郎が発明しているロボットがいかなる機能を持ち動作するのか──首を振っているだけなのだもの──なにひとつ描かれないし、そして今日日のメジャー系邦画にみられがちな愁嘆場の連続と “わかりやすい” フラッシュバック演出は本作にも健在。宗一郎の着る衣装がおそらくオマージュしているであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ロバート・ゼメキス監督、1985)が、そういう陳腐なことをやっていただろうか。いまいちど確かめていただきたい。

ただ、こういったことは些細な点かもしれない。本作においてもっとも重大な失敗は、やはり1995年と2025年を行き来するという時代設定にあったのではないか。というのも、本作で描かれる2025年は現在の風景に高層ビルが描き足され、看板が多少デジタル化された程度で新しさや未来感は薄弱だし、さりとて1995年もせいぜいブラウン管があって Mr.Children をMDウォークマンで聴いている程度のノスタルジーでしかない。裏を返せば、それはいまの日本の風景とそんなに大差ないということだ。

ふたつの未来を読者に見せる──これが原作の魅力のひとつではなかったか。原作では、刊行時から約10年後の1970年を物語上の現代とし、そこからさらに30年後の2000年の未来に主人公は冷凍冬眠によって時空を移動する。このように、読者は1冊のうちで異なる未来像とその発展による差異を楽しむことができた。もちろん、ふたつの異なった未来描写を邦画の規模でやろうとするのに無理があるというのなら、せめて現代日本と30年後の2050年を舞台にし、1995年感を醸すための予算を全部こちらへまわして、きちんとセンス・オブ・ワンダーな未来像を作り上げてほしかった。そうすれば、多少のSF的飛躍も許された画が展開できただろうし、現状の本編よりもいっそうカルチャー・ギャップ演出も盛り込めただろう *5

それとも、鉄腕アトムが誕生するころだった2000年代初頭から昨今にかけての現状から、もはや我々は明るい未来を想像しえないのだろうか。かつて『STAND BY ME ドラえもん』(八木竜一、山崎貴監督、2014)に登場した未来都市を見たときにも似た、なんとも知れぬ閉塞感が本作の未来描写にも感じられる。原作でピートが教えるように「ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を棄てようとはしない」ことを、本作もまた雄弁に語ってほしかった。

そういった意味では、ぼくは本作のなかに輝く夏を見つけることは叶わなかった。そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。


     ※


【ソフト】
◆売れなくて妻子を泣かせる甲斐性なしの漫画家ジュンが勢いで描いたスパイ漫画がバズりまくるが実は……というヒットマン エージェント: ジュン』(チェ・ウォンソプ監督、2020)は、プロットや見せ方に過不足があるせいで損をしているというか、アクションや展開の伏線、ギャグなど魅せるところはトコトン魅せていて笑えて手に汗握るのに実に惜しいなァという1作だった。


     ○


◆火星由来の原因によって人々がゾンビと化すゴースト・オブ・マーズジョン・カーペンター監督、2001)をそういえば未見だったので観たけれど、ほとばしる ’80年代感と、主人公(ナターシャ・ヘンストリッジ)が、容姿や衣装デザインや作品設定、かつ同じ吹替え担当が湯屋敦子さんとあって、前後してゲーム『バイオハザード5』のジル・バレンタイン感が凄い。そしてジェイソン・ステイサムが若い。


     ※

*1:第1作(同監督、2012)のアバン。

*2:4つ腕のゴロー王子の特撮は凄かった。

*3:「テクノシンドローム」の新アレンジ版。「オタクくんでもなんとなくわかるでしょ?」くらいにチョイ古めなトランス風アレンジなのが泣かせる。

*4:やおら「私は2025年の最新技術の結晶だから不可能はない」などと言っておいて次に映るのが、足がめっちゃ速いってオイ!

*5:だいたい、3億円事件の犯人が逮捕されたくらいで、冷凍冬眠が実用化される世界線に移行するというのは、説得力皆無である。