『竜とそばかすの姫』感想

◆とある出来事をきっかけに歌を歌えなくなった少女・鈴が親友に薦められた超巨大インターネット空間の仮想世界「U」の世界でベルという歌姫となる『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)は、やりたいことはわかるけど、いささか詰め込みすぎかつ整理不足では? という疑念を拭いきれない1作だった。


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【本記事には、若干のネタバレが含まれます】


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本作の予告編を観ると、細田監督作においてこれは『サマーウォーズ』(同監督、2009)以来のネット空間と現実世界とをリンクする作品であると同時に、筒井康隆原作の『時をかける少女』(同監督、2006)を髣髴とさせる青春劇でもあることを予感させるもので、本作は細田守監督作品の原典回帰的かつアップデート版的作品となるのではという期待を持たせるものであった。彼の作品から滲み出る主義思想的部分には一片の共感を持ち得ない──むしろ嫌悪さえしている──けれど、そうは言っても彼が国民的アニメ映画作家となったいま、遅まきながらいそいそと劇場に出かけてまいりました。

まず、本作のアニメーションの動きや画そのものは面白かったし、美しかった。バーチャル空間である「U(ユー)」のメイン・ルームとでもいうべき超高層ビル群が立ち並ぶ目抜き通りを数多くの色とりどりなアバター「As(アズ)」や立体ネオンサインのような光源が行き来する様子は『AKIRA』(大友克洋監督、1988)に登場するネオ東京の活気を思い出したし、かたや現実世界での鈴や弘香、忍や慎次郎、瑠果たちを中心に描かれる日常パートでのアニメーション──とくに、ロングのレイアウトのなかアニメとしてはかなり長めにじっくりと尺をとった1カットのなかでキャラクターを動かし、ときに可笑しくときに切ない彼らの感情の機微を描き切るいくつかのパート──は実在感とコミック感とが絶妙にマッチした見事なものだ。高知県でロケハンしたという背景美術も美しい *1 *2

また、やはり本作最大の見どころ──いや、聴きどころ──は、ヒロインの鈴を演じたシンガーソングライター中村佳穂が実際に歌唱し、曲によっては作詞・作曲を手がけた歌の数々だ。彼女の発する繊細で力強い歌声は、ふいに鈴がUにベルとしてログインして歌ってから絶大な支持を得る展開を含めて映画にたしかな説得力を与えている。そして歌唱シーンの映像が見せる華やかで極彩色の美しさやカメラワークの自在さも格別だ。あるいは鈴が下校中に「どんな歌がいいだろう」と鼻歌でメロディを探りながら曲を作ってゆくときの声の実在感も素晴らしい。そして、実際の演技も鈴のキャラクター性にとてもよく合っており、違和感なくすんなりと観客の耳に入ってくるだろう *3


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いっぽうで、本作は様々な要素がてんこ盛りであるがゆえに、それぞれがあまり深く掘り下げられず、整理不足に陥ったことで、物語が進行すればするほど雑然としてくる感は否めない。

それはたとえば、本作で大きな舞台を占めるUからしてそうだ。全世界で総勢50億人も使用して「人生をやり直し、もうひとつの人生を生きよう」と謳うUであるが、では具体的になにができるのかが皆目示されない。せいぜいバズれば生配信ライブができるくらいのことしか描写されない。そもそもログイン時にワイヤレス・イヤホンのような機器だけを耳に装着すれば、Asと五感を共有してVR空間にいるかのように実感しつつ操作しているという描写は、いくらなんでも──いや、実際にはパソコンやスマホのモニタを見ているのかもしれないが、Asのベルと現実世界の鈴をアクションで繋ぐ編集もあるので余計に──呑み込みづらい。この点に関してはむしろ『サマーウォーズ』のほうがキーボードやコントローラを経て操作する描写があったので、まだリアルな実在感がある。これは恐らく、映像描写の面白さを重視──このこと自体は間違いではない──したものの、Uの実際はGoogle Chrome といったWEBブラウザ、あるいはもうすこし狭義に捉えるなら YouTube といった動画共有サイトTwitterInstagram といったSNSソーシャル・ネットワーク・サービス)と大差ないことから生じたものだろう。


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この、語りたいものとそれを見せる演出との誤差が、物語の作劇にも見受けられる。


本作で鈴が辿る物語とは、とあるトラウマ的体験から歌うことのできなくなった彼女が、ベルというペルソナを被ることで歌を取り戻し、その成功体験によってこんどは自身の世界を拡げ、またベルではなく自分自身として他者との関わりを修復し発展させようとするものである。ここに現実世界における気の置けない悪友・弘香や、初恋の相手である忍、学校のマドンナ瑠果といった同級生に加えて、ほぼ没交渉となっている父やまわりの大人たちが関わってくるわけである。学校やネット世界での体験を糧として1歩前進する主人公の物語として、オーソドックスだが、きちんとやればやるだけの説得力が出るタイプである。

かたや、本作が重点を置くのがネット上における匿名性を盾に取った誹謗中傷やフェイクについての問題提起である。実際、劇中で登場するベルの歌についてのコメントが賛否両論──とくに非のほうの言葉づかいがかなり乱暴──であることから鈴が狼狽したり、あるいは彼女が現実世界でのとある出来事をきっかけとした女子生徒たちのラインのやりとりから大規模なイジメの対象になりかけたり、世界中で放送されるニュースやユーチューバーの配信などで振りまかれる嘘八百を執拗に描写したりと、ネットユーザーが巻き起こす負の側面を炙り出す。


そして、そういった匿名性の暴走が意図的な誤情報を流して世論を操作し、人々の断絶を深めようとすることもそうであろう。物語内では「竜」の正体探しに明け暮れるネットユーザーたちの根拠のない類推の氾濫と世論操作がUを覆い尽くし、Uの世界は分断され始める。われわれの現実世界に目を向ければ、これと同様のことが各所各方面で止むことなく続いていることは一目瞭然だ。Uの警察機構を自称する「ジャスティス」の隊長ジャスティ*4が持つ「アンベイル」という特殊な能力は、文字どおりハッキングによって個人情報を特定して拡散する “晒し” そのものだろう。

そういったネットの負の側面からの攻撃を一身に背負う役目を「竜」が担っており、そんな「竜」を救うために鈴=ベルはクライマックスにて、ある決断を下すことになる。この展開は、ネットの匿名性に巣食う病理に対する作り手の「自分たちは世界に素顔を向けてものを作っているのだ」という自負の宣言であったことだろう。ネットでは素性を隠して好き勝手言えばよいだけだが、自分たちはそうではないのだ、と *5


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そして、鈴についての物語とネットについての問題提起を比べたとき、どうも作り手のなかで後者のほうに比重があったように思われてならない。そして、両者を融合し、より後者を強調できるよう持って来たのが『美女と野獣』の要素だったではなかったか。もともと本作は当初、ネット版『美女と野獣』的物語をミュージカルで作劇するという企画だったという。これからもわかるように、細田監督は相当ディズニーのアニメーション版(ゲーリー・トゥルースデイル、カーク・ワイズ監督、1991)を気に入っているようで、ヒロインの名前の引用 *6から始まって、同様の展開やシーンがこれでもかと再現される *7

ところが、これによって物語世界におけるキャラクターの役割と展開が分散されてしまってはいまいか。鈴にとって距離を縮めて関係性を発展させたいと願う忍のキャラクターは「竜」へと分裂し、彼女が他者のために利他的な行為をとるという展開は2回繰り返される。このために尺は逼迫し、掘り下げられるべき展開や関係は説明台詞による処理へと引きずり落とされる。

正直、本作の物語世界は、先に記したような鈴を軸とする関係性の規模に留めておいても充実した内容になるように思われる。ネットが持つ負の側面の被害者としての「竜」のキャラクターもまた、じつはひと晩で数多のユーザーの支持を得た鈴=ベルに課すことも可能だったのではないだろうか。それだけの支持対象ともなれば、間違いなくアンチも登場して鈴の精神を削りにくるだろうが、本作はそういった部分は前半ちょろりと触れただけで掘り下げない *8。「竜」の要素がなくとも、本作で作り手が語りたかったものは十全に作り得たのではなかったか。


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ただ、作り手のメッセージそのものが間違いないものと仮定したとしても、クライマックスにおける鈴のまわりにいた人物たちの行動、もしくは描き方は非常に問題ではないか。というのも、鈴が「竜」を救うために取る行動を炊きつけたのはその場にいたまわりの友人や大人たちであり、そして彼/彼女たちは基本的に文字どおり応援しかしない。そして鈴が必死に下した決断と行動の様子ないし結果を見て「ああ、よかったよかった」と言うばかりである。

これでは、まさしく本作がそれまでの展開で問題だと提起した、ネットの匿名性を盾になんでもかんでも好き勝手やりまくるネットユーザーとなんら変わらない *9。あるいは、現実の問題から目を背け、ネットのみならずメディアが提供する上っ面の情緒や感動だけに特化した、いわゆる「感動ポルノ」的コンテンツを消費する人々の側面すら読み取れてしまう。さすがにキャラクターたちの発展のさせ方としてマズイのではないかという疑念は拭い切れない。

ただいっぽうで、これが意図された露悪的な演出なのだったら、それは大したものだと思う。鈴のうしろにいる人たちとは、これまで彼女の物語を観て、共感して応援して感動して、つまるところ消費して、勝手によかったよかったと借り物の感情で快楽を得、劇場を出ればネットに匿名で好き勝手にコメントしている「お前だァ! 稲川淳二ふうに)」と言外に僕ら観客をビシッと指差しているのなら、これほど皮肉の効いた演出はあるまい。


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ことほど左様に、いささかネガティブな物言いが増えてしまったのだけれど、やはり本作の問題の根本は、語るべき題材に対して物語世界を過剰に大きくしすぎた点にあったのではないだろうか。表面的な要素をもうすこしスッキリさせたうえで、より深く掘り下げていったならば、青春物語としてもサイバー空間を扱ったSFとしても、いっそう強度を持った完成度を誇れたのではないだろうか。たとえば、鈴がベルとして成功することでの内面と仮面との葛藤や友人関係の変化、あるいは世界との繋がりを描いてゆくといった、ポップスター物語的な青春劇として描いたとしても、作り手が問題提起しようとしたネットの負の側面についても現在と同様に盛り込むことができたのではなかったか。

もちろん、先に挙げたように映像的な面白さや美しさ、そして中村佳穂歌唱による楽曲の素晴らしさは抜きん出ているので、観て損をする作品とは決して申し上げない。この部分に関しては間違いなく劇場で観た価値は大いにあった。

そして、こうして書いてきた僕もまた作り手から「お前だァ!」と指差されていることだろう。


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*1:映画前半部、鈴にトラウマを与える原因となった川の水面を画面いっぱいに映し、明と暗に色分けすることで彼女の心的葛藤を表す描写などよかった。この演出が後半には影を潜めてしまって残念。

*2:また一部パートは、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『生きのびるために』のカートゥーンサルーンが担当したという。おそらく「竜」の城への道を描く一連のシーンかと思うが、このスタジオの特徴である平面的な画面づくりと柔和なカラー設計が美しかった。

*3:また、久しぶりに小山茉美の “七色の声” ぶりが聴けたのが嬉しかった。

*4:ジャスティンのいかにもジャパニメーション的な髪型、またジャスティスたちが同様のコスチュームを着て、肘先や膝下がふとましく強調された体格をしているのは、おそらく彼らが石ノ森章太郎サイボーグ009』のパロディであるからだろう。また、彼らがスポンサーを背負って立つことは、テレビアニメ『TIGER & BUNNY』(さとうけいいち監督、2011)を髣髴とさせる。

*5:この歌唱シーンの静謐な開幕から荘厳なまでの画作りと楽曲はたしかに素晴らしい。余談だけど、このシーンはあきらかに『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督、1984)のクライマックス──例の「蒼き衣をまといて金色の野に降り立つべし」ラン・ランララ・ランランラン──へのオマージュだろう。これまで各所で宮崎駿への揶揄とも思われる発言をしていた細田守の作品でこういったシーンが出てくるとは思わなかったので少々驚いた。

*6:ラスト、再度附されるタイトル・テロップには原題の下に「BELLE」が追記されている。これだと、かなり物語の意味合いが変わってしまうのではないか。というのも鈴のアバターはあくまで「BELL」であって、「BELLE」とは最初ネットユーザーが勝手に言い出したものなのだ。これでは、いよいよ素顔/真実の自分であることが善しとした物語の展開と逆転しまいか。あ、そういえば劇中でも最後になぜかベルに戻っていたな……と、このあたりに作り手の屈折した葛藤が滲み出ているように思うのは考えすぎだろうか。

*7:ベルをデザインしたのは、『アナと雪の女王』などのキャラクター・デザインを担当したジン・キムである。

*8:そもそも、どうやらベルの人気には弘香の様々なプロデュースがあったことも関係あるらしい台詞が出てくるが、具体的な描写がほとんどないので、そのあたりをむしろ掘り下げたほうが、ふたりの友人関係のドラマにもなったと思うのだけどなあ。というかこの弘香、鈴が獲得した収益を本人の了承なく勝手に「寄付しといたから」って相当ヤバいやつだよ。

*9:そして「鈴ちゃんが決めたことだから」という台詞から、現在日本を蔓延る「自己責任論」が善きこととして過剰に浮かび上がる。もちろんこれが、鈴のトラウマである母の死を乗り越えるために敢えて母の死に際と同じような状況に追い込むためだとしても、いくらなんでも乱暴である。