2021 8月感想(短)まとめ

2021年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
独裁国家が有する謎の「スターフィッシュ計画」壊滅のために最強の悪人たちが集められる『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)は、コメディ映画としてもヒーロー映画としても、たしかな強度と面白さを持った大・大・大傑作だった。

ガン監督といえば、トロマ映画仕込みのパロディや痛烈な皮肉をこめたユーモア、きちんとツボを押さえた作劇、そして『スリザー』(2006)や『スーパー!』(2010)でも見せた──仕方のないこととはいえディズニー傘下のMCUでの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(2014-2017)では完全にオミットされていた──露悪的なまでに凄惨な暴力演出を絶妙な按配でミックスするのに長けた作風が特徴であるが、本作ではこれらが遺憾なく発揮されている。

そのため、これまでの R指定アメコミ映画のなかでも群を抜いて登場人物が──モブも含めて──血肉を盛大にスクリーンにブチ撒けながらあれよあれよと死んでいくが、その様は圧巻。誰がどんなタイミングでムザムザ死ぬかがトンとわからない『ザ・ハント』(クレイグ・ゾベル監督、2020)の冒頭を髣髴とさせるオープニングの上陸作戦からもう血みどろジョーク満載で、それでいてきちんと本作のルール説明もこなしてしまうのだから恐れ入る *1。また中盤、ハーレイ・クインの見せ場であるアクション・シーンで、さすがに血しぶきだけでは観客が飽きると思ったのか、血の代わりに極彩色の花々が撒き散らかしていたのには大いに笑った。しかも、殺した相手が間違いでした、という酷く空気の凍る展開などもあって、いやァ本当に暴力ってよくないですよね!

またクライマックス、岡本太郎デザインの宇宙人 *2もかくやの巨大ヒトデ型宇宙怪獣スターロ──原作コミックスでも実際にそういうデザインだという──が大暴れする怪獣映画としても、本作はとびきりの見せ場を用意してくれる。人々を踏みしめ、ビルをなぎ倒しながらのし歩く巨大感演出の巧みさもあって、「こんなにサービスしてくれるとはなんてありがたい映画なのか」と、きっと劇場内での僕は満面の笑みを浮かべていたことだろう。

とはいえ本作は、単に明るく露悪的に楽しいばかりのバカ映画というわけでは決してない。なんとなれば本作は “アメリカ的正義” なるものへ痛烈な問題提起を突きつけているからだ。

たとえば本作の冒頭部を思い出してみよう。正義とは真反対の悪人チーム “スーサイド・スクワッド” の面々が、まるで『パットン大戦車軍団』(フランクリン・J・シャフナー監督、1970)の開幕にて演説するパットン陸軍大将もかくやに、画面いっぱいに映された星条旗 *3をバックに歩いてくるショットの皮肉ときたらない。また、潜入した架空の独裁国家コルト・マルテーゼの反政府組織のリーダーから「まったくアメリカ人ときたら……」といった台詞を吐かれること、あるいは後半で明かされる任務の本当の目的やそれによるチームの断絶など、ことごとく “アメリカ的正義” のメッキが剥げ、おそらくはイラク戦争をモティーフにしているであろうその暗黒面が明かされてゆく。その視線の鋭さと適確さは、──図らずもタリバン台頭による危機とそれへの各国の対応についてのニュースを見聞きするこの数日間もあって──決して絵空ごとでも他人ごとでもない。

そんなどうしようもなく絶望的な状況のなかでキャラクターたちが見せるほんのささやかな優しさこそが真に英雄的な振る舞いにつながるという展開が、本作の描く希望だ。それはたとえば、ネズミを操ることのできる少女クレオ *4が、サメ人間ナナウエに「友だちになろうよ」と声をかけたように、思い起こすなら劇中で様々なキャラクターが様々なタイミングでそういったひとかけら優しさを目の前の、あるいは隣にいる人物に投げかけ、手を差し伸べている。その小さな小さな優しさこそが、かけがえのない尊い行いなのだと、本作は大仰にではなく、さりげなく示す。

ことほど左様に、本作は派手な見た目の印象とは裏腹に、痛烈なコメディとして、そしてヒーロー映画として深く鋭く、さらに感動的なまでの射程を持った1作だ。細かなギャグのあれこれや、登場人物たちの所作のあれこれなどいちいち挙げたいがキリがないので、ここで打ち止めとするけれど、なにはともあれ見事な作品だ。もちろん、グロいのが苦手な方は注意してくださいね。


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◆人々が自由な暮らしを謳歌する街の銀行員ガイが、すれ違ったミステリアスな女性モロトフにひと目惚れしたことで世界の真実に触れる『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)は、ゲーム世界を題材にしたエンタメ路線を貫きながらも、さりげなく深い洞察に満ちた作品だった。

本作は、いま我々が認知する世界が誰かの手による仮想上のものなのではないかと考える──たとえばニック・ボストロムなどが提唱する──、いわゆるシュミレーション仮説を題材とした作品である。こういった「いまある世界がじつは計算された偽物であり、そして主人公にはその真実が隠されている」という物語を持った映画作品はもちろんこれまでにもある。たとえば、それがコンピュータが人間を支配するために作り出したのでは……としたのが『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)だったわけだ。

そのほかに代表的なものを挙げるなら、とあるサングラスをかけたとき世界が異性人の侵略下にあったという真実が明らかになる『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督、1988)や、じつは世界が主人公の人生を生中継するために作られた超巨大なスタジオだった『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー監督、1998)といった作品がある。本作『フリー・ガイ』の主人公ガイの辿る世界の真実と邂逅するきっかけのひとつがサングラスをかけることであったり、クライマックスにおける彼の活躍を世界中がストリーミング配信を見ながら応援するといった展開は、明らかにこの2作からの引用であろう。


さて、本作のシュミレートされた仮想世界とは、予告篇等でも明らかにされているようにゲームである。じつはゲームのモブキャラ(NPC=ノン・プレイアブル・キャラクター)であるガイが本物だと信じて疑わない世界『フリー・シティ』とは──たとえば『グランド・セフト・オート』シリーズなどを髣髴とさせる──オープン・ワールド型のオンライン・ゲームである。このゲームでは “フリー” というタイトルのとおり、プレイヤー──プレイアブル・キャラクターはサングラスをつけているため、モブキャラたちからは「サングラス族」と呼ばれる──はありとあらゆる暴力や犯罪行為を許されており、銀行強盗や車泥棒といったミッションをクリアすることで経験値を得てレベルを上げてゆく。ガイたちモブキャラは、このフリーという無法の世界でプレイヤーからのいわれなき暴力を──なんら疑問とも思わず──日常として過ごしているのだ。

本作で面白いのは、このゲーム世界を最初からゲーム世界然として描いている点だ。こういった仮想世界に暮らすキャラクターを主人公に置いた物語では、多くの場合、彼/彼女の現実がわれわれ観客と同等のリアリティの上にあり、そこから徐々に違和感や非日常性を炙り出してゆくという段取りを踏むけれど、本作では冒頭からマシンガンをぶっぱなしながら街中を犯罪者(プレイヤー)が暴れまわり、カーチェイスを繰り広げ、そこかしこで強盗は起き、ありとあらゆるものが爆発四散する様をガンガン映すのが新鮮だ。それらが然も当然のことであるように『フリー・シティ』と自身について語るガイのモノローグとのギャップも笑いを誘う。

やがてガイがモロトフ・ガールにひと目惚れし、ひょんなことからプレイヤーのサングラスを手に入れたことで、彼らと同じ土俵に立ってから──ただし、ここではまだ彼はこの世界がゲームであるとは露とも考えていない──の展開も興味深い。ガイはその持ち前の純真純情さを発揮して、無法の世界で皆(プレイヤーたち)が暴虐の限りを尽くすなか、同様に悪事に走るのではなく、反対に「善いこと」をしてレベルを上げはじめる。この発想の転換が、現実のプレイヤーたちに衝撃を与えてゆく展開もまた興味深い。ガイの行動によって、自由と謳われた世界のなかで皆が一様に犯罪行為に走っているのは果たして本当に「自由」なのかという気づき、そしてそれまで目にもくれなかったモブキャラたち(=他者)がいることへの気づきを人々が得るのだ。

また、ガイが知らず知らずに置かれた状況は、物語上の現実ともリンクしている脚本の構成も上手い。そもそも『フリー・シティ』というゲームは、モロトフ・ガールを操るミリーと、かつての相棒キーズとがふたりで作り上げた画期的なプログラム・コードを無断転用したらしいことが物語序盤で語られる。ミリーはその証拠を得て裁判を有利に進めるためにゲーム世界を探索し、かたやキーズは『フリー・シティ』を運用するスナミ・スタジオに雇われてクレーム対応に追われる日々を過ごしている。本来であれば自由に使用できたはずのシステムを奪われたふたりは、ゲームの、そして絶対的な経済力、金、そして雇用者として権力を持つスナミ社長アントワンの──形は違えど──虜囚となっているのである。そこからいかにして──ガイが目指すように──自由を得るかという物語へと展開してゆく。


これ以降の具体的な展開に踏み込むと大きなネタバレになるので詳細は控えるけれど、ゲーム世界舞台であればこその荒唐無稽なアクションの見せ方やガイを演じるライアン・レイノルズの丁々発止の台詞まわし、ゲーム配信者──実際の人物が本人役で演じている──あるあるといった小ネタなど、基本的には明るく楽しいアクション・コメディ的演出が満載な本作はやがて、最終的には「もしも自分や自分のいる世界が虚構だとしたら、生きる価値はあるのか? そしてリアルとはなにか?」という実存的問いかけに到達する。そこで親友バディが、世界の真実に狼狽するガイに投げかける──デカルト哲学を思い起こさせるような、しかしあくまで利他的で思いやりに富んだ──言葉は感動的だ。それを聞いたとき、ガイと同様にある種の勇気や希望を得た観客も少なくないのではないだろうか。

同時に本作は、ロマンス映画としての側面を持っていることも忘れてはならないだろう。前述したような、ガイが善いことをしてレベル上げする一連のシーンは、一種のループものとして演出されている。何度も失敗しては殺されて次の日に目覚め、繰り返す鍛錬のなかで徐々に目的を達成してゆくガイの様子は、ループものロマンス『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス監督、1993)のビル・マーレイを髣髴とさせるものだ。これがじつはひとつの前振りであって、本作は『恋は~』のようにロマンス映画としても優れた着地をみせる。すべての冒険を経たエピローグにおいて、ミリーがガイの言葉によってある気づきを得るときの、ほんの数ショット──誰が誰と向かい合い、そして誰にカットバックし、続くショットの “画面” に誰がどのように映っているのか──の、さりげないが見事なカメラワークと編集、そして演出は必見だ。

このように本作が、実存主義的不安の葛藤を辿る側面とロマンス映画的側面を併置して融合したことによって、どちらの世界が上位でも下位でも、真実でも偽物でも、現実でも虚構でもなく、リアルとは別のところに宿るものなのだ──という、こういった作品としては珍しい結論に到達するのも新鮮だ。このポジティブであり誠実な感覚が、本作の大きな魅力のひとつだろう。

そのほか、嫌な社長アントワンを嬉々として演じるタイカ・ワイティティの挙動が愉快だったり、プログラムをリアルタイムで書き換えて建物の形状や配置をニョキニョキ変化させる様子は『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)っぽかったり、ウサギの着ぐるみってまさか『ドニー・ダーゴ』(リチャード・ケリー監督、2001)かしらと思ったり、クライマックスでバディが放つ「俺たちの生命も大切なんだ(lives matter)って証明してくれ!」という台詞が非常に重層的で今日(こんにち)避けては通れない台詞だったり、とはいえちょっと楽屋ネタが多いのではないかしらんと感じたりもしたが、なんにせよ、目にも心にも明るく楽しくやさしく、そして深い洞察に満ちた本作は、続篇でもスピンオフでも実写化でもない単独のオリジナル作品として、ぜひとも観ておきたい1本だ。


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【ソフト】
◆近未来、ドラッグ戦争の最中に少女が逃げ込んだのは最強の退役軍人(爺さん)たちの集うバーだった『VETERAN ヴェテラン』(ジョー・ベゴス監督、2019)は、主演のスティーヴン・ラングをはじめとした燻し銀の効いた役者陣の好演と、状況設定から展開、音楽から低予算感を薄める方法にいたるまで、作り手たちはきっと『要塞警察』(ジョン・カーペンター監督、1976)をずいぶんと研究したのだろうなという愛嬌まで含めて、楽しい作品だった。惜しむらくは、フィルム・グレインを効かせすぎて画質が趣深いというよりもガタガタだったことかな。


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◆近未来、山梨県の人里離れた施設でひとり研究に没頭するジョージが、亡き妻の精神情報を人工知能に落とし込もうとする『アーカイヴ』(ギャヴィン・ロザリー監督、2020)は、スローテンポながら、人工知能やアンドロイドをテーマとしたSFとしてきちんとツボを押さえた展開と、このジャンルとしては物珍しいオチまで含めて堅実なつくり。そしてなにより、本作の作りこまれたプロダクション・デザインに表れる作り手の好み──『2001年宇宙の旅』、『エイリアン』、『ブレードランナー』、『エイリアン2』、『AKIRA』、『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』、「サヴォワ邸」や「落水荘」を思わせる研究所の外観、アンディ・ウォーホルにそっくりなキャラクター、しまいにゃ何故かラーメンチェーン「天下一品」の看板まで──がことごとく僕と被っていて、妙な親近感を抱いてしまう作品だった。


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*1:このアバン・シークェンスは、まさに1本の映画並みの見せ場と物語構築で素晴らしい。小鳥にはじまり小鳥に終わる構成の妙よ! あれかな、ツイッターの暗喩かな(反トランプ発言を繰り返していたガンは、親トランプ派のオルタナ右翼から10年ほど前にツイートした差別的序ジョークを掘り起こされたことで炎上、一時ディズニーからMCUをクビになる騒ぎに発展──現在はガン本人による謝罪、出演した俳優陣やファンからの嘆願によって復帰──し、そのあいだにワーナーで製作したのが本作だ)。

*2:『宇宙人東京に現る』(島耕二監督、1956)に登場するパイラ星人

*3:ヒトデ型怪獣スターロをはじめ、本作で象徴的に強調される色は、赤と青である。これを思い出すなら、スターロの今際の台詞「星が煌くなかをフワフワ漂っていて楽しかった」がなにを意味するのか、なかなか考えさせられる。

*4:彼女の物語には、ちょっと『シンデレラ』を思い出した。