2021 9月感想(短)まとめ

2021年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆近未来、専用機器で記憶を再体験させる稼業を営むニックが、運命的に出会い、そして愛し合ったニナの失踪の謎を探る『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)は、フィルム・ノワールの耽美さを堪能できる1作だった。

本作でまず目を惹くのが、その都市描写である。本作の主な舞台は、地球温暖化が原因で地上が半水没した近未来のマイアミだ。かつてのビル群が水面からそびえて離れ小島のような区域を形成し、そこに干拓や橋を増設することで都市としての機能を保っている。主な移動手段は自動車に代わって船となっていて、アメリカ的な街並みはそのままに、まるでベネチアや『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』(押井守監督、1995)に登場する香港を思わせるインフラ描写という組み合わせが新鮮だ。

また、この半水没した都市の水位によって、その世界の格差を描いてみせるのも上手い。ごく僅かな富裕層は海水をマシンによって掻き出して造成した土地〈ドライランド〉に豪邸を立てるいっぽう、貧困層は堤防で囲うことでなんとか完全な水没を免れているその他の区画に暮らすほかなく、そこにも段階的に水位の差がある……という描写は、『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、2019)の後半に登場する「水」を思わせる興味深い演出であり、SF的な画の面白さもあって見応え抜群だ。


さて、本作の予告編のいかにも派手な見せ方や惹句、あるいはジョイ監督の夫でありプロデューサーとして名を連ねているジョナサン・ノーランや “他人の記憶を機械的に辿る” というプロットから『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督、2010)のような作品なのかという先入観があったけれど、実際に観てみると、本作が真に目指したのは古典的なフィルム・ノワール的な世界観と物語であった。

フィルム・ノワールといえば、1940年代から1950年代にかけてにハリウッドで多く作られた犯罪映画の作品群を指すジャンルだ。うらぶれた主人公の探偵が、ふいに出会った蠱惑的で謎に満ちた女──いわゆるファム・ファタール(運命の女)──の謎に翻弄され、警察や裏社会とのパイプ、あるいは彼よりも優秀な古女房的な相棒の力を借りつつ真実に迫ろうとし、やがて苦々しい末路を辿るというのが、このジャンルでよく採用される大まかな物語である。

この物語構成は本作にそのまま当てはまるし、ことあるごとに主人公のナレーションによって彼が混迷の極みにあることを示す演出も同様である。本作のタイトルやエンド・クレジット、街を飾るネオンサインなどに使用されているフォントが、フィルム・ノワール時代を思わせるもので統一されているのも、それを裏づける。冒頭、半水没したマイアミの風景を滑空するかのように映す長い1ショットの果てに、ニックが水溜りに沈んだクイーンのトランプを拾い上げて路上生活者と交わす粋なやりとり *1をはじめ、バーで儚げに歌うニナの耽美な姿、決してスタイリッシュとはいえない無骨な戦闘シーン、退廃的な人々の暮らしぶり、そして遊園地の観覧車など、全篇をとおして本作はまさしくノワールのタッチを堪能できるだろう *2


いっぽうで本作の特徴として、前述の都市デザインとともに、むしろ陽光きらめく明るいシーンが多いことが挙げられる。ノワール(黒)という言葉が示すとおり、フィルム・ノワールは画面を暗く染める闇や影が特徴的なジャンルだが、本作がその逆転の映像を見せていることも意外性があって面白い。本作において、画面や登場人物が判別できないほど闇に埋もれるということはほとんどないし、逆光線によるシルエットを用いるような演出も禁欲的といえるほどに見当たらない *3

このように本作では闇ではなく、さんさんと照らす太陽や、水面に反射する光のまぶしさがニックの目を眩ませ、謎の真実を覆うヴェールとなる。本作に登場する記憶の再体験装置が、身体を水に浸して使用する機器であることからもわかるように、本作において「水」とは「記憶」のメタファーだ。記憶者本人が覚えているよりも明確に追体験される記憶は、それがあまりにも鮮明であるがあまり、かえって真実の隠れ蓑となってしまうという物語展開とも合致した画作りだ。


そして本作の記憶再体験装置が、第3者には鮮明な映像として──オペレータの声による意識誘導が必要なため──再生されるという設定は、この装置を扱うことが映画を作ることのメタファーであることも示すだろう。劇中、ニックがニナの行方を探ろうと幾多の記憶を何度も再体験し、散らばった謎のピースを寄せ集めようとする様子はさながら映像編集の現場を思わせるし、再体験者の意識誘導を誤ってしまい「道案内を間違った」と言いつつ別のアプローチを試みる様子は、撮影現場で演出をする映画監督そのものだ。

また、ニックが他人の──あるいは自分自身の──記憶を映像として除き見ることは、そのままわれわれが映画を観ることにも重なるだろう。ニックの元に「あの幸福だった記憶をまた見せてほしい」とやってくる顧客たちは、何度も同じ映画を観たくなるわれわれの人情を思い起こさずにはおれないし、ニックがやがて選び取る彼自身の結末もまた、アドルフォ・ビオ=カサーレスの小説『モレルの発明』(1940)を思わせるような、甘美だが苦々しく、それでいて誰もが1度は願ったことがあるものではないだろうか。手にしたくても2度とは──いや、1度たりとも──触れられない向こう側にあるものを求めてやまない人間の性(さが)を描くのに、フィルム・ノワール的語り口は、本作がそうであるように、非常に適しているのだろう。

ことほど左様に、本作はフィルム・ノワール的SF作品として、なかなかに見応えのある1作だった。その他、記憶再体験装置のモニタが型番や価格によっていちいち違っていたり、もしかチョウ・ユンファへのオマージュかと思しき中盤に登場する中華系ギャングの頭領ジョーの銃の構え方など愉快だったし、とはいえ短いシーンだけどそこに挿入するのは順序的におかしくないかしらんと思った箇所もあったり、その立体映像を立体映像たらしめる仕掛けってそういう機構だからなのだねという部分は冒頭に見せておくべきではないかしらんという気もするけれど、ぜひとも映画館の暗闇と大きなスクリーンのなかででじっくりと浸りたい作品だ。


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【ソフト】
◆英国諜報部員ジョン・プレストンが、ソ連の鷹派高官による英国への核爆弾を持ち込みとテロを未然に防ごうと奮闘する『第四の核』(ジョン・マッケンジー監督、1987)は、英国側とソ連側の張り込みやら地域住民との交流(含めた諜報活動)といった地道──なんとなれば、ゆーても公務員であるからしてしごく地味──な諜報活動が丁寧に積み重ねられてゆく過程が、ぐうの音も出ないくらいに面白いエンタメとなっている。プレストン役には「ハリー・パーマー」シリーズのマイケル・ケインソ連側の潜入スパイ役には若き日のピアース・ブロスナン──しかもコードネームがジェームズ──と、新旧英国紳士スパイの対決も見ることができる。’80年代後半、たしかにSFX全盛の時代にあっては地味な見た目ではあるけれど、こんなに冗談なしに面白くて日本未公開だったのか……。


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*1:ここで本作がこの街を舞台に、ニックが記憶という水溜りをさらって消えた運命の女たるニナ(ハートのクイーン)を探る物語であることをスマートに暗示している。そして、ラストにこのトランプがどうなっているかに注目したい。

*2:SF映画フィルム・ノワール的な語り口で描いた作品といえば『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)や『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)などが思い起こされる。

*3:前述のようなSF的フィルム・ノワール作品においても、やはり闇が重要なモティーフだ。