『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』感想(ネタバレ)

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)……007シリーズ第25作目。最強の敵サフィンラミ・マレック、新たな英国諜報部員ノーミにラシャーナ・リンチ、新人CIA諜報部員パロマにアナ・デ・アルマスが登板し、レア・セドゥ、レイフ・ファインズベン・ウィショーナオミ・ハリスといったお馴染みのキャストも続投した、ダニエル・クレイグが6代目ジェームズ・ボンドを演じる最後の007作品であり、「クレイグ=ボンド」シリーズ完結編。

ジャマイカで人知れず引退生活を送っていた元英国諜報部員007ことジェームズ・ボンドは、旧知の仲であるCIAのフェリックス・ライターから助っ人を依頼される。英国にて極秘裏に開発され、先ごろ何者かに強奪された、世界を終末へと向かわせることも可能な最新ウィルス兵器 “ヘラクレス” と開発者オブルチェフ博士を回収したいというのだ。

1度は断わるボンドだったが、彼の前に英国諜報部員でかつ “00(ダブル・オー)” の称号を持つ女性ノーミが現われたこと、この事件にかつて壊滅させたはずのスペクター、そしてとある事件がきっかけで別れることとなったマドレーヌが関わっていると知り、世界を揺るがす事件解明へ向けて動き出す。しかし、ボンドですら知らない巨大で凶悪な存在が、この事件の水面下でうごめいているのだった……。


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【本記事は一部ネタバレを含みます。とくに後半にて警告後、核心部のネタバレに触れる箇所がありますのでご注意ください】


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ダニエル・クレイグがはじめてジェームズ・ボンドとして登場した『カジノ・ロワイヤル』(マーティン・キャンベル監督、2006)から幾星霜、1年半にもなった度重なる公開延期の果て、ようやっとクレイグ=ボンド第5作にして最終作の本作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』が公開された。

サム・メンデスがメガホンを取った前々作『スカイフォール』(2012)と前作『スペクター』(2015)において、007映画とは思えぬほどの神話的語り口による大団円を迎えてしまったあと、果たして如何にシリーズへの落とし前をつけるのか、期待と不安が入り混じったなかでの鑑賞だった。

しかし本作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、前4作をかけてすこしずつ積み上げられた “新しい007映画” らしさを十全に継承発展させつつ、ドラマとしてもきちんとピリオドを打ってみせた堂々たる傑作に仕上がっていた。


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本作もやはり撮影が非常に美しい。前作『スペクター』を担当したホイテ・ヴァン・ホイテマからバトンを受け取ったのは、『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督、2016)でアカデミー撮影賞を受賞した実績もあるリヌス・サンドグレン。本作でも『ラ・ラ・ランド』でとくに評価された夕暮れ時──マジック・アワー──の美しいあわいの色合いを活かした映像を存分に楽しむことができる *1

また、霧や霞に濡れた雑木林、もしくは建造物内部の壁、雪に埋もれたノルウェーの寒々しい景色、明るい陽光に照らされたマテーラ(伊)の石造りの町並みやネオン煌くキューバの夜など、前々作での陰影をグッと強調したロジャー・A・ディーキンスや、前作での徹底的にモノ・トーンに調整されたホイテマの撮影に比べて、本作のサンドグレンの撮影は風景それ自体が持つナチュラルな魅力を余すことなく捉えているのが特徴的だ。


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そんな背景の中で繰り広げられるアクションもまた面白い。予告編でも多くフィーチャーされたアバンのアクション・シーンを観てもわかるとおり、本作ではアクションの荒唐無稽さが、クレイグ=ボンドのシリーズとしては群を抜いて強調されている。

綱1本を頼りに勢いよく水道橋から飛び降りるボンド、急な傾斜を一気にバイクで駆け上って町の1区画上までジャンプするボンド、そして昔懐かしの装備を満載したアストンマーティン・DB5で敵を一掃するボンドなど、ともすればギャグ──ユーモア路線に振り切った3代目ロジャー・ムーア時代の作品すら思い起こさせる *2──になりかねないこれらのアクションを、それでもなお一定ラインのリアリティを損なわず、かつ手に汗握るスリリングな、そして007映画らしいシーンとして構築している演出手腕は見事なものだ。

このように本作では、前作『スペクター』において、ようやくクレイグ=ボンドが結実したからこその、いかにも007映画的アクション・シーンもまた存分に楽しむことができるだろう。


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また、直接的なストーリー上の関連はないとはいえ、かつての007シリーズへの目配せをそこかしこに差し挟んでくるのも、ファンの心をくすぐるだろう。

たとえば、ボンドの結婚という物語を語る以上避けては通れない『女王陛下の007』(ピーター・ハント監督、1969)のメインテーマ(ジョン・バリー作曲)が、本作の中盤、ボンドとMがテムズ川のほとりで語らうシーンで変奏されるし、やはり同作のラストで流れたルイ・アームストロング歌唱「愛はすべてを越えて(We have all the time in the world)」が挿入歌として登場する。

そして、やはり本作でラミ・マレックが演じる敵役サフィンは、初期007映画を髣髴とさせるキャラクターだ。北方領土近海を思わせる海域の孤島をまるごと巨大な秘密基地としている荒唐無稽さやアジア系を髣髴とさせる出で立ち、能面を被った姿など、予告編で公開されたときから多く指摘があったとおり、彼は明らかに第1作『007/ドクター・ノオ』(テレンス・ヤング監督、1962)に登場するノオを意識して造型されたキャラクターだ。

そうであればこそ、アバン・シークェンスが終了してビリー・アイリッシュの歌う主題歌とともにオープニング・クレジットへと移行する際のグラフィック・デザインが、色とりどりの丸いドットをあしらった『ドクター・ノオ』のオープニングをストレートにオマージュしたものだったに違いない。


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いっぽうで刷新されたといえば、やはりふたりの女性諜報員、英国諜報部員ノーミ *3とCIA諜報部員パロマといった女性たちの活躍だろう。これまでのシリーズでは、たとえボンドと共闘するようなボンドウーマン *4であっても、大なり小なりボンドの庇護下にあった存在であり、また彼のセックス・アピールに対しては基本的にすべて受身の存在であった。

しかし、本作に登場した女性たちは皆それぞれキッチリ独立した存在であり、ボンドの手助けを借りずとも自身の実力だけで困難に立ち向かい、これに勝利する姿はとても素晴らしい。また本作において、ボンドは女性キャラクターに対するセックス・アピールが──これまでのようには──通用しない、というか意にも介されない人物として造型されている点にも注目したい *5。ボンドがちょっとでも目配せをしようものなら「あっ、そんなこと露とも考えていなかった」と、あくまでプロとして仕事を完遂する彼女たちの姿はとても清々しい。


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このように、クレイグ=ボンドが結実した007映画らしさ、といいつつも、それが単に懐古主義ではなく温故知新をモットーとした発展・継承としての新たなボンド像ないしは007映画の確立を、本作でも模索している。これは『スカイフォール』と『スペクター』の前2作においてサム・メンデスが重要視したことだった。そのためにこそ、前2作における非常に神話的──そして、作品自体が007論的──な語り口が採用され、物語においても禁じ手ともいえる展開を迎えたのである。

そして、その神話的アプローチは本作でも継承された。『スカイフォール』ではボンドの母性を巡る神話の果てに先代のM(ジュディ・デンチ)が死に、『スペクター』では彼の父性を巡る神話の果てにマドレーヌと結ばれた。では本作はどうだったか。


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【以下、核心部のネタバレにつきご注意!】


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あえてひと言で言い表すなら、本作は預言者と救世主を巡る神話であり、そしてだからこそ、ボンドは死ぬのである。

そう、本作が採用した最大の禁じ手──それは、007=ジェームズ・ボンドの死、そしてボンドの子の存在である。これらは、半世紀以上続いた007映画史上はじめてのことである。前作に引き続き、本作が迎える結末にもまた心底驚かされた。


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さて、本作のクライマックスを簡単に構造分析するなら、次のようになるだろう。

サフィンの策略によって “ヘラクレス *6” の保菌者となってしまったがために、もはやマドレーヌと娘マチルドに触れられなくなったボンドは、人間の原罪をすべて身に引き受けたイエス・キリストの象徴であることは明かだ。ボンドがサフィンの放った銃弾によって足や脇腹を負傷することは磔刑である。そしてボンドが最後の力を振り絞って梯子を登って秘密基地の屋上に出ることは、彼がヤコブの梯子を昇って死を迎えることを先取りする演出だ。

そんなボンドと無線をつうじて愛を確かめ合い、彼の最後を遠くから見つめるのがマドレーヌであった。マドレーヌは前作において、ボンドが半世紀以上にわたって象徴してきた性的/社会的男性性を捨てさせる存在としての象徴だった。だからこそ彼女の名前の頭文字は “M” であり、ボンドはウェストミンスター橋の両岸に立って彼を待つM(マロリー)とマドレーヌから、後者を選んだのだ。

そして本作でマドレーヌには、新たな象徴が追加されている。それは、やはり同じ頭文字 “M” を名前に持つマグダラのマリアである。マグダラのマリアこそ一説にはイエスの妻とも言われ、その死を間近に見た人物のひとりであり、その復活を預言したともされる。本作のラスト・ショットで彼女が娘マチルドに「かつてジェームズ・ボンドという人がいたの」と語り聞かせることも、マグダラのマリアを思わせるものだ。


このように本作のクライマックスは聖書的なモティーフによって形成されている。もちろん、多くのアメリカ映画──とくにアクション映画──でよく使用される構図だが、こと007映画のなかでここまで愚直に聖書をなぞったのも初めてだろう *7。これには、どういった意図があったのだろうか。


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まずは、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドというキャラクターを、きちんと血のかよった人間に、なんとなれば彼が父になることを描くに当たっての神話的説得力を持たせようとしたのだろう。ボンドが単に超絶に越権的な “かつて” のスパイではない一介の人間なのなら──サフィンがいみじくも語るように──「暴力にまみれた人生」のなかで犯した数々の罪は償わなければならず、永遠に生きる──役者の交代による直接的なシリーズの延命も含む──ことが叶わないなら彼には必ず死が訪れるはずだ。

さらに本作のクライマックスでは、もはやボンドはいままでの誰にも信頼が置けないがゆえに孤独であり、失うものがないゆえに最強だった男ではない。『カジノ・ロワイヤル』で愛し合い、そして失ったヴェスパーへの決別、マドレーヌ、そして自身の娘マチルドとの出会いを経て、ボンドは真に愛するもの/失うものを得たのだ。ここで本作は、ボンドに「ならばどう生きるのか?」という問いを投げかける。

ここでラストに附された、Mにマネーペニー、Q、タナー、そしてノーミだけで静かに取り交わされたボンドへの追悼を思い出そう。Mはボンドへ、『野性の呼び声』などで知られる作家ジャック・ロンドンの言葉──人間の本質は存在することではなく、生きることである。だから私は、人生をただ延ばそうと日々を無駄することなく、限られた時間を使おう *8──を贈る。このMの献辞のとおり、ボンドは一個の人間、そして父としてすべきこと、愛する者のために生命を賭すこと──それが自身の死によってでも──を選び取ったのだ。

ここにきて、本作のタイトル『ノー・タイム・トゥ・ダイ』が、重層的に聞こえてはこないだろうか。いかにも007映画らしい「死んでいる時間(暇)はない(No Time to Die)」という字義どおりの意味から、「死すべきときを知る(Know Time to Die)」へと、その意味合いを変化させていたのではなかったか。言葉遊びを多用したユーモアもまた特徴である007映画のこと、おそらく本作のタイトルもまた、このような仕掛けが施されていてもおかしくはあるまい *9


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また、とくに『スカイフォール』以降のシリーズが模索していた007映画の発展・継承を語るメタ・フィクショナルな仕掛けでもあるだろう。

劇中でノーミが「“007” は永久欠番だとでも思った?」と問われたボンドが「そんなものただの数字だよ」と応えるように、いうまでもなくジェームズ・ボンドとは架空の映画のキャラクターである。たとえダニエル・クレイグが本作を最後に降板しても、次の役者がボンドを演じるだろうし、これまでもそうだった。しかし、だからといって永遠に007映画が作り続けられるのだろうか。否、映画が商業である以上、いつなんどき007映画の新作が作られなくなる(=死ぬ)やもしれない。

サム・メンデスの『スカイフォール』は、いまの時代でも007映画を作る意義があることの宣言であり、だからこそ内容の発展が必要なのだという宣誓であった。次の『スペクター』は、それにメンデスが自ら応えた “現代の007” 作品だ。

この2作を引き継いだ本作がラストで示すのは、007映画を語り継いでゆくことが次世代へボンドを繋ぐ鍵だという宣言であり、同時にこれまでこれまで007映画を語り継いできたファンへの熱い感謝を伝えるメッセージでもあったろう。ラストでマドレーヌがマチルドにボンドの人生を語って聞かせる姿は、これまでの永きに渡って過去作を、そして──いま僕がこうしてタイプしているように──本作を語る観客の姿にほかならない。

そして、シリーズがファンの声援あっての賜物である以上、後世へと007映画を繋げるためには “語り継がれるに値する” 作品を作り上げよう、というキャリー・ジョージ・フクナガをはじめとした作り手たちの宣誓でもあったことだろう。聖書がいまもって世界中に伝えられるように、007映画を未来へ繋げるためには、その絶えまぬ内容の発展・継承の闘いと努力が必要であると──。


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そして、ラストの展開は俳優ダニエル・クレイグに対する餞(はなむけ)の意味合いもあったろう。ご存知のように初登板した『カジノ・ロワイヤル』では、そのキャスティングが発表された途端に大ブーイングの嵐だった。金髪で碧眼、無骨な表情と、これまで培われたボンドのイメージにまったくそぐわなかったからだ。

だが、いみじくも『カジノ・ロワイヤル』がジェームズ・ボンドが007になる物語だったように、クレイグは見事にボンドを演じ切り、作品を重ねるごとに、まさにクレイグ=ボンドでしかありえない007像を作り手たちと共に開拓していった。そのクレイグ=ボンドの有終の美として、これが誰か別の役者が継承/コピー可能な余地を作品内に残すのではなく、きっちりと引導を渡すことは──もちろん、すこしばかりもの寂しいけれど──ダニエル・クレイグへの敬意の表れではなかったか。


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ことほど左様に、本作もまた、様々な側面からいろいろに楽しめる作品だ。

とはいえアバン・シークェンスは長すぎではないかと思ったし、相変わらずMI6のセキュリティ意識は低すぎるし、ノーミに “007” の称号を自ら返還させる展開はひっかかったし、そもそも本作における諸悪の根源はMではないかという疑念は拭い切れない *10。全体としての完成度も、文字どおり50年に1本の傑作だった『スカイフォール』に軍配が上がるだろう。もちろん、本来であれば第25作目を監督する予定だったダニー・ボイルの降板劇があったために製作時間が本来の3分の1程度しかなかったことも影響があるのだろう。

しかしながら、新しい007像を模索し続け、そして結実させたダニエル=ボンドのシリーズの完結編として、ぜひとも見届けたい1作であることには間違いない。


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【おまけ: 備忘録】
『007 スカイフォールサム・メンデス監督、2012)について……『007 スカイフォール』感想 - つらつら津々浦々(blog)

『007 スペクター』サム・メンデス監督、2015)について……『007 スペクター』感想 - つらつら津々浦々(blog)



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*1:たとえば、開幕1ショット目の「白色」の撮り分けを思い出そう。

*2:アクション・シーンではないけれど、ボンドとブロフェルドの対面シーンにおける、喧嘩した後の兄弟の会話を思わせる演出は、絶妙な可笑しみに溢れていて素晴らしかった。

*3:“007” の称号を受け継いだノーミの存在は、以前7代目ボンドは女性か、あるいは非白人か、といった噂を、作品中で回収したものだろう。

*4:本作から作り手たちが「ボンドガール」を「ボンドウーマン」と呼び表している。

*5:パロマのほうは、ボンドよりも酒に強そうなのが素敵。

*6:この名前は、英雄ヘラクレスが、ある策略によって毒ヒュードラを盛られたことから名づけたのだろう。そして、ヘラクレスがその毒のあまりの激痛に耐えかね、生きながらにして自ら焼死を選んだのは、本作におけるボンドの死に様にも通ずる。

*7:もちろんジェームズ・ボンドは基本的に成長・葛藤の物語とは無縁なので、これは当然のことだ。

*8: "The proper function of man is to live, not to exist. I shall not waste my days in trying to prolong them. I shall use my time."

*9:ボンドとマドレーヌの娘マチルドの名前も、「Ma (My) Child(自分の子ども)」というふうに聞こえなくもない。

*10:前作に登場した「C」がケアレスなら、本作のMのふるまいは、さながらマッチポンプだ。