2022 8月感想(短)まとめ

2022年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆映画撮影用に馬を飼育・調教する牧場を亡き父から引き継いだOJ とエムの兄妹が、敷地の上空にいる “なにか” の存在に気づく『NOPE/ノープ』ジョーダン・ピール監督、2022)は、エンタメ性と寓意性が絶妙にミックスされた見事な1作だった。


【脚注でネタバレしてます】


と(↑)は書いたものの、なかなか本作はネタバレをしたくないタイプの作品である。とりあえず少なくともいえるのは、これまでも同様のジャンルを描く作品は古くから数多あるけれど、本作はその見どころの肝をきちんと継承し、かつ刷新したベラボウに面白い作品であるのは間違いあるまい。だから、できることなら予告編以上の情報をインプットせずにご鑑賞いただきたい。

ということで「なら本作はどんな作品に似ているか」と問われたとして、ここにその例を挙げようとしようにも、それだけでネタバレになりそうなので、敢えて本文では伏せるけれども、皆さんも予想されているようにスティーヴン・スピルバーグの「コレ」とか「ソレ」とか思わせつつ じつは「アレ」 *1、また彼が新作を撮る際には必ず観直すと語る古典作品群 *2が、とくに思い出された。このように本作は古典的であり、また斬新な1作だ。


まずなんといっても、ピール監督の演出の巧みさだ。これまで『ゲット・アウト』(2017)や『アス』(2019)で彼が魅せてきたコメディアン出身であるからこその、卓越した緩急のつけ方は本作でも存分に発揮されており、ときにじっくりと、ときに突発的に、ときに大胆に描かれる “なにか” の恐怖演出の数々には、思わず登場人物たちと一緒に息を潜めて見入ってしまうこと請け合いだ。ああいった存在に1対1で追われる画というのもなかなか新鮮だし、それゆえになんとも知れぬ恐怖感が胸中にあふれることだろう。

もちろん怖がってよいのか笑ってよいのかという絶妙なラインを突くピール節も健在であり、怖い怖いと思っていたものがじつは……という展開が適度に盛り込まれ、観客の緊張感を高めつつもフッと息抜きをさせてくれる(そのあとが本当に怖いのだけど)。また本作の中盤で、とある気象条件をうまく用いた見せ場があるのだけれど、そのアイディアと美しくも凶悪で強烈な光景は必見だ。あの、なんとも知れぬ禍々しさ! とにもかくにも本作を観てしまった以上、しばらくのあいだは空を見上げたときに不穏な雰囲気を勝手に感じてしまうに違いない。


そんな映像をIMAXカメラに収めてみせたホイテ・ヴァン・ホイテマの撮影の見事さも、本作の魅力の大きなひとつだ。カラッと晴れ渡った荒涼とした風景の抜けのよさ、空高く潜む “なにか” を見上げるときのカメラの躍動感も一級だが、とくに本作の夜間シーン(屋外)の映像が、じつに精緻なものであったのが印象的だ。本作における夜間映像の特徴は、昨今のリアルに沈んだ黒味を強調する色彩ではなく、むしろ古典的な「アメリカの夜」によって撮影されたかのような青みがかった色調を採用している点だ。

この「アメリカの夜」とは、ひどく簡単に説明すれば、夜間シーンを実際に夜中撮影するのではなく、昼間撮影した映像フィルムを撮影時もしくは現像時にフィルターを介して加工することで、人工的に夜のように見せる技法である。本作の夜間シーンでは、「アメリカの夜」風の色みを採用し、かつ以前では到底不可能であったであろう細かな色調設定を施すことで、古典的でありながも単に闇に沈むでもなくモノトーンでもなく、さりとて昨今の夜間シーンとは違ったリアリティを醸す絶妙機微な映像を定着させている *3


そしてピール監督作らしく、本作にもアメリカにおける人種的格差や軋轢を物語に有機的に組み入れられている。黒人であるOJ とエムの兄妹はもちろん、のちにふたりに協力することになるエンジェルやホルストは南米やイタリアからの移民、ふたりの牧場の近所でテーマパークを経営する元子役のジュープはアジア系だ。彼/彼女らは皆、“WASP” の国アメリカではマイノリティであり、まるでそれを狙うかのように空に鎮座まします “なにか” の存在は非常に示唆的だ *4 *5

また本作では同時に、こういったマイノリティたちの存在と映画業界における裏方たちの存在とが重ね合わせられている点も興味深い。撮影に使用する動物の調教師や役者のスタントマン、さまざまな機械を操作する技師やカメラマン、そして脇役やエキストラたちも、映画をつくるうえで必要不可欠な存在だ。しかし、多くの人々は銀幕を彩るスターにしか目を向けないだろう。彼/彼女らもまた、マイノリティと同様に見向きもされない、忘れられた存在といえるだろう。もちろん、馬やチンパンジーといった動物たちもそうである *6

本作で、かつてエドワード・マイブリッジが1887年に馬の走る様子を撮影した連続写真「動物の運動(プレート626)」に映った騎手が黒人であったという逸話が援用されるのは、まさしく両者をシームレスに繋ぐものだったからに違いない。いわば本作の物語とは、そういった人々の逆襲譚とも捉えられるものだ。クライマックスにて主人公たちがなにをしようとするのかを思い出そう *7


こういった様々な要素を積み上げつつ、本作が「これぞハリウッド映画」というべき、とある古典的ジャンルへと収斂してゆくのは、ある種の必然であっただろう *8。これは、すべての人々に尊敬と敬意の心を持つことを忘れなければ「ハリウッド映画」はまだまだやれるという高らかな宣言であり、ピールたち作り手の炸裂する映画への愛にほかならない。


ことほど左様に、本作は1本のジャンル映画的エンタメ作品としても、ある種の寓話としても非常に満足度の高い作品だった。もし僕が誰かに「(本作を)観に行かなくてもいいかしらん?」と問われたなら、もちろん「Nope(うんにゃ、観たほうがいいよ)」と答えるだろう。ぜひ劇場でご覧ください *9


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【ソフト】
リーアム・ニーソン演じるトラック野郎が、崩落事故の被害者救出のために必要な機材を運搬するため氷上の路をゆく『アイス・ロード』ジョナサン・ヘンズリー監督、2021)は、ところどころ編集やVFX、合成に「あっ」と思うところはあるけれど、ジャンルと物語に必要な要素は余すところなく適格に組み入れて、きちんと実写撮影を絡めたアクション・シーンと演出のそこかしこに人物同士の関係描写についてもハラハラドキドキさせてくれるし、なによりタイトルにもあるアイス・ロードをはじめ、もろもろ知らないものごとについて勉強にもなる興味深く楽しいエンタテインメント作品だった。こういう映画を定期的に地方のシネコンでも観たいぞよ。


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◆人生にそれぞれつまづいた男女3人が、とある大学の入学金強奪計画を縁に出会う冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』(鷹森立一監督、1981)は、ツッコミどころはそこかしこにあるけれど、タネ元である『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督、1967)を展開やショットといった要所要所できちんとオマージュしつつ、千葉真一真田広之のコンビによる生身のアクションの数々、そしてなにより全篇にわたって炸裂しまくりの師弟愛によって、なんとも知れぬ魅力をたたえた1作だった。


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アメリカ東部から西海岸へと自動車を陸送中の青年ジムが、たまたまサイコな殺人鬼ジョンをヒッチハイクしたためにたいへんな目に合うヒッチャー(ロバート・ハーモン監督、1986)は、まさしく手に汗握るサイコ・スリラーの傑作だった。

開幕10分程度で必要十分な状況およびキャラクター設定を描写して即座にスリリングでスケアリングな展開に持ち込むテンポ感と緩急の見事さ、そこから終幕までの約100分のあいだ観客の予想の1歩先を行くかのようにあの手この手のバラエティに富んだシチュエーションで主人公ジムを恐怖と焦燥のどん底に畳みかけるように追い込んでゆく見せ方の巧さ、要所要所に用意されたアクションの爆発ありカー・チェイスありの適度な派手さ、そして文字どおり神出鬼没な殺人鬼ジョンを演じたルドガー・ハウアーのなんともしれぬ超然とした存在感の素晴らしさが、観客の目を画面に釘づけて放さないだろう。お見事。


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*1:未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)、そして『ジョーズ』(1975)。

*2:『捜索者』(ジョン・フォード監督、1956)、『七人の侍』(黒澤明監督、1954)、『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督、1946)、そして『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督、1962)。

*3:パンフレットにあったホイテマの言によれば、様々なパーツを組み合わせて作った特注の「アメリカの夜」的な装置だという。これはどうも昼間、赤外線フィルターを施したカメラ(したがって映像はモノクロとなり、空は黒くなるいっぽう、風景のディテールはまるで人間が肉眼で観たのと同様に記録される)と通常撮影のカメラの像(元となる自然な色調が記録される)が合致するように調整した装置で撮影し、その2種類のフィルムを合成し、さらに色調調整を施したらしい。うーん、すごい。

*4:ジュープが子役時代に出演したドラマの撮影中に「ゴーディ」役のチンパンジーの暴走によってキャストやスタッフが無残にも襲われた事件で、なぜ彼だけが危害を加えられなかったのか。それは、アジア系を「イエロー・モンキー」と蔑称するように、ジュープとゴーディは象徴的に鏡像関係にあるからであり、それゆえに彼らは──まさしく『E.T.』のエリオットとE.T.のように──ハンドタッチで和解するし、またのちにジュープはゴーディと同じく上位種によって殺害される。 ▼あるいは共演者だった白人少女メアリーをゴーディがどんな状態に追いやったのかを思い出そう。メアリーは生命こそ助かったものの、美しかった顔面は唇を抉られたために歯が剥き出すがままとなっている。その無残な姿はチンパンジーが歯を剥き出して笑う様にそっくりであり、さんざん猿(=アジア系)として笑われたゴーディ(=ジュープ)が、復讐としてメアリーを自分と同じ姿にしてしまったかのようだ。また、ここにはルッキズムに対する強烈な皮肉もあることだろう。 ▼また冒頭、OJ が馬を連れてやってきた白人ばかりの撮影現場にてディレクターに「父親の方がよかった」とボヤかれているのは、OJ の父が受けてきたある種の屈辱──つまり、OJ の父は白人にとって都合の良い黒人を演じるほかなかったのではないか──という疑念が浮かぶだろう(ところで、父の命を奪った5セント銀貨はトマス・ジェファーソン元大統領のインディアン強制移住政策への批判、そしてニッケルオデオンということなのだろう。いうなればOJ の父は、自らがよって立つアメリカと映画、そのどちらからも殺されたのだ。)。

*5:ところで、子役時代のジュープがチンパンジー暴走事件の際に目撃した「直立した靴」とは、なんだったのだろうか。 ▼それは、OJ が “なにか” を「悪い奇跡」と言い表すように、ジュープにとって直立した靴は「奇跡」の象徴なのだと考えられる。ここで前提としておきたいのは、本作に通底する基本ルールは動物と目を合わせてはならない、ということだ。 ▼いっぽう、奇跡とは「しかと見よ(Behold!)」と言われるように目撃せねばならないものであり、ジュープ少年はあの靴をじっと見つめていたことでチンパンジーと目を合わせずに済んだために、襲われなかったのだと捉えられるだろう。そして、やはり奇跡の産物である “なにか” をジュープは見つめざるをえないのだ(ゆえに捕食された)。 ▼また、この事件を描くフッテージのなかに登場する「直立した靴」が客観的な映像であったかどうかは、じつはあやふやだ。劇中に映される事件の映像は、あくまで大人になったジュープの回想としてフラッシュバックされたものであり、靴は彼がそのとき見ていた光景として描写されている。であれば、ジュープは結果的に自身の生命を救ってくれた奇跡の靴を「直立した靴」というかたちに神格化して記憶しているのではないだろうか。

*6:それゆえに各章のタイトルが、劇中に登場する動物たちの名前なのだ。

*7:“なにか” の映った映画を撮ろうとするのだ。本作は、作り手たちがインタビューで語るように「スペクタクル映画」についての映画でもある。我々は皆、形はどうあれスペクタクルを観たい、あるいはスペクタクルを撮りたいという願望を抱く生き物だ。それはスペクタクルを観ることによって、もしくはスペクタクルを提供して注目されることによって得られる快感や興奮があるからだ。宗教の奇跡だってスペクタクルだ(宗教的説話を題材にした映画の数々を思い出そう)。 ▼本作の登場人物は皆、スペクタクルを掌中に収めたいという願望を心のうちに秘めている。そして、皆を引き寄せてやまない空に浮かぶ “なにか” とは、スペクタクルそのものの象徴だ。OJ が “なにか” を見ないこと/目を向けないことを選択することは、その願望に向き合い克服するという、ある種の成長である。そして彼が、真に見るべき/目を向けるべき存在に改めて気づき、それを実行するのがクライマックスなのだ。 ▼OJ がエムに対し「俺がお前を見ている」とジェスチャーすることで、彼女の願いを叶える。エムの願いとは表舞台に立って活躍することであり、そのためには彼女を見て理解し、応援してくれる観客が必要だ。それが満たされたからこそ、エムは “なにか” との一騎打ちを果たすヒロインへとなる。 ▼そして、これによって本作は、それまでこれまで忘却/抑圧されてきた映画史を彼/彼女たちのもとに取り戻すのだ。

*8:もちろん、ご覧になった方はご周知のとおり、古典的な西部劇だ。エムはカウボーイのバルーンが敵役を討つ/撃つ(shoot)のを文字どおり撮影(shoot)するだろう。もちろん、これが『ジョーズ』へのオマージュなのはいうまでもない(「笑えよ、このクソッタレ」というわけだ。)。

*9:そういえば、お気づきいただけただろうか。予告編だけに登場する、空の “なにか” にまるで引き寄せられるよう歩むキャラクターがいたことを。彼はいったいどういう人物なのだろうか。あるいは続篇やスピンオフがあるとでもいうのだろうか。