2022 10月感想(短)まとめ

2022年10月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆とある山間の田舎町で謎の失踪事件が頻発、そこで農業を営む田中淳一のひとり息子・一也が森の中で得体のしれないなにかに遭遇する『“それ” がいる森』中田秀夫監督、2022)は、なんとも知れぬ、エンタメとしてはもったいない1作だった。

本作が取り扱う題材や、予告や宣伝でこれでもかと隠されていた “それ” の正体について、とくに不満があるわけではない。やがてつまびらかにされる ”それ” の姿や設定など、つっこみどころはなくはないが、それなりのインパクトと理屈が添えられていて、ことさらに悪いとは思わない。 離婚した妻のもとにいたひとり息子との距離をなんとか埋めようと努力する父というドラマの根幹も掴みとしては良いだろう。


しかし残念ながら、本作は脚本の段取りがとにかく悪い。キャラクターの不要な設定、説明的なリアクション台詞、繰り返される愁嘆場は昨今のメジャー邦画においてもはや慣れたものだけれど、それ以上に本作、前振りや伏線がそれとしてまったく機能しておらず、そのくせ展開上どう考えたって必要な前振りや伏線がいっさい──本当に文字どおり──ない(なんなら映るべき登場人物すら足りないのだ)。

それが証拠に、さんざっぱら公開まで「クマではないこと」以外をひた隠しにしていた “それ” の正体について、序盤から観客にいっさいのミスリードが許されないのだ。なんとなれば、タイトルまでのアバンを観るだけで「あ、あれか」とおよその察しがついてしまう “わかりやすさ” はいかがなものか(劇伴の方向性を変えるだけでも、もうすこしミスリードを誘えただろう)。観客によっては、本作の舞台とする場所の字幕が表示されるまでの冒頭の1、2ショット──おそらく、とある作品のオープニングシーンへのオマージュ──を、観れば気づいてしまうだろう。


もちろん中盤に観客のミスリードを誘おうとする要素はいくつか用意されているものの、その伏線の多くは出しただけで回収されずに終わり、それ以前に前半部で疑いようもなく正体の知れるものをまざまざとスクリーンに映してしまうのである。それでいて「“それ” の正体がじつは……!」とされても困惑するばかりだ。これが意図的なのだとしたら、驚くべき作劇である。やろうと思ってなかなか出来る芸当ではない。

その混乱ぶりが頂点に達するのが、クライマックスである。ただでさえ整理がされていない物語のクライマックスにいたって、なぜ舞台を二手に分けてしまったのか。よくわからない人的スケール感、サスペンスのためだけに用意された展開を追うチグハグなカットバック、あきらかに奇をてらわず時系列どおり組み込んでいたほうが有効だった展開を映すフラッシュバック、内容的にはすでに解決したはずの愁嘆場まで盛り込むロイヤル・ストレート・フラッシュを決められては、シャッポを脱いで両手を挙げるよりほかはあるまい。


本作は、邦画ではあまり見られないタイプのホラー映画に挑戦しようとした企画や題材それ自体は悪くないし、志を感じるものだ。これまで腐した本編中にだって、要所要所ではよい部分──たとえば端正なカメラワークや、小日向文世の流石の演技など──もある。だからこそ、どうしてもっと脚本段階で精査がなされなかったのか、という疑念は拭い去れない。とにかく ”それ” の正体以前の問題が、ことほど左様に多すぎる。もっといくらでも面白くできたと思うのだけどなぁ。


しかし、しかしである。ただいっぽうで、もしかして本作は日本風刺劇だったのかしらん、という気がしないでもなくなっている(日に日にだ)。

というのも物語が当初からソレだけ明快な「答え」があるにも関わらず誰も耳を貸さず、バカな大人を食い物にするのはもちろんのこと、せめてもの良心である善良な幼き小市民を容赦なく犠牲にして、あまつさえ危険地帯に人々を呼び込んで搔き集め、結局のところ “身内” や “おともだち” だけを重んじるイケスカナイ金持ち一家が勝ち残り、事件が根本的には解決していないにも関わらず喉もと過ぎれば「よかったよかった」と無根拠に満面の笑顔を浮かべて──しかもスポーツ大会で!──いるのは、まさしく我々の今日日(きょうび)の日本の戯画化/風刺なのでは(しかも “森” ですぜ)? もしそうなら、不出来を通り越して不条理な脚本の不合理さ加減にも、現状の日本社会の似姿として納得がいくような気がするゾ…… !!!! もしも本作が本当にそういう意図で作られたのなら、いまの日本は、フランコ政権下のスペインにも等しい状況下にあるということだよ(それが冗談にも聞こえないのが怖い)。

中田監督が予告編で、「怖さ」について本作以上に追及したものはない、とコメントしていたのは、あるいはこういう現実のことだったのかもしれない。


     〇


◆ミスター・ウルフの率いる泣く子も黙る動物怪盗団が、思わぬ陰謀に巻き込まれる『バッドガイズ』(ピエール・ペリフィル監督、2022)は、面白可笑しく楽しめるエンタテインメントでありつつ、なかなか噛み応えのある作品だった。


まず本作の画作りが、なかなか面白い。本作はいわゆるCGアニメーションであるが、その質感は──たとえばディズニーやピクサーが追及する、体毛の1本1本を造形するような──リアルなものではなく、むしろ絵の具を浸した筆で塗り上げたようなものとなっているのが特徴だ。目や眉などはほとんど2Dアニメのようにパッキリ塗り分けられている。加えて砂煙や爆発、指パッチンなどの漫符といったエフェクト・アニメーションだけをすべて2Dのセルアニメ調に表現しており、この組み合わせの妙が、いままであまり類のない不思議な手触りをスクリーンに醸し出している。この、いかにもマンガ的なリアリティのなかでキャラクターたちが活き活きとアクションをして跳ね回るさまを観ているだけでも楽しいというものだ。

本作はいわゆるケイパーものであるが、ふたを開けてみると作り手たちの「好きなもの全部入れてしまえ!」という叫びが聞こえてくるかのようなオマージュの数々に溢れている。作り手たちが明言するように、全体の雰囲気としてはあきらかにアニメ『ルパン三世』や犬の『名探偵ホームズ』シリーズ──自由落下している最中に平泳ぎして相手に近づこうとするところなんかとくに宮崎駿調よね──を基調としているし、ミスター・ウルフの衣装は『オーシャンズ11』のジョージ・クルーニー、「ホッホッホッホッ!」と息遣いのやかましい警官隊や無暗な台数のパトカーを引っ提げて逃げ回るカーチェイスは『ブルース・ブラザース』、コミカルでありながら迫力満点の格闘はジャッキー・チェンらの黄金期香港アクション構築、街のド真ん中に巨大なクレーターがポッカリ空いているのは『AKIRA』、開幕の展開や意味があるのかないのかわからない会話の応酬はタランティーノ映画、『ワイルド・スピード』シリーズか『PUI PUI モルカー』かはたまた『大群獣ネズラ』かといったクライマックスの捕り物合戦、挙句に蛇のスネークのシルエットは『ラスベガスをやっつけろ』のポスターに描かれたグニョグニョのジョニー・デップなどを連想させ、挙げ出したらキリがない。

例によって悪い癖で鼻息荒くアレコレ挙げつらってしまったが、これらパロディやオマージュが本作のもちろん本題ではなく、画面や作劇を味つけするスパイスだ。本作は、そんな前知識がなくても大人から子供までがギャグに笑い、アクションの迫力に興奮し、展開にハラハラして楽しめるようにきちんと作られているし、かつオマージュ元をすぼめてもいない非常にまっとうなエンタテインメントとして仕上がっている。いうなれば、エドガー・ライト監督作品群に近しいものがあるだろう。


ところで、予告編などを観た印象から、本作をディズニー映画の『ロビンフッド』や『ズートピア』のように、擬人/戯画化された動物たちの世界を舞台にしているように思われる方が大半だろう。かくいう僕もそうだった。しかし本編をじっさいに観てみると、ミスター・ウルフやスネークといったメインのキャラクターたちだけが動物で、その他大勢は普通に人間として登場するという、非常に不思議な世界観設定となっている。しかも、とくになんの説明もなくこれを自明の理として物語を展開するので、思わず「あり日しの東映まんが祭りか!」と面食らってしまった。

とはいえ、これはつまり狼や蛇や鮫といった悪役の寓意として──劇中でも言及されるように──物語に登場しがちな動物たちを人間社会にそのまま寓意というよりは直喩的に放り込んでいるわけで、さすが『シュレック』シリーズを世に放ったドリームワークス制作の映画らしい捻りの効いた設定だ。そしてこのことが、劇中で語られる “善いこと/悪いこと” の寓話性に絶妙な揺らぎを添えていて面白い。人(動物)の本性は見た目のままなのか、なにが感情を規定するのか、もし教育と訓練だけで手に入れられる善良ならばそれは動物的なのではないか、などなど考え出すと思いのほか考え込んでしまう。

このように本作には、一見きわめて単純に思えて、なかなか噛み応えがあり、ひと癖もふた癖もあるような独特の味わいがある。劇中なんども登場しては、その場その場でわかりやすくて安直なまとめをしようとするキャスターのような物言いをついつい求めてしまいがちな今日日(きょうび)の我々に対して、本作はひとつのカウンターとなってくれることだろう。


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