2022年11月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。
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【劇 場】
◆九州の静かな町に暮らす高校生・鈴芽が「扉」を探しているという青年・草太と出会うことで、世界の知られざる理(ことわり)を目の当たりにする『すずめの戸締まり』(新海誠監督、2022)は、これまで新海作品の集大成であり新機軸を打ち出したような1作だった。
【脚注で若干のネタバレあります】
本作の概略をあえて内容に触れず喩えるなら、諸星大二郎や星野之宣らの描く伝奇漫画へ白石晃士監督作と『新世紀エヴァンゲリオン』や「水曜どうでしょう」のエッセンスを隠し味にすこしばかり加えて、新海誠が自己流のエンタメ手法で大胆に料理したような──そして、彼がインタビューで語るように『魔女の宅急便』(1989)といった宮崎駿監督作の要素も合わせた──作品とでも言えようか。
もちろん本作でも、写実的な筆致ながら幻想的な色彩設計の美しい背景描写の数々、近作で顕著な特徴となっているリアルな重心移動と躍動感を兼ね備えた精緻な作画による日常のちょっとした所作から縦横無尽に跳ね回るアクション──イスのアクションの多彩さよ!──までカットごとにいちいち動きが素晴らしいアニメーション *1、猫、そして瑞々しい “運命の恋” が世界の存亡へと直結するいわゆる “セカイ系” 的物語といった、新海監督作の持ち味は本作でも遺憾なく発揮されている。なるほど惹句にある「集大成」の文字は嘘ではない。しかし、本作の素晴らしい点は単にこれまでの新海作品の拡大再生産に留まらない1作となっていることだ。
というのも本作では、その演出にある “引き算” が施されているからだ。それは、新海作品の大きな特徴のひとつであったモノローグの排除である。これまでの新海作品の主人公たちは、その心象や感情、そして目(=画面)に映る風景を饒舌なまでにモノローグとして語るのが常であったが、本作ではこれが徹底して封印されている *2。そしてここに、本作が紡ごうとする物語の本質がある。そう、主人公の鈴芽が対峙するのは、本人──そして、われわれ観客──にとって語ることがとてつもなく難しい命題、すなわち語り得ないトラウマ記憶そのものだからだ *3。そしてそれは、かつて『君の名は。』(2016)で巧妙に回避されたことがらでもある *4。本作において新海監督は、少なくともそれに逃げを打たず、まっこうから挑んだのだ。
ことほど左様に、本作は新海誠の集大成であり新機軸を打ち出したといえる1作となっている。その他、アレの登場時に毎回同じ旋律が流れるのは怪獣映画っぽかったり、いわゆる心的地図を本作のような表現手法で描写するのはなるほどなと思ったり、とはいえタイトル表示はいっそラストだけでよくないかしらんとか、「彼ら」はどういう存在なのか若干飲み込みづらさはあったり、もちろん本作が主題とした題材とその語り方あるいは観客が受ける/取る反応の是非については今後も議論の余地があるとは思うけれど、ぜひとも劇場でこそ観たい作品だ。
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◆社会のエネルギー源である帯電植物「パンド」に謎の腐蝕が拡がるなか、栽培農家であるサーチャーが原因究明のため地底世界に挑む『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』(ドン・ホール監督、2022)は、まるでジュール・ヴェルヌのSF小説のような幻想的で奇想天外なヴィジュアルと、3世代に渡るちょっとほろ苦い父と子のドラマを味わえる一品だ。
まず、本作で展開される圧巻のヴィジュアル・イメージは、一見の価値ありだ。序盤で語られる「パンド」という電気を帯びた植物の実を電池として使用することで独自に進展した世界観の科学設定と、メソアメリカ文化圏を想起させる街並みや風土を描く美術とが合わさって、なんとも知れぬ独特のレトロ・フューチャー感を醸す舞台設定がじつに新鮮で面白い。
また、サーチャーたちが中盤以降に挑む地底の世界は、地上とは色相が逆転したかのようにピンクやオレンジに紫といったカラフルさにすこしばかりの毒々しさ混じり合った色彩設定と、そこに生息する動植物のなんとも知れぬブヨブヨした手触りを醸す質感表現が素晴らしい。複雑な生態系を持つ彼らのデザインには、前述した色合いに加えて、われわれの知る微生物や無脊椎動物、あるいは細菌やバージェス動物群にみられるような形状が取り入れられている。近しいコンセプトとしては、たとえば『エボリューション』(アイヴァン・ライトマン監督、2001)に登場したクリーチャーたちが思い出される。そのため観る人によってはもしかすると少々グロテクスさが勝るかもしれないけれど、ここまで大々的に多くの種類をスクリーンに登場させた例はなかなか珍しいのではないだろうか。
そして、このような独特な世界観のなかで語られる父と子の物語にも、個人的にはグッとくるものがあった。冒険王の異名を持つイェーガーは息子である主人公サーチャーを自分と同様に冒険家になりたいものと信じ、サーチャーはサーチャーで彼の息子イーサンが自分の築いた農場を継ぐものだと信じて疑わない。そのじつサーチャーはエゴを押しつけるばかりの父イェーガーのようになるまいとして、ベクトルは違えど父と同様に視野狭窄となって息子を苦しめていることに気づいたとき、彼の成長譚としても、同時に物語的にも大きな転換を迎えるのが見事な物語構築だ。ネタバレになるので詳細は控えるけれども、本作はこの後半のあっと驚く展開によって、われわれ人間社会が直面する問題ともさりげなくリンクする。まさしくSF的なセンス・オブ・ワンダーであり、主人公たちがそこでどういった選択をするのかは非常に示唆に富んでおり、それについて思いを巡らし、考えるよい機会にも本作はなるだろう。
そのほか、本作の物語世界における常識の進歩的なところは非常によかったし、ヘンリー・ジャックマンによる ’80年代ジョン・ウィリアムズ調をビンビンに感じるオーケストラが華やかに鳴るスコア *5はたいへん気持ちがよかったし、とはいえ冒険隊の面々がほとんど文字どおりモブ・キャラだったのはもうすこしやりようがなかったのかと思うけれど、本作独特のヴィジュアル世界をめいっぱい浴びに劇場に出かけたい1作だ。
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【ソフト】
◆難病の妻を救う治療費を得るために兄ダニーの計画する銀行強盗に加担することになったウィルが、逃走の果てに救急車を拉致することになる『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、2022)は、ベイ監督らしく実写撮影にこだわったトチ狂ったカーチェイス・アクションと、場面の端々でそれを捉えるドローン撮影のアクロバティックで誰も観たことないような──たとえば、フワッと浮かんだと思ったらふいにターン・バックして被写体にグワッと急接近するような──カメラワークが斬新な1作だ。いっぽう、お話や要素としてはミニマルな本作を観ていると、なんとなく懐かしい気分にもなってくることだろう。そう、本作が真に継承するスピリットとはなにか。本作は、それが明かされるエンド・クレジットまで、われわれ観客をグイグイ引っ張って離さないことだろう。いやー、おもしろかったです。
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◆学生時代からお世話になっているとある先輩が「まじ面白い」と仰るのでよほどのことだと思って観たドラマ・ミニシリーズ『この動画は再生できません』(谷口恒平監督、2022、全4話)は、マジ「まじ面白」かったです。心霊ドキュメンタリーにこういう切り口があったとは! なるほどなぁ! てな感じです。「みんな見てくれ」です。
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*1:イスと猫、そしてある意味では幼児がメインキャラクターであるためだろう、他の映画よりもカメラ位置を低く設定した仰角気味の画面レイアウトが多用されているのも本作の特徴だろう。
*2:また、場面場面の情感をわかりやすく歌い上げる “挿入歌” 演出も本作ではラストのラストまで抑制されており、代わりに後半でセルフパロディ的なギャグとして使用されるにとどまっている。
*3:本作における「常世」が鈴芽のトラウマ記憶を抑圧した心の「無意識(イド)」の暗喩であるのは、「常世」はすべての時間が存在する=無時間的な世界と説明されることやクライマックスで描かれる情景からも明らかだ。そして、彼女の行動を翻弄する(そのじつ導き、律していた)猫神様ダイジンは、鈴芽の「超自我」の暗喩でもあるだろう。このように本作は、鈴芽が自身の心的地図を巡る冒険譚──たとえば、多くの村上春樹の諸作品ように──と捉えられる 。また中盤、神戸でお世話になるスナックで、ダイジンが鈴芽(と草太)以外には人間に見えていたように──そして、ミミズが一般人には見えないように──本作に映されるヴィジュアルは鈴芽独自の認知したものだという可能性もあり、部分的には草太とすら共有していない部分もあったのではないか。 ▼また、本作の物語が鈴芽のトラウマ記憶を巡る物語である以上、ダイジンは草太を彼女のトラウマ記憶を紐づける亡き母が作ってくれたイスに変えたのだろう。イスの欠けた1本の足は、失われた故郷、失われた記憶、失われた母、といった鈴芽の喪失の暗喩に思われるし、このイスは母や草太の死を連想させるアイテムでもあることから、3本足とは人生の終盤にある人間の寓意とも捉えられる(スフィンクスがオイディプスにかけた謎々を思い出そう)。
*4:災厄は起きた。が死傷者は出ず住人は皆希望する土地へ移住したのだからすべて良し、という結論は非常に問題があると考えるものである。だから、本作のなかでもっとも無神経な──本人に悪気はないにせよ──「ここってこんなに綺麗だったんだな」という台詞をなにげなく発するキャラクターの声をアテているのが神木隆之介なのは、新海誠自身へのアンサーなのではないかと考えさせられるものがある。
*5:ときどきヨハン・シュトラウス2世やリヒャルト・シュトラウス──ようするに『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)に援用されたクラシック──へのオマージュがあったのも微笑ましかったです。