2020 3月感想(短)まとめ

2020年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆タウンゼント探偵社が擁するスパイの一員であるサビーナとジェーンのもとに、新エネルギー装置「カリスト」の主任プログラマーであるエレーナから、それが武器への転用も可能であるとの内部告発がもたらされるチャーリーズ・エンジェルエリザベス・バンクス監督、2019)は、粗がないではないが、シリーズの価値観のアップデートを試みた意欲作だった。

冒頭、クリステン・スチュワート演じるサビーナが悪役(=男)──そしてスクリーンをとおして僕ら観客──と文字どおり正面から対話する内容が、愚直なまでに本作の目指したところを語っていてハッとさせられる。そこで語られるのは、「女性がなにか行動をするとき男性の許可なぞ万が一にも必要ないし、自分の好きなように振舞うことができるのだ」という、まさしくガールズ・エンパワーメントを意識した内容であって、それを「チャーリーズ・エンジェル」のフランチャイズでやることの意義と刷新性は大いにあるだろう。

これは、本作がいわゆる単体でのリブートでなく、オリジナルのテレビ・シリーズ(1976-1982)と映画版2作(マックG監督、2000-2003)からの地続きの世界観にあること──ラストでちょっとした仕掛けもある──を明言しているのも、本作に込めた作り手のそういった意志が如実に感じられる *1。また、シリーズお決まりであるオープニングのチャーリーによるキャラクター紹介を廃してあえて挿入された唐突──これまでシリーズに馴染んできたファンにはとくに──な、まるで少女たちを映したホームビデオのような映像群も、じつはクライマックスの大団円への布石となっていて、これには思いがけず感動もした。

事実、その後こともなげに悪役たちをなぎ倒してゆくエンジェルたちの姿には快哉をさけびたくなるし、劇中で様々な衣装を活き活きと着こなす姿は躍動感に満ちている。それは単に格闘アクションの見せ場に限らず、これまでであれば割と手間をかけてきた敵地へ潜入するまでの段取りをサクっと手早く片付けてしまう点──IDカードを盗むくだりなど最高だった──なども、彼女たちの「デキる」スパイ感が醸されていて素晴らしいし、キャッキャと楽しげに会話のキャッチボールを交わす姿も多幸感に満ちている。とにもかくにも主演陣の演技アンサンブルは見事だし、彼女たちの活躍の一挙手一投足は軽やかなのだ。

ただ本作、見せ場のメインのひとつであろうエンジェルたちのアクション・シーンの演出がいま一歩だったのが非常に惜しい。シーンのなかでいささかカット割りが多すぎて動きが追いづらい──ショットごとには、キメ画として格好いいものも多いのだけど *2──し、撮影素材が足りなかったのかどうか、編集が微妙にポッと飛ぶものだから位置関係がアヤフヤになりがちだったりするのも輪をかけてノイズになっているのは否めない。話運びも前述のような「手早さ」が魅力の部分も多い反面、どこかモタついていたり、うまく展開が噛み合っていないところも多い *3。ひと言でいえば、かなりユルい。

こういったことが関係したのか、あるいはフランチャイズ自体の受容があまりなかったのか、もしくはフランチャイズのツボを敢えて外すような演出が多かったから *4なのかどうか、本国で批評的にも興行的にもかなり苦戦を強いられているという本作。でもね、本作はとっても軽やかで──そのユルささえも──楽しい味わいでかつ伝えるべきメッセージを世界に届けようとした意欲作であっただけに、これ1本で終わるには惜しい作品だ。みんな観よう!


     ○


保守系ケーブルTV局「FOXニュース」のCEOロジャー・エイルズによるセクシャル・ハラスメントに対し、女性職員が彼を告発するまでを描く『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督、2019)は、テンポよく無駄のない構成が映える実録モノであり、そして劇中で語られる醜聞については心底腹の立つ作品だった。

シャーリーズ・セロン演じるキャスターのメーガン・ケリーがFOXニュース社内の構造を観客に向かって説明する冒頭──モブまで自然にこちらに「ハァイ」と手を振って挨拶するあたり、『オースティン・パワーズ』シリーズ(1997-2002)のローチ監督らしい軽やかさだ──から、彼女とニコール・キッドマン演じるグレッチェン・カールソン、そしてマーゴット・ロビー演じる新人カイラ・ポシュピシルの3人を軸に事件の顛末をテキパキと伝えるソリッドな構成と、登場人物への極端な──わかりやすい──感情移入を誘わない抑え目な演出は、観客に冷静な鑑賞姿勢を求めるだろう。

第92回アカデミー賞において本作の特殊メイクを担当したカズ・ヒロ(旧名: 辻一弘)がメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことからもわかるとおり、たとえばセロンの風貌を限りなくメーガン・ケリーへと──しかし、セロンであることも分かる程度に──変貌させたメイクの自然さは見事なもので、これに加えて俳優陣の巧みな演技も相まって、画面内に非常なリアルさが溢れているのも見逃せない。予告編でも流れた主演3人が同じエレベータに鉢合わせるシーンでのなに気ない所作や表情づけなど素晴らしい。また、カイラと友情を育むこととなるジェスを演じたケイト・マッキノンの、微妙な立ち位置ゆえに揺れる心情表現もよかった。

だからこそ、ロジャー・エイルズ──演じたジョン・リズゴーはいい仕事してる──がその文字どおり肥大しきった権力とエゴによって彼女たち──そしてFOXニュースに勤務する(していた)数々の女性たち──に様々な圧力をかけ、挙句にセクシュアル・ハラスメントを働く非道さには腹が立って腹が立ってしようがなかった。ほかにも、ラストもラストでとある登場人物が偉そうに立つ場所──カメラも一瞬寄るが、その足許に注目だ──の安さ/みみっちさには、そうまでしてその虚栄心を維持したいものかと心底呆れかえった。人間ああなっちゃオシマイだよ。本作で描かれた事件だけに限らず、同様の事態が数多く起こっている現状──日本だって、つい先日「アースミュージックエコロジー」の社長によるセクハラ事件が明るみに出たばかりだ──には、ほとほとウンザリする。権力を盾にこういった非道を行う手合いには「外道! きさまらこそ悪魔だ!」というデビルマンの台詞を投げつけたい。

われわれ観客とも決して無縁ではない現在進行形の現実社会の実状をあらためて見つめなおす意味でも、ぜひとも観ておきたい1作だ *5。本作は、決してエイルズを倒してめでたしめでたしという作品ではないのだから。


     ○


◆ゴールドラッシュに沸く19世紀末のアラスカを舞台に、西海岸からソリ犬として拉致されてきた飼い犬バックが辿る冒険を描くジャック・ロンドンによる同名中篇小説(1903)の実写化『野性の呼び声』(クリス・サンダース監督、2020)は、VFXによる犬たちの表現が凄まじい1作だった。

本作の見所はなんといってもバックをはじめとする犬の独特な実在感、これに尽きる。フルCGによって形成された──近作では、たとえば『名探偵ピカチュウ』(ロブ・レターマン監督、2019)やリメイク版『ライオン・キング』(ジョン・ファヴロー監督、2019)を彷彿とさせる──犬たちの毛並みの質感と骨格や筋肉の動きは、実写と見紛うばかりにリアリスティックなものでありながら、漫画チックになり過ぎない程度にデフォルメされた人間くさい表情の絶妙なマッチングが、なんとも愛らしい。本作を観ると、犬のこんなところが可愛く、あるいは恐い、というのを再認識できるし、一切の台詞のない犬たちの感情も手に取るようにわかることだろう。

とくにそれが活かされているのが、カルフォルニアの裕福な家の飼い犬だったバックが、やがて郵便配達のソリ犬として成長するまでを描いた冒頭から前半部だ。スラップスティック・コメディともみえる冒頭のバックのアクションから、厳しい極寒の自然環境やほかのソリ犬たちとの交流や対決の果てに成長してゆく彼の姿は、テンポのよい作劇とダイナミックでスピード感溢れるアクションの連続も相まって、手に汗握ること必至だ。さすがに『リロ&スティッチ』(ディーン・デュボアと共同監督、2002)や『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュボアと共同監督、2010)を手がけたサンダース監督の面目躍如といったところか。ハリソン・フォードをはじめ、バックの主人となる人間のキャラクターも登場するけれど、観ていて感情移入する対象はバックになること請合いだ。

その分、後半やや単調になった嫌いがあったり、ちょくちょく挿入されるフォードのナレーションがむしろ邪魔なのではないかと思わなくもないけれど、犬たちの活躍をとくと堪能したいなら、本作はうってつけの作品だろう。


     ○


◆47歳で急逝したジュディ・ガーランド最晩年のロンドン公演を主軸に、彼女の知られざる内面を描く『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督、2019)は、レネー・ゼルウィガーの見事な名演と、『オズの魔法使』(ヴィクター・フレミング監督、1939)をキーにした構成とが相まった、物悲しくも力強い1作だった。

最晩年のジュディと交互にフラッシュバックする彼女の少女期(ダーシー・ショウ演)の思い出が明かされてゆく本作の構成は、ある意味では実に壮絶な人生をあぶり出すだろう。MGMのルイス・B・メイヤーたちから徹底的に自由を束縛され、自由に飲むことも食べることも許されず薬漬けにされ、ショウビズ業界に囚われ続ける──しかもMGMからは契約を切られている──ジュディは、歳を経てもその呪縛から逃れられず苦しみ続けている。そんなジュディを本作は、さながら彼女がスターダムを駆け上るきっかけとなった映画『オズの魔法使』に登場する「エメラルド・シティ」に囚われ続けたドロシーのように演出している。

本作のオープニングにおいて、メイヤーが「君を大スターにしてやろう」と年端もゆかぬジュディに囁きかける場所を思い出すなら、それは『オズの魔法使』の「納屋」のなかであり、やがて彼は彼女をつれて「黄色のレンガ道」を歩き、その向こうにあるエメラルド・シティ──彼らはこちらを向いており、その光景は映されないが──を指し示す。映画のなかでは、偉大な魔法使いとはデッチ上げであり、エメラルド・シティが単なる虚飾に過ぎないことが明かされることによってドロシーは現実に帰還するが、ジュディは留まらざるをえなかった。照明にせよ、セットや小道具や衣装にせよ、本作の画面に始終ついて回るエメラルド・グリーンの色調は、まさにジュディを拘束する檻にほかならない。

だからこそ、その檻から一瞬でも解放されたかのように映されるクライマックスの歌唱シーンは、とても力強く、同時にすこし儚げでもある。ジュディが虹の彼方にあるどこかを求め、エメラルド・シティでしか生きられなかったことを否定するのではなく、やさしく包み込むかのようなラストのとある顛末はとても印象的だ。演技のみならず力強いジュディの歌唱まで自らすべてをこなしたレネー・ゼルウィガーの表現力は、アカデミー賞をはじめ数々の賞で主演女優賞を獲得したのにも納得の素晴らしさ。まるでガーランド自身が憑依したのではないかとも思えるような本作のゼルウィガーだが、彼女自身しばらく休養を要して映画界から離れていただけに、どこかシンクロする部分が多かったのかもしれない。


     ○


◆フランスの文豪ロマン・ガリが、シングルマザーだった彼の母ニーナと歩んだ半生を記した自伝小説『夜明けの約束』を映画化した『母との約束、250通の手紙』(エリック・バルビエ監督、2017)は、いわゆる “感動人情モノ” を思わせる予告編などから受ける印象とはまったく異なる作品だった。もちろんいい意味で。

たしかにシャルロット・ゲンズブールが熱演するロマンの母ニーナは、肝っ玉と商才と行動力があり、彼女がそれらを駆使して立ちはだかる幾多の困難にも果敢に闘いを挑んでは勝利を掴んでゆく姿はじつに逞しい。そして息子ロマンを「おまえはフランスの偉大な有名作家になって、大使にもなる」と信じて鼓舞し続ける彼女の愛情は本物だ。実際、彼女のサクセス・ストーリーとして本作を観るなら、見所と笑い所とちょっとした感動をテンポよく映した作品として捉えることもできるだろう。

しかし同時に、本作には──画面の色彩がそうであるように──どこか翳りがある。それは、そのようなニーナの大きな愛と願いの許に育ち、やがて──史実として──母との約束の数々を果たしたロマンの人生が、彼自身にとってどうだったのかという問いかけだ。母の愛と願いゆえにロマンは常に苦心し、やがて成長して大学や戦地へ赴いたことで母と離れても、彼は不在の彼女を完璧なまでに内在化できるまでになってしまう。その様子は、どこか心霊映画のような寒々しさがあるし、ロマンを支えた母ニーナの愛がある意味では呪いだったのではないかと一抹の不安がしたたる。

だからこそ、本作がメキシコの「死者の日」の祭り *6を映して開幕するのだろう。そしてラストにおいて、文字どおり「支(つか)え」が取れた──そもそも、なぜそれが必要だったのか──ロマンの表情を見るとき、えもいわれぬ余韻が鈍くこだまする。ラカンの「欲望は、他者の欲望である」とは、よく云ったものだ。


     ○


◆突然の家族の死によって塞ぎ込んでいたダニーが、恋人のクリスチャンやその友人たちと共に独特な風習の残るというスウェーデンのホルガ村で行われる夏至祭に赴く『ミッドサマー』アリ・アスター監督、2019)は、なんとも無気味で、えもいわれぬ鑑賞後感をもたらす作品だった。

日本で封切られてから「山田と上田の出てこない『TRICK』」と一部で喩えられていたけれど、なるほどさもありなんといった感じの作品で、本作をあえてほかに喩えるなら「稗田礼二郎の出てこない漫画『妖怪ハンター』シリーズ(諸星大二郎)」、あるいは「SDKのいないゲーム『SIREN』」とでもいおうか。ダニーたちがやがて呑まれてゆく──そして、映画冒頭の “絵” にすべて予感される──ホルガ村の9日間にも及ぶ夏至祭には、アニミズムや客人(まれびと)信仰、輪廻転生やファルス信仰など様々な民俗学的風習の味わいを見ることができる *7。また、『ウィッカーマン』(ロビン・ハーディ監督、1973)を連想させる要素も多い。

アスター監督の前作『ヘレディタリー/継承』(2018)と同様に、登場人物たちの感情を言外に示しつつ、同時に彼/彼女たち全員が卓上の駒のように思えるような閉塞感を醸す徹底的にデザインされたカメラワークは本作でも健在。じっと耐え忍ぶような長回しや、ふいにリズムを途切れさせるようなタイミング、あるいは巧みなアクション繋ぎなどを用いた編集の緩急も相まって、なにも起こっていないシーンすら無気味極まりない。夏至祭が白夜に行われるという設定から、本作ではホラー映画にあるまじき明るい画面が延々と映されるわけだが、ゆえに我々が見てはならないおぞましい “なにか” がまざまざと映されているように思えてならない居心地の悪さは特筆に値する。

その他、ドイツ表現主義を思わせる歪んだ家屋のデザインやその後の展開を臭わせる数々の絵画、画面の周囲や一部が絶妙にウニョウニョと歪むトリップ表現、祭の儀式がついに臨界点を越えてふいに顕わになる “肉体” のそっけなさなど、最小限の効果で最大限のインパクトを与えてくれる。そして、あの手この手でダニーたちを篭絡、あるいは排除してゆく *8村人の晴れやかな表情──手をヒラヒラさせたりなんかしてね──もまた、なんとも得体の知れぬ情感に溢れていてドキドキさせられることだろう。

アスター監督が「自らの失恋体験を映画に持ち込んだ」と各所で語るように、ダニーとクリスチャンを巡る本作の物語は、ホラーやモンド映画という枠組みを用いて語られる、ある種の──冷め切った──恋愛モノである点も興味深い。ふたりの関係がどのように変化するのか、あるいはどうすればよかったのか、と観る者に常に問いを投げかけてくる。いみじくも劇中でホルガ村を「カルトの一種か?」と尋ねる台詞があるように、本作に登場する村民や奇祭とは、決定的な他者──深く理解しあえなくなった恋人あるいは家族、友人──の象徴なのだろう。ダニーとクリスチャン、あるいは彼らと村人たちは胃がキリキリと痛くなるようなスレ違いを見せる。しかし同時に、そんな村人たちこそがダニーに対して深い、いや、深すぎるほどの共感をもたらしてくれる存在としても──少なくとも表面上は──描かれており、はたして我々の暮らす現実社会とホルガ村のどちらが正しいのか、あるいは幸福なのかの判断は、ラストのダニーの表情を観る我々に任される。

本作をどの登場人物の視点──あるいは客観──で観るかによって、受ける印象はずいぶん異なったものになるはずで、このフラットな作りがよりいっそう観客の心の内をグラグラと揺さぶりにかけることだろう。ラストに「ある種の解放感を感じた」あるいは「カルト宗教そのものだ」というどちらの感想も、それぞれがそれなりの正しさを持ち得る。そういう意味では、本作は非常に危険な劇薬のごとき作品だ。

その他、前半のいたるところに配された鏡の使い方が最高とか、登場人物の息遣いに紛れる絶妙な低音の混じり気や “盆踊り” シーンでの劇中曲を鳴らす360度うねりまくる音響設計が臨場感満点で気味悪いとか、とはいえ若干長尺で間延びした感は否めないとか、エンディングテーマの選曲が例によって超意地悪 *9だとか、いろいろあるけれど、なんにせよ本作は心底無気味で不可思議な作品だった。アリ・アスターは本当に世界を呪っているなあ。!ホッ( ゚д゚)ハッ!


     ※

*1:オリジナル・キャストのカメオ出演や、今回ボズレーの “ひとり” を演じたパトリック・スチュワートと歴代エンジェルたちとの記念スナップ──クレジットによれば、彼がピカード艦長を演じた『新スタートレック』(1987-1994)なんかから顔画像を引っ張ってきたらしい──も気が利いている。

*2:中盤の採掘場でのシーンで、ジェーンが傾斜のついた連絡橋の屋根の上を滑りながら敵を銃撃するショットなど素晴らしい。

*3:エレーナが「あんたは死んだことになっているのだから、ここ(隠れ家)でジッとおとなしくしてて」と言われるシーンは、完全にミスだろう。

*4:これすらも、おそらくはいままで執拗に強要されてきた「らしさ」からの脱却を目指しているのはないか。

*5:FOXニュースの偏向報道の是非はまた別の話。

*6:しかも、ファースト・ショットは棺桶から死者(に扮した人物)が飛び出して──甦って──くるというものだ。

*7:このゴッタ煮感というか即席感は、むしろ彼らのコミューンが最近形成されたのではないかとも思わせられ、ペレや村人の台詞の端々から「90年に1度」の夏至祭といったことが果たして本当なのかどうか疑わしくもある。

*8:自分たちに都合の悪いことに対する「言い訳」になると、途端に口数が増えるのが可笑しい。

*9:フランキー・ヴァレ版「太陽はもう輝かない The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)」(Bob Crewe, Bob Gaudio, 1965)。ダニーの心境を表しているようでもあり、冒頭に映されている(?)ようなホルガ村の日常をうたっているようでもある歌詞──そしてライムスター宇多丸がラジオで指摘したとおり、この曲が収録されたアルバムのカバー・アート──が、背筋を冷たく震わせるだろう。