【備忘録】2023年 鑑賞映画作品リスト+α


あけましておめでとうございます。


     〇


昨年の後半から、なんとはなしに元気が出ずにボンヤリしていたら、「あっ」という間もなく年が変わって2024年が始まってしまいました。光陰矢の如し。

     
     〇


というわけで、2023年に観た映画等の備忘録リストです。今年初見は135作品(短篇、TVMなど含む)とTVアニメ、ドラマシリーズなどをいくつかでした。 末尾に “◎” のあるものは劇場で観たものです。気まぐれに短い感想を書いた作品もありますので、よろしければ過去投稿記事をご参照いただければ幸いです。それでは皆様、本年もよろしくお願いいたします。


     ※


【2023年 鑑賞作品リスト】
神々の山嶺(パトリック・アンベール監督、2021)
『機械じかけの小児病棟』(ジャウマ・バラゲロ監督、2005)
『シティーコップ 余命30日?!のヒーロー』(タレク・ブダリ監督、2020)
『空の大怪獣ラドン〈4Kデジタルリマスター版〉』本多猪四郎監督、1956)◎
KIMI/サイバートラップ』スティーヴン・ソダーバーグ監督、2021)

『消えない』(コウイチ監督、2021)※短篇
『非常宣言』ハン・ジェリム監督、2022)◎
『セクシリア』(アレハンドロ、アルモドマル監督、1982)
スイング・ステート(ジョン・スチュワート監督、2020)
『マスターズ・オブ・ホラー』(アレハンドロ・ブルゲス、ジョー・ダンテ、ミック・ギャリス、北村龍平デヴィッド・スレイド監督、2018)


10


『恋人はアンバー』(デヴィッド・フレインカント監督、2020)◎
ルパン三世VSキャッツ・アイ静野孔文瀬下寛之監督、2023)
『ナンシー・ドリューと秘密の階段』(カット・シア監督、2019)
アルタード・ステーツ/未知への挑戦』ケン・ラッセル監督、1979)
『水怪 ウォーター・モンスター』(シアン・チウリアン、シアン・ホーション監督、2019)

『ディメンション』(エリック・デミューシー監督、2020)
『コールガール』アラン・J・パクラ監督、1971)
『バビロン』デイミアン・チャゼル監督、2022)◎
『パラドクス』(イサーク・エズバン監督、2014)
『ダークレイン』(イサーク・エズバン監督、2015)


20


『デーモンズ・ゲート 冥界への扉』(クリス・マル監督、2018)
『中華戦士』(デヴィッド・チャン監督、1987)
『ドラグネット 正義一直線』(トム・マンキーウィッツ監督、1987)
『フライングハイ』ジム・エイブラハムズデヴィッド・ザッカージェリー・ザッカー監督、1980)
『エンドロールのつづき』(パン・ナリン監督、2021)◎

『リメインズ 美しき勇者たち』千葉真一監督、1990)
カリートの道ブライアン・デ・パルマ監督、1993)
アントマン&ワスプ: クアントマニア』(ペイトン・リード監督、2023)◎
『アフリカン・カンフー・ナチス(セバスチャン・スタイン、サミュエル・K・ンカンサ監督、2020)
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』ダニエル・クワンダニエル・シャイナート監督、2022)◎


30


『フェイブルマンズ』スティーヴン・スピルバーグ監督、2022)◎
『エリック・ザ・バイキング/バルハラへの航海』テリー・ジョーンズ監督、1989)
『メランコリック』(田中征爾監督、2019)
『ルームメイト』(バーベット・シュローダー監督、1992)
『シン・仮面ライダー庵野秀明監督、2023)

長ぐつをはいたネコと9つの命』(ジョエル・クローフォード監督、2022)◎
ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』ジョージ・A・ロメロ監督、1973)
ダンジョンズ&ドラゴンズアウトローたちの誇り』(ジョナサン・ゴールドスタイン、ジョン・フランシス・デイリー監督、2023)◎
座頭市物語三隅研次監督、1962)
グリッドマン ユニバース』(雨宮哲監督、2023)◎


40


リオ・ブラボーハワード・ホークス監督、1959)
『追龍』バリー・ウォン、ジェイソン・クワン監督、2017)
『SP 国家情報局: Mr. ZOO』(キム・テユン監督、2019)
AIR/エアー』ベン・アフレック監督、2023)◎
ザ・ディープ・ハウス』ジュリアン・モーリーアレクサンドル・バスティロ監督、2021)

『DOOR III』黒沢清監督、1996)
マーベラスマーティン・キャンベル監督、2021)
『カラスの飼育』カルロス・サウラ監督、1975)
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: VOLUME3』ジェームズ・ガン監督、2023)◎
『ある用務員』(阪元裕吾監督、2021)


 50


『パリタクシー』(クリスチャン・カリオン監督、2022)◎
ワイルド・スピード/ファイヤー・ブースト』ルイ・レテリエ監督、2023)◎
『断絶』モンテ・ヘルマン監督、1971)
ジョーズ'87 復讐篇』(ジョセフ・サージェント監督、1987)※ソフト版
『きさらぎ駅』(永江二朗監督、2022)

『アッシャー家の惨劇』ロジャー・コーマン監督、1960)※4:3トリミング版
『ナイト・ハウス』(デヴィッド・ブルックナー監督、2020)
スパイダーマン: アクロス・ザ・スパイダーバース』ホアキンドス・サントス、ケンプ・パワーズジャスティン・K・トンプソン監督、2023)◎
『アンダーウォーター』(ウィリアム・ユーバンク監督、2020)
『ザ・フラッシュ』アンディ・ムスキエティ監督、2023)◎


60


インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』ジェームズ・マンゴールド監督、2023)◎
『最後まで行く』キム・ソンフン監督、2014)
『カラミティ』(レミ・シャイエ監督、2020)
君たちはどう生きるか宮崎駿監督、2023)◎
妖星ゴラス本多猪四郎監督、1962)

『ハロウィン KILLS』デヴィッド・ゴードン・グリーン監督、2021)
『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』(レミ・シャイエ監督、2015)
『ミッション: インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』クリストファー・マッカリー監督、2023)◎
エスター ファースト・キル』(ウィリアム・ブレント・ベル監督、2022)
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(アーロン・ホーバス、マイケル・イェレニック監督、2023)◎


70


トランスフォーマー/ビースト覚醒』(スティーヴン・ケイプル・ジュニア監督、2023)◎
『プリースト 悪魔を葬る者』(チャン・ジェヒョン監督、2015)
『シークレット・ジョブ』(ソン・ジェゴン監督、2020)
『イップ・マン 黎明』(リ・リーミン監督、2020)
クレオパトラ手塚治虫山本暎一監督、1970)

『ノースマン 導かれし復讐者』(ロバート・エガース監督、2022)
MEG ザ・モンスターズ2』ベン・ウィートリー監督、2023)◎
長ぐつをはいたネコ(クリス・ミラー監督、2011)
『ノットジラ』(ミッチ・ティームリー監督、2019)
犯罪都市 THE ROUNDUP』(イ・サンヨン監督、2022)


80


『カールじいさんのデート』(ボブ・ピーターソン監督、2023)※短篇
『マイ・エレメント』(ピーター・ソーン監督、2023)◎
ホーンテッドマンションジャスティン・シミエン監督、2023)◎
『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』こだま兼嗣総監督、竹内一義監督、2023)◎
禁じられた遊び中田秀夫監督、2023)◎

『泳ぐひと』フランク・ペリー監督、1968)
『名探偵ポアロ: ベネチアの亡霊』ケネス・ブラナー監督、2023)◎
岸辺露伴 ルーヴルへ行く』(渡辺一貴監督、2023)
『ファイブ・イージー・ピーセス』(ボブ・ラフェルソン監督、1970)
『マイ・ブロークン・マリコタナダユキ監督、2022)


90


『BELUSHI ベルーシ』(R・J・カトラー監督、2020)
ジョン・ウィック: コンセクエンス』チャド・スタエルスキ監督、2023)◎
閉ざされた森ジョン・マクティアナン監督、2003)
『女神の継承』(バンジョン・ピサンタナクーン監督、2021)
シックス・センスM・ナイト・シャマラン監督、1999)

『スモールワールド』(パトリック・ヴェガ監督、2021)
『パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女』(パク・デミン監督、2022)
『ザ・レイク』(リー・トーンカ監督、2022)
イコライザー THE FINAL』アントワーン・フークア監督、2023)◎
次元大介橋本一監督、2023)


100


『ダブル・インパクト』(シェルドン・レティック監督、1991)
『夢みるように眠りたい』林海象監督、1986)
『ザ・クリエイター/創造者』ギャレス・エドワーズ監督、2023)◎
『世界で一番美しい少年』(クリスティーナ・リンドストロム、クリスティアン・ペトリ監督、2021)
成龍拳』(ロー・ウェイ *1監督、1977)

海底軍艦本多猪四郎監督、1963)
エム・バタフライデイヴィッド・クローネンバーグ監督、1993)
東京流れ者鈴木清順監督、1966)
『地獄の警備員』黒沢清監督、1992)
ゴジラVSメガロ』(上西琢也監督、2023) ※短篇


110


ゴジラ-1.0』山崎貴監督、2023)◎
『フェス・ゴジラ4 オペレーション ジェットジャガー(中川和博監督、2023) ※短篇
『牛首村』清水崇監督、2022)
『WIND PRINCESS(原題)(クリス・テックス監督、2023) ※短篇
『カムバック!』(ジェームズ・グリフィス監督、2014)

殺人者の記憶法ウォン・シニョン監督、2017)
『ドミノ』ロバート・ロドリゲス監督、2023)◎
インシディアスジェームズ・ワン監督、2011)
『マーベルズ』(ニア・ダコスタ監督、2023)◎
『第七のヴェール』(コンプトン・ベネット監督、1945)


120


『search/#サーチ2』(ウィル・メリック、ニック・ジョンソン監督、2023)
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督、2023)◎
暴走機関車アンドレイ・コンチャロフスキー監督、1985)
夜ごとの美女ルネ・クレール監督、1952)
獣兵衛忍風帖川尻善昭監督、1993)

『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』ポール・キング監督、2023)◎
デルタ・フォースメナヘム・ゴーラン監督、1986)
『オペレーション・フォーチュン』ガイ・リッチー監督、2023)
『シャザム!〜神々の怒り〜』デヴィッド・F・サンドバーグ監督、2023)
『ザ・チャイルド』(ナルシソ・イバニエス・セラドール監督、1976)


130


『ヘル・ディセント』ニール・マーシャル監督、2022)
『65/シックスティ・ファイブ』(スコット・ベック、ブライアン・ウッズ監督、2023)
『ベイビーわるきゅーれ』(阪元裕吾監督、2022)
『ヴァチカンのエクソシスト(ジュリアス・エイヴァリー監督、2023)
『M3GAN/ミーガン』(ジェラード・ジョンストーン監督、2023)


     ※


【ドラマ】
『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』(大森時生演出、2021)※全3話
岸辺露伴は動かない[第1 - 3期]』(渡辺一貴演出、2020-2022)※第1期: 全3話/第2期: 全3話/第3期: 全2話
『ジャン=クロード・ヴァン・ジョンソン』(ピーター・アテンチオ監督、2016-2017)※全6話
『この動画は再生できません2』(谷口恒平監督、2023)※全4話
『祓除 事前番組』寺内康太郎演出、2023)

『祓除 事後番組』寺内康太郎演出、2023)


     ※


【舞 台】
『エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート』(土屋亮一演出、2015)


     ※


【TVアニメ】
『SSSS. DYNAZENON』(雨宮哲監督、2021)※全12話
『とむとじぇりー』(佐藤こーだい監督、2023)※WEB配信ショートアニメ、全6話
獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇』佐藤竜雄監督、2003)※全13話


     ※

*1:ラストバトル監督: ジャッキー・チェン(ノンクレジット)。

『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督、2023)感想と雑考(ネタバレ)

ゴジラ-1.0』山崎貴監督、2023)……太平洋戦争終結後、とある出来事のせいで心に深い傷を負ったまま復員して天涯孤独の身となった青年・敷島浩一は、あるとき闇市で出会った女性・大石典子と、彼女が連れていた戦災孤児の赤ん坊・明子の3人での共同生活を成り行きではじめることとなってしまう。ようやっと職を見つけ、少しずつ生活を取り戻しつつあった敷島の前に、黒く巨大で無気味な影が刻一刻と迫っているのだった……。

あの衝撃の『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)から7年──その間にハリウッド版「モンスター・ヴァース」シリーズや劇場用アニメーション『GODZILLA』3部作(静野孔文瀬下寛之監督、2017-2018)ならびにテレビ用アニメーション・シリーズ『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』(高橋敦史監督、2021)を挟みつつ──、国産実写作品としては通算30作目にあたる本作『ゴジラ-1.0』は、大迫力のVFXと「ゴジラ」としては新鮮/異質なアプローチの物語構造を持った、なんとも知れぬ──良くも悪くも──絶妙な感触の1作だった。


     〇


【本稿は一部ネタバレを含みます。とくに脚注、そして後半(警告後)にて核心部のネタバレに触れる箇所がありますのでご注意ください】


     〇


なんといっても本作で描出されたゴジラの迫力は凄まじい。ゴジラ海上を逃げる小型船舶に泳いで追いすがる恐ろしくもスリル満点な描写、銀座の街を容赦なく破壊するゴジラの足元を逃げ惑う人々の視点からグッと見上げるように映す巨大さ演出、そして重厚でドッシリとした画面とCGならではの立体的──もっといえばアトラクション的──な画面を巧みに繋ぎつつ展開される見せ場の数々は、ぜひとも劇場の大スクリーンで味わいたいスペクタクル性に満ちている。

人間たちへの明確な殺意を感じるゴジラの暴れっぷりもまた、本作の見せ場の迫力と恐怖にひと役買っている。本作のゴジラほど、足元を逃げ惑う人々を躊躇なく踏みつけ、あるいは瓦礫ともども蹴散らしてゆく様をまざまざと映した特撮/VFXシーンも珍しいのではないだろうか。これによって「あっ、いま人が目の前でむざむざ死んだな」と呆然とせざるを得ない寂寥感が醸されるのも、本作が描く都市破壊描写の特徴といえるだろう。


ところで、細かいところで個人的に嬉しかったのが、本作ではゴジラの足元を──ビルや家屋を蹴散らし踏み抜いた瓦礫もろとも──ちょっと俯瞰気味のカメラワークで上から映してくれるショットがいくつかあった点だ。もし実際にそこに居合わせたらという仰りショットによる迫力も大好きなのだけど、同時に永らくミニチュア特撮に親しんだ身としては怪獣の足がしっかりと地面と瓦礫を踏みしめているという実在感もまた、観ていて心躍るものがあるのだ *1

そして、これらの見せ場をきちんと実在感とリアルさをもって描き切ったVFXの水準も非常に高く素晴らしい。山崎貴監督は、ゴジラをデジタルで描くことの利点を「ディテールが無限に再現でき、いくらでも近くに寄っていける *2」ことだと応えているが、その言に偽りなく、じつに細かな質感まで描き込まれたゴジラの表皮やダメージの表現──熱戦を吐くことで自らも身体をそこかしこジクジクと焼いている表現は新鮮! ──はもちろん、本作では「海」における波や飛沫のリアルさにも注目したい。なかなかこうした自然の流動表現は難しいとよく聞くけれど、ゴジラや軍艦の動きと重量を受けて波打つ海水の質感をつぶさに描き切っていて見応え抜群だ(データ量すごそう……)。



また、音である。

まずもって本作いちばんの聴きどころは、なんといってもゴジラの咆哮だろう。音響効果担当の井上奈津子氏へのインタビュー記事 *3によれば、本作で使用されたゴジラの鳴き声は第1作『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)のものを音源とし、それを千葉県のZOZOマリンスタジアム(旧称: 千葉マリンスタジアム *4)が有する最大のスピーカーから流して「響き」を加味したものを録音し、それをSEとして使用しているという。なるほどモノラルであったオリジナル音源に、ある意味でアナログな手法で立体感を加味するという手法は劇中でも絶大な効果を上げており、たしかな存在感をゴジラに与えている。


つぎに音楽/劇伴もまた、聴きどころだ。これまで山崎貴とも何度もタッグを組んだ佐藤直紀が担当した本作のオリジナル楽曲は、重厚なフルオーケストラながら主旋律のないミニマルで環境音楽的な風合い──後期の坂本龍一的映画音楽とでもいおうか──が強いのが特徴だ *5。これまでも元祖の伊福部昭とは別の作曲者による劇伴は国内外問わず種々あったわけだけれど、基本的には皆それぞれに作曲した主旋律の「ゴジラのテーマ」を提供するのが常であった。対して、本作では佐藤直紀オリジナルの「ゴジラのテーマ」的主題は敢えて登場させず、基本的にはじっと抑え目のスコアに徹している。

これはおそらく、本作でも伊福部昭による楽曲を随所に使用するためであろう。これまでにも別にメインの作曲家がいて、合間合間で伊福部昭の楽曲を使用した例はあるけれど、その場合、過去作あるいはレコード用に録音されたものの流用であること──『シン・ゴジラ』における流用は、その最たる例だろう──が多かった。しかし今回は、佐藤直紀が本作用に再アレンジした伊福部楽曲が流されるため、彼のオリジナル楽曲と音世界の統一感を保っている。これによって、佐藤によるミニマルな楽曲のなかで伊福部昭のメロディがよりいっそう際立って聴こえ、「ああ、ゴジラを観ているんだな」という感慨にも似た多幸感に包まれることだろう *6


     〇


そして本作は、しっかり山崎貴監督作品でもあった。本作を形作る「SF」「昭和」「人情」「軍艦」「戦闘機」「VFX」……といった構成要素をざっと眺めてみても、いかに『ゴジラ-1.0』が彼にとっての集大成的作品であったかが窺える。


この集大成という意味では同時に、彼が映画監督を目指すきっかけとしてたびたび公言してやまないのが『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1977)と『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、1977)であるように、この先人ふたりに捧げられたオマージュが随所に──とくにゴジラまわりのシーンにて──見られるのも興味深い。

数々のゴジラの見せ場では、そこかしこにスピルバーグのタッチを感じさせるし *7、クライマックスで巨大なゴジラへ闘いを挑む敷島に『スター・ウォーズ』にて巨大宇宙要塞デス・スターに X-ウィングを駆って突入するルーク・スカイウォーカーの面影を見た観客もあったのではないだろうか。

たしかにこういったオマージュの多用は、場合によっては鼻白んでしまう要因ともなるけれど、こと本作に限ってはそれがゴジラの新鮮な見せ場として機能しているし、ゴジラでなくては出来ない表現まで昇華されているので非常に楽しめるものになっている。



同時に──同語反復的ではあるけれど──本作はやっぱり山崎貴監督作品であって、彼の作品ならではの難点も、相変わらず存在する。それは、これまでも往々にして指摘されてきた、感情や設定を過剰なまでに台詞で説明してくれる “わかりやすい” 演出だ。親切設計といってしまえばそれまでだけれど、こういうところの引き算を山崎貴監督はしないので、観ているスクリーンに余白が生まれず、かえって窮屈な嫌いがある。

もちろん、これは本作を観る前から予想はしていたことだ。しかし本作ではくわえて、その反復が目立つのには若干閉口した。同じ内容のやりとりに喧嘩、状況説明から人物設定への言及、そして絶望のスローモションなどなど、本作ではこういった本来なら1回あればよかろう場面が間を置いて──あるいは置かずして──繰り返される。そのくせゴジラの上陸や軍艦の出航、あるいはゴジラについて考証を進めるといった、あったほうがより観客が吞み込みやすいのではないかと思われる場面はバサバサ切っているので、繰り返し演出の鈍重さが余計に身に染みてツラい。


また、ゴジラが銀座を襲撃して以降のタイムスパンがいまいちわかりづらいのも難点だ。あれから何日後にコレがあってソレがあって、さらに何日たってアレがあったのか、もうすこし明確だったほうが、いつ次にゴジラがやって来るのかのタイムサスペンスが生まれて、よりクライマックスが盛り上がったように感じられる。この一連のシーンにおいて1日が終わったことを示すのが、酒場でくだを巻いている描写しかないのは、いささか問題だろう。

ことほど左様に、本作は見せ場以外のドラマパートにおいて残念ながらまどろっこしい部分が多い。特撮パートが素晴らしいだけに、観ているあいだのテンションの差が激しくて、悪い意味で少々くたびれてしまった。本作は娯楽作品なのだから、現状ないシーンを足さないまでも、もうすこし繰り返しを省いて物語の段取りを整理整頓 *8したなら、尺もソリッドになり *9、より引き締まった1作となったろうに、たいへんもったいないことだ。


     〇


【以下、核心部のネタバレがありますので、ご注意ください】


     〇


さて、本作で興味深いのが、登場する「ゴジラ」のキャラクター造形に対するアプローチが、これまでの作品群とはかなり異なる点だろう。どういうことか。

これまでゴジラは多くの場合、戦争や原水爆をはじめ、台風や地震といった大災害/大災厄のメタファーとして登場してきた。いうなれば、人類すべてに覆いかぶさる普遍的 ”恐怖” そのもの──あるいは、抑圧された集合的無意識(イド)のトラウマ──の現出にほかならない。それゆえ、ゴジラが現れたが最後、人間はゴジラが去る──戦火や災害が収まることを祈りつつ──のをただじっと待つほかないのである。このスタンスは、2014年からスタートした「モンスター・ヴァース」版でも踏襲されている。



それに対して本作のゴジラは、あきらかに敷島 “個人” の内面を象徴しているのが特徴だ。それは、彼が戦争中に抱えた心の傷である。

思い出そう。映画冒頭から明かされるように、敷島は命ぜられた「特攻」から生き延びるため、零戦の故障を偽って大戸島にある飛行場に逃げ帰ってしまった人物であり、その負い目が彼に心の傷として大きく刻まれることになってしまう。この彼の無意識下のトラウマが怪物として具現化したのが、本作におけるゴジラなのだ。だからこそ敷島が島に到着したその晩、彼の前にゴジラが現れ、そして彼の負い目を知る整備兵たちを殺戮するのだと捉えられる *10

それによって犠牲者を出したことへの自責の念が、さらに敷島の心的トラウマを増強させ、復員した彼の前に幾度となく──しかも、より強大になった──ゴジラを出現させる。敷島がすこしでも「生き永らえて」あろうことか「幸せ」になろうものなら、そんな彼を罰するようにゴジラは何度でも反復脅迫的に姿を現し、暴虐の限りを尽くすだろう。本作でゴジラが執拗に典子を襲うのも、彼女が敷島にとって「生きて幸せ」になることの象徴そのものだからだ *11

ことほど左様に本作のゴジラは、敷島の負い目や自責の念に端を発する無意識に抑圧された心的トラウマによる症候(PTSD)それ自体のメタファーだと捉えられるだろう *12。だからこそ敷島は、自身の抱えてしまったトラウマ記憶を克服するために、それが顕在化した存在であるゴジラへ主体的に──個人として──立ち向かわなければならず、そしてその方策が、彼のトラウマの原因となった「特攻」にまで遡って、かつその物語を軌道修正しなければならなかったのだ *13



もちろんこれまでにも、第1作『ゴジラ』の芹澤博士や『シン・ゴジラ』の矢口蘭堂を筆頭に、劇中でゴジラ──あるいは他の怪獣──と対をなすような登場人物はいた。たしかに彼らは、いわば “人間ゴジラ” としての側面を持っているが、それはゴジラが巨大な集合的無意識の塊であるがゆえに思わず共鳴してしまった人物たち *14と捉えるほうが正鵠を射ているだろう。彼らはゴジラさえ出現しなければ、その内に秘めた無意識的なルサンチマンや欲望に対峙することもなかったはずだ。彼らもゴジラと出逢いさえしなければ、暗い研究室の地下室/無能な現政権の下で──その是非はともかく──静かに人生を全うしたかもしれない。

いっぽう、前述のとおり本作のゴジラは、あくまで敷島の個人的なトラウマに端を発するイドの怪物であり、そういった意味で本作はより王道のエンタテインメント映画の作劇と構造によって成り立っているといえる。そのキーとなるのが、観客の主人公への感情移入による物語への没入感であるなら、これはたしかに正攻法である *15


事実、敷島という人物は、われわれ観客が共感しやすいキャラクターとして設計されている。もちろん現在において、敷島が抱える「特攻から逃げ帰った」という葛藤をそのまま持つ観客はほとんどいないだろうけれど、「死にたくない/生きたい」という願いは普遍的であるし、人間ならば大なり小なり「負い目」を持たない者はない。また彼のように、“誰もが普通にしていることが自分にはうまくできない” という生き辛さを感じている観客も──まだまだ同調圧力の強い社会風土である日本ならなおのこと──きっと少なくないはずだ。こうして本作を観た観客は敷島へと感情移入し、ゴジラに恐怖し、そして彼の葛藤と闘いを固唾を呑んで──まるで我がことのように──見守ることができるだろう。

このように、観客の感情移入を誘う主人公が抱く葛藤としてゴジラを置くという本作の王道的な物語構造によって描かれるゴジラ像はたしかに新鮮であるし、それが十全に機能しているからこそ、本作に対する好意的な──『シン・ゴジラ』とは違ったニュアンスでの──評価が広い層からもたらされているのではないだろうか *16。実際、僕だって本作の物語を大筋では楽しんだものである。



そして、これは「大衆娯楽映画」をいままで一貫して撮ってきた山崎貴監督のフィルモグラフィをみても、ゴジラという強大なフランチャイズを自らのフィールドに引き寄せるべく採られた彼なりの方策であっただろう。

ただ同時に──これ以降は “ないものねだり” といえばそれまでなのだけれど──それによって、本来あったはずのゴジラの「怪獣感」といったものは、だいぶ薄くなってしまった印象は否めない。どちらかというと本作は、怪獣映画というよりはモンスター映画に近づいてしまったところはあるだろう。

すなわち、本作がゴジラを敷島という “個人” が乗り越えるべき葛藤として設定したがために、真にゴジラを生み出してしまった戦争や原水爆という人類の大きな罪に想いを馳せづらくなってはいないだろうか。核に焼かれてしまったがために「怪獣」となってしまったゴジラに対する共感、あるいは共鳴する人物は──物語構造によっても──欠如してしまっている。ゴジラもまた、戦争と原水爆の被害者ではなかったか。そして、その戦争と原水爆を生み出したのは、誰あろうわれわれ人間ではなかったか。


もちろん、敷島もある種「特攻」という戦争の被害者であるが、彼が「生きたい」という至極まっとうな願いに従って「特攻しなかった」がためにゴジラが現れたようにも見える本作は、どこか本末転倒したモヤモヤした感情も残るのである *17

劇中の台詞にあるような「俺の戦争」「あなたの戦争」と強調される個人史観のみで歴史を捉えることの危うさを、われわれ観客も物語のカタルシスに呑まれる前にちょっと踏みとどまって念頭に置いておくべきではあるのではないだろうか。


     〇


──と、本作についてダラダラと書き連ねてきたけれど、なんにせよ国産「ゴジラ」の新作が映画館で観られるのは嬉しいし、ゴジラについていまいちど考える機会にもなってくれた。本作のゴジラ像に首をかしげざるを得ない部分は多いけれど、いろいろな解釈を作り手も観客も抱けるというのが、その魅力のひとつだろう。いずれにせよ、ゴジラのヴィジュアルと咆哮、そして破壊は映画館で浴びてこそ。ぜひとも劇場で鑑賞されたい。




     ※


【おまけ: 備忘録】
GODZILLA ゴジラギャレス・エドワーズ監督、2014)について……『GODZILLA ゴジラ』(2D字幕版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

シン・ゴジラ庵野秀明総監督、2016)について……『シン・ゴジラ』感想 - つらつら津々浦々(blog)

GODZILLA 星を喰う者静野孔文瀬下寛之監督、2018)とシリーズについて……2018 10-12月感想(短)まとめ - つらつら津々浦々(blog)

ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)について……『ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』感想(一部ネタバレ有り) - つらつら津々浦々(blog)

ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)について……『ゴジラvsコング』感想(ネタバレ) - つらつら津々浦々(blog)


     ※

*1:だからこそ放送当時──いま地面を踏み締めているという実在感を別ベクトルで明確に示してくれた──いわゆる「ガイア着地」に感動したっていうさ。

*2:映画『ゴジラ-1.0』山崎貴監督インタビュー──「初代ゴジラを観た人たちが感じた圧倒的な恐怖の再現を目指しました」 | GQ JAPAN、2023年11月13日参照。

*3:『ゴジラ-1.0』で初代ゴジラの鳴き声はZOZOマリンスタジアムで収録された|Real Sound|リアルサウンド 映画部、2023年11月13日参照。

*4:ゴジラVSメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)で破壊されてましたね。

*5:敷島が最後の闘いへと赴くシーンなどに使用された──オリジナル・サウンドトラック盤では Tr.12──「Resolution」なんかは、とくにスティーヴ・ライヒの楽曲を彷彿とさせる。

*6:また細かいことではあるが、いわゆる「ドシラ・ドシラ・ドシラソラシドシラ……」のメロディを「ゴジラ」の主題ではなく、第1作に則って「ゴジラに対抗する人間たち」の主題として満を持して流してくれるのも嬉しい。

*7:闇夜の大戸島に現れるゴジラは『ジュラシック・パーク』(1993)、洋上に横たわる大破した軍艦は『未知との遭遇』、敷島たちの乗った機雷除去用の特設掃海艇「新生丸」とゴジラとの攻防は『ジョーズ』(1975)、銀座に上陸したゴジラによって蹴散らされる瓦礫をうしろに逃げ惑う人々を映す感じは『宇宙戦争』(2005)、ラストで海に没してゆくゴジラは再び『ジョーズ』におけるサメを彷彿とさせる。

*8:後半、敷島が橘を呼び出すために採った行動は、あきらかに名誉棄損であって、そんなくだりを入れなくても、ふつうに再会からの殴打でよかったんじゃないかしら。余談ついでにもうひとつ、前半で出てきた日本語字幕スーパーは、1行当たりの文字数が多すぎて読みづらいったらないよ!

*9:100分くらいが、本作にはちょうどいいと思う。

*10:つけ加えるなら、ここで橘をゴジラが殺さなかったのは、敷島が自身の罪を自罰するための証人として必要だったからだと考えることができるだろう。そして前述したように本作のゴジラが明確に人間への殺意を表しているのは、復員した敷島が隣人の澄子から詰(なじ)られるように、いつなんどき他人様から罪を告発されるか知れぬ──だから殺しておこう──という無意識の発露だったのだろう。

*11:だからこそ、典子(だけ)は殺せないという葛藤が、彼女を何としても生かそうともするだろう。

*12:敷島が昏倒ないし正気を失ったのと同時にゴジラが姿を消すこと、また彼がゴジラの悪夢を見るのも象徴的だ。もちろん、フロイトの言に従うなら、悪夢もまた「睡眠を維持するため」の願望充足の一形式であることを念頭に置かねばなるまい。この悪夢で敷島はたしかに死んでいて欲しい人物を殺し、残存してほしい自罰願望を思い起こすだろう。その均衡が崩れるからこそ、彼は目覚めてしまうのだ。

*13:よくあるフロイトの局所論の図解を本作の「海」に当てはめるなら、海上=意識/海面下~海底=無意識ということになるだろう。とすれば、ゴジラが海底からやって来ること、あるいは「海神作戦」においてゴジラを海底に沈める(=無意識下に抑圧する)だけでは効果がなかったのも頷けるであろう。

*14:そして、われわれ観客もゴジラに共鳴するだろう。

*15:クリスチャン・メッツ『映画と精神分析―想像的シニフィアン鹿島茂訳、白水社、1981年、88-118頁を参照。

*16:劇場用アニメーション『GODZILLA』3部作でも同様の構造がみられるが、あまりうまく機能していない。

*17:劇中、野田や秋津の台詞をとおして旧日本帝國の──正直、現状の日本政府に通ずる部分も多い──愚策へのまっとうな批判をしているだけに、余計に気になった……。

2023 ひとこと超短評集【Part 3】

今年になって劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集【Part 3】です。備忘録、備忘録。


     ※


◆自我を持ち暴走を始めた最新軍事AI ”エンティティ” を巡って、イーサン・ハントたちの戦いが始まる 『ミッション: インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』クリストファー・マッカリー監督、2023)は、驚天動地の生身アクションが「これでもか、これでもか」とつるべ落としに展開される一大巨編だった。予告編でさんざんフィーチャーされた、バイクにまたがって絶壁の崖から飛び降りるアクションなど──撮影順からいっても──序の口も序の口。パリ市街でのフィアット500を駆ったコミカルなカーチェイス、疾走する列車の内外で展開される格闘戦、そして相変わらずよく走るトム・クルーズなどなど、どれもこれもよく練られた素晴らしいアクションの連続。なんとなれば、そのあまりの高カロリーさに、中盤で観ながら数秒気を失ったほどだ。

もし本作をご覧になったのなら、ぜひYoutube にアップロードされている公式メイキング動画も合わせて観てみたい。映画全篇で繰り広げられる多彩なアクションをいかにして撮ったのか、その驚愕狂気の現場を垣間見られることだろう。


     〇


◆配管工事のさなか、別次元に存在する「キノコ王国」に迷い込んだマリオとルイージの活躍を描く『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(アーロン・ホーバス、マイケル・イェレニック監督、2023)は、3DCGアニメーションだからこそ成し得た見事なゲーム「マリオ」の映画化作品だった。いわゆる横スクロールアクションゲームの2Dプレイ画面をいかに立体的な世界に落とし込んでみせるか、そしてそれを観客に違和感なくリアルなゲームプレイ感覚を想起させるか、さらにそれを──ゲームの進化と同様に──3D世界にふたたび戻してゆくのか……といったゲームを映画化する際に避けては通れない──そして難しい──要素に真正面から立ち向かい、そして見事に映画へと昇華させた作り手たちの技量と努力がスクリーンに焼き付いている。

イルミネーション・スタジオお得意の抱腹絶倒ギャグの乱れ撃ちも楽しく、同時にマリオが救うべき相手がルイージであり、メンターがピーチ姫であるという本作独自のキャラクター配置のアレンジがとても今日的な価値観に刷新されている点も、じつは気配りが効いていて印象深い。そして、ドラマがクライマックスに突入して最大の盛り上がりを見せるかな、ふいに『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督、1995-1996)へのオマージュが蹴り出されたときには「なにやってんだよ」とひっくり返りました *1。そんなこんなで本作は、ゲームの映画化作品として、ひとつの試金石となるだろう。最高。


     〇


貧困層の青年ノアが、ひょんな拍子に古代の遺物を巡るオートボットたちの闘いに巻き込まれるトランスフォーマー/ビースト覚醒』(スティーヴン・ケイプル・ジュニア監督、2023)は、舞台となる1990年代当時の映画ではあり得なかったであろうキャスティングと、そこかしこで流れるヒップホップ・ミュージックの取り上げ方に、なるほど今日(こんにち)でしか成し得なかった映画化作品として存在感を放っているし、出来得る限り原作アニメの日本放送版『ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー』の雰囲気に近づけた日本語吹替え版の完成度も嬉しい*2

もちろん、いくらなんでも仕掛けが雑すぎるとか、なんでそんなところにピンポイントでスイッチがあるのか、などなどツッコミどころも多いといえば多い本作だが、アクション的な白眉は、中盤に展開されるペルーの禿山にウネウネと敷かれた山道でのカー/トランスフォーマーチェイスのシーンだろう。文字どおり縦横無尽、こちらに向かって走る車両の奥で山をくんずほぐれつ転がり落ちるオートボットたちの戦闘を1ショットに収めるなど、立体的でケレンの効いたアクションを楽しめるだろう。主人公をふたりにしたことで、ドラマ部分が若干弱くなった気もするけれど、新しくも肩ひじ張らない湯加減のエンタメ作品として、ちょうどよい1作だ。


     〇


◆上海沖200キロにある最新の海洋研究施設を古代より生き残ったメガロドンたちが襲うMEG ザ・モンスターズ2』ベン・ウィートリー監督、2023)は、前作が “世界イチ信頼のおけるハゲ” ジェイソン・ステイサムと “世界イチの超巨大ザメ” メガロドンとが並び立つ画でもはや100点満点の作品だったのが、本作ではサメの数からクリーチャーの種類から “ズ” とあるだけあって倍々ゲームで10,000点、といった風味の1作だった。

本作で次々に繰り出される荒唐無稽──といえば聞こえはいい──な展開と設定の数々への説得力を、すべてステイサムの存在感ひとつで支えているという、映画以上にスリリングなバランスで成り立っているのが、1周回って凄まじい。直前のシーンで超絶深海の水圧のためにひとり死んでいるのに、同じ場所で「鼻抜きすれば大丈夫」とフンスと素潜りをかましてしまうステイサムの姿は、本作の白眉だろう。どんなに「そんなバカな」と思っても「だってステイサムだもの」でなんとなく納得してしまう、この不思議な気持ちはなんなのでしょうね。スターとは、こういうことなのかもしれませんね。


     ※

*1:どうみても「瞬間、心、重ねて」ですよね。

*2:日本版の監督を務めた岩浪美和が、実写化シリーズには初めて吹替え版演出として登板している。

2023 ひとこと超短評集【Part 2】

今年になって劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集【Part 2】です。備忘録、備忘録。


     ※


◆世界初のファンタジーテーブルトークRPGを改めて映画化したダンジョンズ&ドラゴンズアウトローたちの誇り』(ジョナサン・ゴールドスタイン、ジョン・フランシス・デイリー監督、2023)は、おそらく画面外で本当にロールプレイをしている人物たちがいるのだろうなと思わせる、キャラクターのきっちりとした役割分担感が面白いし、アクションもギャグも特撮もよい按配で画面を盛り上げる。

贅沢をいえば、もうすこしドラゴン要素があれば──以前の映画化『ダンジョン&ドラゴン』(コートニー・ソロモン監督、2000)のクライマックスまでとはいわないけれど──怪獣好きとしては嬉しかった。それにしても、ここのところヒュー・グラントは本当にこういう飄々とした悪役が板についてきましたね。


     〇


◆原因不明の多次元宇宙交錯現象によって、町に怪獣がふたたび現れるグリッドマン ユニバース』(雨宮哲監督、2023)は、本作に連なるテレビ・シリーズ『SSSS.GRIDMAN』(同監督、2018)と『SSSS.DYNAZENON』(同監督、2021)の物語内で積み残された、あるいは果たしてこれでよかったのかという疑問点などに作り手が自らきちんと落とし前をつけようと模索された、誠実な続篇/劇場版だった。

本シリーズの世界観設定を活かした、次元の交錯するストーリー構成は──尺的に物足りなさはあるけれど──興味深かったし、グリッドマンと怪獣の特撮とロボット・アニメを合体させた大立ち回りは迫力満点だ。ただ、クライマックスの戦闘シーンでの主題歌3連発は、定番の演出とはいえ、ちょいとカロリーが高すぎて息切れした。


     〇


1984年、ナイキのバスケットシューズエア・ジョーダン」誕生に導いたソニー・バッカロたちの奮闘を描くAIR/エアー』ベン・アフレック監督、2023)は、いかに競合する他社を押しのけてマイケル・ジョーダンと彼の母にライセンス契約を結ばせるのか、という会話劇の積み重ねがたいへん楽しめる1作だ。姿は丸くなったが相変わらずのトークを放つクリス・タッカーをはじめ、キャスティングの妙も冴える。また、全篇に渡るちょっと青味かかった色彩設定が、まさしく ’80年代映画の──テレビやVHSでくさるほど観た──タッチで、作中の時代感ともピッタリだ。

惜しむらくは、じつは映画では描かれなかった、ソニー・バッカロの「その後」をキャプション分での大オチに持ってくれば、よりトンがった伝記映画となったのではなかろうか。


     〇


◆瀕死のロケットを救うため、クィルたちガーディアンズが立ち上がるガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: VOLUME3』ジェームズ・ガン監督、2023)は、製作過程で紆余曲折あった本シリーズにおいて、きちんと大団円を果たしてくれた1作だった。じつは本シリーズにおける真のヒーローは誰だったのかが詳らかにされる展開や、終盤にある1カット長回しふうアクションのケレンと迫力、キャラクター同士の相関が垣間見られるちょっとした演出の機微など素晴らしく、本作ほどラストでの「打ち上げ」シーンでスクリーンのなかのキャラクターたちと一緒に踊りたくなる映画もなかなかないだろう。ありがとう、ガーディアンズ!


     〇


◆ドミニクたち「ファミリー」の前に、最強の敵ダンテ・レイエスが現れるワイルド・スピード/ファイヤー・ブースト』ルイ・レテリエ監督、2023)は、相変わらずドッタンバッタン大騒ぎなカー・アクション大喜利が全篇に渡って繰り広げられる楽しい1作だ。もはや近作のお家芸ともなったサクサク後乗せ設定も山盛りとなり、メイン・キャラクターの生死に一切の緊張感が伴わないのは御愛嬌として、本作と次回作(以降)のヴィランとして登場したダンテ・レイエスは、ジェイソン・モモアの快演も相まって、なんとも知れぬサイコパスな存在感を放っていて素晴らしい。

次回作の布石として二重三重に敷かれる「なんとアイツが⁉」には驚愕し大笑いしつつも、「じゃあ、オイラが流した涙はなんだったのか」となる一幕もあったのでした。とにかく、もう1作延ばすとか言ってないで、さっさと作って終わろう!


     〇


◆死別した母を救おうと、バリーが過去で歴史を改変をしたために世界がズレはじめる『ザ・フラッシュ』アンディ・ムスキエティ監督、2023)は、戦闘シーンでの超スローモションや、いままで観たこともないような曼陀羅もかくやのヴィジュアルが圧巻なタイムトラベル・シーンなど、映像的に見応えのあるシーンが満載の1作だ。主人公バリー・アレンの2ヴァージョンをひとり二役で演じたエズラ・ミラーの別人なのだけどギリギリ別人じゃない感を自然に醸した演技も──製作中にいろいろヤラカシをしていて若干モヤモヤするけれど──素晴らしい。そして、なかでも本作でスーパー・ガールに大抜擢されたサッシャ・カジェの、新鮮ながら1発で観客を納得させる見事な存在感は本作の白眉だろう。ぜひ彼女主演で『スーパーガール』をシリーズ化してほしい。

それにしても、本作のムスキエティといい、これまでのDCは本当にホラー映画出身監督の使い方が巧かったわけだけれど、今後のジャームズ・ガン新体制でどう変化してゆくのだろうか。


     ※
  

『君たちはどう生きるか』(宮﨑駿監督、2023)についての雑想あるいは妄想ノート(ネタバレ)

◆ポスター・ヴィジュアルを除くいっさいの宣伝を排したことが話題となった宮﨑駿 *1監督最新作君たちはどう生きるか(2023)は、なるほど完璧に予備知識なしで映画を観ることの新鮮さと、彼の作品ならではの絵の美しさと動きの快楽、そしてこれまで以上に「なにを見せられているのか」とあっけに取られるような感覚に呑まれるような非常に不思議な──もっといえばヘンテコな──映画体験を得られる1作だった。それでも鑑賞後あれこれ考えてみるとなるほどストンとタイトルが腑に落ちる、そんな1作でもあった。

では、本作をとおして宮﨑駿がなにをどのように語ろうとしていたのかを、鑑賞後の薄ぼんやりとした意識のなか、以下で忘備録的に考察──もとい、とりとめもなく雑想/妄想してゆきたい。


     ○


【以下、本編のネタバレ有りにつきご注意!】


     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・


     ○


本作は、宮﨑駿が幼少期に読んだ山本有三吉野源三郎による小説『君たちはどう生きるか』(1937)に感銘を受けたことで創り上げられ、タイトルにも引用されたという。事前にアナウンスがあったとおり、この小説が決して本作の原作というわけではなく、物語や設定としても直接的な引用はない。では、本作──すなわち宮﨑駿版──の物語を簡単に思い出してみよう。

太平洋戦争のさなか、病院の火災によって母を亡くした少年・眞人(まひと)。その後、父と共に母方の実家である屋敷に疎開した眞人だったが、地元の子どもたちにも馴染めず、父や後妻となった身重の夏子に対しても亡母への想いから複雑な葛藤を抱いてしまう。ある日、眞人は「母君に逢わせよう」と誘う不思議なアオサギを追って、敷地内の森のなかに佇む古ぼけた別館を発見する。聞けば夏子の大叔父が建設させたもので、その大叔父もあるとき別館のなかから煙のように姿をくらましたのだという。ところが、こんどはそう話してくれた夏子が行方知れずになってしまう。どうやら森の奥へと向かったらしい夏子を追う眞人は、別館から通じる異世界へと迷い込む。果たして眞人は、──アオサギや、その世界の住人らしい少女ヒミらの助けを得つつ──夏子を連れて現実世界に戻ってこられるのだろうか──? *2

というのが、本作のおおまかな流れである。


本作を観てみると、なるほど宮﨑駿監督の集大成的な冒険譚として楽しめる1作であることはたしかだろう。日本の原風景的な田舎、不可思議な洋館、森、ボリューム感のある水滴描写、そして3次元的に拡がる世界観とアクション、マスコット的なキャラクター、飛行機への愛……と、宮﨑駿の好きなもの──あるいはアイコン──が全篇に散りばめられ、久石譲の劇伴も観客をスムースにスクリーンのなかへと誘ってくれるだろう。庵野秀明今敏の作品で手腕を振るったアニメーター本田雄作画監督に据えたことで、いっそうシャープでリアリスティックになった描線も気持ちいい。


     〇


同時に、本作は奇妙といえば奇妙な語り口の物語でもあった。『千と千尋の神隠し』(2001)あたりから徐々に指摘されてきたように、本作でも──いわゆるエンタメ作品には美しいとされる──3幕構成的な物語構造にはなっておらず、むしろ散文調、もっといえばエッセイ集のような構成でエピソードが綴られてゆく。きっと展開と上映時間との割り振りをみると、なかなかお目にかかれない構成になっていることに驚かれる観客もおられるだろう。

しかし、本作が決して意味の分からない作品であるわけではない。全篇を観終わったときには、眞人の辿る基本的な物語はスッと呑み込めるのではないだろうか。現実世界から異世界への冒険旅行の果てに、眞人が1歩成長を遂げるというシンプルなストーリー・ラインであり、彼の姿を見て観客にどう思ったかを考えてごらんなさい、というわけだ。


そこで以下では、敢えて本作にふたつの補助線を引いてみたい。そうすれば、よりいっそう本作で宮﨑駿が語ろうとしたことが明確になるように思えるからだ。では、ふたつの補助線とはなにか?

それは詩人ダンテ(1265-1321)と哲学者ニーチェ(1844-1900)だ。


     〇


眞人がアオサギやヒミに導かれるように異世界を巡るという物語の構造は、おそらくダンテの詩篇神曲』がベースとなっている。ダンテが、あるとき迷い込んだ暗い森のなかで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、あの世──地獄から煉獄、そして天国へ──の階層を遍歴する。その旅路のなかですこしずつ罪が浄化されたダンテは、煉獄山の頂で若きころ恋した永遠の淑女ベアトリーチェと再会し、彼女の導きで天界へと昇天する……というのが、非常に大雑把な『神曲』のあらましだ *3 *4

宮﨑駿が『神曲』のイメージを援用するのは、本作がはじめてではない。たとえば前作『風立ちぬ』(2013)にラストで描かれた煉獄の情景や、二郎をそこから引き上げにやってくる菜穂子の姿はベアトリーチェのメタファーだ *5

本作で眞人が、大叔父が建てたという森の中に佇む屋敷の別館から迷い込む異世界の描写も、そこかしこに強烈な死のイメージが漂っている。どうやら1個の島であるらしいその世界のイメージ──墓石、船、林立する糸杉 *6など──は、ベックリンによる一連の絵画シリーズ『死の島』を彷彿とさせるし、海の向こうに帆船が列を成している情景は『紅の豚』(1993)に登場した飛行機乗りの墓場にも通じる描写だし、宮﨑駿ふうの「すみっコぐらし」もかくやに可愛いワラワラ *7たちは水子のようにも見える。そして、宮﨑駿がイメージするあの世の世界で眞人の案内役となるアオサギやヒミは、ウェルギリウスベアトリーチェの役割を担うだろう。


しかし、本作で宮﨑駿が『風立ちぬ』への自己回答としてか、『神曲』を越境する部分もある。

それは眞人の選択に現れている。じつはこの異世界の創造主であった大叔父から「(この世界を維持するためにこちらに留まって)あとを継いでほしい」という依頼に対して、眞人は映画前半であった喧嘩の腹いせに自ら頭を石で殴ってできた傷を見せて「罪のある自分にはそぐわない」と自身の罪と悪を認め、現実世界への戻ることを選択する。ダンテが、遍歴の果てに罪が清められて天界へと昇る『神曲』とは真逆の展開だ。

では、なぜ眞人は、ダンテや二朗とは異なる選択を最後にしたのだろうか。


     〇


それを紐解く要素が、もうひとつのイメージとして劇中に登場する。映画前半に登場する大叔父の肖像写真を思い出そう。その姿と彼の生い立ちは、どこかニーチェを彷彿とさせないだろうか。ダンテの『神曲』が、ことごとくキリスト教的世界観に則っているのに対し、そんなキリスト教的西洋の価値観に真っ向から異議を唱えたのがニーチェであった。そんな彼の思想が、本作のそこかしこで漂っている。

勉学に秀でながら、やがて別館にひきこもって、そのじつ別の世界を創っていた大叔父が、ニーチェの似姿だったとしたら、どうだろう。大叔父が自身の考える穢れのない天国のような世界を創り上げようとする姿は、現実世界の常識や意義について本当に正しいのかと自ら考えに考え抜いたうえで否をとなえて絶望するニヒリズムの果てに、「超人」となって自分自身が理想と考える正しさに則って人生を生きるよう諭すニーチェの思想に共鳴するだろう *8

この超人思想を恐ろしく簡単にいうなら、キリスト教の教えなんて「神は死んだ」今日日(きょうび)アテにならないんだから、“みんな” がいうような常識にばかり囚われず、きちんと自分の頭で物事の善し悪しを考えて実践しなさいよ、ということである。そして、ニーチェのいう超人のように、眞人はその時々で自ら考え、判断し、行動に移す少年として描かれている *9。また大叔父は、おそらく自身のニヒリズムにある種とりつかれてしまったのだろう。


そして本作でもうひとつ重要なのが、「永劫回帰」の思想だ。これもまた恐ろしくかいつまんで誤謬も含みながら説明するなら、もしも自分の人生におけるすべての出来事──成功も失敗も幸福も悲劇も──が永遠に繰り返されるとしても、そしてその人生がよしんば無意味なもの *10だったとしても、これを選んで肯定する、というような考えだ。これについても、CHAGE and ASKA のミュージック・ビデオとして監督した短篇『On Your Mark』(1995)におけるループ構造について、宮﨑駿自身が絵コンテで「永劫回帰」と書き表していることから、彼にとって既知のものだったはずだ。

クライマックスにて、じつは自身の母であったことが明かされるヒミと眞人のやりとりを思い出そう。眞人は、ヒミに彼女がやがて火に焼かれて死ぬ運命にあることを告げ、「お母さんは生きていなければいけない」と、彼女がもといた過去の現実世界に帰らないよう懇願する。しかしヒミは、自身の運命を知ってなお、彼女の現実に戻ることを自ら嬉々として選び取る。

永劫回帰の思想を敢えて逆に言い換えれば、もしも自分が寸分たがわぬ人生を永久に繰り返すとしても後悔しないように、よくよく物事を自分で考えて行動し日々を生きよ、ということになるだろう。自らの苦渋に満ちた死に際を知ってなお「あなたみたいな子を産めるなら」と嬉々として自身の現実へと戻る母の選択と姿に、眞人はそれを感じ取ったのではなかったか。これまで彼がしてきたことは、もう1度まったく同じ人生を「これが生だったのか。 よし。 もう一度」と自ら進んで歩めるためだったのだと。そしてじつはヒミもまた、先立つ眞人の選択によって永劫回帰を選んでいるのである。


     〇


ところで、このニーチェ的なスタンスは、小説『君たちはどう生きるか』のエッセンスに共鳴する部分もあるのではないだろうか *11

本書が初出版された1937年当時、世論は軍国主義に傾き、言論統制が進む時代にあった。事実、本書もその影響で後に発禁となっているし、ニーチェの著作もまた死後に改竄されてナチズムに利用されるという憂き目にあっている。そんななかで、子どもたちにいかに世界を見て物事と向き合い、現在までの常識に呑まれて反知性化するのではなく、自分で考えて生きてゆくことの大切さをコペル君が辿る物語をとおして託そうと著されたのが、小説『君たちはどう生きるか』だった。そんな著作を読んで涙を流す眞人は、前述のように、自ら考え、その意思で主体的に責任をもって行動できる少年として描かれる。宮﨑駿は、われわれ観客に、そしてこれから未来を築く子どもたちに、そうなって欲しかったのではなかったか。

ふたつの『君たちはどう生きるか』の物語と、それらに登場するふたりの少年が、われわれに伝えようとすることは、いまもって有用だろう。国内外問わず、きな臭い情勢が続いたり、閉塞感や停滞感の増す社会情勢に空気が淀む現在日本においては、きっとなおのことだ。為政者にとってもっとも都合がよい存在とは、考えることやめた衆愚なのだから。


     〇


以上、本作『君たちはどう生きるか』をダンテとニーチェの著作や思想を補助線に深堀りを試みた。もちろん、まだ本作を1回しか観ていない身なので取りこぼしがあったり、思い違いもあることだろう。実際、本作に登場するものたちに仕込まれたメタファーは重層的なものであり、すべてが1対1で対応するものではないので、上記までのことはその一側面でしかない *12。そしてもちろん、僕の指摘が大いなる誤読であり、なにもわかっていない可能性だってある。はじめにおことわりしたように、本稿は雑想あるいは妄想である。

しかし少なくとも本作は、このような雑想/妄想を掻き立てるだけの力が満ち満ちた作品であることは、間違いないのではないだろうか。冒険の果てに眞人たちが帰還した現実世界で映されるように、美しくもクソにまみれたこの世界で「どう生きるか」と、われわれもいま一度考えてみる必要がきっとあるのだろう。


     ※

*1:本作から、これまでの「宮崎駿」表記から、「崎」が「﨑」表記となっている

*2:本作の物語は、どこか『パンズ・ラビリンス』(ギレルモ・デル・トロ監督、2006)を思い起こさせる。デルトロは、この作品のインスピレーション源のひとつとして『となりのトトロ』(1988)を挙げている。

*3:「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とは地獄の門に打たれた銘文だが、本作『君たちは~』にもオマージュが登場している。

*4:ほかに『神曲』をベースとした映画を挙げるなら、たとえば『奇蹟の輝き』(ヴィンセント・ウォード監督、1998)や『追憶の森』(ガス・ヴァン・サント監督、2015)などがあるだろう。

*5:菜穂子の「生きて」という台詞は、絵コンテ段階だと「来て」だったのだから、より直接的だ。

*6:ここに松が加わっていたりして、和洋折衷なのが面白い。

*7:敢えて漢字をあてるなら、おそらく「童童」だろう。

*8:ヒミがパイロキネシス(発火念力)の力を持っているのは、やはり「ツァラトゥストラゾロアスター)」の末裔だからだろうか。

*9:ニーチェの超人は「幼子」として表される。これはすなわち、子どもは過去のことをすぐさま忘れて新しいものを取り込むことができるからだ。ニーチェの思想に倣った『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)で、ボーマン船長が幼子=スター・チャイルドとして地球に帰還するのは、そのイメージの援用だ。

*10:もちろんこれは、人生で善いことを重ねて意味のあるものにすればこそ天国に行ける、というキリスト教的な人生観──そのほかの宗教にも言えることだが──へのアンチテーゼである。

*11:もちろんニーチェの思想はある意味では究極の個人至上主義なので、それは相容れないところではあるだろう。

*12:たとえば、それぞれのキャラクターが宮﨑駿本人や、高畑勲鈴木敏夫といった彼の実人生で関係のあった人たちのメタファーにも取れるだろうし、大叔父の行為はそのまま映画づくりとして見ることも可能だろう。また、本作の底本のもう1作品として、すでに多く指摘のあるとおり、ジョン・コナリー『失われたものたちの本』(2006)の構造的類似もある。

『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』感想

1969年、かつて第二次大戦中にナチスから奪還した「アンティキティラのダイヤル」を巡って、年老いたインディが最後の冒険に出るインディ・ジョーンズと運命のダイヤル』ジェームズ・マンゴールド監督、2023)は、なるほどこういうアプローチで来たかという驚きと趣深さに溢れた1作だった。


     〇


本作は、これまでスティーヴン・スピルバーグジョージ・ルーカスのタッグによって製作された、皆さんご存じ「インディ・ジョーンズ」シリーズの第5作にして最終作だ。

大学で考古学を教えるインディが謎に包まれた古代の秘宝を巡り、世界を股にかけて追いつ追われつの捕り物合戦を演じる冒険活劇映画シリーズが世に放たれたのは、1981年。すでにヒットメイカーとしてトップランナーになっていたスピルバーグとルーカスが「自分たち流の『007/ジェームズ・ボンド』映画を作ろう」というコンセプトのもと、彼らが大好きだった1930年代の連続活劇短篇映画やパルプ雑誌ノベルの面白さに、1950年代にハンフリー・ボガードチャールトン・ヘストンが演じた冒険家の意匠をまぶし、ジョン・フォードをはじめとする西部劇に活劇、とにかくふたりの持てる映画的知識と技術をふんだん盛り込んだ現代の娯楽大作として『レイダース/失われたアーク 《聖櫃》』が誕生した *1

スピルバーグの映画演出の確かな手腕、見事なキャスティングとしか言いようのないハリソン・フォードの出で立ちと演技、古代遺物の奇想を見事に表現した迫力のSFX、ジョン・ウィリアムズの手による誰もが1度は耳にしたテーマ曲なども相まって、その後も『魔宮の伝説』(1984)、『最後の聖戦』(1989)、『クリスタルスカルの王国』(2008)と回を重ね──またテレビドラマ『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』シリーズ(1992-1993)やノベル・シリーズなどもありつつ──、この42年ものあいだ映画史に燦然とその名を刻み続けてきた一大フランチャイズである。


     〇


さて、本作『運命のダイヤル』を観てまず驚くのが、これまでのシリーズ4作品とまったく手触りが異なる作品になっていることだ。それもそのはず、これまで製作総指揮を務めたルーカス、そしてすべての作品でメガホンをとってきたスピルバーグが、それぞれの務めを本作では降板しているからだ。そして、スピルバーグの「フレッシュな視点獲得のために後人に託したい」という希望を受けて、今回監督に起用されたのが、ジェームズ・マンゴールドである。

マンゴールド監督といえば、1990年代から職人気質的に映画を演出してきた作家だ。スタローンの『コップランド』(1997)やウィノナ・ライダーアンジェリーナ・ジョリーの『17歳のカルテ』(1999)をはじめ、おそらく今回の起用の直接的な理由のひとつでもあろう、年老いたヒーローが迎える人生の黄昏を描いた大傑作『LOGAN/ローガン』(2017)や、近作『フォードvsフェラーリ』(2019)などを観てもわかるように、どっしりと腰を据えた硬派で丁寧な演出を用いる作風の持ち主である。したがって、スピルバーグの──とくにエンタメ作品における映画的快感原則重視の──演出とは、だいぶ系統が異なる監督であり、その違いが本作『運命のダイヤル』にも明確に表れているのは確かだろう。



本作を過去4作と比較するなら、これまでのスピルバーグ監督作にあった物語展開やアクションのダイナミズムやテンポの良さ、そしてケレンに溢れた味わいは、かなり鳴りを潜めている。強いて挙げるなら本作のアバン、1944年ドイツ領内で繰り広げられる城から列車への脱出/攻防戦の部分に、そのスピルバーグ風味を残しているくらいだろうか。

そして、その一幕を経ての、1969年現在から始まる本筋以降は一気にマンゴールド監督の映画となってゆく。過去作では基本的にインディに付きっきりだったカメラは別キャラクターや敵キャラクターの描写にも馳せ参じ、驚くべきことに過去の回想(フラッシュバック)まで登場して、しっかりと丁寧に──語弊を恐れずいうなら文学的に──人物や物語を掘り下げてゆく。アクション・シーンや編集のテンポ感もどこかゆったりとしていて、トントン拍子に映画が進行していた過去作とは決定的に違う。なんというか、どこか “ままならなさ” を感じてしまうのだ。

こんな本作を観ながら多くの観客が場面の端々で「スピルバーグなら、きっとバッサリ切ってるよね」とか「もっと効率よく(あるいは露悪的に)繋ぐよね」などの所感を持つに違いない。もしもスピルバーグが本作を撮っていたら……という、この「いつもとは違う」インディ映画をどう受け取るかで、観客それぞれが抱く本作の評価は大きく分かれるだろうことは想像に難くない。


    〇


しかし、この「いつもと違う」感触こそが、本作に登場する「インディ・ジョーンズ」その人を描くうえで必要不可欠なものであり、監督にマンゴールドを起用した意義であろう。というのも、本作に登場するインディは、これまでの彼とは決定的に違うからだ。

隣人が大音量で流すLPの音に叩き起こされる70歳の老人インディの姿に、かつての快活さはない。教壇に立てばイケイケで学生からもモテモテだったかつての教育者としての姿も失われて久しく、学生たちはインディの講義をつまらなそうに聞き流し、本人もなげやりに教科書を解説するばかりである。知人友人親類たちはすでに多く──あるいは目の前で──亡くなり、孤独が募る日々は無為に酒浸りに過ぎてゆく。いざ冒険に出れば、思うように身体は動かず、敵にはあっさり出し抜かれて拘束され、「腰が痛い」とボヤく始末。

ことほど左様に、本作のインディはとにかく “不自由” なのだ。なにをやっても、若かったころのようにうまくいかない。そうする元気も機智もない。本作でむしろ「インディ」らしい活躍を披露するのは、今回初登場したヒロイン・ヘレナのほうである。なんとなれば、劇中でインディが常に感じているであろう、このなんとも知れぬ人生の “ままならなさ” を観客に追体験させることこそが、本作の演出意図だったに違いない。だからマンゴールドは、彼の手腕ならスピルバーグふうを完コピすることも間違いなくできたはずだが、それをしなかった。極論すれば、もしもスピルバーグが本作を撮ったなら、おそらくインディの冒険はもっとうまくいってしまったのではなかったか。

「もっと自分が若ければ/若かったころは……」という、すでに失われて決して取り戻せない郷愁に駆られることは、われわれ人間なら──たとえそれが、インディ・ジョーンズのようなヒーローだったとしても──大なり小なりあることであり、年齢を問わず普遍的な感情だろう。そしてそれゆえに、本作の「アンティキティラのダイヤル」が持つ秘密と、それを垣間見るインディの心境にグッと胸を打たれる。そして、もし自分だったらどうしてしまうだろうと……。


     〇


本作の製作段階で、こんな逸話がある。マンゴールドは本作を作るにあたってスピルバーグから「『インディ・ジョーンズ』は、冒頭から結末まですべて予告編のようなもの。常に動いている」のだと助言を受けたというのだ。

それでもなおマンゴールドは、本作を単にスピルバーグ映画の模倣として落とし込まなかった。偉大──すぎると言っても過言ではない──先人の残した道筋を敢えて外してゆくことは、マンゴールドにとってたいへんに勇気のいる大冒険だったに違いない。そして彼は、冒険をやり抜いた。見事に本作をインディ・ジョーンズの物語として昇華し、描き切ったのだ。

もちろん、この「いつものインディ映画じゃない」本作について賛否両論あることだろう。もしもスピルバーグが引き続き本作を撮っていたらどうなっていただろう、とついつい空想もしてしまう。しかし、マンゴールドが本作『運命のダイヤル』を、彼だからこその風合いを持った堂々たる1作に仕上げたことに、大きな賛辞を贈りたい。


     〇


その他、やっぱり村井國夫の吹替えはイイとか、とあるキャラクターが死ぬときのちょっとした照明の演出が素晴らしいとか、紙吹雪の映像がスゴイとか、しかし「そうはいうても、そんなにズレるかしらん」とか、やっぱり邦題の「と」は余計だよ──「/」でいいじゃないか──などと思うところはそこかしこにあるけれど、本作の「ついに終わるんだなァ」という美しいラスト・ショットをたしかめるためにも、ぜひ劇場でご覧いただきたい1作だ。


     ※

*1:余談だが、これを観たジャッキー・チェンが、当時抱えていた鬱憤を晴らすべく、気の知れた仲間たちと共に自分の好きなもの全部盛りで撮ったのが『プロジェクトA』(1983)だった、というエピソードがある。

2023 5月感想(短)まとめ+ひとこと超短評集【Part 1】

2023年5月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)と、今年になって劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集【Part 1】です。


     ※


【劇 場】
◆人生下り坂のシャルルの運転するタクシーに乗り込んだ老女マドレーヌが、入居する介護施設への道すがら、その人生を語ってゆく『パリタクシー』(クリスチャン・カリオン監督、2022)は、車窓を流れるパリの風景とマドレーヌの想い出が交錯する丁寧なドラマを味わえる1作だ。

登場人物や彼/彼女らの関係性を象徴する衣装の色彩設計の巧みさ、そしてタクシーの車窓から──ときに一時停車しながら──見えるパリの様々な通りや街角を映した撮影も美しい。物語や演出は、予告や宣材から受ける印象のとおり、いわゆる人情喜劇風味の味わいで、ふたりの口からときおりまろび出る洒脱な台詞やペーソスに満ちたやりとりにクスリとさせられる。

だがいっぽう、マドレーヌがシャルルに語って聞かせる人生の想い出は、決してスクリーンに映った景色のように美しく、楽しいものばかりではない。彼女が人生で受けた仕打ちは、ビターというにはあまりに酷薄なものですらあり、これは過去1世紀に渡る──いや、もっとそれ以前から、そしていまもって連綿と続く──、いわれなき抑圧を被った女性史の映し鏡でもあるのだ。なればこそ、本作のそこかしこに見られる『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督、1953)や『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976)などへのオマージュも味わい深い *1

ことほど左様に本作は、思いがけず重層的な味わいを醸す素敵な1作だった。


     ※


【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(Part 1)】
◆ハワイ行きの旅客機で、前代未聞のバイオテロが起きる『非常宣言』ハン・ジェリム監督、2022)は、『大空港』(ジョージ・シートン監督、1970)を代表とするような “乗り物パニック” 群像劇として骨太な1作だった。次から次へと巻き起こる困難と、地上と機内で絶妙にすれ違い絡み合う人間模様とが織り成す物語──クライマックス手前で、すこしウェットに寄りすぎた嫌いはあるけれど──に片ときも目が離せない。とくに、事態が急変するプロットの転換点において、文字どおり飛行機の向きがグーッと変わる演出が素晴らしい。


     〇


◆1990年代アイルランドの片田舎を舞台に、自身がゲイだと受け入れられない高校生エディとレズビアンであること隠すアンバーが、周りの目を欺くために恋人関係を演じようとする『恋人はアンバー』(デヴィッド・フレインカント監督、2020)は、コンパクトな上映時間と軽快な演出で口当たり爽やかな趣だけれど、それゆえに主人公たちが日々感じている孤独や疎外感が観客にヒシヒシと伝わってくる。本作の主人公ふたりのようなLGBTQ であるかいなかに関わらず、家族や世間一般の “普通” への違和感や、それからの同調圧力への不信感、それへ準じているふうを装うことへの疲弊感は、誰しも大なり小なり身に覚えのあることではないだろうか。


     〇


◆誰しもが狂ったのように映画に夢を託した1930年代ハリウッドの情景を戯画的に描く『バビロン』デイミアン・チャゼル監督、2022)は、『旧約聖書』「ナホム書第3章6節」を地で行くような強烈な冒頭から、ケネス・アンガー『ハリウッド・バビロン』を筆頭に、映画史上における様々な逸話やスキャンダル、そして出来事を寄せ集めて煮詰めた闇鍋のような1作だった。映画をつくることの狂気・狂乱・狂騒が目まぐるしくスクリーンを覆い、やがて登場人物たちに訪れる転落と没落は──まさしく “災いなるかなバビロン” ──盛者必衰の理ありだ。こうして映画は “言葉” を得、その世界の住人は分断されたのでありました。

ラストはちょっとやりすぎかなと思うけれど、ともあれ本作の予習もしくは復習には『雨に唄えば』(ジーン・ケリースタンリー・ドーネン監督、1952)をぜひご覧なさいね *2


     〇


◆残りライフが「1」になってしまったプスが、なんでも願いを叶えてくれるという「願い星」探求の旅に出る長ぐつをはいたネコと9つの命』(ジョエル・クローフォード監督、2022)は、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(セルジオ・レオーネ監督、1966)もかくやの冒険お宝争奪戦──そして、メキシカン・スタンダップ──映画として楽しい *3のはもちろんのこと、目を見張るのはそのアニメーション表現だ。本作はいわゆる洋画のCGアニメーションだが、シーンが戦闘やアクションに突入すると、いっきに画面が日本のアニメ的手法を取り入れた表現で彩られるのが特徴だ。

それまでフルアニメーション(24コマ/秒)だった動きは12コマないし8コマのリミテッド・アニメーションとなり、モーション・ブラーや身体の部位の誇張表現、あるいはキメの一瞬に背景が抽象化するなど、ことごとく近年の日本アニメ的な画づくりが徹底して取り入れられている。同じくドリームワークス制作の『バッドガイズ』(ピエール・ペリフィル監督、2022)でも──本作とは、また違った形で──日本アニメ的な手法が取り入れられていたが、同社のなかで、そういった作品に慣れ親しんだ世代がメインクリエイターになってきたということだろうか。


     ※

*1:そして、これらのオマージュが、一見真逆の演出なのがさらに興味深い。夜は昼に、カメラは車内から車外に、壁のモニュメントの理由を知っている人物は……と、いった具合に。

*2:あるいは、似たテイストの作品として『アンダー・ザ・シルバーレイク』(デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督、2019)も思い起こさせる。どちらにも “スパイダーマン” が出てるしね。

*3:ほかにも、三船敏郎を模したという「死神」のシルエットや、『狩人の夜』(チャールズ・ロートン監督、1955)や『ドラキュラ』(フランシス・フォード・コッポラ監督、1993)などを思わせるオヴァー・ラップなど、そこかしこに点在する映画のオマージュやパロディにもニヤリとさせられる。