2019 7月感想(短)まとめ

2019年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
アベンジャーズの決死の活躍によってサノスの野望が砕かれ、徐々に世界が平穏を取り戻しつつあった夏、クラブの修学旅行でヨーロッパに向かったピーター・パーカーがまたもや世界の危機に直面するスパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2019)は、続編として、なにより娯楽映画として申し分ない見事な作品だった。楽しい、というのは本作のようなことをいうのだ。

本作は、まずなにより画面が楽しい。ヨーロッパ各地に二転三転するロケーションの変化が鮮やかなので観光映画としても楽しめるし、そんななかを暴れる敵の巨大さもあって、まるで怪獣映画を観ているかのような面白さにも溢れている。もちろん見せ場のアクション構築も素晴らしい。ロケーションや物語上重要となる装置群を使った立体的な舞台立てのなかを文字どおり縦横無尽に跳びまわるスパイダーマンの活躍は手に汗握る迫力があるし、これを切り取るカメラ・ワークと編集は、VFXとの相乗効果もあって躍動感に溢れつつも適確で判りやすいものとなっており、まるでピーターと一心同体となったかのような臨場感に満ちている。また、「親愛なる隣人」ことスパイダーマンの面目躍如ともいうべき人命救助描写も多いので、アクションがとてもエモーショナルなのも好印象だ。

もちろん、前作『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)以降の世界の様子を手短にかつ面白おかしく伝える冒頭からスタートする、ヨーロッパへ訪れたピーターを取り巻くコメディチックな青春ドラマ・パートも秀逸だ。人種性別宗教多種多様な生徒が所属するクラブの修学旅行風景は実に楽しそうだし、気の置けない親友ネッドとの相変わらずのコンビぶりや、MJとのひどく不器用でもどかしいけれども誠実なロマンスは、観ているとなんとも幸福な気持ちになる。また、ある種の父親代わりだったトニー・スタークから贈られた超高性能A.I.バイス付きサングラス「イーディス(E.D.I.T.H.)」を巡る顛末は、まるで藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に登場する小噺のような毒っ気のある可笑しみに満ちている。

こういったささやかな幸せに溢れた日常描写に、本作がヒーロー映画であるがゆえにピーターが巻き込まれてゆく様々なトラブルや葛藤、そして彼なりのヒーローとしての成長を盛り込んだ脚本のバランス感覚も適確だ。とくに本作のヴィランの持つ、その虚構(フェイク)性こそが真の悪であるとする設定は、まことに今日(こんにち)の世相を反映しているようで興味深いし、それによって寄って立つ現実感を喪失するピーターの恐怖は、想像するだに恐ろしい*1。また、シリーズ前作『ホームカミング』(ジョン・ワッツ監督、2017)に引き続いて描かれた、身に余るほど強大な力との付き合い方を、ピーターが自分なりに模索してゆく姿は──彼を見つめる、かつてスタークの右腕だったハッピーの優しい視線も相まって──感動的だ。

その他、そのクリフハンガーはズルいとか、開いた口が塞がらなかった驚愕のオチなど色々あるが、笑いとスリルと感動に満ちた本作は、久々に心から「楽しい!」と思える作品で、たいへん満足だ。


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◆貧しくとも心優しい青年アラジンが魔法のランプを手に入れたことで辿る冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作長編アニメーションを実写リメイクした『アラジン』ガイ・リッチー監督、2019)は、いろいろアップデートされている──否、しようとしたのはわかる──けれども、いささか分の悪い勝負だったのかしらん、といった残念さが目立つ作品だった。

たしかに手描きアニメでは不可能だったろう絢爛豪華で複雑な模様を施された登場人物の衣装や宮殿といったデザインや、メインの舞台となるアグラバーの雑多な町並みは見応えがあるし、パルクールを用いた上へ下への追走シーンや、現在のVFX技術ならではの魔法の絨毯の質感や小猿アブーら動物の実在感は見事なものだ。とくに、本作において、よりいっそう強い独立心とリーダーシップ性を付加された王女ジャスミンのキャラクターは、実に今日的な改変として素晴らしい点だろう*2

そういった具合に、本作はオリジナル版『アラジン』(ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督、1992)に今日としては不足である部分を改良しようとはしている。しかしながら、本作ではむしろオリジナル版にあった美点を削いでしまった点のほうが多い。

とくに残念だったのは脚本の練り不足。本作ではオリジナルの脚本にかなり手を入れており、物語の展開の仕方や見せ方、そして見せ場の数が大きく異なっている。前述のジャスミンのキャラクター性の変化もそのひとつであるが、それらの要素それぞれは悪くないものの組込み方がかなり雑で十全には活かしきれておらず、取ってつけた感が甚だしい。また、同時に物語の展開のさせ方──たとえば、開幕直後に「彼」を出すのはいかがなものかと思うし、オープニング・クレジットのおざなり感も非常に残念*3──や、キャラクター描写などが呑み込みづらくなっている点は否めず、キャラクターによっては描写がハッキリ薄くなっている人物すらある。空間や世界観もむしろ狭まった感もあって、見せ場の「ホール・ニュー・ワールド」のシーンですら、中途半端に画面が暗く色彩にも欠くので、いまいち解放感に乏しいのだ。

これはなんとなれば、キャラクターの描写を含めた脚本とプロット構成の無駄がなくテンポのよい適確な展開、空間的拡がりの見せ方からアクションやミュージカル・シーンの構築まで、ハッキリ言ってオリジナル版が完璧だというほかない。そういう意味では、本作の出た勝負は分が悪かったのかもしれない。本作の上映時間が128分なのに対してオリジナル版は90分だという点からも、推して知るべきだろう。それほどまでに本作はマゴついているのだ。

過去作とまったく同じものを作ってくれなんていうつもりは毛頭ないのだけれど、それでもオリジナル版の様々な美点を殺さずにより現代的にアップデートする方法は、まだまだあったはず。アラジンが空気を読めない言動を重ねてしまって一同が──カメラも含めて──引きまくる、といったリッチー監督らしいギャグ・シーンなど、好きなところもけっこうあっただけに、いささか残念だ。


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◆かつての持ち主アンディにはいちばんのお気に入りだったウッディが新たな持ち主である少女ボニーになかなか遊んでもらえないなか、彼女は先割れスプーンで自作した「おもちゃ」をフォーキーと呼んで大切にしはじめるトイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)は、前作『3』(リー・アンクリッチ監督、2010)において、たしかにウッディとアンディの物語は終わったが、語られるべき、そして救われるべき魂はここにまだあったのだと思わされる見事な作品だった。

なにをおいてもまず驚かされるのが、第1作『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター監督、1995)から4半世紀余りを経て進化・熟成されたCG技術によって徹底して作り込まれた画面だ。ウッディやバズたち御馴染みのおもちゃの面々を形作るの原材料それぞれ──ゴムやプラスティック、編み込まれた布地につややかな陶器などなど──に異なるテクスチャの描き分けはもちろんのこと、揺れる草むらの波、夜露に濡れるアスファルト、降りしきる雨水に照り返す家の灯りといった自然──しかも、おもちゃの視点から映すので、よりいっそう大きく作る必要がある──の情景にいたるまで、微細にかつリアリスティックな──しかし、あくまでもCGアニメーション調であることにもこだわった──設定が施された質感表現の機微には舌を巻く。

そして、この映像技術の進歩あってこその光/照明演出の機微にもぜひ注目したい。もっとも観客の目を引くであろう、ウッディたちが迷い込む骨董品店「セカンド・チャンス*4」に飾られている色とりどりの照明が、窓から差し込む夕陽に反射して万華鏡のように店内を彩るシーンの美しさ──話題が重複するが、『2』(ジョン・ラセター監督、2000)以来の登場となった本作の実質的なヒロインである陶器人形ボー・ピープの肌の表面で滑らかに反射する光による質感表現も素晴らしい──には嘆息したし、そのほかにも、ちょっとした光源の移動や、むしろしっかりと暗闇に落とし込まれた陰影によって醸されるキャラクターたちの感情表現にもハッとさせられる。

また、ウッディが、彼の新たな持ち主となった少女ボニーの工作によって誕生したお気に入りの「おもちゃ」フォーキーや、たくましく自立したボー・ピープたちとの冒険や問答を経て辿る本作の物語も感動的だ。自分がこうだと思っていた自身の “役割” ──アンディからボニーに継承されたおもちゃになることや、その他のおもちゃのリーダーとしてふるまうこと──に無意識に固執するばかりにウッディが悩み苦しむ姿には胸が痛んだし、それがすでに自分のものではないと気づいたときに見せる──そして、自分の “中身” を差し出すことを決意したときの──彼の表情が語る言語化し得ない感情のうねり、そしてラストで彼が選び取った次の人生に向けてみせる晴れやかな、しかしすこしのせつなさを伴った表情を見たときには非常に胸を打たれる*5

本作の特報──アンディの部屋に施された青空の壁紙を背景に、輪になって踊るウッディたちをスローモーションで映した──において使用されたジュディ・コリンズ歌唱の楽曲「青春の光と影」(Joni Mitchell, Both Sides, Now, 1967)が、最恐ホラー『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督、2018)の主題歌だったことが一部で話題になったけれど*6、たしかに本作は人生におけるひとつの “役割” が終わったときに訪れるべき継承と、同時にそこからの脱却とを描き切った──しかもエンタテインメントとしての間口は相当広い──力作だ*7


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【ソフト】
◆米ソ緊張の果てに勃発した核戦争に巻き込まれた英国と、その後を描くBBC制作のTVM『SF核戦争後の未来・スレッズ』ミック・ジャクソン監督、1984)は、時折『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督、1957)を思わせる寒々しいカメラ・ワークや、フッテージ・フィルムと特殊撮影を用いたドキュメンタリックで冷酷なまでに淡々とした編集によって、ささやかな日常が脆くも崩れ去った挙句に地獄が訪れる様を映し出す、とても怖ろしい恐ろしい、背筋が心底ゾッとする見事な作品だ。米ソ冷戦が終わったからではなく、つねに──いまだからこそ、なお──我々が陥りかねない事態を思い起こさせてくれる。必見。


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*1:それは現実社会の鏡像であると同時に、ピーターは映画のなかにヒーローを求めてやまないわれわれ観客の似姿でもあるだろう。本作はそこかしこに、物語やフィクションについて鋭い視点を投げかけている。

*2:ただ、どういうわけだか本作において彼女の運動能力はオミットされている。また、本作の見せ方だと、ジャスミンがアラジンと出会うきっかけが、オリジナル版での突発的な家出というよりも、彼女は日常的に宮殿から抜け出して町を見て回って──次期国王としてより善い治世をおこなうための視察をして──いるようにしか映らず、となれば後半の「わたしは世界を本でしか知らない」という旨の台詞が矛盾して聞こえてしまってはいまいか。彼女のために書き下ろされた新曲「スピーチレス~心の声」が素晴らしかっただけに、非常にもったいない。

*3:商船の船長らしきウィル・スミスが自分の子供たちに「昔々……」という具合に挿入歌「アラビアン・ナイト」を歌い始め、その歌詞の合間合間にアグラバーの昼間の町並みと、既にどういうわけだか雑踏に紛れているアラジンとジャスミン、そして秘密の洞窟がいきなり「ダイヤの原石をーっ!」と叫んで見ず知らずの盗人をバクッとやる様子を擬似的な1カット処理風に映すのだが、文脈がまったくないので恐ろしくあやふやな印象しか与えない。オリジナル版の、当時としては最先端のCG技術を用いつつ、夜のアクラバーの路地をカメラが──いまから思えば、完全にPOV風に──奥へ奥へと入ってゆき、「アラビアン・ナイト」のサビの部分で画面いっぱいに美しい宮殿が映され、やがて曲の静まりとともに裏通りの屋台に行き着き、そこの親父が観客に向かって行商を始めつつ、魔法のランプのいわれを話し始めて本筋がスタートするという、この流れるように観客をまずは架空の国アグラバーへ、そして次に昔話の世界へと誘うオープニングとは比べる由もない。

*4:ウッディたちがここで出会うこととな本作の重要キャラクターのひとりギャビー・ギャビーの、取り巻きを従えつつ醸す “オタサーの姫” 感と、同時に永年持ち主を求めて暮らすいじらしさが最高の按配だ。取り巻きベンソンの最後の活躍にも涙。

*5:もちろんバズや、CMとは違ったばかりに持ち主から捨てられたデューク・カブーン──彼と一緒にラストのピクサー・ロゴに登場する白いコンバット・カールの顛末にも涙──、縁日の景品となっているぬいぐるみタッキー&バニーたちを巡る物語の面白おかしさと、その作劇の周到さも見逃せない。

*6:予告編で使用されたザ・ビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」(Tony Asher & Brian Wilson, God Only Knows, 1966)もまた、本作を観てみるとなるほどな選曲だ。

*7:ピクサー映画恒例である「ピザ・プラネット」などのイースター・エッグにはほとんど気づけなかったのだけれど、ピクサー作品ではもっとも好きな『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター監督、2009)に登場する「エリー・バッジ」が映ったときにはグッときました。

2019 6月感想(短)まとめ

2019年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)……別記事参照


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ジョージ・W・ブッシュ政権下で副大統領を務めたディック・チェイニーの半生を描くバイス(アダム・マッケイ監督、2018)は、大増量の肉体改造を経てチェイニーを演じた上げたクリスチャン・ベールたち俳優陣の熱演合戦も素晴らしい、たいへん面白く、そしてソラ恐ろしい作品だった。

たとえば本作の後半において触れられる「9.11同時多発テロ」発生当時、僕はまだ一介のハナタレ小僧であって、世界の混乱ぶりこそ記憶しているが、ブッシュ政権の水面下において本作で語られるような政略の数々が繰り広げられていたとは──もちろん、それ以前のチェイニーの動向も含めて──露知らず、たいへん勉強になった。劇中すなわち事実、王にも等しい権力を得たチェイニーと側近たち為政者の言葉ひとつによって、唐突に、虚をつくようなタイミングで差し挟まれる名もなき人々に死が訪れる様は、痛ましく、恐ろしい。そして、チェイニーたちがいかにして選挙や政治活動によって地位を得ていったかも。

しかし、本作の面白いところは、いわゆるシリアスなドラマ一辺倒にはせず、どこかコメディ・タッチであるところだ。謎の語り部を配して各所に解説──ときに露悪的に、ときに自虐的に──を入れつつ、ハッとさせられるようなメタフィクション的な過去の再構築(=編集)をしてみせる本作はどこかブラックな笑いに満ち、そして観客が登場人物たちへ感情移入することを阻んで常にスクリーンとの距離を保たせることで、どちらかといえばドキュメンタリー的な効果を醸している。

長時間労働と低賃金化が進んだことによって、たとえ余暇でも人々は政治について面倒で考えなくなる、という本作冒頭のナレーションはまさしく現代日本にも大いに当てはまることであり、なぜ本作がいま作られ、そして我々が観なければならないのかを端的に表しているだろう。本作のエンド・クレジットで流れるあの曲*1、そしてラストもラストに付されたイジワルだが実に適確なオチ*2を観るにつけ、無知と無関心は本当にいかんなと、改めて襟元を正させられる思いだ。必見。


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◆人と関わることが不器用な少女・琉花が、父の働く水族館でジュゴンに育てられたという不思議な兄弟・海と空に出会ったことで世界の秘密に触れてゆく海獣の子供(渡辺歩監督、2019)は、五十嵐大介による同名漫画(全5巻、小学館、2006-2011)を美しい映像で手堅くまとめ上げた1作だった。

原作の荒々しくも精緻な筆致をうまく作画に落とし込んだキャラクター・アニメーションと波打つ海面といったエフェクト・アニメーションの数々、そしてそれらを包む隅々まで描かれた背景美術の実在感が見事で、画面を彩る夏の晴れ渡った青空から星のきらめく夜空、台風のくすんだ雨雲、夏の陽光に照り返す木々の緑、珊瑚が彩る浅瀬から光の届かない深海まで、本作の色彩設定もまた非常に美しい。さらに、それらの素材をCG技術などを駆使して極めて自然に組み合わせて映される、キャラクターの背中を追って画面の奥へ奥へと進む長いカットといった、立体的で奥行き感のあるダイナミックな移動カットは観ていてものすごく快感がある。

また、本作のクライマックスにおいて『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)の「スターゲイト」シーンもかくやに展開される一連の「誕生祭」シーンは間違いなく本作の白眉のひとつ。なんとも知れぬ極彩色のイメージの奔流が堰を切ったよう次々と途切れることなく押し寄せるその圧倒的な祝祭感は、幻想的でサイケデリックで繊細で荘厳な、いうなれば曼荼羅の群れをスクリーン越しに浴びているかのような、えもいわれぬ映画体験を観客に与えてくれることだろう。さすがは『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督、2004)を作り出した STUDIO4℃ の面目躍如といった圧巻さである。

物語に関しては、原作にあった世界創世神話にまつわる──諸星大二郎の漫画を思わせるような──伝奇的要素をかなりバッサリ切り、物語の辿る筋道を大きくアレンジされているものの、原作のエッセンスがうまく抽出されており、なかなかよかった。琉花視点のストーリーに極力絞り込むことで、パンスペルミア*3をモティーフとしたSF的壮大さのなかで描かれた思春期の少女の成長/性徴という要素をよりよく引き出している。

ただ欲をいえば、琉花のモノローグや、その他キャラクターによる説明台詞をもっと切ったほうが、本作においてはむしろ直感的な──即座に理解し得ないが、しかし圧倒的な、それこそキューブリックいうところの「映画のマジック」を全身に浴びるような──魅力をより得られたのではないだろうか。無論、モノローグがあるのは原作どおりだったり、オミットした要素を補おうとしたところもあるのだろうけれど、本作では蛇足だったり、かえって混乱を来たしている感が否めない。前述のとおり本作の持つ映像の説得力はかなりのもの*4なので、もっとストイックに言葉少なく物語を語る演出も可能だったろうし、「一番大切な約束は言葉では交わさない」という本作の惹句にもなった台詞とも合致したのじゃないかしらん。

とはいえ、映像の美しさと力強さは折り紙つきなので、ご興味があればぜひ劇場で体験したい。


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◆新人エージェントのMが、初任務としてMIBロンドン支局の伝説的エージェントであるHと組んで地球存亡の危機に挑むメン・イン・ブラック: インターナショナル』F・ゲイリー・グレイ監督、2019)は、面白かったのだけど、コレといった印象が薄い作品だった。

本作の魅力は、これまでの世界観をそのままに、新たに主人公となったテッサ・トンプソン演じるエージェントMと、クリム・ヘムズワーズ演じるエージェントHとが奏でる掛け合いのアンサンブルだ。『マイティ・ソー バトル・ロイヤル』(タイカ・ワイティティ監督、2017)などマーベル・シネマティック・ユニバースMCU)作品に続く共演作となった本作でもまた、ふたりの息の合った絶妙なコンビネーションを堪能できる。また、本作冒頭においてリーアム・ニーソンが開口一番に言う台詞*5にも大いに笑った。

ただ、本作の大きな難点は物語が有機的に繋がっていないことだ。事件やアクション、ツイストは次々に起こるものの、それぞれがその場その場でアッサリと流れていってしまう。そもそも本作の敵が、その目的達成のためになぜそんな回りくどい方法を取ろうとするのかがめっぽう呑み込みづらく、たしかに冒頭とクライマックスで対になるようなミラー・イメージのショットを入れ込んだりしているものの、どうもサスペンスのためのサスペンスにしかなっていないように感じられてならない。

本作の制作段階において、監督と製作側が揉めていたという報道もあり、そのあたりが影響したのだろうか。脚本もかなり変わったらしい。最終的には監督監修と製作側監修の2種類の編集版あったという本作で、実際に採用されたのは後者だということなので、監督監修版もいずれはなんらかの形で観てみたいものだ。


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◆ボスから1年間の不殺生を命ぜられた “ファブル” の異名を持つ殺し屋が大阪に移住して普通の生活を送ろうとするもトラブルに巻き込まれる同名漫画(南勝久講談社、2014-)を映画化したザ・ファブル江口カン監督、2019)は、岡田准一演じる主人公ファブルこと佐藤明(仮名)のアクションや体技の見事さと、彼が一般常識を欠いていることで生まれるカルチャーギャップ・コメディ要素が融合した、なかなか愉快な作品だった。

プロの殺し屋としてのファブルの活躍を描く冒頭のシークェンスで見せる無駄のない動きのキレは素晴らしかったし、ゴミ処理場という空間を活かしたクライマックスの攻防での立体的なアクション構築も楽しく、敵に致命傷を与えらない縛りがあるために倒しても倒しても敵が起き上がってくる様は、まるでゾンビ映画の様相で返って新鮮だ。『シャーロック・ホームズ』(ガイ・リッチー監督、2009)を思わせるファブルの主観──テロップ芸は蛇足*6ではあるが──も面白い。

惜しむらくは、本作の音楽にちっとも一貫性がないこと──山下毅雄チャーリー・コーセイへのオマージュ曲には悪い意味で笑ったけれど──と、上映時間が123分と若干長いことだ。とくにドラマ部分に関して1ショットの長さや編集がチンタラと間延びしている感が否めない──山本美月のヘン顔にそんな尺要らないだろう、とか──し、クライマックスのアクションにしても少々ファブル以外に焦点を当てすぎな嫌いがある。あと20分ほど上映時間をタイトに刈り込んだなら、こういったアクション・コメディ映画として、よりいっそうの完成度を保てなのではないかしらん。


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【ソフト】
◆不勉強ながら観ていなかった、活動家としてのジョン・レノンに焦点を当てたドキュメンタリー映画『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン(デヴィッド・リーフ、ジョン・シャインフェルド監督、2006)は、学ぶべき歴史として面白かったし、なにより今日(こんにち)を生きる身として、とても勉強になった。Give Peace a Chance!


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*1:ウエスト・サイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督、1961)の劇中歌のひとつ「アメリカ」。

*2:劇中、幾たびか登場した民間人を呼んでのフォーラムで巻き起こる「なにやら空気がおかしいと思ったら、この映画リベラルに媚売ってるんじゃないか?」という台詞に端を発する喧嘩と、そんななか政治無関心デース ヘ(゚∀゚*)ノ 代表みたいな人物が最後に隣の席の人物に言い放つ「次の『ワイルド・スピード』楽しみ」という台詞。

*3:スヴァンテ・アレニウスらが提唱した生命の起源に関する仮説のひとつで、地球生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の萌芽が隕石などによって到来した──喩えるなら、島から島へと種子を鳥が運ぶように──とするもの。これをモティーフにした他の作品では、たとえば『ガメラ2 レギオン襲来』(金子修介監督、1996)や『プロメテウス』(リドリー・スコット監督、2012)が挙げられる。本作では、この宇宙規模の “渡り” とそれによる新たな生命(=生態系/宇宙)の誕生がある一定のサイクルで連綿と行われており、現代人はこれを忘れてしまっている──かつて古代人は知っていたが、いまは伝承と遺物にその名残を残すばかり──がクジラたち海洋哺乳類と魚類は覚えている、という世界観に立脚している。

*4:また、寄せては返す波を思い起こさせるような、ミニマルな──スティーヴ・ライヒのパルス的──技法を用いた久石譲のスコアもよかった。

*5:「まったくパリは嫌いだ」という台詞は、明らかにニーソン主演作『96時間』(ピエール・モレル監督、2008)をなぞらえてのものだろう。

*6:後半一切出てこないし、そうであるならば、なぜタイトル・デザインにまでこれを使用したのか。

『ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』感想(一部ネタバレ有り)

ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)……サンフランシスコを舞台に繰り広げられたゴジラとムートーの激戦から5年後、怪獣たちの生態を極秘裏に調査・研究するする未確認生物特務機関 “モナーク” に所属するエマ・ラッセル博士は、怪獣たちとの意思疎通を可能にする音声合成装置 “オルカ” の開発に成功する。しかし、その類稀れな性能に目をつけたアラン・ジョナ率いる環境テロリストの一団によって、“オルカ” ともども彼女は娘のマディソンとともに拉致されてしまう。

事態を重く見たモナークの芹沢猪四郎博士らは、現在は別居中であるエマの夫マークに協力を要請し、彼女たちの行方を追うのだった。そんななかアランは、モナークがこれまで隠し続けてきた究極の怪獣 “モンスター・ゼロ” を解き放とうと、南極へ向けて兵を進めていた……。

現代に蘇った怪獣王ゴジラが、世界各地で復活を遂げたラドンモスラ、そしてキングギドラとの熾烈な闘いを繰り広げるハリウッド・リブート最新作の本作は、第2作目*1にして大胆なシフト・チェンジを果たした、良くも悪くも快/怪作だった。


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前作『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014)が初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)に徹底したオマージュを捧げたダーク──画面の明度も含めて*2──でリアリスティックな作風だったのに対し、本作はむしろ’60年代の「ゴジラ」シリーズ──とくに『三大怪獣 地球最大の決戦』(本多猪四郎監督、1964)から『怪獣総進撃』(本多猪四郎監督、1968)までの諸作──を思わせる明るいエンタメ路線、いうなれば “怪獣プロレス” 路線へと大きく舵を切っているのが特徴だ。

三つ巴、四つ巴の闘いに発展してゆく本作の作劇はもちろんのこと、たとえば、火山の頂上で咆哮を上げるギドラを手前の十字架をナメながら映すショット*3は『三大怪獣 地球最大の決戦』における鳥居越しに猛威を揮うキングギドラの姿を映したショットの再現だろうし、キングギドラのコードネーム「モンスター・ゼロ」は『怪獣大戦争』(本多猪四郎監督、1965)からの引用であり、ゴジラがある種のヒーローとなるキャラクター設定や、追加された咆哮のサウンド・エフェクトのバリエーション──すこし声音が高い──も、この頃のゴジラの鳴き声を思い起こさせる。また冒頭に映るサンフランシスコの被災風景が、昨今の精緻きわまるVFX的テイストではなく、まるでミニチュア特撮風味──いうなれば、初代『ゴジラ』における被災した東京のショットのよう──に見えるのもニクい演出だ。

さらには、南極でゴジラとギドラがはじめて対峙する横からショットには『ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)からの引用、クライマックスでは『ゴジラvsメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)を思い起こさせる展開もあったりと、いわゆる「平成シリーズ」(1984-1995)へのオマージュをまぶしつつ、予告編にもチラリと登場した赤いバーニング・ゴジラのデザインはゲーム版『Godzilla: Unleashed』(アタリ、2007、日本未発売)を彷彿とさせるなど、これまでゴジラ史上において連綿と積み上げられてきた様々な要素を組み込んでの大盤振る舞い。本当にゴジラが好きでたまらない人の手で作られた作品なのだと、ひしひしと感じられる*4 *5


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そんな本作の魅力といえば、なんといっても大幅に増えたゴジラたち怪獣の見せ場に継ぐ見せ場の連続だ。前作がスピルバーグ的演出を随所に用いながら、じっくりと手順を踏んで、小出しに小出しに怪獣を登場させていたのに対し、本作では冒頭から目まぐるしく怪獣絵巻が展開する。

予告編にも登場した、回転飛行をしながら翼で戦闘機を叩き落とすラドンや、ゴジラの熱戦を首だけで避けながら引力光線を撃ち返すキングギドラといった、今日(こんにち)の──かつての操演では不可能だった──CG技術ならではの怪獣アクションの数々はとても新鮮で、まるで宗教絵画のような荘厳な色彩設計の施された画面はため息がもれそうなほど美しい*6

そして、徹底した怪獣たちの巨大感*7と重量感を醸しながらも勢いのあるスピード感を失わず、かつ同時に、まさにいま怪獣の足許に居合わせてしまった主人公たちが演じるドラマや動向とをシームレスかつ矢継ぎ早に、それでいて観客に全体の位置関係や展開をわかりやすく繋いでゆくカメラ・ワークや編集、アクションの構築も見事なものだ。

また、むしろ人間ドラマなんて添え物だぜ、といわんばかりに必要最低限の描写だけに留めてサクサク進む作劇テンポも、いかにも’60年代の「ゴジラ」シリーズといった感じで、たいへんよろしい。こんな具合に、スクリーンのなかで大怪獣たちが所狭しとアスファルトを踏み抜き、ビルを薙ぎ倒し、兵器を爆発四散させながら全世界を更地にしてゆく様は、まるでこの世の天国にいるかのようだった。


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ただいっぽうでハッキリとした不満点もある。もちろん、作劇のテンポのよさと引き換えに、登場人物たちの誰も彼もが「こんな両親なら、俺でも家出するよ」という台詞が端的に表しているような狂人めいた言動ばかり取っていたり*8、人間側の敵対者についての結末が “本編” では明示されない*9のは気持ちが悪かったり、カイル・クーパーの手によるエンド・クレジットにて語られるオチも噴飯もの*10だったり、いくらなんでも「平成ガメラ3部作」(金子修介監督、1995-1999)*11と──知ってか知らずか──設定が被り過ぎではないかという疑念は拭い切れなかったりするのだが、まあよい。

そんなことが些細なことと思えるほどの不満点というのは、渡辺謙演じる芹沢博士のキャラクター設定の変貌ぶりというか、とくにクライマックス手前で描かれる彼の顛末のマズさだ。これには、どうしたって首を傾げざるを得ない。喩えるならば、『続・猿の惑星』(テッド・ポスト監督、1970)に登場するミュータントたちに匹敵するマズさである。


どういうことか。


【以下、核心部のネタバレにつきご注意!】
本編中盤で展開されるギドラとの闘い、そして米軍の試作兵器「オキシジェン・デストロイヤー」──この名称は、もちろん初代『ゴジラ』にて芹沢大助博士が開発し、ゴジラ(と自ら)を屠ることになる水中酸素破壊剤からの引用──による攻撃によって衰弱したゴジラを復活させるため、芹沢猪四郎博士は自らの生命と引き換えにゴジラ(療養中)のそばで核弾頭を爆発させる……。

芹沢が下したこの決断やふるまいを、初代『ゴジラ』における芹沢博士と重ねつつ、彼自身には直接責任のない罪をすべて背負い込むことで人類の贖罪を──自然の生んだ “神” たるゴジラに許しを請うことで──果たしたイエス・キリストの受難として読み解く指摘もあって、なるほど作劇上の仕掛けとしてはたしかにそのとおり*12なのだけれど、しかし本作のように核兵器使ってしまっては本末転倒ではないか。

これでは、本来ゴジラ映画が持ってきた反核の精神ではなく、むしろ核兵器原水爆)賛美として、いびつな機能を果てしてはいまいか。初代『ゴジラ』における芹沢博士は、ゴジラ原水爆以上の脅威になりかねない「オキシジェン・デストロイヤー」──そしてもちろん核兵器──を今後ふたたび人類に使わせないために自らゴジラとともに命運を共にしたのであって、その意図は、まるでカンフル剤のように核兵器を使用した本作とはまったく真逆である。これでは、原爆を神の武器、死の灰を恵みの象徴として崇める『続・猿の惑星』のミュータントたち*13となんら変わりはない*14

むしろ、あの場面で人類が直面すべきは、それがなんであれ核の使用などといった人間のチンケな思惑なんぞ露ほども通じない自然の神性であったろうし、あるいは核をそんな安易に使用しない方法を模索するべきではなかったのか。前作にピーター・ブラッドショーが当時寄せた「日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている」という批判*15は、むしろ本作にこそ当てはまるかもしれない*16


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といいつつ、こういった奇妙な転向もまた、かつて「ゴジラ」シリーズが辿ってきた道のりを正確にオマージュしてみせた、といえなくもないのでむつかしいところだ*17。あるいは、今後『ゴジラ対ヘドラ』(坂野義光*18監督、1971)にあったような暗い揺り返しがあるのやもしれない。

ただ、本作を彩る画と、その見せ方の巧みさは掛け値なしに最高に継ぐ最高の連続*19なので、王の威光を拝みにぜひとも劇場に出かけよう。

Long live the KING!


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【おまけ: 備忘録】
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*1:「モンスターバース」としては『キングコング: 髑髏島の巨神』(ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)についで第3作目となる。

*2:かなり暗いため、おそらくではあるが日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で地上波放映された際には、画面が明るく調整されさえしていた覚えがある。

*3:本作において、ゴジラが生粋の「神」なら、ギドラは「偽りの王」と呼ばれている。そんなギドラを十字架と併置させているのは興味深い。

*4:web『クランクイン!』内「監督抜てきは『ゴジラへの愛の深さが決め手』 夢中になった少年時代、夢が現実に」(https://www.crank-in.net/interview/65358/1)を参照、2019年6月6日閲覧。

*5:また、まるで『AKIRA』(大友克洋監督、1988)のサントラ(山城祥二作曲、芸能山城組演)もかくやに般若心経やらソイヤ! ソイヤ! と合の手の入るベアー・マクレアリーの音楽と、既存曲アレンジも最高だった。

*6:監督によれば、レンブラントの絵画や宗教絵画などにおける光の描き方を参考に、古代の神々が闘っているようにシーンを形成したという。Web『THE RIVER』内、稲垣貴俊「『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』マイケル・ドハティの怪獣観 ─ 宗教画や聖書、自然現象をモチーフに製作」(https://theriver.jp/godzilla2-photo)を参照。2019年6月5日閲覧。

*7:本作は、前述のギドラのショットをはじめとしたナメのショット──たとえば、いちばん手前に人間、その向こうに折れた鉄塔などの瓦礫や建造物、そのさらに奥にスクリーンからはみ出しそうな怪獣が立つ、といった──の使い方がベラボウに巧い。

*8:にも関わらず恐ろしく説得力を付随させる役者陣の演技──とくにそれぞれがそれぞれの思いを胸に怪獣を見上げる表情の機微──は、みな素晴らしい。それだけでもグッとくるものがある。

*9:ラストのクリフハンガーに繋げるためとはいえ、急にいなくなるのはどうだろう。

*10:風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督、1984)の腐海王蟲かと思った。

*11:稀代の傑作、観よう。また、余談も余談だが、アランが片手で顔を拭うよう険しい表情を一瞬隠した後に見える表情が柔和になる──それに対してマディは中指で目尻を掻いていた──けれど、これってまさか大魔神オマージュなのかしらん(細野晴臣がよくやってますね)。

*12:ドハティ監督が意図を語るインタビューも興味深い。Web『THE RIVER』内、稲垣貴俊「【ネタバレ】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 芹沢博士の◯◯の意味、ラストシーン解説 ─ マイケル・ドハティ監督インタビュー」(https://theriver.jp/godzilla2-interview-spoiler/)を参照。2019年6月5日閲覧。

*13:余談だが、この作品でミュータントたちが崇める原爆の製造ナンバーは「ΑΩ(アルファ・オメガ)」であり、これは新約聖書ヨハネの黙示録」(1章8節、21章6節、22章13節) に登場する主の言葉「私はアルファであり、オメガである」──つまり、神ゆえにすべてを司る、というような意味──に由来する。彼らがその「神」を崇めて礼拝堂で歌う賛美歌は、ソラ恐ろしい歌詞の連なりをパイプオルガンとコーラスによる荘厳なアレンジでまとめ上げた、無気味な名曲だ。

*14:それに、あの様子だと明らかにゴジラの寝床ないし祭壇──深海の地底空洞内に残された、作中明言はないがアトランティス(いや、まさかシートピアか?)と思しき古代文明都市の遺跡にあるパワー・スポット──を破壊しているのであって、かえってゴジラの逆鱗に触れるのじゃないかしらん。

*15:web『NewSphere』内「『ゴジラ』好スタートも、欧米メディアは酷評“日本版の風刺が滑稽なほど弱まっている”」(http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/)、および web『The Guardian』内「Godzilla review – big, scary monsters but no bite in satire-stripped remake」(http://www.theguardian.com/film/2014/may/15/godzilla-review-scary-monsters-boring-humans)を参照。ともに2019年6月5日閲覧。

*16:前作『GODZILLA ゴジラ』では、核兵器を使用した作戦が滑稽なほど一事が万事うまく運ばないという展開を辿ることで、ある一線は越えずに踏みとどまっていたと考えるものだ。

*17:ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)にも似たような展開がある。

*18:彼と、ゴジラの初代スーツアクターである中島春雄に捧げられた献辞に涙。

*19:今夏、リメイク版が公開される『ライオン・キング』(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994)もかくやの、相当ブッ飛んだシーンもあるけれどね。

2019 4月- 5月感想(短)まとめ

2019年4月から5月にかけて、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆サーカスに生まれ落ちた耳の大きな赤ちゃんゾウの冒険を描くディズニー不朽の名作『ダンボ』(ベン・シャープスティーン監督、1941)を半世紀以上の年月を経て実写映画化した『ダンボ』ティム・バートン監督、2019)は、予告編を観たときに感じた第1印象──バートンが監督だから画は凄かろうが、しかし人間の登場人物メインで脚本がアーレン・クルーガーという点においては不安しかない──が残念ながら的中した1作となってしまった。

映像は──いささかカメラ・ワークに難ありだったが──たしかに凄い。舞台となった1919年の風俗を表す様々なプロダクション・デザインは素晴らしい。色鮮やかできらびやかなサーカス団員たちの衣装、移動サーカス団のテントから備品、後半に登場する超巨大遊園地に至るまでの美術セットの数々はどれを取っても見応えがある。また、巨費を投じて描かれたであろうVFX映像の実在感も見事だ。バートン映画らしい怪奇趣味も楽しめる。

しかし、いくらなんでも脚本が杜撰過ぎる。本作の、ダンボが空を飛べるようになる展開や敵対者を前半と後半で別人を出してみたりといった話運びはあまりに呑み込みづらく、そのそれぞれがその場しのぎにしかなりえていないし、作品全体のリアリティの線引きもグラグラだ。なによりの問題は、物語の主軸がダンボから、彼のいるサーカス団の家族へとズラされた点だ。この大幅なアレンジによって、原作で数々の寓意のうちに描かれたダンボの力強い飛翔──フリークが、その弱点を強みに逆転し、世界側の彼に対する見方を変える──は単なる背景へと遠ざかり、もはや彼は人間にとって都合のよいポケモンのようになってしまってはいまいか。

もちろん、原作を単になぞるだけでは意味がないという作り手たちの意図もわかるし、現在において“そのまんま”作り直すことはポリティカリー・コレクトの観点から困難だという事情もあったろう。だが、いくらなんでも本作は、原作からアレコレ記号的にモティーフを持って来て並び立てただけの見かけだましの1本にしかなっていない。せめて、ダンボと姉弟にもっと集中して描くといった方法を取っていれば、ここまで原作のエッセンスから逸脱することは防げたのではないか。残念。


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ニール・アームストロングが人類史上はじめて月面を歩くまでの9年間を、彼の知られざる心の葛藤を軸に描くファースト・マンデイミアン・チャゼル監督、2018)は、これまでになかなか類を見なかった宇宙船内の臨場感が堪能できる1作。

本作に登場する、アームストロングらが乗り込んだ幾種類かの宇宙船──ジェミニ8号やアポロ11号──のコックピットの狭さに改めて驚くことしきり。全面にあらゆる計器がところ狭しと組み込まれたなかにポツンと小さな窓があるだけの空間に、ほとんど身動きの出来ないよう座席に固定されたなかで複雑でかつ俊敏な判断を求められるアームストロングたちの姿と彼らが置かれた状況は、ほとんど彼らの主観ショットにも近いようなカメラ・ワークも相まって、まるで観ている自分自身もそこに座っているかのような息詰まる臨場感に溢れている。さらに、どこかでネジや板金がミシミシと軋む音響効果や、挙句にもやは一巻の終わりかというようなトラブルの顛末が、本作の閉所恐怖症的感覚をいやがおうにも加速させる。こういった宇宙演出は寡聞にして類を見ず、とても新鮮だ。

また、本作の映像の質感もおもしろい。本作では、日常パートが16mmフィルム、NASAでの訓練シーンが35mmフィルムで撮影されており、その銀粒子の質感を残した荒々しい画面は──編集段階での色調の調整もあったのだろう──まるで当時の映画ないしは記録映像を観ているかのような錯覚に陥ることもしばしば。併せて本作の見せ場のほとんどが、セットやミニチュアを主軸にした特撮(SFX)で撮影されていたり、中盤には劇中リアルタイムの宇宙SF映画2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)への大胆で微笑ましいようなオマージュがあったり、本編中を流れるジャスティン・ハーウィッツによる劇伴にテルミンの音色が使用されたりもしており、より1960年代的な宇宙観を垣間見ることができる。

そしてラスト、ついに月面に降り立ったアームストロングが目にする光景を捉えたIMAX 70mmの、それまでと打って変わって透き通るように美しい映像が、なぜアームストロングが幾度も幾度も死の危険を冒してまで月を目指したのかという本作の謎──ある種の「バラのつぼみ」──に答えてくれる*1

ことほど左様に本作は、ラスト・シーンの残すえもいわれぬ寂寥感をともなった解放的な余韻も含め、宇宙の果ても天地もない恐怖感とヒロインの再誕を描いた『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督、2013)と対を成す、宇宙映画の傑作だ。


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◆宿敵サノスの大願が成就したことによって仲間や愛する者を失ったヒーローたちが再び集結して逆襲に挑むアベンジャーズ/エンドゲーム』アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)は、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)におけるひとつの区切りとして堂々たる大長編となっていた。

ある種の終末SF感が漂う前半のうすら寂しい雰囲気から、あれよあれよという間にツイストに次ぐツイストで観客をぐいぐい引きつけながら3時間の長尺を突っ走る本作ほど、なにをいってもすべからくネタバレになってしまう作品も珍しかろう。それほどまでに、本作の脚本は複雑であり、かつ同時にこれまでのMCU作品をすべて踏まえつつ全ヒーローに彼/彼女たちなりのドラマとアクションの見せ場もまたそれぞれ作り上げられ、かつきちんと機能しており、相変わらずルッソ兄弟らの交通整理力たるや凄まじい。

にも関わらず「短い」と思ってしまうところが、本作の惜しいところであろうか。恐らくは尺の都合であろうけれども、回収されるべき伏線や顛末が欠けていたり、明らかにシーンが飛んだように思える箇所も──実際、予告編だけに登場したシーンもチラホラ──あったりし、若干の消化不良感もなくはない。

とはいえ、シリーズの主軸としてMCUの世界観を支えてきたトニー・スターク/アイアンマンとスティーブ・ロジャーズ/キャプテン・アメリカを巡る物語*2 *3として、これ以上ないであろう結末を導き出した本作には、敬意を表したい。観れば必ずや、観続けてきてよかった──僕自身は多くの作品を後追いしたクチではあるけれど──と思わせてくれるに違いない。


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◆父の死を聞きつけて、人間とポケモンとが共生する大都会ライムシティを訪れた青年ティムが、そこでなぜか彼とだけ言葉を理解しあえるピカチュウと出会う『名探偵ピカチュウ(ロブ・レターマン監督、2019)は、実写の世界観と絶妙にマッチしたポケモンたちのデザインや質感、動きの機微が新鮮な画の楽しさを与えてくれる堅実なエンタテインメント作品だ。

なんといっても、フサフサした毛並みと時折りシワクチャになる──『グレムリン』(ジョー・ダンテ監督、1984)のギズモを思い起こすような──表情やちょこまかと動き回るアクションの数々がなんとも知れぬ可愛さと実在感を醸す「実写」のピカチュウを見事にデザインした時点で本作は勝ちであり、さらに彼を演じるライアン・レイノルズの軽妙な台詞回しと声のトーン*4とが相まって、なんとなれば、ずっと眺めていたくなるような、クセのある魅力に満ちている*5。ほかにも、思いのほかロンドンなのが微笑ましいライムシティの人いきれのなかや、スコットランドの山間の風景のなかで数多くの種類のポケモンたち──そのそれぞれの再デザインも素晴らしい──が普通にいるという画の新鮮な楽しさでグイグイ観客を画面に引き込んでくれるだろう。

もちろん大作映画らしくアクション・シーンにも力が入っており、天地がひっくり返るかのような中盤の森でのチェイス・シーンは見応えがあったし、ライムシティに樹立する高層ビル群の高低差を活かしたクライマックスの見せ場も、画面内いたるところにいるポケモンたち──文字どおり「目がテン」だったアイツ(ら)の気持ち悪さも含めて──という前述の新鮮さも相まって迫力満点。まあ脚本面では、プロットに若干の穴が2、3あったような気もするが、楽しいエンタメ作としては許容範囲内だろう。

とにもかくにも、ピカチュウの微細な毛並みとシワクチャ顔を、ぜひスクリーンで確認したい。ピカ ピカ。


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◆1973年のL.A.で、子供をさらっては溺死させてしまうという中南米に伝わる悪霊に取り憑かれた母子を描く、「死霊館」シリーズ第6作目『ラ・ヨローナ~泣く女~』(マイケル・チャベス監督、2019)は、悪魔祓い系映画の王道な展開ながらメキシコ系の空気が新鮮な1作だった。

冒頭の、ひとりの男の子を除いて家族がフッと消えるシーンの「ハッ」とするような見せ方や、謎の物音がきしむ家のなかを歩く姿を追う長回しが効いたジリジリと効いたシーンなど、VFXや特殊効果を使わないで緊張感と怖さを描くことに長けたシーンが多かったのは嬉しい。シクシクという嗚咽がどこからともなく聞こえ、不意に映る画面の染みかと思われたものが実はラ・ヨローナであった……というような前半の恐怖シーン──ビニール傘越しに不意に登場するシーンは特に好き──は、Jホラーを思わせる演出やカメラ・ワークに加えてテンポの緩急がキッチリ効いており、不気味さと驚きがうまくブレンドされた恐怖感を味わえる。

ただ、後半になるにつれてラ・ヨローナがよく見かける書き割り的な──泣く、というよりは「ワーッ」と叫ぶ──悪霊になってしまい、若干その恐怖感が薄れるのが残念といえば残念。ホラー的に起こって欲しいことが次々起こる王道な展開で十分楽しいのだけれど、もっとこう、顔で泣きながらジワジワ襲ってこられたほうが、より怖かったのじゃないかしらん。もっとも、こういうポップさが、良くも悪くも「死霊館」シリーズらしさでもあるけれども。

一方で、これまで西洋キリスト教的な世界観のなか──実話ベースもフィクションもない交ぜにして同じユニバース、というのが面白い──でシリーズを続けてきたなかにメキシコ系のエッセンスを挿入したことは興味深いし、それを象徴するかのような、本作の後半から本格的に登場する呪術師ラファエルのキャラクター設定も面白い。宗教や科学に背を向け、教会を否定した“元”神父でありながながら“神”を信じる彼が、英語やスペイン語、フランス語といった多言語の祝詞を用いて悪魔祓いをする姿は、シリーズの世界観が今後よりワールド・ワイドに拡がってゆくのではないかと期待させるものだ。

その他、兄妹の父が殉職した警官だったことがもっと活かせていたらなァとか、オチにもうひと捻り欲しかったとか細々あるけれども、それでもキャッキャッと怖がるには十分楽しい1本であるし、シリーズとの連関が1番薄い本作は、むしろ「死霊館」シリーズの入門編として優れているかもしれない。楽しかったよ。シクシクヨヨヨ。


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◆心理カウンセラーとして秋川茉優が働く病院に搬送された記憶喪失の少女のまわりで不可解な現象が生じはじめ、やがて茉優の弟・和真までもが怪異に呑まれてゆくシリーズ最新作『貞子』中田秀夫監督、2019)は、ホラー映画としてはちょっと弱いかなァといった印象で、正直あまり怖くはない作品だ。

というのも本作は、『クロユリ団地』(2013)や『劇場霊』(2015)といった中田監督の近作ホラー映画の延長線上にあるようで、ゆったりとした作劇のテンポや、シーンや舞台ごとにモノトーン──もしくは、そこに補色となるような色を1点置いた──に統一された画面の色彩設計、また池田エライザ演じる茉優の衣装などからも察せられるように、どちらかといえば現代ホラーというよりも古色蒼然とした怪奇映画のテイストに近い。そう思って本作を観るなら、味わいのある作品ともいえる。

もちろん、これはどちらのジャンルが良いか悪いかという優劣のことではなく、本作が抱える問題のひとつとして、作り手の目指した方向性と、宣伝方針や観客の需要との食い違いが大きかった点が挙げられるということである。

それはそれとして、むしろ本作におけるより大きな難点は、脚本の詰めや細部が弱いことにあろう。たとえば、本作は中田監督の『リング』(1998)と『リング2』(1999)に連なる直接の続編と思われるが、この20年間における映像メディアの変遷によって一新された貞子──本作では、むしろヒルコに近い*6──の呪いのルールは奇妙に曖昧で緊張感に欠けるし、記憶消失の少女が冒頭で貞子に見出されたことによって霊が見えるようになってしまうのだが、これが展開にいささかも絡まない。どれもこれも雰囲気までに留まっている。

現状、映画のなかに散らばったままになってしまったこういった要素をもう少し深めて突き詰め、ラストの展開に集約できたなら、本作はよりいっそう見応えのある怪奇映画となりえたのではないだろうか。


     ※

*1:もちろん、ここにはフィクション的なアレンジがあるとはいえ、だ。

*2:【以下ネタバレ】 本作における重要な物語転換であるタイムトラベル──量子論的に観測されてしまったいままでのシリーズの過去は固定されて不変であるという作中の説明に従うなら、厳密には異なる世界線/パラレル・ワールドへの移動ということになるかもしれないが──の是非については考え出すとキリがないけれど、サノスが徹底的な他者犠牲のもとに行動していたのに対し、トニー・スタークが自己犠牲のもとに行動し、それによってサノスを打ち倒すという本作の結末は、良い着地だと思う。 ▼そもそもサノスのふるまいは、1作目『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー監督、2008)においてヒーローになる前の武器商人としてのトニー・スターク自身の似姿──そして後に彼が持つことになる、平和のためには武力による自由の抑圧も辞さないという考え方も同様だろう──であり、これをトニーが克服していたからこそサノスに勝てたのではないだろうか。 ▼同時に本作おいて、ほかのアベンジャーズの面々についても自己犠牲を払えることこそヒーローだという描き方に重点を置いていたように思われ、だからこそトニーやキャップのほんの少しのわがまま=自分の人生を生きるシーンがよりいっそう印象的になっているはずだ。

*3:【以下ネタバレ】 そして、だからこそ本作が全篇に渡って『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2018)と対関係を結ぶように作られていたのではなかったか。思い出そう。 ▼序盤でいきなり主要キャラがあっさり倒されることしかり、父と娘の関係性しかり、惑星ヴォーミアでのソウル・ストーンをめぐる展開しかり、クライマックスでの増援到着の展開しかり、ラストでスクリーンに背を向けて腰掛けたヒーローの後姿しかり、そしてもちろんインフィニティ・ストーン(a.k.a.指パッチン)で決着をつけることもしかり、さらに付け加えるなら、本作でアベンジャーズたちがタイムトラベルによってインフィニティ・ストーンの収集をしたこともしかりと、これらはすべて、サノスがこれまでに、ないし『インフィニティ・ウォー』内で取った行動の反転となっている。 ▼これらの反転とはすなわち、サノスとアベンジャーズたちが同じ内容の行動を取ったとしても、結末はこうまで変わるし、その行動のひとつひとつの持つ意味合いの差がヴィランとヒーローとを隔てるものだということが、作り手たちが本作に込めた核心だったのではないだろうか。

*4:実質これは「名探偵デッドプール」なのではと思い、R-15相当の暴力描写があるのかな? と、叶いもしない期待を夢想したのはココだけのヒ・ミ・ツ。

*5:映画本編の違法アップロードか、と思いきや、ピカチュウが本作の上映時間いっぱいを延々踊り続けるだけの公式ジョーク動画 “POKÉMON Detective Pikachu: Full Picture”。かわいい。

*6:原作小説にあった海からやって来る魔物「ぼうこん」との関連が明確になったともいえる。

2019 3月感想(短)まとめ

2019年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆元園芸家で、後にシナロア・カルテルの運び屋に就いた老人レオ・シャープの実話をモデルにした『運び屋』クリント・イーストウッド監督、2018)は、イーストウッドによる歳を重ねながらも作品ごとにいまだソリッドに研ぎ澄まされ、しかし同時に肩肘の張り過ぎない、適度に力の抜けた軽やかな──散文詩、いや、短歌や俳句のような余白感とでもいおうか──演出の枯れることのない妙技を味わえる一品だ。運転中、ずっと鼻歌を歌い、ハンドルに置いた手でペシペシとリズムを取っている姿など、もはや素である。

本作において最も興味深い点は、イーストウッドが『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督、1964)以降『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド監督、2008)まで、自覚的に演じ続けてきた暴力の連鎖を断ち、罪人を滅ぼす裁定者としてのイエス・キリストを象徴するキャラクターから降りたことだろう。むしろ本作で彼が演じたアールには、キリストではなくイーストウッド自身の半生が重ねあわされているはずだ*1

本作でイーストウッドが演じたアールは、デイリリーの栽培については数々の賞を受賞するほどの高評価を得ているが、その仕事にかまけて家族を省みず、果ては麻薬の運び屋にまでなってしまった。イーストウッド自身、映画人としての評価は非常に高く、アカデミー賞を2度受賞するほど名実ともに確固たる地位を築いているが、いっぽうで私生活は、既に結婚して家族を持ちながら、これまで幾人もの女性と浮名を流し、婚外子も多く離婚暦もあるなど、決して褒められたものではない側面を持っている。そんなアール=イーストウッドは、公私における罪をやがて認めて、自ら進んで裁きを受けるのだ。

同時に本作はある種、継承の作品でもある。本作における、運び屋となったアールと、彼を追う麻薬捜査官コリン(演ブラッドリー・クーパー)の関係は、かつてイーストウッドが監督・出演した『パーフェクト ワールド』(1993)におけるケビン・コスナーとの関係の裏返しであるし、コリンの相棒になるトレヴィノ(演マイケル・ペーニャ)がメキシコ系だという点は、『ダーティハリー』(ドン・シーゲル監督、1971)におけるハリー・キャラハン──しかも結婚生活がそれなりにうまくいっているらしいのが皮肉──を思い起こさずにはいられない。そして、本作より以前にイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』(2014)に主演したブラッドリー・クーパーが監督・主演した『アリー/スター誕生』(2018)は、もともとはイーストウッドの企画であったのだ。

ことほど左様に、予告編で謳われた「集大成」という言葉は、嘘ではなかったのだ。


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◆1987年、地球に飛来して記憶を失った機械生命体と父を亡くした孤独感に胸を痛める少女チャーリーが出会う “実写版トランスフォーマー” 前史バンブルビートラヴィス・ナイト監督、2018)は、懐かしくて新しい傑作。画調やプロダクション・デザイン、物語展開──まあ、ぶっちゃけ『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1982)です──などといった映画のルックは、舞台となる1980年代の映画の手触り──かつてテレビの洋画劇場でとっぷり浸かった“あの”感じ*2──を限りなく再現しつつも、キャスティングや演出のそこかしこ、そして実写と違和感なく馴染んだVFXは、今日(こんにち)でしか作りえない新鮮さに溢れている。

監督に、ライカにて人形アニメーターとして手腕を揮い、大傑作『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(2016)を撮り上げたトラヴィス・ナイトが登板しただけあって、その画面構築力とアクションの見せ方は非常に丁寧でかつ適確。マイケル・ベイの、とにかく爆発が爆発を呼び、グチャドロに変形するオートボットをシェイキーなカメラワークと編集で盛り重ねてきた前作までのシリーズにおけるアクション・シーンとは一線を隔する出来映えで、安心して映画の世界に入り込むことができる。

そして、本作でチャーリーがバンブルビー──ラジオの選曲やボディ・ランゲージだけでなんとかコミュニケーションを図ろうとするバンブルビーも、その一挙手一投足がこれまで以上に可愛げでエモーショナルな実在感に満ちている──や、後に出会う同い年のボンクラ少年メモと辿る冒険を、彼女の亡き父との想い出を絡めながら纏め上げた脚本も素晴らしく、終盤には思わずホロリとさせられた。

正直、あまり思い入れのなかった『トランスフォーマー』シリーズでこんなにグッと来る日が訪れるとは思ってもみなかった。まあ、実写版の本シリーズは作中における歴史修正がもはやメチャクチャで、その上さらにこれかい、といったところもなくはないが、本作はむしろ独立した1本として見事な完成度を誇っているので、ぜひとも本作だけでも観てみたい。きっと元気になるよ。


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◆ジャマイカアメリカ人のピアニストであるドン・シャーリーと、彼のアメリカ最南部を巡るツアーに同行して運転手兼ボディガードを務めたイタリア系アメリカ人の警備員トニー・ヴァレロンガの実話を基にした伝記コメディ『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、2018)は、ファレリーらしい毒っ気とペーソスとユーモアが──控え目ながらも──ピリッと効いた1作。

どこのコミュニティにも属せない寄る辺なさと、それでもなお屹然と理知的にふるまおうとする意思の強さの両面をたたえたドクター・シャーリーを演じたマハーシャラ・アリの見事な表情づけ──アカデミー賞助演男優賞も納得だ──や、これまでの面影をまったく感じさせないまでの肉体改造をして挑んだヴィゴ・モーテンセンのがさつだが溌溂とした佇まい──そして、ピザの“あの”食べ方!──など素晴らしく、彼らが旅を経るなかで反目しあいながらも友情を育む様子はとても胸を打つ。

そして本作がさらりと暴き出す当時の差別の横行とその構造には、幾たびもギョッとさせられる。トニーやシャーリーが旅の途上で出会う人々の──そして、ときには彼ら自身の──ふるまいを思い出そう。黒人だから、土地柄だから、風習だから、伝統だから……実はなんの根拠にもならないことを論拠に、悪びれもせず無自覚──そういった論拠には「自分が」という視点が抜けているので、なおのこと厄介だ──に差別や偏見や蔑みを振りまく姿は非常に醜悪だし、なにより恐ろしい。

これはなにも舞台となった1960年代アメリカ南部だけに限ったことではなく、現代アメリカ、否、引いてはわれわれ自身において無関係ではない。僕らはいつだって、本作でシャーリーたちを貶める側に無自覚にも立っている可能性を自覚しなければならない*3。そしてもちろん、それは人種問題だけに限った話ではない。性やセクシュアリティや権力といった様々なものにまつわる差別や偏見やハラスメント──この21世紀に、いまだ正気とは思えないニュースが次々に飛び込んでくるような今日である*4──など、ありとあらゆる問題が含まれるだろう。

ふたりの目を介して描かれる人間の醜悪さは、われわれ自身の似姿にほかならないのだから。


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◆1995年、自身の出生にまつわる記憶を失ったまま地球に降り立ったクリー帝国の首都・惑星ハラの特殊部隊員ヴァースが、やがて真のヒーローへと目覚めてゆくキャプテン・マーベル(アンナ・ボーデン、ライアン・フレック監督、2019)は、スタイリッシュなアクションと映像の数々や、デジタル処理によって25歳ほど若返ったサミュエル・L・ジャクソン、そしてなにより今日の社会問題を大きく取り入れてヒーロー映画として爽快なまでに昇華させてゆく見事な展開が見モノの傑作。

劇中、ヴァースに投げつけられる「感情を消し、俺の言ったとおりにやれ」といった指導や、彼女に「笑えよ、可愛いコちゃん」と侮蔑的に言うバイカー風情のオヤジ、とあるキャラクターが地球を「あそこはクソだめ(Shit hole)だよ」と揶揄する台詞、また中盤にある意表を突いた展開など、本作にはいまなおアメリカ──そして世界──を覆う男根主義や女性蔑視、移民やマイノリティに対する不寛容がまざまざと刻印されている。

そういった因習的な理不尽さの数々に対して、ヴァース=キャプテン・マーベルが持ち得る全力と正義感を持って次々に否をつきつけ、文字どおり吹っ飛ばしてゆく様は爽快そのもの。彼女が対峙した本作のラスボスとの虚を突かれるような呆気ない幕切れも、「そんな感傷的マチズモなんかにつきあっちゃられないよ!」という力強い意気込みだろう──だからこそ、ヴァースが地球に降り立って最初に吹き飛ばすのが“彼*5”の頭なのだろう──し、結局は彼女のそういったスタンスこそが世界を解放へと導いてゆく展開は感動的だ。

その他、中盤の『フレンチ・コネクション』(ウィリアム・フリードキン監督、1971)や『ロボット』(シャンカール監督、2010)を思わせる地下鉄内外でのチェイス・シーンが最高だったり、マーベル・スタジオのオープニング・ロゴが特別仕様で感涙したり、サミュエル・L・ジャクソンが本当に'90年代の頃の姿に見えて驚いたり、クライマックスにある宇宙船内でのアクション・シーンがちょっと暗くて見えづらいのが残念──ただし、ある台詞を巡る意味を逆転したやり取りは最高──だったり、ネコ(仮)が可愛かったりと、いろいろ思うところはあるけれども、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)作品群に新たな傑作が誕生したのは間違いない。


     ※

*1:アールが朝鮮戦争従軍者であるという設定は、レオ・シャープの経歴ではなく──彼は第二次世界大戦従軍者だった──、イーストウッド自身の経歴だ。

*2:画面もアメリカン・ヴィスタ──監督へのインタビューによれば、レンズも当時と同型を使ったという──だし、ナイト・シーンも適度に明るいし、カーチェイス・シーンには場所こそ違えどトンネルも出てくるぞ!

*3:われわれは、自分たちがそう思うほどマジョリティではない──その実、名誉白人と呼ばれて喜んでいたころとなんら変わらないのじゃないか、と腹立たしい気持ちになることのほうが多い──し、マジョリティだからと許される権利なぞこれっぱかしもないのだ。

*4:あらゆるヘイト発言は個人・メディア・政治家問わずに止まず、根拠のない歴史修正主義が跋扈し、労働者ばかりが理不尽に抑圧され、政権は正気とは思えない発言と行政を繰り返し、レイプ犯は次々と無罪となって挙句にその被害者を訴えるとは、いったいどういう了見なのか。恥を知れ、恥を。

*5:『トゥルー・ライズ』(ジェームズ・キャメロン監督、1994)のポスターに印刷されたアーノルド・シュワルツェネッガー

2019 2月感想(短)まとめ

2019年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆前作『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク監督、1964)の物語から25年、とある悲劇に見舞われたせいで生きる喜びを見失っていジェーンとマイケル姉弟とその家族のもとに、かつての姿のままのメリー・ポピンズが現れるメリー・ポピンズ リターンズ』ロブ・マーシャル監督、2018)は、わりと期待していたし、好評価も耳にしていただけに、いみじくも劇中歌で「本はカバーよりも中身が大切」と歌われているとおりの印象を受ける、ちょっと残念な出来の作品だった。

もちろん、半世紀余りを経て制作されただけあって、その映像技術の進歩には目をみはるばかりで、前作において目指されたアニメーションと実写の合成やマット・ペイントによるロンドンの再現──名匠ピータ・エレンショウらによる筆致──などを、かつて夢見られたであろう映像にまで高めてきているし、新たにメリーを演じたエミリー・ブラントほか役者陣の演技や、ダンサーたちとともに楽しいオーケストラに乗って舞い踊るミュージカル・パフォーマンスは素晴らしい。前作を思わせる展開を律儀に踏もうとしているのもわかる。

だが、本作はそれら表層の再現に傾倒するばかりで、1本の映画作品として有機的に噛み合わずじまいなのだ。なんとなれば、本作の物語を語るうえで必要なシーンがオミットされ、ミュージカル・シーンばかりが脈絡なく重ねられてさえいまいか。それもあって、前作よりも尺は短い──前作が139分に対して、本作は130分──はずなのに、反対に本作のほうが長く鈍重に感じられてしまった。

本作の舞台となる1930年代半ばを前後する2回の世界大戦と世界恐慌による経済不況というより大きく、そしてメリーをしても止められない悲劇──そしてそれは、今日(こんにち)にも置き換えられるだろう──に対して、だからこそすこしの想像力を持とうよ、というテーマ性そのものは大いに首肯するけれど、もうすこし内容的充実が欲しかったなあ。


     ○


◆地上への征服戦争勃発を目論むアトランティス王オームの陰謀を阻むべく、伝説の三叉槍を探す旅に出るアーサー=アクアマンの冒険を描いた『アクアマン』ジェームズ・ワン監督、2018)は、煌びやかで、どこか有機的な雰囲気のある海底都市のデザイン・ワークと、青を基調とした画面の色彩設計が実に美しく、そして1ショット長回し風の大立ち回りから始まり、水中であることを活かした無重力バトル、地上での上へ下への追走劇、果ては大怪獣海底決戦まで、近頃流行りのアクション・シーンをヤマと盛り込んだ幕の内弁当のような愉快で楽しい作品だった。

それにしても、ワン監督はアクション演出にメリハリがあって巧い。たとえば中盤にある海辺の町での追走シーンをみてもわかるとおり、縦横無尽に追う側と追われる側が入り乱れながら、位置関係や距離感を適確に描写し、かつケレン味と臨場感をもって観客をグイグイ画面のなかに引っ張ってくれる。欲をいえば、ところどころCGで描かれたキャラクターのアニメーション──とくに泳ぐアクション──にぎこちなさがあったのが気になったことかしらん。

ところで本作はバットマンワンダーウーマンらの世界観をクロスオーバーしたシリーズ「DCエクステンデッド・ユニバース」の一篇だが、それらと厳密な繋がりも薄く──そもそも若干の矛盾すらある──、内容もいわゆるヒーローものというよりは、まっとうな貴種流離譚的海洋冒険だったので、本作から観てもなんら問題ないのではないだろうか。


     ○


ノーベル文学賞の受賞が決定した現代文学の巨匠ジョセフ・キャッスルと彼を支え続けたジョーンの夫妻が家族にもひた隠しにしていた秘密を描く『天才作家の妻 40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ監督、2017)は、文学界──というか、社会のいたるところ──を毒する家父長制社会の闇に、夫婦という観点から切り込んだソリッドな傑作。

とにもかくにも本作は──ゴールデングローブ賞で主演女優賞受賞や、アカデミー賞ノミネートが示すように──多くを語らない妻ジョーンを演じたグレン・クローズの演技が本当に素晴らしい。穏やかな微笑の下に隠されたジョーンの夫へのひと言では表せない複雑な感情の機微を、クローズはシーンごとに微細な演技のニュアンスひとつで見事に切り取ってみせる。長年連れ添ってきた相手への、愛すれど心さびしく、しかし単に憎悪でもない、恐らくはジョーン自身さえ理解することも制御することも出来ない彼女の感情の流れを表現するクローズの演技は、それだけでサスペンスフルだ。

ラスト、正面から映されるジョーンのもの言わぬ微笑に、なにを思うだろうか。


     ○


◆遠い未来、天空の理想都市「ザレム」とその支配下にある地上のスラム「クズ鉄町」を舞台に、記憶喪失のまま目覚めたサイボーグ少女アリータの闘いと冒険を描く『アリータ: バトル・エンジェル』ロバート・ロドリゲス監督、2019)は、いろいろとイビツな部分も多分にあるが、なにやら凄いものを観たなという強烈な印象を残す作品だった。

とくにイビツに映ったのが、本作の物語展開──とくにそのテンポ感と緩急──のさせ方だ。まあ、それは無理もないだろう。というのも本作は、木城ゆきとによる原作漫画『銃夢』(1990-1995、集英社〔現・講談社刊〕)から、凶悪な賞金首“魔角(マカク)”とガリ*1が恋する少年“ユーゴ*2”を巡る前半の大きな2エピソード──というか、それらを元にしたOVA版(福富博監督、1993)──を主軸に、後の展開に描かれた架空の競技“モーターボール”のエッセンスを加え、さらに“あのキャラ” “このネタ” “その小ネタ”を必要以上にまぶしつつ、ダメ押しにキャメロン的オリジナル展開をも混ぜ合わせており、とにかく盛りに盛っている。さすが四半世紀にわたるキャメロン念願の企画だけあって大盤振る舞い、もっと陳腐な表現をすれば愛が重たいくらいに満ち満ちている。

しかし、そのぶん昨今の超大作映画としては短か目の122分という上映時間に収まる範疇をあきらかに超えている。だからなのだろう、とくに冒頭から前半にかけてのテンポが割と単調であり、尺的にはそうでもないものの、どこか鈍重な印象すら受けたし、「その展開は端折りすぎだし、いささか無理があるのでは」という場面も少なくない*3

しかし、その映像たるや凄まじい。原作においてもみっちりと情報量のある筆致で描き込まれていた背景や意匠をさらにブラッシュ・アップさせた未来都市のデザインと見せ方、最初は違和感が先にたったアリータのCG造型に対する印象をことごとく拭い去るかのような質感へのフェティッシュでリアリスティックな作り込みや、パフォーマンス・キャプチャーで精緻に取り込まれたローサ・サラザールの演技によって醸される実在感など素晴らしい*4

それに、原作の大きな魅力のひとつだった大胆でかつ流れるように美しいアクション・シーンの数々の再現性と、ロドリゲス監督らしいケレン味との融合がもたらす臨場感は見事なもの──惜しむらくは、通常上映版だとIMAX版(画面縦横比率1:1.90と1:2.39の混合)と比べて、IMAX撮影ショットの上下がトリミング(全篇1:2.39に統一)されるため、若干見づらい部分もあったこと──だった。

ことほど左様に悲喜こもごもといった感じではあるけれど、かつてキャメロンによる実写化の噂を聞いてから幾星霜、まさか本当に観られるとは思ってもみなかった本作が実際に劇場にかかっていることがまずは嬉しいし、続編もぜひ作ってもらいたい。いつの日か、飛び出す「おいちい」焼きプリンが大スクリーンで観られることを夢見て待つ。


     ※


【ソフト】
◆グリム兄弟の童話をもとに、お菓子の家の魔女の元から生き延びた兄妹が、やがて魔女たちを「そして殺す」ハンターとなった姿を描く『ヘンゼル&グレーテル』トミー・ウィルコラ監督、2013)は、軽妙な語り口にスピード感溢れるアクション・シーン──杖に乗って森を飛ぶ魔女のチェイス・シーンが『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(復讐)』(リチャード・マーカンド監督、1983)におけるエンドアの森のスピーダー・バイクを駆るシーンとそっくりで微笑ましい──と、ポップなゴア描写、そして中世感とスチーム・パンク(一歩手前)感が絶妙にミックスされたコンセプト・デザインなど諸々の要素をきっちりと備えつつも、気軽に楽しめるエンターテインメント作品だった。なにより驚いたのが、心優しきトロールエドワードがCGではなく、基本的には精密なアニマトロニクスを備え付けた着ぐるみだったこと。その実在感たるや素晴らしい。


     ○


◆戦国時代にタイムスリップしたバットマンたちとジョーカーらヴィラン軍団との熾烈な争いを描くニンジャバットマン水崎淳平監督、2018)は、「開幕5分で戦国時代」というスタートダッシュの勢いのまま、アメコミ風に塗りつけられたコンピュータ・グラフィックスのキャラクター──一部(モブなど)に従来の手描きを併用している──が、縦横無尽に駆け回るケレン味あふれるアクションが展開される1作。桃山文化風のデザインに南蛮渡来感を盛大につけ加えた、ある種のバロック的な意匠で彩られた画面も素晴らしい。クライマックスの戦闘シーンで流れる冗談のようなラップ・ミュージックも妙に格好良くてよかったですね……ゴー・ニンジャ、ゴー・ニンジャ、ゴー! って、別の映画*5が混ざっちゃった (*ノ▽ノ)キャッ。楽しい作品だった。


     ○


◆無謀運転が瑕のヤンチャ刑事マルコが、かつて凄腕ドライバーとして鳴らした上司からの特訓を受け、巷を騒がす強盗集団に挑むフェラーリの鷹』ステルヴィオ・マッシ監督、1976)は、カー・アクションに特化したカンフー映画のような物語構造で、目をみはるドライビング・スタント──後進からの前進反転はなんのその、片輪走行からクラッシュまで、けっこうな部分がリアル・スピードなのが恐れ入る──が数多あるのはもちろんのこと、師匠直伝の修行シーン──ふたりしてクラシックのフェラーリを改良したり、サーキット場でアクロバットな走行テクニックを伝授するシーンが最高──あり、そして因縁の対決ありでたいへん燃え上がる作品だ。1ヶ所、明らかに編集、というか撮影のミスと思われるシーンがあるが、そんなものは心の目で見ればまったく問題外だよ。


     ※

*1:原作でのヒロインの名前。

*2:映画ではヒューゴ。

*3:まあ、おそらくキャメロンが関わっているので、もしかすると後に長尺版──かつアンレイティッド版なら最高──が出るではないかと密かに期待している。

*4:画期的な映像表現だった『ファイナルファンタジー』(坂口博信監督、2001)から、遠いところにきたものだ

*5:ミュータント・ニンジャ・タートルズ2』(マイケル・プレスマン監督、1991)。

2019 1月感想(短)まとめ

2019年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆カントリー歌手として名を馳せていたジャクソンによって見出されたアリーが、やがてスターの階段を駆け上って行く『アリー/スター誕生』ブラッドリー・クーパー監督、2018)は、作曲から演奏、そして演技までをすべてこなしたレディ・ガガブラッドリー・クーパーのパフォーマンスが圧巻の一作。物語の展開や、キャラクターの心情を照らし出すかのような劇中歌はじつに名曲ぞろいだ。

そして、本作が初監督作とは思えぬクーパーの演出力も素晴らしい。音楽によって心を通じ合わせたアリーとジャクソンの内的な距離を示すかのような非常に近しい/親しい距離感で統一された寄り沿うようなカメラ・ワークや、後の展開を予感させ、そして人物の人となりをそれとなく描く小道具や美術の適確さ、そしてラストのラストでふいに訪れる映画ならではの編集は見事というほかない。

それにしても、“スター誕生”という物語が半世紀以上にも渡って作り続けられ、かつアリーが作中でさらされる男からの心ない言動の数々が、いまもってリアリティがあることにゲンナリする。劇中曲の歌詞にもあるように、我々はいつまで「古い生き方」にすがろうというのか。


     ○


◆祖母エレンの死をきっかけとして怪奇現象に呑まれてゆくグラハム一家の姿を描いた『ヘレディタリー/継承』アリ・アスター監督、2018)は、宣伝──「完璧な悪夢」という惹句が秀逸──に偽りなく、最高に恐ろしく、そして最高に面白い作品だった。本作は、決して「ドカン!」と大きな音が鳴ったり、カメラが揺れたり、CGや特撮を駆使した奇怪でグロテスクなものが仰々しく「ワッ!」と登場するような、ホラー演出の激しいタイプではない。ひとつひとつのホラー演出だけを切り取ってみれば、むしろオーソドックスで穏やかですらある。

しかし、硬質でしっとりとしたカメラワークや画面の色調、長回しと切り返しの緩急、あの「コッ!」や足音といった音響設計の絶妙さ、そして物語の展開のさせ方──次の展開を暗示するような不吉なものが、各所でさりげなくこっそりと画面に忍び込まされている点も見逃せない*1──の工夫ひとつで、こんなにも怖くなるものなのか、と驚くことしきりだ。主人公アニーを演じたトニ・コレットの「なにかを継承してしまったのか?」という表情のつけ方や、信頼できない語り手ぶりも素晴らしい。

そして、映画全体から滲み出すヒリヒリとした空気感がたまらない。オープニングの長い1ショット──制作途上のドールハウスかと思いきや……──が既にして示すように、もはや最初から一家が逃れようもないなにかに縛られているかのような閉塞感が、劇中のキャラクター同様に観客の息をも詰まらせにかかってくるようだ。本作が長編デビューとなるアスター監督は、自身の家族にまつわる体験を本作へとセルフ・セラピーのように盛り込んだというが、本作を最後まで観終えたとき、彼の抱える奥深い闇に触れたかのような、いや呑み込まれたかのような──むしろ、自分自身が持っている負の部分を洗いざらい具現化してくれたとでもいおうか──、えもいわれぬ戦慄に本当に身震いした。見事というほかない、歴史的な1作ではないだろうか。


     ○


◆長らく恋愛経験がなく、物事を斜から見ることに慣れてしまったリンジーとフランクが、同じ結婚式に出席したことで出会う『おとなの恋は、まわり道』(ヴィクター・レヴィン監督、2018)は、ちょっと薄口のウディ・アレン風という感じで気軽に楽しめる1作。

とはいえ、物語内期間を共通の知人たちが開いたリゾート婚での3日間絞りつつ、頭でっかちで捻くれまくった方面に軽妙洒脱な偏屈者主人公ふたりのお喋りというか、口喧嘩や皮肉の応酬だけ──ほんとうにちゃんとした台詞があるのはふたりだけなのだ──で90分弱の尺を持たせているのだから、たいしたものだ。本作で4回目の共演となるウィノナ・ライダーキアヌ・リーヴスの気張らず自然体な演技合戦も見もの。


     ○


◆パリからマルセイユ市警に左遷された花形刑事マロは、頻出する宝石強盗を捕らえるため、現地のへっぽこなタクシー運転手エディとタッグを組む『TAXi ダイヤモンド・ミッション』(フランク・ガスタンビド監督、2018)は、邦題からてっきりリブートかと思いきや普通に「5」だったので驚いたけれど、それでも所々で第1作(ジェラール・ピレス監督、1998)を律儀になぞった展開もありで、半分続編/半分リメイクといった趣。

全体的にはヨーロッパ・コープらしい突っ込みだしたらキリがないユルい作りではあるが、シリーズを追うごとにカー・アクションからホーム・コメディ路線になって車がちっとも出なくなったのを反省してか、本作では地の利を活かしたカー・アクション・シーンできっちり映画を引っ張ってくれるのが魅力だ。


     ○


◆上海に住むオタク系ハッカーで引きこもり青年ハオミンが、凄腕ハッカー“ゼブラ”が実行しようとする世界的犯行に巻き込まれる『サイバー・ミッション』(リー・ハイロン監督、2018)は、決してつまらなくはないものの、作り手のやろうとしている意図──おそらくは『ミッション: インポッシブル』シリーズにおけるトム・クルーズサイモン・ペッグのコンビ的なアクション映画──は汲めるものの、いかんせん諸々のやりたいことリストに対する焦点が合っておらず、そのどれもが中途半端になっているのが残念。それもあってか編集もひどく間延びしたように感じられて、全体的な鈍重な印象だ。

もう少しハオミンとゼブラの役割分担をきっちり分けるとか、ハッキングという戦法を活かしたロジックによって敵を打ち倒す展開といった詰めがあればなおよかった。惜しい作品だ。


     ※


【ソフト】

◆医療ミスでキャリアを失った医師と、空中浮遊の能力に目覚めたシリア難民の少年の逃避行を描くジュピターズ・ムーンコルネル・ムンドルッツォ監督、2017)は、特殊な装置とワイヤー操作を使用することで、ほぼ実際にキャストをロケ現場で吊り上げて撮影された空中浮遊のシーンが、なんといっても印象的。ふわりふわりと、そして重力の鎖を断ち切るかのように上下関係なく少年がぐるぐると舞う光景は、360度を大胆に、しかし優雅に回るカメラ・ワークとも相まって、なんとも知れぬ独特の臨場感──まるで少年と一緒になって宙に浮かんでいるかのような感覚──を観客に与えてくれるだろう。そのほか、浮遊シーン含めて今作で多用される長回しシーンなどは、アルフォンソ・キュアロン監督作を思い出したりもした。


     ○


◆環境破壊に人口過密、そして食糧難が進行する近未来を舞台に、とある富豪殺害の真相を追う刑事ソーンの姿を描く『ソイレント・グリーン』リチャード・フライシャー監督、1973)は、もはや有名すぎるオチのひとつである本作の結末はもちろんのこと、スラム化したニューヨークでの日常スケッチの数々──人々をホイルローダーで一気に汲み取って荷台に叩き込むという斬新な暴動鎮圧シーン、学のある老人たちがある種の人間コンピュータとなっている様子や、今日日の観点から見るとさすがにどうかと思われる描写も含めて──は、非常に禍々しいディストピア的風景に満ち満ちたSFだった。こんな未来は願い下げだよ。着々と近づいているような気もするけれど。


     ○


◆かつてギャングに恋人を殺され、日を追うごとに迫害を受ける青年ヌアが、祖父からハヌマーンの演舞にこそムエタイの極意ありと伝授されるタイクーン!!!!!』(ノンタコーン・タウィースック監督、2018)は、そこからクライマックスの復讐譚に至るまでがやたらのんびりと長かったり、コミックリリーフのシーンになると唐突に作り手のものと思われる“声”によるセルフ・ツッコミや状況説明が入ったりと、いろいろヘンテコな作品ではあったものの、アクションそれ自体は見応えがあるし、なにより「頭を使え」という教えにド直球で応えてみせる「明らかにそうじゃないだろ」というクライマックスの殺陣の豪快さに虚を突かれたので、それなりには楽しめた。


     ○


◆対怪獣戦争が終結して10年後、新たな地球の危機に立ち向かう対怪獣兵器イェーガーとそのパイロットたちの戦いを描く続篇パシフィック・リム: アップライジング』スティーヴン・S・デナイト監督、2018)は、ギレルモ・デル・トロが力業と繊細さを同時に併せ持って作り上げた大傑作すぎる前作(2013)*2のキャラクターたちや世界観に愛があるんだかないんだかよくわからないが、しかし脚本のツイストとしては面白く仕上げてきた快作。

白い無人量産型イェーガーや“黒いイェーガー”の登場など、本作は前作以上に『新世紀エヴァンゲリオン*3や『機動警察パトレイバー』──とくに漫画版やTVアニメ版──の影響が色濃い印象。かつ前作とは打って変わって全篇カラッと晴れ渡った明るい空の下、CGで作られた精緻なミニチュア・セット──あえてそう言おう──を思う存分破壊しながら展開されるアクション・シーンが満載なので、いろいろとツッコミどころや不満点もあるが、ジャンルものの続篇的なものとして割り切って観るならば、それなりにけっこう楽しめた次第。


     ○


◆縁もゆかりもないはずのアメリカ人大学生の男女3人が栃木県の山村の奥にあるキツネ様を祭る寺に導かれて体験する恐怖を描く『ホーンテッドテンプル 顔のない男の記録』(マイケル・バレット監督、2016)は、きちんと日本ロケを敢行したり、竹中直人ら日本人キャストをきちんと配したり、特撮を東映アニメーションに発注していたりと、非常に堂に入った日本の土俗的恐怖を定着している作品だ。

よくぞ見つけてきたロケ地での雰囲気溢れる撮影はいわずもが、なんといっても和製ホラー・ゲーム『零』シリーズに多大な影響を受けたと思しき舞台や小道具の数々*4──だからこそ、一見ファウンド・フッテージもののように始まる本作の登場人物たちが持つのが、いわゆるビデオカメラでなく、写真撮影を主としたデジタルカメラなのだろう──によって丁寧に積み重ねられる前半の盛り上げは絶品だ。惜しむらくはクライマックスのあっけなさというか、もうひと声なにか展開に膨らみがあれば──前半の伏線も回収されていない、というか制作自体が途中で止まったのではと思えるほど尻切れトンボな幕切れ──傑作として記憶される作品になったのではないか。


     ○


◆自殺のために青木ヶ原樹海を訪れた米国人の大学非常勤講師アーサーが、そこで出会った日本人タクミとともに樹海を彷徨い歩くうち、妻ジョーンとの記憶が脳裏に蘇る『追憶の森』ガス・ヴァン・サント監督、2015)は、生者と死者、それぞれの世界を隔てる境界線──空港の金属探知ゲートや樹海にある神社の鳥居など──や行動──車のカギや靴の扱い──の描写をなにげなく、しかし丁寧に重ねながら辿る展開が非常にウェルメイドな一作。

「樹海とは煉獄だ」という劇中の台詞からもわかるとおり、本作はダンテの長編叙事詩神曲』をベースにしつつも、その結論を──アンハッピー・エンドという意味ではなく──逆転させたかのような脚本が興味深い*5。つまり、中盤の洞窟のシーンが示すように、本作は同時にアーサーの“生まれなおし”の物語*6でもあり、最終的に彼がどこに天国/楽園(=理想の場所)を見出すかという着地は、全篇にまぶされたダンテやキリスト教的なメタファー*7を越境した感動を観る者に与えてくれるのではないだろうか。


     ○


◆ワールドトレードセンターから墜落死したかに思われたキングコングが10年の時を経て、エイミー博士率いる人口心臓移植と雌コングからの輸血によって復活するキングコング2ジョン・ギラーミン監督、1986)は、ドラマ展開の絶妙なのんびり具合がとても’80年代の映画とは思えない面は大いにある。けれど、着ぐるみと特殊メイク──おそらくは数種類の表情をシーンごとに使い分けたのだろう、表情豊かなコングの感情表現が見られる──によるコングとミニチュア撮影、実物大の腕のモデルと俳優との絡みを巧みに使い分け、そしてなにより、それらそれぞれの境界を一瞬見失うくらいに丁寧な光学合成を用いたショットの多さなど、SFXはいかにも’80年代的な映像の手触りが楽しめる。

それにしても、どこかベトナム戦争を思わせるコング掃討作戦や、ただただコングに戦意と憎しみだけを向ける軍隊描写など、先のリブート『~髑髏島の巨神』(ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)への影響は、キングコング映画のなかでは本作がいちばん色濃いのかもしれない。


     ○


◆西部開拓時代を舞台に、シリーズを通して登場したバート・ガンマーの祖先の活躍を描いた前日譚トレマーズ4』(S・S・ウィルソン監督、2004)は、見せ場は控え目で、中盤に若干の中だるみもあるものの、モンスター映画的な手堅い演出が楽しめる1作。ガンマニアであり、そのトリガー・ハッピー気質でグラボイドに一泡吹かせていたバートの祖先ハイラムが英国上流階級だったことが明らかになる本作では、バート役と同じくハイラム役に登板したマイケル・グロスが、これまでと打って変わって明らかにジョン・クリーズ風の演技をみせてくるのが可笑しい。


     ※


【ソフト(TVアニメ)】
大川ぶくぶによる同名の4コマギャグマンガをTVアニメ化したポプテピピック(青木純、梅木葵シリーズディレクター、2018)は、各話で主人公ポプ子とピピ美の演者が違うという試み──Aパート終了後、10分ほど前に見たそのAパート冒頭と同じ映像が流れはじめたのには面喰らった──は興味深いし、シュールでナンセンスなギャグのつるべ打ちを手描きアニメからCG、実写、果てはフェルト人形によるストップモーション・アニメ──また、第7話のAC部によるパフォーマンスに感嘆した──まで使い分けて描かれた映像表現の振れ幅の大きさもめっぽう楽しく、なんというか妙にクセになる作品だった。


     ※

*1:2度観ると、本作に仕掛けられた伏線の数々がより一層明瞭になるだろう。

*2:公開当時の僕の感想>>拙ブログ『パシフィック・リム』(3D日本語吹き替え版)感想

*3:前作ではデル・トロ自身は影響を否定していたが。

*4:さらに言えば、本作の構成は『マタンゴ』(本多猪四郎監督、1963)の影響があったりするのじゃないかしらん。

*5:後の展開からもわかるとおり、渡辺謙演じるタクミは──おそらくは──実在せず、彼はダンテを導く詩人ウェルギリウスベアトリーチェを象徴する人物だろう。樹海のなかで崖や階段の描写が頻出するのも、ダンテが描いてみせたような中世ヨーロッパ的な階層構造を持った“あの世”観の演出と考えられる。

*6:洞窟といったトンネルは、しばしば胎内や産道の象徴であり、本作ではさらに羊水に満たされるという描写もある。

*7:聖杯を探す者と同じ名を冠するのが主人公であるように、彼の妻ジョーン──ジョンの女性系──とはすなわち洗礼者ヨハネ的な意味合いもあるのだろう。ご丁寧にアーサーが脇腹に傷を追うシーンまである──アメリカ映画にはよくある描写ではあるが──ため、彼が後にイエスのように復活することを示唆するだろう。