2022 3-6月 ひとこと超短評集

3月以降に劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく、なんとなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集です。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(3-6月)
◆地図にない場所に眠る秘宝を巡るネイサンとサリーの冒険を描くアンチャーテッドルーベン・フライシャー監督、2022)は、冒険活劇映画を体験することをコンセプトにしたゲームを映画に逆輸入した作品だけあって、天井知らずな握力の持久力によって繰り広げられる立体的で荒唐無稽なアクションの連続が楽しい。また、この手の作品に珍しく、登場人物の誰しもが大なり小なりクソ野郎なのも可笑しい。


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◆とある夫婦の新婚旅行中に起こった不可解な殺人事件にポワロが挑むナイル殺人事件ケネス・ブラナー監督、2022)は、前作からとあるキャラクターを続投させたことや、観ている最中は無駄かと思われた冒頭の第1次大戦シーンを巡るアレンジによって、ポワロの人物像をより深く抉ってみせるのが、本作最大の見どころだろう。ラストシーンのなんとも知れぬ切れ味と切なさよ。


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◆やがて世界トップクラスのテニス選手となるウィリアムズ姉妹を、父リチャードがいかにして育てたかを描く『ドリームプラン』レイナルド・マーカス・グリーン監督、2021)は、親の夢を子に託すタイプの教育が持つ明暗を、劇中の様々な比較対象によって描いていて興味深い。勝負に負けてなんとやらを地で行くラストの爽やかさも格別だ。


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◆夜ごとの自警活動を始めて2年経ったバットマンの前に、謎の犯罪者リドラーの不穏な影が現れる『THE BATMAN-ザ・バットマン-』マット・リーヴス監督、2022)は、’70年代ノワール映画を思わせるダークで陰湿な雰囲気が見事にフィルムに定着された1作だ。心身ともにやつれはてているバットマンブルース・ウェインを演じたロバート・パティンソンの存在感、「アヴェ・マリア」の変奏によって醸されるリドラーの不気味さときたら、たまらない。


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◆バスター・ムーンたちが大都会でのショーを行うべく、引退した伝説のロック歌手キャロウェイを引っ張り出そうと奮闘するSING/シング: ネクストステージ』(ガース・ジェニングス監督、2021)は、思わずリズムを取りたくなるような楽曲と見栄えのよい振付けが合致したミュージカル・シーンとコミカルでスラップスティックなギャグ・シーンによって、非常に勢いのよい作品だ。いっぽうでふと我に返ると、前作以上に独り相撲で他人に迷惑をかけまくるムーンの唯我独尊ぶりは若干ノイズだったか。


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見世物小屋に流れ着いた浮浪者スタンがやがてコールド・リーディングを習得する『ナイトメア・アリー』ギレルモ・デル・トロ監督、2021)は、全篇にわたって映されるおどろおどろしくも鮮やかな色彩と、やがて物語がたどる円環構造を思わせる丸のラインを巧みに用いた舞台セットのデザインが美しい1作。冒頭の短いシークェンス一発で、本作がこれからたどる悪夢感を見事に描出せしめた演出の巧みさで、全篇に渡って、じんわりとした不穏さを楽しませてくれることだろう。


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◆薬物依存を克服したジェームズとその飼い猫ボブが体験したクリスマスを描く『ボブという名の猫2 幸せのギフト』(チャールズ・マーティン・スミス監督、2020)は、本作出演後に惜しくも亡くなった名優猫ボブの達者な立ち振る舞いと、人々の善意の心が胸に染み入る1作。ただ、本作のメインストーリーの時間軸が、前作でのどのあたりになるのかが若干つかみづらかったのは惜しい。


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ドクター・ストレンジマルチバースから移動してきた少女アメリカ・チャベスと出会うドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』サム・ライミ監督、2022)は、これでもかこれでもかと炸裂するサム・ライム節がなんとも楽しい1作(ライミ版『スパイダーマン』3部作にも登板したブルース・キャンベルの吹替えに、同じ江原正士をキャスティングしたのはエライ)。MCUってこんなにドバドバ血を流して大丈夫だったんですねえ。


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◆重力異常をきたした東京でパルクール・ゲームに励む若者たちの前に謎の少女が現れる『バブル』荒木哲郎監督、2022)は、縦横無尽に駆け回るアクション・シーンの楽しさと、泡の表面に映る様々な色のように不思議な鮮やかさを再現した色彩設計の美しさは突出しているけれど、いかんせん話運びがお粗末に過ぎるのがもったいない(伏線を張る前に答えを映す展開しかない)。オープニング・タイトルを入れたことで最初のアクション・シーンのインパクトが弱まっているのも、もったいない。


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◆ピート・“マーヴェリック”・ミッチェル海軍大佐が、とある作戦実行のために教官職を命ぜられるトップガン マーヴェリック』ジョセフ・コシンスキー監督、2022)は、脚本が若干弱いかなと思う部分──集まった候補生の半分に文字どおりスポットどころかカメラも向かないのは特に気になった──はあるけれど、前半においてピートの脳裏にとある過去が一気に去来するシーンの見せ方とトム・クルーズの演技、そしてなんといっても実機にIMAXカメラを設置して撮影した飛行シーンの臨場感と迫力は、見応え抜群だ。ぜひ劇場で観ておきたい。


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2022 5月感想(短)まとめ

2022年5月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆日本にばかり出現する敵性大型生物〈禍威獣(カイジュウ)〉への対抗に特化した精鋭部隊〈禍特対(カトクタイ)〉の前に、謎の光の巨人が現れる『シン・ウルトラマン樋口真嗣監督、2022)は、明るく楽しい “空想特撮映画” として見事に結実した1作だった。


「特撮の神様」こと円谷英二が設立した円谷プロが制作・放送して人気を博した特撮テレビドラマ『ウルトラマン』(円谷一ほか監督、1966-1967)を庵野秀明が企画・脚本等を務めて映画としてリブートした本作についていえることは、まず端的に「楽しくて、面白かった!」ということだ。

個人的にウルトラマンとは、ドラマ含めた本編をすべて観たのはおとなになってからとはいうものの、物心ついたときにはすでにして──その経緯はいっさい覚えていないけれど──好きだったキャラクターであり、それなりに愛着のある存在であることもあったのだろう。どういうわけだかディズニー映画のVHSに交じって何本かあった『ウルトラ怪獣大百科』や、わけもわからずドラマ『私が愛したウルトラセブン』(佐藤幹夫演出、1993)を録画したVHS──たぶん両親がウルトラ狂いの僕のために録画してくれたのだろう──を気が違ったかのように繰り返し観ていたり、小冊子付のカセットテープ音源を幾度となく聴いていたりしたことは、僕の最初期の記憶のひとつである。後にお気に入りはゴジラガメラといった怪獣に映ってゆくのだけれども、ともかく本作を観ているあいだ、なんだか童心に帰ったような気分になって、すっかり無心で楽しんでしまった。


本作の見どころは、まずはなんといっても特撮映像だろう。山間(やまあい)で樹木をなぎ倒し、街中でビルを木っ端微塵にしながら猛威を振るう怪獣の躍動と、対するウルトラマンとの攻防は迫力満点だ。とくにシネマスコープというワイド画面を活かした抜けの良いロング・ショット──ここまでの引きの画は、オリジナル当時はテレビの画面サイズ4:3の制約から不可能だっただろう──が、映画世界に文字どおり拡がりを持たせていて印象的だ。また、単純に特撮シーンの数とボリュームが多いのも嬉しいし、原作を再現したパートとまったく新しい画面に挑戦したパートとのバランスもよかった。

また本作は、もともとが連続テレビドラマでかつ各話の連続性が薄いレギュラー・ドラマ形式である『ウルトラマン』の物語を1本の劇映画としてまとめあげるにあたっての工夫も利いている。とくに、どうして似たような形状の怪獣が何度も出現するのか──もちろん実際には着ぐるみを部分的に流用していたためだが──を物語的一貫性の軸のひとつに持ってきていたのには舌を巻いた。また庵野秀明脚本らしく、空想特撮的フィクションラインを絶妙に保ちつつも理詰めで構築されるSF的ディテールが物語の実在感を底上げしている。

もちろん先述の原作の形式上、本作のリズム感は映画というよりも、全6話の30分ものドラマシリーズをシームレスに繋いだ総集編的な感じに近い。それでも『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)から引き継いだ、出来る限り無駄を省いた脚本と原作ドラマを思わせるちょっとコミカルなユーモア、そしてグラフィカルな──『シン・ゴジラ』以上に、被写体の手前に配したなにかしらを大胆にナメる実相寺昭雄アングルを重用した──画面 *1とテンポのよい編集でグイグイと観客を引っ張ってくれることだろう。


ところで、本作でもっとも興味深かった点を挙げるなら、本作が意図的に持たせようとしている、ある構造だろう。あるいは立ち位置、スタンスと言い換えるべきかもしれない。というのも本作は、『シン・ゴジラ』が「もし現在はじめてゴジラが出現したら」というシミュレーションを劇中でおこなっていたことを引き継ぎ、今度は「もし『シン・ゴジラ』に端を発して『ウルトラマン』というコンテンツが現在はじめて誕生したら」というメタ・フィクション的なシミュレーションを『シン・ウルトラマン』という枠組みを使って試みているからだ。

本作のタイトル画面 *2からプロローグ部分まで──という、開始早々に腰を抜かす展開──を観てもわかるように、本作は『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)に端を発する怪獣映画/円谷特撮が、紆余曲折あってついに『ウルトラマン』として結実した瞬間を目の当たりにした視聴者の感覚を──非常に変化球なかたちで──観客に追体験させようとしたのではなかっただろうか。そうであればこそ、かつて円谷特撮番組内で東宝特撮映画の役者陣が脇を固めたように、本作に『シン・ゴジラ』から絶妙に重なるような重ならないようなキャスティングで役者が続投しているのだろう。この円谷特撮受容史の疑似的な追体験を観客に与えるという試みが吉と出るのか、それともオッサン(=面倒な老いたオタクたち)の世迷い言(=つまらない想い出話)と捉えられるか、今後の観客のリアクションがどう転ぶのかも興味深い。

ともかく本作によって庵野が『シン・』特撮シリーズで試みようとしていると思しきものの一端が垣間見えたのはたしかであり、先ごろ新たな予告編も公開された『シン・仮面ライダー』(庵野秀明監督、2023 ※公開予定)がどういう切り口となるのか、俄然楽しみになった。


その他、成田亨のオリジナル・デザインをブラッシュアップしたウルトラマンや怪獣各々の造型は質感表現含めて美しかったし、宇宙人が有する理屈や本作のウルトラマン解釈も面白かったし、あの声のキャスティングはズルいと思ったり、田中哲司の部下に早見あかりがいるのはドラマ『デッドストック〜未知への挑戦〜』(権野元、三宅隆太、森達也監督、2017 *3)を思い出したり、さんざん予告編で引っぱっておいた報告書の内容には抱腹絶倒したし、良くも悪くもフェティシズム全開なショットの数々はようやったなァ思ったり、とはいえ長澤まさみ演じる浅見分析官が後半になるにつれて活躍しなくなって応援団長化するのはもうすこしどうにかならなかったのか、あるいは禍特対がそれぞれのシーンでいったいどこに陣取っているのかといった位置関係がいまいち判りづらかったなぁ、などなど細々あるけれど、まさしく “空想特撮映画” として明るく楽しくリブートされた本作は、スクリーンでこそ楽しみたい1作だ。もちろん、ウルトラマン初体験の方にもオススメです。

最後に、本編とは関係なく僕の好きな言葉は「犠牲者(為政者)はいつもこうだ……。文句だけは美しいけれど…… *4」です。


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【ソフト】
◆しがない中年の父親で金型工場勤務のハッチ・マンセルが、とあるきっかけから凄惨な闘いへと飲み込まれてゆく『Mr.ノーバディ』イリヤ・ナイシュラー監督、2021)は、いわゆる “ナメてたアイツが殺人マシンでした” 系映画として、じつにじんわりと「ああ、いい映画を観たな」と感慨に浸れる絶妙な湯加減の作品だった。展開やアクションの定石を踏まえつつも、ひかえめながらもそこかしこに斬新さを盛り込んだ演出が効いていたり、クリストファー・ロイドが元気そうでなによりだったり、オープニングとラストで流れる『悲しき願い』の味わいがたまらない。


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*1:普通の映画撮影用カメラと、おそらくはスマートホン内臓のカメラなどをあれこれ使用したために、『シン・ゴジラ』以上にショットごとの画面の解像度や色味、感触がバラけているのがいささか気になるけれど、これはこれで昭和特撮の合成の有無で変容した画面の手触りが、本編にやって来たと考えるべきなのだろうかしらん。

*2:本家『ウルトラマン』のタイトル・ロールを忠実に再現した、と申し上げれば判っていただけるだろう。

*3:このドラマも、ホラーに特化した『ウルトラQ』(円谷一ほか監督、1966)的な味わいのあるシリーズだ。

*4:本作において、こちらの善悪の基準を明確に揺るがすようなエピソードや、あるいは怪獣のほうにこそシンパシーを寄せてしまううようなエピソードがないことには若干の不満を覚える──もちろん、ここまでやると収拾がつかなくなるのは明々白々だし、原作ドラがレギュラー・ドラマ形式でかつ多く話数があったからこその拡がりであったことは重々承知である──けれど、だからこそ、あえて彼にあんなイイ声であんな内容の言動──その元ネタは当時のいくつかの雑誌や書籍が誤情報を元にプロフィールを掲載した、ということがあったからである──をとらせたのだろうな、と思うし、また神永が単身逃げ遅れた子どもを助けるために駆け出したのも、このエピソードからの引用だったのかもしれない。いずれにしても、「故郷は地球」だと胸を張って言える世界になってほしいものです。

2022 4月感想(短)まとめ

2022年4月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【ソフト】
◆父の再婚が決まった陽や、心臓の持病のために手術が決まった陸たちが日々を生きてゆく『かそけきサンカヨウ今泉力哉監督、2021)は、カメラワークが──とくに切り返しでのサイズが各々の登場人物でほぼ変化しないので──いささか単調なきらいがあるけれど、小さなエピソードを重ねて人物たちの関係性の変化を描いた非常に丁寧な青春映画だった。なかでも、登場人物たちの着る衣服の色彩選択は見応えがあった。シーンごとにキャラクターが背景からパッと浮き出すような色のものを着ているのか、それとも背景に沈み同一化するような色のものを着ているのかを細かく設定した衣装選択が、しっかりとドラマを支え、静かに盛り上げていて印象的。



◆映画オタクの父親が家族を守るために警察相手に完全犯罪を画する『共謀家族』(サム・クァー監督、2019)は、シンプルに滅茶苦茶おもしろくて脱帽するのだけれど、本作が──インド映画のリメイクでもありつつ──ゴリゴリの中国映画でありながら、反骨精神に満ち満ちた1作であったのに驚嘆した。いいぞ、もっとやれ。やりまくれ。


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【ドラマ】
◆東京ローカルのラジオ帯番組「オビナマワイド」が特集企画に潜む不審な作為に呑まれてゆく『何かおかしい』太田勇、及川博則、山口将幸演出、2022)は、ひねりと味わいのなんとも知れぬ気味悪さ(ゆえにサイコー)の効いた、さすがロジカルで不条理な奇想を得意とする仮面姿のホラー系YouTuber でホラー作家の雨穴が原案を担当しただけあるドラマ・シリーズだった(全6話)。

本作は、誰かしら全員がどこか倫理観のタガが外れているラジオ番組スタッフの猟奇性とそれに乗っかるゲストやリスナーの異常性、タネ元の伝奇性、そしてそこかしこにまぶされている今日(こんにち)性が絶妙にミックスされた実世界と地続きの不穏さが、観る者を──まるで、たとえば諸星大二郎や、あるいは実話系怪談の作品を読んでいるかのごとく──怪しく揺さぶり、怖気を誘うだろう(個人的には第4話が最凶に気色悪かった)。もちろん、1話正味20分のシリーズゆえに説明不足だったり消化不足なところもありはするけれど、同時に短尺ゆえのソリッドさも兼ね備えている。また毎話、前説と解説を『ヒッチコック劇場』もかくやに担当する雨穴の存在感も、アクセントとしてなんとも忘れがたい。 ※先行配信(Paravi)にて視聴。


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【漫 画】
『さよなら絵梨』藤本タツキ、2022)感想と雑考(ネタバレ)
>> https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2022/04/13/180758


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漫画『さよなら絵梨』(藤本タツキ、2022)感想と雑考(ネタバレ)

文化祭で上映した自主映画の評判のあまりの悪さに自殺を決意した高校生・優太が、ただひとりその映画を「気に入った」という絵梨に出会う、Twitter 上でまるで「クソ映画みたい」だと話題になった漫画『さよなら絵梨』藤本タツキ、2022)は、僕にとって激烈に心へ刺さりまくるタイプの作品とまではいわないまでも、技巧的で完成度の高い、そして本質論的にいろいろと考えさせられる1作だった。 (※2022.04.15 一部加筆修正)


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【以下、ネタバレありなのでご注意ください】


本作が漫画配信Web ページ「少年ジャンプ+」上で公開された際、Twitter 上にて「クソ映画」としてトレンドとなっていたのは、題材が映画(撮ること/観ること)を扱っている点と、それ以上にいわゆる「爆発オチ」が採用 *1されているからのようだけれど、それと同時に本作が読者を漫画を読んでいるというよりも、まるで映画を観ているかのような感覚にさせるからでもあるだろう。

本作のページ・レイアウトはなかなか独特で、ほぼすべてのページで横長で同サイズのコマを4段配置するという絵コンテのようなコマ割りを採用している。これは、本作で描画される絵が──扉絵を除いて──すべて主人公・優太がスマホで撮影した映像素材であるという設定ゆえである。この均一なそれぞれのコマの隅々まで精緻に描かれた絵の情報量はもちろんのこと、あたかも長回し撮影かのようにほぼ同一の内容のコマが延々数ページにもわたって続くのを読むうちに、まるでキャプチャー画面を順々に観ている──やがて、それがあたかも動画のように思えてくる──ような錯覚に陥る *2

その一連の流れのなかで、ふいに輪郭線をダブらせたりコントラストを変換させた絵のコマを挿し挟むことでピンボケや映像のブレを表現しているのも、それに拍車をかける。それでいて、ここぞというときに2段抜きや全段抜き、見開きの大ゴマを配することで胸の内に沸き起こる情感は、漫画ならではのインパクトだ。本作は、この絶妙なバランス感覚がとても巧みだ。


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また、本作が読者に対して、かつて観た様々な映画作品を髣髴とさせるのも「クソ “映画” みたい」だと話題になった他方の理由だろう。すでに多くのところで指摘されているように、ヒロインの「絵梨」という名前や中盤やラストで語られる “吸血鬼” 設定などは、あきらかに『ぼくのエリ 200歳の少女』(トーマス・アルフレッドソン監督、2008)からの引用と思われる(僕もとっても大好きな作品だ)。

そのほかにも、少年少女が半ばドキュメンタリーのように自主映画を製作していく様子は『20世紀ノスタルジア』(原将人監督、1997)、誰かしら死にゆく大切な人物のために自主映画づくりに奔走する感は『僕とアールと彼女のさよなら』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督、2015)、かつて愛した女性の記憶を巡る物語のなかでふいに吸血鬼の例え噺が出てくるのは『抱擁のかけら』(ペドロ・アルモドバル監督、2009)、そして件の「爆発オチ」は作中にもオマージュがあった『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督、1999)や、なにより『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)を思い出した *3

もちろん、これらが引用元として明言されているわけではないので、あくまで僕個人の連想に過ぎないのだけれど、本作はそれだけ映像的/映画的記憶を呼び覚ます感覚に満ちている。しかし、それはどうしてなのだろうか? あるいは本作には映画(というメディア)の本質を突くようなエッセンスがあるような気がしてならない。


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ところで、Twitter 上に方々から投稿された本作の感想ツイートを流し読みすると、本作で描かれたどこからどこまでが現実で、いっぽう虚構なのだろうか、というような疑問や考察をしている文章が散見されたように記憶しているけれど、そもそも本作において映されるものが果たして現実か虚構かという命題はいっさい不問となるのではないだろうか(もちろん本作が漫画作品だから、という理由ではない)。

先述のとおり本作は、紙面に描画されるコマはすべて優太が撮影した映像素材である、という体裁をとっている。そして読者には、基本的にはそれが時系列に沿った出来事としてドキュメンタリックに提示されているため、第1ページ目の第1コマ目から優太がじゅんぐりに撮影した映像を観ている(読んでいる)のだと、われわれは理解するだろう。



しかし、本作で提示される映像素材が「順撮り」されたものである証拠はいっさいない。よくよく考えるなら、本作の映像素材のそれぞれが、いつ、どこで、どのように、さらに言えば誰の手によって撮影されたのかを判別することは不可能なことに気づくだろう。それが証拠に、あたかも「現実の出来事」であるかのように描かれる本作冒頭から前半──優太が母の死を巡る映画『デッドエクスプローションマザー』を撮って不興を買い、それによって絵梨と出会い、ふたりして映画を観始める──にすら、優太がスマホ片手にリアルタイム撮影することのできない画が混じっている。

思い出そう。文化祭後に倉庫で教師から説教を受ける優太を教師もろとも横から──あたかも隠し撮りしたかのように──撮ったシーン、あるいは絵梨に誘われた廃墟の一室に据えられたソファにふたりして座ってスクリーン(絵としてはこちら側)を眺めるシーンは、あきらかに作為的なカメラワークであり、きちんと登場人物がふたり映るようにカメラ(スマホ)を設置するという準備段階を踏まねば絶対に不可能なものだ *4。このことは中盤、優太とその父、そして絵梨が食卓を囲んでいるシーンにおいて、じつはそれが映画のための演出だったと明かすことで暗示している *5。さらにラストシーンにおいては、それまでのドキュメンタリー映画的な文法を軽々と捨て去って、もはや劇映画のカメラワークで物語が綴られる *6



また、物語中盤であきらかになるように、前半での母の死を巡る映画や、続く絵梨との触れ合いを描く映画のなかで、優太が意図的に排除した、あるいは撮らなかった映像がある、というのも重要だ。それは、優太の亡き母が持っていた本当の意図や負の側面をじつはカットしていたという展開や、絵梨が本当は眼鏡をかけていて歯の矯正もしていたところを本人の希望で撮影の際は外さしていた──しかも彼女は性格が悪かったらしい──という証言だ。作中で「〇〇時間にもおよぶ映像素材を編集した」という旨のセリフが幾度かあるように、本作はそのじつ細かく演出され、編集されたものであり、そうであれば本編には登場しないこぼれ落ちた要素も、あるいはこそぎ落としたり覆い隠したりした要素も多々あるのであり、本作が本作として完成したことは、そこになにかしらの意図が介在したことにほかならない。

そして、本作に登場する映像素材のすべてを優太自身が撮影したという断言も、これまたできない。たとえば白石晃士監督などが得意とするモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)映画のメイキングをご覧になったことがあればご存じかと思うけれど、その作中でのキャラクターとしての撮影者が、必ずしも実際の撮影者(カメラマン)ではない。実際のカメラマンのそばにくっついて、役者がそのキャラクター(の声)を演じている場合が往々にしてある。

ここでページを反対にめくり返してみれば、扉絵に描かれた「スマホを構える両手」とは、いったい誰の手というのだろうか? その手の持ち主が、あたかも優太が撮影しているかのように観客に思わせようとする作為のもと、スマホを構えていたかもしれないではないか? そもそも優太たちは「現実」の存在なのか? 読者/観客が「ファンタジーをひとつまみ」というセリフに弄されるばかりに本作全体がある種の「フィクション=物語」である可能性を失念しているのではないか?



ことほど左様に、演出にせよ撮影にせよ編集にせよ、どんなジャンルであれ、映画は映画であるかぎりにおいてなんらかの作為や意図をはらみ、そのことから逃れることはできない。ひるがえせば、現場を演出し、そうして撮影した映像素材を取捨選択し、それらを情報的にも情緒的にも効果的な順序で構築してゆく編集やポストプロダクションといった作為的な行為がなければ、映像は映画たりえない。

そして、本作に2度 登場する爆発こそ、その作為性(=映画たるもの)の象徴そのものだ。


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では、なぜ記録映画であったはずの母の映画『デッドエクスプローションマザー』に、優太は作為性を必要としたのだろうか。そして、なぜ優太は母の記録映画のラストに爆発を足したのだろうか。

それは優太が、母に対して無意識にトラウマ的な記憶と欲望を抱えているからだろう。そして、それはモノローグで語られるような母の死そのものというよりも、優太が母から受けていたらしいDV の記憶や、これによって彼が母を(爆)殺したいとう欲望が気づかぬうちに芽生えていたからではないかと考えられる *7。母からの肉体的ないし精神的暴力による心的ストレスや、母を殺したいと願った罪の意識から、彼の無意識下にはトラウマとしての母が蓄積されていった。このトラウマを解消すべく、母のためというよりも、優太が自身のために「母」を物語ろうとしたように捉えられる。

トラウマとは本来、当人にとって語りえないものだ。というのも抑圧されたトラウマ記憶とは、患者が文脈や因果関係といった言語的なつながりを持ち得ない断片だからである。それゆえに、その記憶が映像的に突然脳裏に甦ったり(フラッシュバック)、肉体への症状(ヒステリー)などとして非言語的なもの(=症候)として幾度となく現れるのだ。そこでフロイトなどの精神分析では、患者がトラウマ記憶などの症候を治癒するためには、無意識下に抑圧されたその原因について患者自身の言葉で物語化する必要があるとされる。そしてこの際、それがいわゆる現実的な真実であったかどうかは、ひとまず不問とされるという。あくまで患者当人にとっての真実に言語的な統一感、すなわち物語を与えることが、症状の治癒へとつながるのだ。

優太が知らぬ間に抱えたトラウマを彼自身が治癒するために、そのときの彼は「良いお母さん」としての母──前述したように、優太は映画のなかの母から、彼女の負の側面をいっさいカットしている──の死を悼みつつも最後には爆殺するという作為的な物語を必要としたのだろう。こういった物語にすれば、仮にクライマックスで母を爆殺したとしても、母は「良いお母さん」だったと描くことで、その死を願う彼の内なる欲望への免罪符となってくれるだろうからだ。これによって、彼のトラウマ解消は果たされたように思われた。



しかし、優太にとって『デッドエクスプローションマザー』という物語がトラウマの治癒には不十分だったことは、のちの展開をみてもあきらかだろう。つまるところ「良いお母さん」だけを残すことは、彼のトラウマ記憶をむしろ抑圧することになるからだ *8。抑圧された母は、その後も優太の心に回帰し続ける。だからこそ彼は絵梨の映画を作りつつ、それに『デッドエクスプローションマザー』を組み込み、母の負の側面をところどころでカットバックしていたのではないだろうか。

とはいえ、絵梨についての映画でも、優太のトラウマは癒えなかった。その証拠に、絵梨の映画の完成後、彼は何度も何度も作品を再編集したことが、大人になった優太のモノローグで語られている。ひとえにこれは、絵梨の映画が優太の物語ではないからだ。絵梨の映画は徹頭徹尾、絵梨の願望によって──彼女が望む手法で、彼女が撮られたい姿で、彼女が求める展開とエンディングで「みんなをブチ泣かして」という願いのために──作られている。

そしてこのことを先の絵梨の友人の証言と照らし合わせるなら、彼女は優太にとって母の似姿であったとすら考えられる。とすれば絵梨は、まるで優太が無意識下に抑圧した母が回帰するかのごとく──かつて母がそうであったように──彼を支配することで映画を完成させようとした、ということも可能だろう *9。このように絵梨の映画が優太の物語ではない以上、彼がどんなに再編集しようとも納得できないのは当然だ。



だからこそ、彼はもう1度、こんどは絵梨についての映画もひっくるめて、作品を自分の物語に引き戻す必要があった。そして3度目の正直として、こんどこそ優太は彼自身の物語として語ることに成功した。それが、いまわれわれが観ている、完成された『さよなら絵梨』なのだ。



ここで、ラストシーンにて優太が絵梨に投げかける問いを思い出そう。

「キミは…これから大丈夫なのか? 
 周りの人はみんな絵梨より先に死んでしまう… 
 親も恋人も友人もみんな先に死ぬんだ
 そんな人生に絶望しないのか?」

このとき優太が絵梨の人生として語る内容は、直前の彼のモノローグをみてもわかるように彼自身の人生のことなのだ。そして優太は彼のファンタジーとしての絵梨に仮託して、こう言わせている。

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う…
 でも大丈夫
 私にはこの映画があるから」

ここでの絵梨の言う「前の絵梨」「私」もまた、同時に優太自身のことを指し示している *10。このように、やっと優太は自身の言葉で、母のことも絵梨のことも、それらを撮った自分自身のことも、すべてをひっくるめた自らの物語を語る「この映画」にたどり着いたのだ。



この映画が優太の言葉、彼のファンタジー、彼の物語としてあるからこそ、ラストにて再び優太が絵梨と邂逅するシーンでふいに映画文法がそれまでのドキュメンタリー的なものから劇映画的なものへと変化したに違いない。ブレない映像、人物同士の切り返し(その際に異なるサイズで人物を映すことも含めて)、固定カメラによる遠景、ゆったりとしたパン……これらは劇映画の文法であり、本作がフィクション *11であったことの高らかな宣言にほかならない。

こうして優太が自分の物語を語り得て、トラウマの治癒を得たこそ、彼は母に、そして絵梨に「さよなら」をしたうえで、かつて打ち損なった爆発というピリオドを清々しい笑みのもとで打つことができたのだろう。こうして優太はフィクションの力で自身を救うことに成功し、果たして彼の映画『さよなら絵梨』は完成した。そして本作に登場した人物は──優太も含めて──皆「現実」の存在ではない。物語が語られなければならないように、映画とは作られるものであり、本作を作った「本物」の優太は、われわれと同じくスクリーンのこちら側にいるのだ。


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ことほど左様に、本作は幾重にも仕組まれた入れ子構造を用いて、じつに映画的なるものを語っているように思えてならない。しかし本作が実際に映画として──実写であろうがアニメであろうが──作られたとしても、おそらくここまでうまくいかなないだろう。読者が作者と共有する漫画の物語世界という独特のリアリティに立脚しているからこその力強さがあるのだろうし、別メディアだからこそ映画的なるものを鋭く批評的に切り取って描き出すことに成功したのではないだろうか。だからこそ、本作はむしろ読者の映画的記憶をくすぐり起こすのではなかったか。

ところで、本作を読んで “泣いた” とか “涙を流す” ほど感動したという旨の感想をそこかしこで見かける。もちろん本作が見事な完成度を誇る1作だとは思うけれど、僕はそこまで激烈な感情の揺さぶりを受けなかった。もちろん作品のせいではない。それは端的に僕がこういった「ボーイ・ミーツ・ガール」に “実感” を持たないからであり、本作に限らず色々な映画を観ているときでも、僕が勝手に独り相撲気味にシラけてしまうことがままあるのだ。まことにショーモないこととは自認しつつ、こればっかりは雨上がりのアスファルトにできた水溜りのように浅い僕の人生経験の貧弱さを呪うほかない。

とはいえ、いつも映画のことばかり考えている僕に、あるいは映画以上にいろいろな物事を──映画のことを含めて──あれこれ思い起こさせてくれた本作には、「くそう、映画みたい……」だと唸るばかりなのでありました。



砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)より。
www.youtube.com



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【補 記】
本作が、映画を消費する観客を相対化してみせることも、また興味深い。具体的には作中に2度描かれる上映会での生徒たちのリアクションの差であり、ここで受容され消費されているのは、なにをいおう2種類の “人の死” である。まず優太の母の死、そして絵梨の死である。前者において観客は「不謹慎だ」「ラストが悪かった」と辟易し、反対に後者では絵梨の「みんなをブチ泣かして」という願いどおり観客は皆一様に感動の涙を流している。

映画──もちろん、ひいては物語メディア全般──は往々にして “人の死” を扱う。本作のような病死、事故死、殉死、あるいは自己犠牲による死……、とじつに様々なバリエーションを選りすぐり、人々の感情をなんらかのかたちに揺さぶろうとするだろう。事実、2度の上映会で観客たちは映画で描かれる「人の死」に感情を大きく揺さぶられているのは間違いあるまい。とすれば、その結果が大きく異なった原因は、なんだったのだろうか。



いまここで咄嗟に思い浮かぶ原因は、“実名/実在” 性の有無にあったのではないだろうか、ということだ。前者では、優太──という同じ学校の生徒──の母というまぎれもなく実際に存在する(だろうと簡単に想像できる)人物を扱ったことが観客の情感をブーイングへと誘い、いっぽうの後者では絵梨という限りなくフィクショナルな人物を扱ったことが観客の情感を涙に濡らしたのではなかったか。

前述のように、2本目の映画に映る──われわれ読者が観ていた──絵梨の姿は、どうやら実際の──眼鏡と歯の矯正具をつけた──ものとは異なること、そして友人が極端に少なかったことが、彼女の友人の口から語られている。これはつまり、大多数の生徒にとって、スクリーンに映写される絵梨の姿に実名/実在性は希薄であり、フィクションのキャラクターと大差ない存在だったということになる。そのじつ2本目の映画の内容は、いわゆるお涙頂戴の難病恋愛モノを愚直になぞっているともいえ、であれば生徒たちはそういったジャンル映画と同じ感覚で絵梨の死を消費していると捉えられるだろう。



人の死、という最大の喪失を観客がどのように消費してしまうか、それゆえにそれをどのように描くのかの是非を巡った論争は、たとえばホロコーストを扱ったものがつとに有名であろう。

とくに劇映画でこれを題材にした際、被害者たちは人々の死をスペクタクルに描くことを徹底して良しとしない。そうすることで「死」がフィクションとして消費されてしまい、映画が終われば観客はそれを忘れるからだ。たとえば『SHOAH ショア』(1985)の監督であるクロード・ランズマンは、この観点から『シンドラーのリスト』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1993)を手厳しきく否定している。いっぽう近年『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督、2015)における虐殺を直に描きつつ決定的には映さない(映すことができない)という逆説的な演出が、ようやっとアウシュビッツを語る劇映画として当事者たちに評価されたのは記憶に新しい。

優太の1本目の作品にはこういった──実名/実在性を持ちつつ、ラストで彼=観客が直視しない/できない──生々しさがあったのではないか。しかし同時に、優太が母の死を爆発という「ファンタジー」として描いてしまったために、作中にあるような激烈にネガティヴな反応を観客が催したのでないか、とすら思えてくる。映すことのできないものを映せないまま、病院から逃げ出すショットで映画が終わっていたならば、生徒たちの反応もまた違ったのかもしれない。



いっぽうで2本目の作品で描かれる絵梨の死に涙する観客の反応とはなんだろうか。

「危険な任務でも、お前の知らない誰かならよかったのか」とは、『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(金子修介監督、2001)において、いままさに死地に出撃しようとする父が娘に放ったセリフであるが、要するにフィクションのキャラクターの死とは、われわれ観客の人生に影響のない「知らない誰か」であり、それゆえにわれわれはフィクションの死をかたちはどうあれ楽しんでいるのではないか。

あるいは『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督、2001)の劇中で、ダイアナ妃の死を「若くて美しい人だったのに可哀そう」と悼むキオスクの老女に「ならダイアナ妃が年老いて醜かったら可哀そうじゃないの?」とアメリが疑問を投げかけるように、われわれは単に自分とは関わりのない美少女であるがゆえに、絵梨の死を感動として消費しているのに過ぎないのではないか──そして、きっとそうなのだ──と思わずにはおれない。そしてまた彼女の死も「知らない誰か」の死として、その場限りの涙を流すだけ流して、やがて──いや、すぐにも──忘れ去ってしまうだろう。


     ※

*1:どうも爆発オチがクソ映画のクリシェと捉えられている向きがあるようだ。でもそれってむしろコントとかじゃないのかしら。

*2:これは、手塚治虫が初期に部分的に用いていた手法──たとえば『メトロポリス』(1949)冒頭で同サイズのコマに同じ背景を描き、最初はコメ粒ほどだった人物を遠近法的にどんどん拡大して奥から手前に走ってくるように演出する──に通じるだろう。

*3:映画作品ではないので余談ながら、全体のプロットは梶尾真治の短編小説「おもいでエマノン」(1979)を彷彿とさせる。

*4:前者では、その直前に教師が優太に向かって「おいっナニ撮ってんだ! スマホしまえ!」と叱責しているのだから尚のことだ。また、よく観ると教師の姿(=キャスティング)すら、この前後で変わっている可能性が示唆されている。

*5:また、父が絵梨に淡々の喋りながら最後には激高する(太字のフォントで叫ぶ)という流れが、教師の説教と同様なのもそれを裏づけるだろう。

*6:この鮮やかな転換は『第9地区』(ニール・プロムガンプ監督、2009)を思い起こさずにはいられない。

*7:「ラストなんで爆発させた?」と問う教師に対して優太が「最高だったでしょ?」と答えるのは、ふいにまろびでた彼の本音だったのだろう。

*8:そもそも『デッドエクスプローションマザー』に描かれた「良いお母さん」もまた、じつは母の演出(=支配)によるものだった可能性が示唆されているのも象徴的だ。

*9:絵梨の友人が証言するシーンのあと、1ショットだけ優太の母の姿が挿し挟まれているのは、こういった理由からではないか。

*10:続く大ゴマにおいて、手前の人物とスクリーン上の人物がそれぞれ「優太と絵梨」「絵梨と優太」となっているのも証左だろう。『ファイト・クラブ』がそうであったように、俺があいつであいつが俺で、というわけだ。

*11:絵梨の「死んだ3日後に蘇ったの」に対して優太が「映画みたいな話だね…」と返すとおり、このイエス・キリストの復活を思わせる展開は、ハリウッドのエンタテインメント映画において何度も繰り返されてきたクリシェのひとつである。

2022 2月感想(短)まとめ +α

2022年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。それにくわえて、この2ヶ月間に劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく、なんとなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集です。


     ※


【劇 場】
◆生活に困窮し、亡き祖父の持ち家で暮らすこととなったフィービーと兄トレヴァー、母キャリーの家族のまわりでゴーストが騒ぎ出すゴーストバスターズ/アフターライフ』ジェイソン・ライトマン監督、2021)は、「まさか」と思いつつも涙させられる素敵な続篇だった。


本作は ’80年代に一世を風靡した第1作『ゴーストバスターズ』(アイヴァン・ライトマン監督、1984)と第2作『ゴーストバスターズ2』(同監督、1989)の続篇。監督には父アイヴァンから息子ジェイソンが引き継いで登板(脚本も担当)し、30年あまりの時間差を経て制作された “久々” のパート3である。

そんな本作は、どんなにチンチクリンな格好をしても抜群の存在感と演技力でスクリーンを引き締めるフィービー役のマッケナ・グレイスを筆頭に役者陣の好演は見事だったし、テイストは尊重しつつも '80年代当時では絶対に不可能であったろう精緻なVFXによる映像の迫力も満点だ。鮮やかで微細な光の表現や、テラードッグの見事にブラッシュアップされた存在感など素晴らしい。あの人やこのゴーストにその道具と、いたるところに懐かしの面々がファン・サービスも楽しい。しかしそれ以上に驚くのが、本作全体を彩るタッチの差だろう。


『1』と『2』が、いわゆる幽霊モノにコメディの要素と、いかにも '80年代らしいトレンディドラマの風味とを掛け合わせた作劇であった──だから、暗喩的には案外エロティックな作品でもある──のに対し、本作では主人公が子どもたちということもあって、そういった要素はほぼオミットされている。舞台も大都会ニューヨークからオクラホマ州の田舎町へと、その風景の情感は大きく一変する。

もちろんこういったルックだけではない。ポツネンと暗闇に佇む家のまわりで幻想的に舞うオレンジの光、カメラ位置を低く設定して撮影されるカー・チェイス、向こうからユサユサと小麦畑を揺らしながら近づいてくる “なにか”、オープニング・タイトルの表示のさせ方やタイミング、少年少女が手を取り合って冒険する基本設定、そもそも本作の物語がシングルマザーであるキャリーと子どもたちとの関係性や、彼女の父との確執を根幹に添えていたりと、はっきり言って本作は非常にスティーヴン・スピルバーグ映画的なのである。キャリーとのあいだにロマンスが芽生えるゲイリーが、腰にキーチェーンを提げてチリチリ鳴らすショットがあるのも──その役柄としての前振りももちろんのこと──言わずもがなのオマージュだろう。

’80年代において、スピルバーグが様々なジャンルを往来しつつも、家族に生じた軋轢や確執を一貫して子どもの視点から切り取って描いてきたこと *1を思い起こすなら、同じころに作られたシリーズの続篇にそのタッチを持ち込んできたことは興味深い。1977年生まれのジェイソン監督が多感な時期を過ごすなかで、父アイヴァンの背中を間近に眺めつつ、まちがいなくスピルバーグ映画にも触れているだろうから、彼のなかでの ’80年代ノスタルジアとは、本作がスクリーンに映し出すタッチとして血肉になっていたのではないだろうか。


これらの要素がついに終結するクライマックスの展開には、自分でも驚いたことに思わず涙してしまった。物語的にも、そして「彼」がどうして本作でこういったかたちで登場したからかといえば、もちろん「彼」を演じた人物がすでに故人であるからだけれど、それも含めて見事な大団円だ。

もちろん、粗がないではない。フィービーがゴーストの存在を受け入れる展開がいくらなんでも雑だったり、彼女の新たな友だちとなるポッドキャストが不意に “文字どおり” 居なくなる場面がそこかしこにあって不自然だったり、フロントガラスまだ直してなかったンかいといったツッコミもあるけれど、これはこれでシリーズらしい御愛嬌といったところか。

いずれにせよ、久々の続篇としてたいへん満足させていただいたし、余談ながら「ややや ケッタイな」はどうなっているのかを確かめるためにも、ぜひ劇場へ出かけたい1作だ。


     〇


【ソフト/配信】
◆遠未来、地下世界で独自の進化を遂げた人造生物「マリガン」の生態系を調査するため、主人公がひとり人知れぬ世界に挑む SFストップモーションアニメ『JUNK HEAD』(堀貴秀監督、2021)は、「こ、これを(ほとんど)ひとりで……!?」と驚愕せずにはおれない見事な作品だ。まことに個人制作とは到底信じられないような映像のクオリティも然ることながら、アクション構築の面白さ、ユーモアの楽しさ、そしてドラマ部分のちょっとした演出の機微まで、とにかく手抜きがない。これらがあればこそ、本作のなんとも知れぬ “キモ可愛い” 世界観が活き活きと実在感を持って立ち現われ、観客にも愛着を持って受け入れられるに違いない(キモいところは本当にキモいのでご注意あれ)。また、本作がそこかしこにオマージュしていると思しきアレコレの作品群って「オイラも大好きなヤツじゃん!」と親近感を抱かずにはおれない。続篇もぜひ実現してほしい。とにかく、凄いものを観させてもらった。


     ※


【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(1-2月)
スパイダーマン: ノー・ウェイ・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2021)……トム・ホランド版「スパイダーマン」シリーズひとまずの最終作にしてオリジンとなった本作は、これまでの映画史のなかでも類を見ないアクロバティックでかつ、きちんと筋のとおった物語と構造が見事というほかない。無論、それゆえに多大な予習が必要だいう難点もあるけれど、その労に報いるだけの1作だ。


     〇


『クライ・マッチョ』クリント・イーストウッド監督、2021)……イーストウッド監督主演最新作として、彼がこれまで背負い、そして都度更新してきた男性性/マチズモ(マッチョ)的イメージをどのように描くのか、という点においては興味深い作品だったけれど、いささか中盤の脚本が緩すぎて崩壊しかかっているのがもったいない。


     〇


『ハウス・オブ・グッチ』リドリー・スコット監督、2021)……ハイ・ファッションのブランド「グッチ」のお家騒動までの顛末を描く実録映画だけれど、強大な富と権力を持った家系にあるがための奇妙な狂気が全篇に溢れていて、それがもはやある種のコメディ映画としてすら成立するくらいのブラックな笑いを生んでいる。なによりグッチ家に嫁入りした主人公パトリツィアを演じたレディ・ガガの技量と存在感たるや、錚々たるキャスト陣のなかにあってまったく引けを取らない。


     〇


バイオハザード: ウェルカム・トゥ・ラクーンシティヨハネス・ロバーツ監督、2021)……完結したミラ・ジョヴォヴィッチ版に代わって新たにリブートされた本作は、とくに序盤から前半にかけてのキチンとホラー映画として観客を恐怖させる部分に見応えがある。ただ後半以降は、これでもかと盛り込まれた原作ゲームの要素が、むしろ作品のノイズになっている感も拭い切れない。もうすこし的を絞ったほうが、まとまったのじゃないかしらん。


     〇


『ウエスト・サイド・ストーリー』スティーヴン・スピルバーグ監督、2021)……同名ミュージカルを原作とした、『ウエスト・サイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス監督、1960)以来の再映画化だが、やっぱりスピルバーグの天才性を痛感させられる見事な作品だった。縦横無尽に動き回りながらもダンスの振り付けを安定して捉えるヤヌス・カミンスキーの撮影、光と影のリアルさと美しさが共に際立つ演出、そして今日(こんにち)だからこそ可能になった物語細部のアップデートなど、見どころを挙げだしたらキリがない。


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*1:その視点が父のものになるのは、'90年代を待たねばならない。

2022 1月感想(短)まとめ

2022年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【ソフト】
◆あることがきっかけで父や周囲と確執のある高校生ゾーイが、高校で勃発した銃乱射事件の犯人たちにたったひとりで立ち向かう『ラン・ハイド・ファイト』(カイル・ランキン監督、2020)は、ハイスクール版 “ダイハード” といった趣──作り手も、あきらかに意識しているだろう──で、ほのかに張られた伏線とみなぎる緊張感で一気に惹き込まれる見事な面白さに満ちている。たぶん『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督、2008)のジョーカーにかぶれたんだろうなと思わせる犯人の造型もいろいろと考えさせられるし、ゾーイに附せられた独特のとある設定が作劇のスパイスとして絶妙に機能している点も見逃せない。騙されたと思って、ぜひご覧なさい(でも、全米ライフル協会なんかが「ホレ見たことか」と間違った方向に喜んじゃいそうでもあるんだよな。まあ、ちゃんと観ていれば、ちっとも違うのだけど)。


     ○


◆中国と北朝鮮国境付近に位置する白頭山(ペクトゥサン)の大噴火によって巨大地震が発生、朝鮮半島壊滅が決定的となる第4次大噴火を阻止するため特殊部隊が北朝鮮に潜入する白頭山大噴火』(イ・ヘジュン、キム・ビョンソ監督、2019)は、大迫力のVFXを含めたヴィジュアルと奇想天外な脚本をよくもまあ見事に仕立て上げたディザスター作品だ。また、キアヌ・リーヴス三船敏郎を髣髴とさせるイ・ビョンホンの風体と演技、そして『AKIRA』味を感じさせるタイトル画面が愉快 *1


     ○


◆少女誘拐目的で郊外の一軒家に忍び込んだ謎の集団だが、その家主が最強の盲目老人だとはまだ知らないドント・ブリーズ2』(ロド・サヤゲス監督、2021)は、逆転の発想とはこのことか、というべき思い切りのよい2作目だった。映画──とくにホラーやモンスターもの──がシリーズ化されたとき、本来なら恐怖の対象であるべきキャラクターがマスコット化したり陳腐化したり、あるいは観客にとってはある種のヒーローめいたものに変化したりするのは世の常だが、本作ではそれを逆手にとって、ならさっさとダークヒーローものにジャンル転換してしまおうと作劇し、かつ成功しているのが面白い。

本作は前作ともはや別モノといってもよく、本作から観てもなんら問題ないだろう。作中、そこかしこに『レオン』(リュック・ベッソン監督、1994)へのオマージュがあるのが愉快だし、これは本編とは関係ないけれど、視聴者の心理を先取りするかのようなBlu-Rayディスクの仕様 *2もちょっと新鮮だった。


     ○


◆19世紀末、絶海の孤島に立つ灯台を管理するため、ふたりの灯台守──ベテランの老人と新米の若造──がやってくるライトハウス(ロバート・エガース監督、2019)は、気がふれることとはどういう感じなのかをアトラクション的に描いた無気味な怪奇作品だった。

劣悪な環境と重労働のなか、途切れることない霧笛、四方で轟く波音、吹き荒れる暴風、止むことないカモメの鳴き声、終わることを知らないベテランからの小言が延々と耳に入り続けた結果、新米の精神はすこしずつ疲弊してゆく。やがて波音の狭間にセイレーンの呼び声が聞こえ、カモメに嘲笑されているような気がする……といった具合に、本作は観客の精神を彼同様に揺さぶろうとするだろう。すべての騒音をミックスしたような無気味で不確定な劇伴、極端に狭い画面比率(1:1.19)──いわゆるムービートーンという、トーキー映画黎明期によく使用された、サウンドトラックをフィルムに定着させるために本来画像を定着させる面積をそれに割いた画郭──にグラフィカルに構築されたモノクロ映像が、それにいよいよ拍車をかける。

監督のインタヴューなどを読むと、ふたりの登場人物をそれぞれプロテウスとプロメテウスになぞらえつつ、ポオやラヴクラフトメルヴィルらの書いた無気味なテイストを出そうとしたという。本作について、敢えて別の喩えを出すなら江戸川乱歩の「人間椅子」や「鏡地獄」、「押絵と旅する男」といった読み手の主観をぐらつかせるような作品群の読後感に近いといえよう。ウィレム・デフォーロバート・パティンソンの演技合戦も見もの。


     ○


白色テロ時代の只中にある1960年代の台湾、とある因縁を持つふたりの高校生が深夜の校舎で出会う『返校 言葉が消えた日』(ジョン・スー 監督、2019)は、発表時から高い評価を得たホラー・ミステリ・ゲーム『返校 -Detention-』(赤燭遊戲、2017)の実写化映画作品であり、これまであった数多のゲームの映画化として、変化球だが新たな傑作となった1作だ。

本作が見事なのは──ゲーム内にあった悪夢的なヴィジュアルを見事 “違和感” こみで再現したVFXだったり、2D横スクロール風のプレイ画面をそこかしこに再現した撮影の素晴らしさはもちろんのこと、それ以上に──いわゆるゲーム・プレイそのものの再現や追体験性に注力するのではなく、ゲームをクリアすることで浮かび上がるキャラクターそれぞれの内面や、真に伝えたかった物語を丁寧に語ることにこそ焦点を当てている点だ。これによって、ホラーとして消費される以上に歴史ドラマ映画として見応えのある作品となっている。

もちろんそれゆえに、ゲームの映画化としては物足りなく感じる部分がないといえば嘘になる。ハッキリ言えば、ゲームであった謎解き要素は本編序盤でだいたい分かってしまう。けれど、本作を観ることで『返校』という物語、そして人間が経てきた──あるいは繰り返そうとしている *3──歴史への理解がいっそう深まることは間違いない。必見だ。


     ○


旧ソ連の秘密衛星の破片がニューヨークに落下したために未知の巨大グモが発生する『スパイダー VS マン』(ティボー・タカクス監督、2013)は、設定だとか脚本だとかアクションだとか特撮だとかについて、本作の予算としては踏むべき定石をきちんと踏んでいるから苦もなく観られるし、CGも悪くなく、やることはきちんとやっている。

だがしかし、いかんせんカメラワークが下手というか、ふつうのドラマ映画でも「そうは撮らんだろ」という画面レイアウトばかりが頻出する極度の平板さが──ぜんぶアイラインなのだもの──肝心の特撮シーンにおいておやスケール感を伴っていないのために、ことごとく世界観をみみっちいものになっており、もったいないことこのうえない。本作の見どころは、クモの造型と、『エイリアン2』(ジェームズ・キャメロン監督、1986)にて、ダメな軍人だけれど最後の最期には観客の涙をかっさらうゴーマン中尉を演じたウィリアム・ホープが、救いようもなくダメな軍人役として登板しているところです *4


     ○


◆父の設計したマッハ号を駆る凄腕レーサーのスピードが巨大企業間の陰謀に巻き込まれるスピード・レーサーウォシャウスキー兄弟 ※現・姉妹 監督、2008)は、不勉強ながらいままでスッポカしていたけれど、とっても楽しい作品だった。いわずとしれたタツノコプロ制作『マッハGoGoGo』(笹川ひろし総監督、1967-1968)の実写化である本作は、とにかく総天然色なヴィジュアルが素晴らしい。とくに本命であるレーシング・シーンが、スピード感は実写ベースながら、いわゆるリミッテッド・アニメーション的な表現をそのままVFXに落とし込んだような表現はいまみても──もちろん技術の時代的制約でCGっぽさ全開ではあるけれど──新鮮。別個のパースを用いた背景の切り抜きをスライドさせることで立体感を出すBOOK処理を思わす背景の処理を再現した遠近感表現など、とくに面白い。劇伴の作曲がマイケル・ジアッキノで、こちらも納得の登板だ。


     ※

*1:余談だが、吹替版それ自体は悪くないものの──当方のプレイヤーの所為かもわからないが──オリジナル音声と比べて劇判のミックスが不自然なのはどうしたことなのか(ひどくモノラル寄りというかさ)。

*2:エンドクレジットに突入した途端に特典メニューへ誘導するポップアップが表示される。正直ビックリするからやめてほしい。

*3:どこでかって? まあいろいろあるけど、僕らだって他人事じゃないよ。

*4:あと、タイトルの出オチ感も、最高でした。

2021年劇場鑑賞映画ベスト10

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     ○


あけましておめでとうございます。

いつのまにか、名残り惜しむ暇もなく2021年が終わってしまいました。光陰矢のごとし。
さて、以下に僕が昨年劇場で鑑賞した映画からベスト10を選んでリスト化してみました。
地方在住の偏食家ゆえ、鑑賞作品に偏りがあることを、ひとつご容赦ください。

それはさておきも、本年が皆様にとって善い年であるよう、心よりお祈り申し上げます。


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【2021年劇場鑑賞映画ベスト10】

1.『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)


2.『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)

3.『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)


4.『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)

5.『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)


6.『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)

7.『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)

8.『ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)

9.『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)

10.『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)

10.『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)


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【2021年劇場鑑賞映画リスト】 ※鑑賞順

『新感染半島 ファイナル・ステージ』ヨン・サンホ監督、2020)
『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』岩合光昭監督、2021)
『樹海村』清水崇監督、2021)
名探偵コナン 緋色の不在証明』(2021)
レンブラントは誰の手に』(ウケ・ホーヘンダイク監督、2019)

『43年後のアイ・ラヴ・ユー』マルティン・ロセテ監督、2019)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)
『野球少女』(チェ・ユンテ監督、2019)
トムとジェリーティム・ストーリー監督、2021)
『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)


10


モンスターハンターポール・W・S・アンダーソン監督、2020)
『騙し絵の牙』(吉田大八監督、2020)
『21ブリッジ』ブライアン・カーク監督、2019)
『サンドラの小さな家』フィリダ・ロイド監督、2020)
名探偵コナン 緋色の弾丸』(永岡智佳監督、2021)

ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督、2021)
『ジェントルメン』ガイ・リッチー監督、2019)
ガールズ&パンツァー 最終章 第3話』水島努監督、2021)
るろうに剣心 最終章 The Final』(大友啓史監督、2021)
『ザ・スイッチ』(クリストファー・B・ランドン監督、2020)


20


『ファーザー』(フローリアン・ゼレール監督、2020)
『ローズメイカー 奇跡のバラ』(ピエール・ピノー監督、2020)
るろうに剣心 最終章 The Biginning』(大友啓史監督、2021)
ザ・ファブル 殺さない殺し屋』江口カン監督、2021)
モータルコンバット(サイモン・マッコイド監督、2021)

夏への扉-キミのいる未来へ-』(三木孝浩監督、2021)
クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(ジョン・クラシンスキー監督、2020)
ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)
ピーターラビット2/バーナマスの誘惑』ウィル・グラック監督、2021)
『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)


30


『イン・ザ・ハイツ』ジョン・M・チュウ監督、2021)
クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』(髙橋渉監督、2021)
『とびだせ! ならせ! PUI PUI モルカー』(見里朝希監督、2021)
ワイルド・スピード/ジェットブレイク』ジャスティン・リン監督、2021)
『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)

『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)
『スペース・プレイヤーズ』(マルコム・D・リー監督、2021)
『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(デスティン・ダニエル・クレットン監督、2021)
『モンタナの目撃者』テイラー・シェリダン監督、2021)
『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021)


      40


テーラー 人生の仕立て屋』(ソニア・リザ・ケンターマン監督、2020)
『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)
『SEOBOK/ソボク』(イ・ヨンジュ監督、2021)
『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)
『クーリエ: 最高機密の運び屋』ドミニク・クック監督、2020)

『オールド』M・ナイト・シャマラン監督、2021)
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)
死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』(マイケル・チャベス監督、2021)
『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)
『キャッシュトラック』ガイ・リッチー監督、2021)


50


『ゾンビ-日本初公開復元版-』ジョージ・A・ロメロ監督、1978)
『映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』大森貴弘監督、2021)
『エターナルズ』(クロエ・ジャオ監督、2021)
『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)
『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション京田知己監督、2021)

『ツリーから離れて』(ナタリー・ヌリガット監督、2021) ※短篇 
『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)
『パーフェクト・ケア』J・ブレイクソン監督、2020)
『ヴェノム: レット・ゼア・ビー・カーネイジ』アンディ・サーキス監督、2021)
モスラ〈4Kデジタルリマスター版〉』本多猪四郎監督、1961、2021)


60


『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)
マトリックス レザレクションズ』(ラナ・ウォシャウスキー監督、2021)
ボス・ベイビー ファミリー・ミッション』トム・マクグラス監督、2021)
キングスマン: ファースト・エージェント』(マシュー・ヴォーン監督、2021)