2026年6月に、ときおり思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。それにしたって、NO WAR, NO KING and NO LIE。
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【劇 場】
◆12時05分になると邸宅に現れては徘徊する幽霊の謎に、霊媒師の愛里と美玖が挑む『Never After Dark/ネバーアフターダーク』(デイヴ・ボイル監督、2026)は、きちんとした画づくりの安定感と新鮮なルック、観客の予想をあれよあれよと上回ってゆくエンタテイメント性の高い物語の楽しさとがマッチした1作だ。
まずもって本作は、そのルックが特徴的。というのも、本作が物語内の時代設定と場所が巧妙にボヤカして抽象性を高い世界観を構築しているからだ。これは登場人物たちの衣装や髪型の設定や、小道具や装飾具の選択において特定の時代を想起させる機器類を排除していること、あるいは舞台となる邸宅が人里離れた山中にある比較的モダンな洋風な意匠をまとっていること、また舞台をそこに限定することなどで重層的に演出されている。
この、現在というのでもないが、かといって昔というのでもなく、なんとなく無国籍感すらも醸すような映画全体のルックによって、劇中における虚構性の高い設定を観客に呑み込みやすくさせるのと同時に、今後われわれが本作を観返す──あるいは、はじめて観る──としても古く臭さを感じさせない映像的な強度があって、非常に効果的でかつ新鮮な感触に満ちている。
そんな物語世界を映す撮影も見事。フィルム・グレインを効かせた画調で質感豊かな画面の構成は、奇をてらわずオーソドックスなカメラワークでスムースに観客を物語世界に誘ってくれ、そんななかで時折ポツネンと放り込まれる「なんか変」なショットも効果抜群(次々にドアを開ける腕を映すショット群や、「佐清」もかくやのアレとか)。また、画面を彩る照明効果も見事で、いま映っている人物の状況の変化を光の色合いひとつで言葉少なく語ってみせるショットの数々も印象的だ。
そして、こういう話かと思っていたら不意にそっちに行った挙句にそう落とすのか、というジャンルを軽やかに横断するような脚本も、こちらの予断を許さず楽しい。おそらく作り手たちは、これまでのホラー映画──とくにジェームズ・ワン監督の諸作品(『インシディアス』『死霊館』『マリグナント 狂暴な悪夢』など)──をよくよく研究していると見え、かといって単にパスティーシュに留まるのではなく新しいものを撮ろうという熱量が、スクリーンからひしひしと伝わってくるだろう。とくに中盤に登場する、愛里の「スルー」スキルが発動するシーンは、可笑しみもありつつも彼女が抱える心の闇が垣間見える印象深いものだったし、本作における諸悪の根源の正体も──少々入り組んではいるものの──なかなか面白い設定でかつ、ラストの三つ巴の画も面白い。
ことほど左様に本作は入念に、かつエンタメ性を十全に盛り込んで作り込まれた1作だった。本作は、プロデューサーと出演も務めた俳優・賀来賢人と監督デイヴ・ボイルが共同で立ち上げた制作会社「SANGAL181」の第1回長編作品ということだが、今後彼らがどんな作品をわれわれに届けてくれるのか、俄然楽しみになった。
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◆ついに人間界と魔界の行く末を決する武闘トーナメントが開会、かつてアクションスターで鳴らしたジョニー・ケイジが人間界側最後の闘士として招聘される『モータルコンバット/ネクストラウンド』(サイモン・マッコイド監督、2026)は、あいかわらず観客に格闘ゲームを体感させることに清々しいほど振り切った作品だった。
もちろん本作は、海外で大人気の格闘ゲーム『モータルコンバット』シリーズを再び実写映画化した前作(同監督、2021)の続篇であり、そこでは持ち越しになった大会がついに開催されるということで、いったいどれくらいの対戦を観させてくるのかと思いながら劇場に出かけたけれど、こちらの予想をはるかに超える試合数で驚いた。
本作は前述のジョニー・ケイジと、先立つ大会で魔界に敗れた王国エデニアの王女キタナというふたりのキャラクターを軸に物語が展開されるけれど、前作同様──あるいは、それ以上に──作中の設定や人物紹介、そしてドラマを可能な限りソリッドに削ぎ落としたものであり、そのセットアップもほぼ序盤で終了してしまう(ソニアがケイジに「修行してる暇ないから」と素っ気なく言い放つシーンは、あまりにあんまりなんで笑ってしまった)。その後、残る上映時間で観客が目にするのは、とにかくキャラクターたちの戦闘に次ぐ戦闘、雪崩を打っての戦闘だ。それぞれ個性的な特殊能力や獲物を用いて繰り広げられるキャラクターたちの戦闘はバラエティに富み、しかもそれらが実際の擬斗やスタントをメインとして構築され、そこにVFXが効果的に融合された映像も迫力満点。もちろん、これがあってこその残虐ゴア・ファイト「フェイタリティ」も忘れない。
そして本作のもうひとつの見どころは、キャラクターたちが死闘を演じる種々多様な背景──ステージ──の美術設計だろう。中世ヨーロッパ風のエデニアの町並み、山水画のような風景に立つ雷神ライデンの居住 *1、真っ青な異空間に浮かぶ寺院、煮えたぎる炎の河が無数に流れる洞窟に黒々と複雑怪奇にそそり立つゴシック建築が無気味な冥界など、本作から美術監督に起用された種田陽平の手による鮮やかに、かつ微細に作り込まれた異世界デザインが持つヴィジュアルの説得力は凄まじく圧巻である。
ことほど左様に本作は──前作がチュートリアルなら──われわれがコントローラを握ってはキャラ選択をしてステージを選択して闘って、それが終わればまた次々にその組み合わせを変えてのゲームプレイを大スクリーンでテンポよく体感することに特化した1作だ。映像的な強度でいえば、あるいはゲーム以上に没入感があるかもしれない。
もちろん、そうであるがゆえに物語運びに若干の不満点がないでもない。たとえば、魔界の支配下にあるエデニア国の惨状を描く具体的な画──それをケイジやキタナが垣間見る *2とか──は欲しいなと思うし、ケイジが自身の力に覚醒するトリガーが「役を演じること」という納得できるようなできないような「よくわかんないけど、なんかわかった!」止まりなのは惜しいな *3と思うし、ついにキタナと魔界の皇帝シャオ・カーンとの因縁の闘いの顛末が描かれるクライマックスにおける「夜明け」はもうすこし早くしたほうが物語的にも情緒的にも説得力が増さないかしらん *4と思う。
とはいえ、こんなことは詮無きこと。ムービーの多いアクションゲームは敬遠されるし、『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』(アーロン・ホーバス、マイケル・ジェレニック監督、2026)と本作を併せて観たとき、あるいはゲームの映画化において新しい映画文法が出来上がりつつあるのかもしれない。もし、それぞれシリーズ3作目があるなら、それがどのような進化を経るのかを待つのも、また一興だろう。
その他、劇中劇としてちょっとだけ登場した架空のジョニー・ケイジ主演映画は楽しそうなので観てみたかったり、そこかしこに散りばめられた映画ジョークにはまんまと笑ってしまったり、ケイジがサングラスを直す指の動きに「クイッ」というSEをいちいち被せるこだわりはなんなんだ(好きョ)と思ったりしたけれど、そういった具合で、本作もまた劇場で観たい、もといニッコニコでプレイしたい作品だ。それでは皆さん御一緒に、モォタルコンバーッ! ヘ(゚∀゚*)ノ ホエホエ!
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◆ジャクソン家の5男マイケルが、ジャクソン5に加入し、やがてソロとして独立してゆく『Michael/マイケル』(アントワーン・フークア監督、2026)は、なるほどそういうアプローチで来たか、といった具合の1作だった。
本作におけるいくつかの──シーンによっては矢継ぎ早に展開される──歌唱/MV再現シーンの出来は非常に高く、とくにマイケルを演じたジャファー・ジャクソン(青年期)とジュリアーノ・クルー・ヴァルディ(少年期)のふたりによるパフォーマンスは圧巻で、マイケル・ジャクソンの楽曲を映画館の音響で聴くという体験も相まって、じつに見応えがある。
もちろん、そのぶん本作における展開の緩急は若干淡白となっており、映画的なリズムとしては破綻している嫌いがないでもない。しかし要所要所で差し挟まれる物語の転換点を、数多ある出来事のなかから、とくにマイケルと父ジョゼフとの関係性──永年、マイケルのボディガードだったビル・ブレイの眼差しも含めて──に絞ったのは、制作段階における諸々の急な変更などあったにせよ *5、クレバーな判断であろう。本作がなぜ『Bad』で終わるのか、なぜタイトル──また、クレジットの役名表記──が「マイケル」なのか、よりストンと腑に落ちる構成だ。
その他、できれば歌詞に字幕があったらよかったな──皆さんご存知ゆえか、映像を見せることを優先したためか、それとも著作権料的な問題ゆえなのか皆無だった──とか、キーリン・ダレル・ジョーンズの佇まいがすごくよかったなァとか、「そんなもの飼ってたの!?」という伝記的なビジュアルショックもあったりなどしたけれど、伝説の始まりをぜひスクリーンで体感したい1作だ。
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◆暴君スケルターの侵略によって故郷の星エターニアを追われた王子アダムが、やがて仲間と共に立ち上がる『マスターズ・オブ・ユニバース』(トラヴィス・ナイト監督、2026)は、ほんとに原作が愛されているのだなと思わされる良作だった。
本作は、1980年代にマテル社から発売されたフィギュア玩具シリーズと一連の膨大なメディアミックス──テレビアニメ、コミック、そしてドルフ・ラングレン主演の実写映画版『マスターズ/超空の覇者』(ゲイリー・ゴダード監督、1987)など──を原作とする再実写化作品。さすがストップモーション・アニメのライカ・スタジオ出身のトラヴィス・ナイト監督作品だけあって、1ショットごとに抜かりなく設計された画面レイアウトがいちいち素晴らしく、それによって構築されたシーンの映画的な説得力の高さは抜きん出ている。また、作り手たちの半端ない原作愛と、それを余すところなく伝えるべく大真面目に、そしてじつに楽しそうに本作を撮っていることがスクリーンからひしひしと伝わってきて、観ているこちらも思わず笑顔になってしまった。
もちろん、ちょっと小ネタや透かしギャグを詰め込み過ぎて長尺になった感は否めないし、クライマックスにて語られるアダムが英雄たる所以は──前半部分でその描写があまりに不十分 *6なので──首を傾げざるを得なかったりするけれども、ラストで奏でられるアニメOP「ヒーマンのテーマ」の壮大なアレンジを聞いていると、「まぁ、たまにはこういうのもええか」という晴れやかな気持ちになったのでした。By the Power of Grayskullヽ(`Д´)ノ! *7
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◆宇宙に家出して酒浸りの生活を送るカーラが、極悪 “ブリガンズ” の頭クレムに両親を殺された少女ルーシーと出会う『スーパーガール』(クレイグ・ギレスピー監督、2026)は、スーパーマンとはひと味違ったヒーロー像が際立った1作だった。
惑星クリプトンの崩壊によって故郷と両親を失ったトラウマと地球で暮らすことへの孤独感から、宇宙に逃れては酒に溺れ、愛犬クリプトともに自堕落にやさぐれまくった生活を送っているカーラ/スーパーガールというキャラクター造型が新鮮。そんな彼女が、殺された父の復讐を誓った少女ルーシーに半ば巻き込まれるように賊を追跡することになるという物語は『勇気ある追跡』(ヘンリー・ハサウェイ監督、1969)ないし、そのリメイク『トゥルー・グリット』(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督、2010)──あるいは復讐の連鎖を断つという意味では『許されざる者』(1993)や『グラン・トリノ』(2008)といったクリント・イーストウッドの諸作品──を彷彿とさせるもので、これらの西部劇やアクション映画に登場する老獪な主人公像が、おそらく彼女のキャラクター造型に活かされているのだろう。そして、カーラの呼称が「ガールかウーマンか」の問答は、ある意味で彼女の精神的な醸成をルーシーがつぶさに嗅ぎ取っているからこそのものだ。
では、絶賛ダメ人間生活を──自身の痛みを忘れるため、自覚的に──謳歌するカーラが真に持つヒーロー性とはなにか。それは、端的に目の前で困っている人に親切であるという点にほかならない。この──「すべての人を救おう」とするスーパーマンことカル=エルとはひと味違った──善性があればこそ、カーラは「だめだめ自分とは関係ないし」と言いつつもルーシーを放っておけずにコンビを組み、あるいは何度でも彼女を守り、彼女や簒奪された少女たちには目線の高さを合わせて語りかけ、最終的には愚劣でマチズモな悪漢たちをぶちかますシスターフッドが形成される。そんな本作の物語は、作家カート・ヴォネガットの「愛は負けても、親切は勝つ」を思い起こさせるものでもある。親切であることを体現するかのような彼女の精神性は、われわれ観客も──こんなご時世とくに──見習うべきものではないだろうか。
ともあれ本作の、スクリーンに展開するプロダクション・デザインはネオンカラーのポップさと砂と錆に薄汚れた退廃感がマッチしていて面白かったし、ときおり挟まれる下らないユーモア *8も楽しかったし、上へ下へのスーパーガール・アクションは見応えがあった──クライマックス、ルーシーの視点から「いま自分は守られている」ことをひしひしと感じる長回しショットはとくによかった──し、カーラを演じたミリー・オールコックを筆頭に役者陣の存在感もたいへん素晴らしかった(妙なところで筋のとおったロボのキャラもよかったですね)。
ただ一点だけ本作の難点を挙げるなら、ちょっと撮影に逆光線を多用しすぎなこと。キャラクターのシルエットを強調したかったのか、あるいは神々しさを演出したかったのか、もしくはカーラの抱える心の闇を表現したかったのか、たしかに要所要所でその意図は掴めるものの、多くのシーンがそうであるためにメリハリが弱く、なによりキャラクターたち──観客に向かう側──が暗く影に沈んでしまってアクションや芝居が見づらかったのは、たいへんもったいない。もうちょっと手前にもカッチリと照明を当てて明るめの画面設計にしてくれたなら、縦横無尽のアクションの臨場感もより増したのではないだろうか。
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◆失踪した娘を捜すため砂漠のレイブパーティにやって来た父ルイスと息子エステバンが、次なる会場に向かうためにモロッコの極限地帯を進む『シラート』(オリベル・ラシェ監督、2025)は、本作の惹句「知る前に、進め *9」のとおり、とにかく前情報なしで──可能ならぜひとも──すぐにでも劇場でご覧いただきたい類い稀な1作だった。
【以下、若干──脚注では一部具体的な──内容に触れます】
モロッコの砂漠や山岳地帯をキャンピングカー2台と家庭用バンでひたすら移動する本作は、たしかに砂漠地帯を爆走する『マッドマックス』シリーズ(ジョージ・ミラー監督、1979-)や、険しい山道を進む『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、1953)を彷彿とさせるシーンも多いけれど、それら以上に危機迫る展開や息を呑む──ほんとうに逃げ出したくなる地獄のような──クライマックスが用意されている。しかし本作を、いわゆるハリウッド形のアクション・エンタテインメントとして観ようとするなら間違いなく面喰らうことになるだろう(それはそれで本作の体験としては第1歩ではある)*10。むしろ本作は、エンタメ映画というよりも形而上学的な、もっといえば宗教的/超越主義的な体感を得るための装置/メソッドのように作られている。
本作は、いくつものスピーカーを並べてレイブパーティーの準備をする場面から開幕するが、これはすなわち映画館をその会場へと変貌させる過程にほかならない。このスピーカー群と、その向こうに頂く絶壁と岩山とが織り成す光景はまさしく神殿 *11であり、それは同時に、本作の今後の展開を予感させるヴィジョンである。やがて爆音で流れ出すレイブミュージックの鼓動と波に吞まれるように登場するルイスの魂の旅路/心もちの変遷──ラシェ監督のインタビューをいくつか読むと得心がゆくように *12、ある種スーフィズム的な──を、われわれは彼とともに体感することになるだろう。
このように本作は、その音場に満ちた映画館をある種の宗教的な装置/メソッドと成し、そこで鑑賞されることによってこそ、われわれが神殿や寺院に立ったときのような──あるいは、それ以上の──効果を生むに違いない 。ルイス親子と、彼を旅の仲間に加えるレイバーたち──ルイス親子と同じように、皆それぞれになにかしらの傷を抱えている様子がさらりと描写される──が辿る道すじを思い返すなら、彼/彼女らは修行僧ないし巡礼者のようにすら見える。圧倒的なまでに極限といえばあまりに極限、酷薄といえば酷薄な試練が連続する旅路の果てに、ルイスがなにを想い感じたのか *13 *14、ぜひとも劇場で見届けたい。
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*1:ここでのライデンのレーザーライトもかくやの大量出血──からの、そこで演じられる戦闘シーン──描写は新鮮だった。クラブか!
*2:第1戦闘シーンで、ケイジが逃げ回るときに数ショットでも入れるとか。
*3:それこそ、ライデンあたりから「ついに解き放たれたな(Finally, you've UNCAGED.)」くらいの台詞はあってもよかったのじゃないかしらん。
*4:彼女が崩れ落ちそうになったそのとき、亡き父王の声が胸中に木霊して復活する瞬間に光明が射しはじめる、とか。
*5:本作が描くのはマイケルの人生ではなく、1988年までの “半生” を描くものであり、それによって彼の人生に影を落とすことになる児童性的虐待疑惑について完全にオミットした形になっている。これは、本作がもともと、それも含めての脚本で制作され、撮影も完了したものの、法的な関係──ジョーダン・チャンドラーとの和解によって、彼にまつわる一切のことを映画化できないという条項が制作中に発覚──によりカットせざるを得なくなり、脚本の書き直しと追加撮影を経て、現在の形になったという経緯のようだ(そうでなければ、執拗に「ピーター・パン」の絵本を映さないと思う)。その後のことについては、予定されているという続篇を待ちたい。
*6:アダムは魔法使いソーサラス「それは共感と人間力よ」とか云われるわけけれど、いちばん人の話を聞いてないのは君だよな。
*7:そういえば、『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』(エドガー・ライト監督、2004)において、日本語訳には反映されていないけれど、主人公のニコラス(サイモン・ペッグ)とダニー(ニック・フロスト)が別々のシーンで各々このセリフを「アッチョンブリケ」的に呟いており、ふたりとも子ども時代にアニメ版を観ていたこと──そして、当時どれほど人気のあったコンテンツだったか──が暗に示されている。
*8:「クソみたいな味(直喩)」ってもう、しょうがねェなァ(´∀`) スキヨ。
*9:おそらくジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207-1273)の言葉「死ぬ前に死ね(Die before you die.)」のもじりだろう。
*10:余談ながら、前半に登場する、数多に自動車が縦列したり右往左往している画や、ラジオのニュースが伝える世界の終末感から、なんとなく『ウイークエンド』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1967)を連想もしたけれど、観終わってみると裏返しの作品でもあるのだなと考えもする。
*11:また、スピーカーの十字のフレームへのクロースアップ、夜間レーザーライトで形成される階段、あるいは中盤でブラウン管に映されるカアバ神殿を囲う巡礼者の群れ──これなどはとくにレイブパーティーと鏡像関係にある──といったイメージは、本作の方向性を補助的にいっそう示すだろう。
*12:参照: ▼二度と味わいたくない驚愕の映画体験! 『シラート』監督のオリベル・ラシェにインタビュー | GQ JAPAN、 ▼Fan's Voice、 ▼『シラート』のオリベル・ラシェ監督にインタビュー。 | POPEYE Web | ポパイウェブ、 ▼映画『シラート』のオリベル・ラシェにインタビュー | 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報、 ▼『シラート』オリベル・ラシェ監督 リスクを恐れず、身体に浸透する映画を【Director’s Interview Vol.556】|CINEMORE(シネモア)。
*13:それはルイスの自我/エゴとの闘い、そしてそこからの解放であるだろう。忘我の果てにこそ、他者を理解することができるのだ。ときおりインサートされる道路の白線や線路を映すショットが「シラート(道)」の暗喩であることは論を待たないが、彼はあるとき、その先に達したに違いない。ラシェ監督はインタビューにて、終盤のレイブのシーンにてルイスがはじめて音楽に合わせて踊るときが、もっとも娘に近づいたときだと語っている。
*14:また、ジョーゼフ・キャンベルが「儀式の役割は日常性から人を引きずり出すこと」というように、映画の物語における常套句をも逸脱する展開は、本作が映画という日常を求める観客に対して持つ儀式的性格を強調するだろう。


