2026年5月に、ときおり思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。それにしたって、NO WAR, NO KING and NO LIE。
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【劇 場】
◆投獄された父を救うために立ったクッパ Jr.が、その身に絶大な力を秘めるロゼッタ姫を拉致する『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』(アーロン・ホーバス、マイケル・ジェレニック監督、2026)は、楽しいは楽しい良作だった。
本作の見どころのひとつは、なんといっても全編に渡ってこれでもかと繰り広げられる “マリオ” 的アクションのつるべ打ちだろう。マリオとルイージ、ピーチ、そしてピノキオたちが行く先々で立ち回るアクションはCGアニメーションであること存分に活かした縦横無尽なもので、走って跳んでチェイスし変身し、多勢に無勢の大立回りにドッグファイト、果てはT-REXに追いすがられ……とバリエーションも豊富。そして、それらを──前作から採用された──平面(2D横スクロールゲーム)的な画と立体(3Dアクションゲーム)的な画とを巧みに織り交ぜながら矢継ぎ早に展開し、これまでのゲームで様々に観客が体験してきたであろう “マリオ” 的アクションを再現して大スクリーンに映し出される様相は、スペクタクル性とユーモア、そして画の色鮮やかさにも満ち、たいへん楽しい。
また、本作ではイースターエッグ──主に登場キャラクター──も豊富で、出番の大小に関わらず、観客の思い出をくすぐるに違いない。ゲームに疎い僕ですら「あッ、こいつにそいつにあいつじゃないか!」と思わず口角が上がったものだ。
しかし本作は、そのようなオモチロ楽しいアクションやイースターエッグの連弾という、その場その場の楽しさに注力しすぎた結果、物語としては展開も雑多で非常に希薄なものになった印象は拭えない。これは、主人公マリオの成長葛藤が前作の──現実世界で失敗続きのマリオが、キノコ王国での冒険の果てに「スーパー」な人物として自立する──時点で完了した、と今回の作り手たちが判断したのか、本作における彼の軸がいまいちハッキリしないと点もあるだろうし、また本作の量的なバランスをあきらかに欠いたアクションとドラマの構成が、キャラクターたちの深掘りを阻み、物語としての本作に集中しづらくなったこともあるのだろう。
そんななかで思い返すなら、本作でもっとも感情の揺れを感じられたのはクッパ大王であった。「悪としての父に憧れる息子の期待に応えたい」という親としての願望と、前作で対等に戦って敗れ、ある種の更生の機会を与えてくれたマリオへの複雑な感情とがない交ぜになった彼の表情は、とても印象的だ。なので本作が、ヴィランとしてのクッパをいっそう掘り下げるような展開をより軸に据えたものであれば、もうすこし物語的にも印象に残ったのかもしれない(もちろん本作が、ロゼッタ姫を登場させることで、ピーチ姫の立ち位置をマリオとのカップルではなく、マリオとルイージの「ブラザーズ」と対をなす「シスターズ」であることを描こうとしているのは理解するのだけれど、いかんせん ”二兎を追う者は……” 状態になっている感は否めない)。
とはいえ、ここまで本作について考えてきたことも “良し悪し” であって、マリオゲームの映画化というアトラクションを楽しむなら、本作はそれを間違いなく叶えてくれる良作だ。ひとまず映画館にレッツ・ア・ゴーといこう。
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◆終局が目前に迫った世界で、ふいに街角や看板、テレビやラジオに見ず知らずの男チャックの人生に感謝を捧げる広告が溢れかえる『サンキュー、チャック』(マイク・フラナガン監督、2024)は、いかにも自作品でユニバースを展開するスティーブン・キングらしい趣と入れ子構造を持つ、一風変わっているが、しかし人生讃歌の1作だった。
本作のプロットは少々トリッキーであり、それゆえ予告編で明かされている “世界の終わりに突如として「チャックの39年にわたる素晴らしき人生に感謝を」という広告が、なぜ大量に展開されたのか?” 以上の物語に触れてしまうと興を削ぎかねないため、詳述はあえて控えたい。しかし敢えて補足的に付け加えるなら、芸術/感情と科学/理性が拮抗する価値観の狭間で育ち、自らの人生を歩むとある人物は、ある意味でスピルバーグ監督の『フェイブルマンズ』(2021)の主人公を思い起こさせるものだ。
そんな本作は全編が3章構成で、そのそれぞれで画面縦横比が「1: 1.85/1: 2.00/1: 2.39」と異なっており、この3種類の画面縦横比の移ろい──近年 IMAX映画で主流の縦幅の変化ではなく、横幅の変化──が、作中のとある台詞と相まって意味を持ってくることは記憶しておきたい。そしてソフトや配信では、本作の画面縦横比の変化が十全には発揮されない──おそらく家庭用モニタに合わせるために横幅ではなく縦幅の変化に置き換わるのではないか──と予想されるので、せっかくなら劇場でじっくり味わいたい1作でもある。
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◆銀河帝国の崩壊後、その残党狩りする孤高の賞金稼ぎの冒険を描く『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』(ジョン・ファヴロー監督、2026)は、久しぶりに楽しい楽しい活劇を観たなァと感慨深い1作だった。
今回、不勉強ながら本作に連なるドラマシリーズ『マンダロリアン』(同監督ほか、2019-)をまったくのノータッチの状態──なので冒頭のあらすじの誤謬はご勘弁──で観たのだけれど、とくに問題なく──もちろん、取りこぼしている要素もたくさんあるだろう──映画の世界に入り込むことができたのは嬉しい。アバンに附された雪山での追走劇において、まずは世界観やマンドーとグローグーの関係性といった本作を観るうえで必要な情報を、上に下にの大アクションを交えつつテンポよく的確に伝える手腕は見事なもので、かつ見慣れた「スター・ウォーズ」的世界観を壊すことなく絶妙な新鮮味を持って拡張した種々のプロダクション・デザインが、二転三転する物語のなかで代わる代わる画面いっぱいに映るのも楽しい(そういえば、ところどころで「妙に “懐かしい” 動きをするクリーチャーやドロイドがいるな」と思ったら、しっかりフィル・ティペットの名前がクレジットにありました *1)。これまで伝え聞いていたドラマ版の高評価も、本作を観て納得だ *2。
ちなみに IMAX映画でもある本作だが、僕の観た地方の通常上映館においても、画面縦横比が1: 2.39(1: 1.85にレターボックス処理)と1: 1.85とが混交した上映だったことは備忘録的に記しておこう。とはいえ、IMAX上映館で観た人の話を聞くと、どうやら画面縦横比の変化は IMAX版と全部が全部同じではないらしい *3。けれども、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にせよ、本作にせよ、今後こういった通常上映であっても IMAX版のように劇中で画面縦横比が変化する上映方式が増えてゆくのだろうか。
まァ、なんにせよ楽しかったです。
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【ドラマ】
◆荒木飛呂彦による漫画を原作とするドラマ「岸辺露伴は動かない」シリーズの番外編『泉京香は黙らない』(関友太郎、平瀬謙太朗監督、2026)を観た。これまでの極端な遠近感によるパースを強調する実相寺昭雄的なカメラワークを封じて、登場人物がこちらを見据えた──あるいは背を向けた──平面的で左右対称な画面レイアウトとそれを追いすがる移動カムを用いたキューブリック的──とくに本作もある種の洋館ホラーなためか『シャイニング』ふう──なものへ変え、冒頭と最後のスタッフロールを市川崑風味にすることで、番外編としての差別化を図っていたのが興味深い。ところでね、声なき声を報ずるのではなく奪って捻じ伏せ歪曲して公共の利益に反する形で悪用した挙句、その声によって真に手痛いシッペ返しを喰らうべきなのは報道局、あんたがただよ *4!
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*1:ハットの宮殿で登場する巨大門番ドロイドのパーツひとつひとつの動きが、じつにストップモーションですごかった。
*2:いっぽう、本作の物語構成は──敢えて、とは思うけれど──映画的というか、どちらかというとドラマ3~4話を隙間なく繋げたような感じだったので、そこは好みが分かれる部分かもしれない。
*3:そのためか、IMAXパートが中盤に集中しており、前半40分と後半のクライマックスはずーっとシネスコ(1: 2.39)だったので、であれば画面縦横比をシネスコ固定でもよかったのではないか──だってまぁ、「スター・ウォーズ」ってシネスコじゃん?──、という気がしないでもない(ほかのレビューを見ると、全編シネスコ版上映の方式もあるようです)。
*4:本作のキャラクター設計からして、この暗喩はあきらかだろう。わかってんのかしらん。わかってねえんだろうなァ。


