『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督、2023)感想と雑考(ネタバレ)

ゴジラ-1.0』山崎貴監督、2023)……太平洋戦争終結後、とある出来事のせいで心に深い傷を負ったまま復員して天涯孤独の身となった青年・敷島浩一は、あるとき闇市で出会った女性・大石典子と、彼女が連れていた戦災孤児の赤ん坊・明子の3人での共同生活を成り行きではじめることとなってしまう。ようやっと職を見つけ、少しずつ生活を取り戻しつつあった敷島の前に、黒く巨大で無気味な影が刻一刻と迫っているのだった……。

あの衝撃の『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)から7年──その間にハリウッド版「モンスター・ヴァース」シリーズや劇場用アニメーション『GODZILLA』3部作(静野孔文瀬下寛之監督、2017-2018)ならびにテレビ用アニメーション・シリーズ『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』(高橋敦史監督、2021)を挟みつつ──、国産実写作品としては通算30作目にあたる本作『ゴジラ-1.0』は、大迫力のVFXと「ゴジラ」としては新鮮/異質なアプローチの物語構造を持った、なんとも知れぬ──良くも悪くも──絶妙な感触の1作だった。


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【本稿は一部ネタバレを含みます。とくに脚注、そして後半(警告後)にて核心部のネタバレに触れる箇所がありますのでご注意ください】


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なんといっても本作で描出されたゴジラの迫力は凄まじい。ゴジラ海上を逃げる小型船舶に泳いで追いすがる恐ろしくもスリル満点な描写、銀座の街を容赦なく破壊するゴジラの足元を逃げ惑う人々の視点からグッと見上げるように映す巨大さ演出、そして重厚でドッシリとした画面とCGならではの立体的──もっといえばアトラクション的──な画面を巧みに繋ぎつつ展開される見せ場の数々は、ぜひとも劇場の大スクリーンで味わいたいスペクタクル性に満ちている。

人間たちへの明確な殺意を感じるゴジラの暴れっぷりもまた、本作の見せ場の迫力と恐怖にひと役買っている。本作のゴジラほど、足元を逃げ惑う人々を躊躇なく踏みつけ、あるいは瓦礫ともども蹴散らしてゆく様をまざまざと映した特撮/VFXシーンも珍しいのではないだろうか。これによって「あっ、いま人が目の前でむざむざ死んだな」と呆然とせざるを得ない寂寥感が醸されるのも、本作が描く都市破壊描写の特徴といえるだろう。


ところで、細かいところで個人的に嬉しかったのが、本作ではゴジラの足元を──ビルや家屋を蹴散らし踏み抜いた瓦礫もろとも──ちょっと俯瞰気味のカメラワークで上から映してくれるショットがいくつかあった点だ。もし実際にそこに居合わせたらという仰りショットによる迫力も大好きなのだけど、同時に永らくミニチュア特撮に親しんだ身としては怪獣の足がしっかりと地面と瓦礫を踏みしめているという実在感もまた、観ていて心躍るものがあるのだ *1

そして、これらの見せ場をきちんと実在感とリアルさをもって描き切ったVFXの水準も非常に高く素晴らしい。山崎貴監督は、ゴジラをデジタルで描くことの利点を「ディテールが無限に再現でき、いくらでも近くに寄っていける *2」ことだと応えているが、その言に偽りなく、じつに細かな質感まで描き込まれたゴジラの表皮やダメージの表現──熱戦を吐くことで自らも身体をそこかしこジクジクと焼いている表現は新鮮! ──はもちろん、本作では「海」における波や飛沫のリアルさにも注目したい。なかなかこうした自然の流動表現は難しいとよく聞くけれど、ゴジラや軍艦の動きと重量を受けて波打つ海水の質感をつぶさに描き切っていて見応え抜群だ(データ量すごそう……)。



また、音である。

まずもって本作いちばんの聴きどころは、なんといってもゴジラの咆哮だろう。音響効果担当の井上奈津子氏へのインタビュー記事 *3によれば、本作で使用されたゴジラの鳴き声は第1作『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)のものを音源とし、それを千葉県のZOZOマリンスタジアム(旧称: 千葉マリンスタジアム *4)が有する最大のスピーカーから流して「響き」を加味したものを録音し、それをSEとして使用しているという。なるほどモノラルであったオリジナル音源に、ある意味でアナログな手法で立体感を加味するという手法は劇中でも絶大な効果を上げており、たしかな存在感をゴジラに与えている。


つぎに音楽/劇伴もまた、聴きどころだ。これまで山崎貴とも何度もタッグを組んだ佐藤直紀が担当した本作のオリジナル楽曲は、重厚なフルオーケストラながら主旋律のないミニマルで環境音楽的な風合い──後期の坂本龍一的映画音楽とでもいおうか──が強いのが特徴だ *5。これまでも元祖の伊福部昭とは別の作曲者による劇伴は国内外問わず種々あったわけだけれど、基本的には皆それぞれに作曲した主旋律の「ゴジラのテーマ」を提供するのが常であった。対して、本作では佐藤直紀オリジナルの「ゴジラのテーマ」的主題は敢えて登場させず、基本的にはじっと抑え目のスコアに徹している。

これはおそらく、本作でも伊福部昭による楽曲を随所に使用するためであろう。これまでにも別にメインの作曲家がいて、合間合間で伊福部昭の楽曲を使用した例はあるけれど、その場合、過去作あるいはレコード用に録音されたものの流用であること──『シン・ゴジラ』における流用は、その最たる例だろう──が多かった。しかし今回は、佐藤直紀が本作用に再アレンジした伊福部楽曲が流されるため、彼のオリジナル楽曲と音世界の統一感を保っている。これによって、佐藤によるミニマルな楽曲のなかで伊福部昭のメロディがよりいっそう際立って聴こえ、「ああ、ゴジラを観ているんだな」という感慨にも似た多幸感に包まれることだろう *6


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そして本作は、しっかり山崎貴監督作品でもあった。本作を形作る「SF」「昭和」「人情」「軍艦」「戦闘機」「VFX」……といった構成要素をざっと眺めてみても、いかに『ゴジラ-1.0』が彼にとっての集大成的作品であったかが窺える。


この集大成という意味では同時に、彼が映画監督を目指すきっかけとしてたびたび公言してやまないのが『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1977)と『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、1977)であるように、この先人ふたりに捧げられたオマージュが随所に──とくにゴジラまわりのシーンにて──見られるのも興味深い。

数々のゴジラの見せ場では、そこかしこにスピルバーグのタッチを感じさせるし *7、クライマックスで巨大なゴジラへ闘いを挑む敷島に『スター・ウォーズ』にて巨大宇宙要塞デス・スターに X-ウィングを駆って突入するルーク・スカイウォーカーの面影を見た観客もあったのではないだろうか。

たしかにこういったオマージュの多用は、場合によっては鼻白んでしまう要因ともなるけれど、こと本作に限ってはそれがゴジラの新鮮な見せ場として機能しているし、ゴジラでなくては出来ない表現まで昇華されているので非常に楽しめるものになっている。



同時に──同語反復的ではあるけれど──本作はやっぱり山崎貴監督作品であって、彼の作品ならではの難点も、相変わらず存在する。それは、これまでも往々にして指摘されてきた、感情や設定を過剰なまでに台詞で説明してくれる “わかりやすい” 演出だ。親切設計といってしまえばそれまでだけれど、こういうところの引き算を山崎貴監督はしないので、観ているスクリーンに余白が生まれず、かえって窮屈な嫌いがある。

もちろん、これは本作を観る前から予想はしていたことだ。しかし本作ではくわえて、その反復が目立つのには若干閉口した。同じ内容のやりとりに喧嘩、状況説明から人物設定への言及、そして絶望のスローモションなどなど、本作ではこういった本来なら1回あればよかろう場面が間を置いて──あるいは置かずして──繰り返される。そのくせゴジラの上陸や軍艦の出航、あるいはゴジラについて考証を進めるといった、あったほうがより観客が吞み込みやすいのではないかと思われる場面はバサバサ切っているので、繰り返し演出の鈍重さが余計に身に染みてツラい。


また、ゴジラが銀座を襲撃して以降のタイムスパンがいまいちわかりづらいのも難点だ。あれから何日後にコレがあってソレがあって、さらに何日たってアレがあったのか、もうすこし明確だったほうが、いつ次にゴジラがやって来るのかのタイムサスペンスが生まれて、よりクライマックスが盛り上がったように感じられる。この一連のシーンにおいて1日が終わったことを示すのが、酒場でくだを巻いている描写しかないのは、いささか問題だろう。

ことほど左様に、本作は見せ場以外のドラマパートにおいて残念ながらまどろっこしい部分が多い。特撮パートが素晴らしいだけに、観ているあいだのテンションの差が激しくて、悪い意味で少々くたびれてしまった。本作は娯楽作品なのだから、現状ないシーンを足さないまでも、もうすこし繰り返しを省いて物語の段取りを整理整頓 *8したなら、尺もソリッドになり *9、より引き締まった1作となったろうに、たいへんもったいないことだ。


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【以下、核心部のネタバレがありますので、ご注意ください】


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さて、本作で興味深いのが、登場する「ゴジラ」のキャラクター造形に対するアプローチが、これまでの作品群とはかなり異なる点だろう。どういうことか。

これまでゴジラは多くの場合、戦争や原水爆をはじめ、台風や地震といった大災害/大災厄のメタファーとして登場してきた。いうなれば、人類すべてに覆いかぶさる普遍的 ”恐怖” そのもの──あるいは、抑圧された集合的無意識(イド)のトラウマ──の現出にほかならない。それゆえ、ゴジラが現れたが最後、人間はゴジラが去る──戦火や災害が収まることを祈りつつ──のをただじっと待つほかないのである。このスタンスは、2014年からスタートした「モンスター・ヴァース」版でも踏襲されている。



それに対して本作のゴジラは、あきらかに敷島 “個人” の内面を象徴しているのが特徴だ。それは、彼が戦争中に抱えた心の傷である。

思い出そう。映画冒頭から明かされるように、敷島は命ぜられた「特攻」から生き延びるため、零戦の故障を偽って大戸島にある飛行場に逃げ帰ってしまった人物であり、その負い目が彼に心の傷として大きく刻まれることになってしまう。この彼の無意識下のトラウマが怪物として具現化したのが、本作におけるゴジラなのだ。だからこそ敷島が島に到着したその晩、彼の前にゴジラが現れ、そして彼の負い目を知る整備兵たちを殺戮するのだと捉えられる *10

それによって犠牲者を出したことへの自責の念が、さらに敷島の心的トラウマを増強させ、復員した彼の前に幾度となく──しかも、より強大になった──ゴジラを出現させる。敷島がすこしでも「生き永らえて」あろうことか「幸せ」になろうものなら、そんな彼を罰するようにゴジラは何度でも反復脅迫的に姿を現し、暴虐の限りを尽くすだろう。本作でゴジラが執拗に典子を襲うのも、彼女が敷島にとって「生きて幸せ」になることの象徴そのものだからだ *11

ことほど左様に本作のゴジラは、敷島の負い目や自責の念に端を発する無意識に抑圧された心的トラウマによる症候(PTSD)それ自体のメタファーだと捉えられるだろう *12。だからこそ敷島は、自身の抱えてしまったトラウマ記憶を克服するために、それが顕在化した存在であるゴジラへ主体的に──個人として──立ち向かわなければならず、そしてその方策が、彼のトラウマの原因となった「特攻」にまで遡って、かつその物語を軌道修正しなければならなかったのだ *13



もちろんこれまでにも、第1作『ゴジラ』の芹澤博士や『シン・ゴジラ』の矢口蘭堂を筆頭に、劇中でゴジラ──あるいは他の怪獣──と対をなすような登場人物はいた。たしかに彼らは、いわば “人間ゴジラ” としての側面を持っているが、それはゴジラが巨大な集合的無意識の塊であるがゆえに思わず共鳴してしまった人物たち *14と捉えるほうが正鵠を射ているだろう。彼らはゴジラさえ出現しなければ、その内に秘めた無意識的なルサンチマンや欲望に対峙することもなかったはずだ。彼らもゴジラと出逢いさえしなければ、暗い研究室の地下室/無能な現政権の下で──その是非はともかく──静かに人生を全うしたかもしれない。

いっぽう、前述のとおり本作のゴジラは、あくまで敷島の個人的なトラウマに端を発するイドの怪物であり、そういった意味で本作はより王道のエンタテインメント映画の作劇と構造によって成り立っているといえる。そのキーとなるのが、観客の主人公への感情移入による物語への没入感であるなら、これはたしかに正攻法である *15


事実、敷島という人物は、われわれ観客が共感しやすいキャラクターとして設計されている。もちろん現在において、敷島が抱える「特攻から逃げ帰った」という葛藤をそのまま持つ観客はほとんどいないだろうけれど、「死にたくない/生きたい」という願いは普遍的であるし、人間ならば大なり小なり「負い目」を持たない者はない。また彼のように、“誰もが普通にしていることが自分にはうまくできない” という生き辛さを感じている観客も──まだまだ同調圧力の強い社会風土である日本ならなおのこと──きっと少なくないはずだ。こうして本作を観た観客は敷島へと感情移入し、ゴジラに恐怖し、そして彼の葛藤と闘いを固唾を呑んで──まるで我がことのように──見守ることができるだろう。

このように、観客の感情移入を誘う主人公が抱く葛藤としてゴジラを置くという本作の王道的な物語構造によって描かれるゴジラ像はたしかに新鮮であるし、それが十全に機能しているからこそ、本作に対する好意的な──『シン・ゴジラ』とは違ったニュアンスでの──評価が広い層からもたらされているのではないだろうか *16。実際、僕だって本作の物語を大筋では楽しんだものである。



そして、これは「大衆娯楽映画」をいままで一貫して撮ってきた山崎貴監督のフィルモグラフィをみても、ゴジラという強大なフランチャイズを自らのフィールドに引き寄せるべく採られた彼なりの方策であっただろう。

ただ同時に──これ以降は “ないものねだり” といえばそれまでなのだけれど──それによって、本来あったはずのゴジラの「怪獣感」といったものは、だいぶ薄くなってしまった印象は否めない。どちらかというと本作は、怪獣映画というよりはモンスター映画に近づいてしまったところはあるだろう。

すなわち、本作がゴジラを敷島という “個人” が乗り越えるべき葛藤として設定したがために、真にゴジラを生み出してしまった戦争や原水爆という人類の大きな罪に想いを馳せづらくなってはいないだろうか。核に焼かれてしまったがために「怪獣」となってしまったゴジラに対する共感、あるいは共鳴する人物は──物語構造によっても──欠如してしまっている。ゴジラもまた、戦争と原水爆の被害者ではなかったか。そして、その戦争と原水爆を生み出したのは、誰あろうわれわれ人間ではなかったか。


もちろん、敷島もある種「特攻」という戦争の被害者であるが、彼が「生きたい」という至極まっとうな願いに従って「特攻しなかった」がためにゴジラが現れたようにも見える本作は、どこか本末転倒したモヤモヤした感情も残るのである *17

劇中の台詞にあるような「俺の戦争」「あなたの戦争」と強調される個人史観のみで歴史を捉えることの危うさを、われわれ観客も物語のカタルシスに呑まれる前にちょっと踏みとどまって念頭に置いておくべきではあるのではないだろうか。


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──と、本作についてダラダラと書き連ねてきたけれど、なんにせよ国産「ゴジラ」の新作が映画館で観られるのは嬉しいし、ゴジラについていまいちど考える機会にもなってくれた。本作のゴジラ像に首をかしげざるを得ない部分は多いけれど、いろいろな解釈を作り手も観客も抱けるというのが、その魅力のひとつだろう。いずれにせよ、ゴジラのヴィジュアルと咆哮、そして破壊は映画館で浴びてこそ。ぜひとも劇場で鑑賞されたい。




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【おまけ: 備忘録】
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*1:だからこそ放送当時──いま地面を踏み締めているという実在感を別ベクトルで明確に示してくれた──いわゆる「ガイア着地」に感動したっていうさ。

*2:映画『ゴジラ-1.0』山崎貴監督インタビュー──「初代ゴジラを観た人たちが感じた圧倒的な恐怖の再現を目指しました」 | GQ JAPAN、2023年11月13日参照。

*3:『ゴジラ-1.0』で初代ゴジラの鳴き声はZOZOマリンスタジアムで収録された|Real Sound|リアルサウンド 映画部、2023年11月13日参照。

*4:ゴジラVSメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)で破壊されてましたね。

*5:敷島が最後の闘いへと赴くシーンなどに使用された──オリジナル・サウンドトラック盤では Tr.12──「Resolution」なんかは、とくにスティーヴ・ライヒの楽曲を彷彿とさせる。

*6:また細かいことではあるが、いわゆる「ドシラ・ドシラ・ドシラソラシドシラ……」のメロディを「ゴジラ」の主題ではなく、第1作に則って「ゴジラに対抗する人間たち」の主題として満を持して流してくれるのも嬉しい。

*7:闇夜の大戸島に現れるゴジラは『ジュラシック・パーク』(1993)、洋上に横たわる大破した軍艦は『未知との遭遇』、敷島たちの乗った機雷除去用の特設掃海艇「新生丸」とゴジラとの攻防は『ジョーズ』(1975)、銀座に上陸したゴジラによって蹴散らされる瓦礫をうしろに逃げ惑う人々を映す感じは『宇宙戦争』(2005)、ラストで海に没してゆくゴジラは再び『ジョーズ』におけるサメを彷彿とさせる。

*8:後半、敷島が橘を呼び出すために採った行動は、あきらかに名誉棄損であって、そんなくだりを入れなくても、ふつうに再会からの殴打でよかったんじゃないかしら。余談ついでにもうひとつ、前半で出てきた日本語字幕スーパーは、1行当たりの文字数が多すぎて読みづらいったらないよ!

*9:100分くらいが、本作にはちょうどいいと思う。

*10:つけ加えるなら、ここで橘をゴジラが殺さなかったのは、敷島が自身の罪を自罰するための証人として必要だったからだと考えることができるだろう。そして前述したように本作のゴジラが明確に人間への殺意を表しているのは、復員した敷島が隣人の澄子から詰(なじ)られるように、いつなんどき他人様から罪を告発されるか知れぬ──だから殺しておこう──という無意識の発露だったのだろう。

*11:だからこそ、典子(だけ)は殺せないという葛藤が、彼女を何としても生かそうともするだろう。

*12:敷島が昏倒ないし正気を失ったのと同時にゴジラが姿を消すこと、また彼がゴジラの悪夢を見るのも象徴的だ。もちろん、フロイトの言に従うなら、悪夢もまた「睡眠を維持するため」の願望充足の一形式であることを念頭に置かねばなるまい。この悪夢で敷島はたしかに死んでいて欲しい人物を殺し、残存してほしい自罰願望を思い起こすだろう。その均衡が崩れるからこそ、彼は目覚めてしまうのだ。

*13:よくあるフロイトの局所論の図解を本作の「海」に当てはめるなら、海上=意識/海面下~海底=無意識ということになるだろう。とすれば、ゴジラが海底からやって来ること、あるいは「海神作戦」においてゴジラを海底に沈める(=無意識下に抑圧する)だけでは効果がなかったのも頷けるであろう。

*14:そして、われわれ観客もゴジラに共鳴するだろう。

*15:クリスチャン・メッツ『映画と精神分析―想像的シニフィアン鹿島茂訳、白水社、1981年、88-118頁を参照。

*16:劇場用アニメーション『GODZILLA』3部作でも同様の構造がみられるが、あまりうまく機能していない。

*17:劇中、野田や秋津の台詞をとおして旧日本帝國の──正直、現状の日本政府に通ずる部分も多い──愚策へのまっとうな批判をしているだけに、余計に気になった……。