2023 3月感想(短)まとめ -Part2-

2023年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆両親に連れられて観た「映画」に魅了された少年サミーが、やがて映画づくりと家族の秘密の狭間で葛藤することになる『フェイブルマンズ』スティーヴン・スピルバーグ監督、2022)は、たいへん面白いのはもちろんのこと、スピルバーグの原点と、彼の映画についての考え方に触れられる1作だった。


本作で描かれるスピルバーグ少年期を観ていると、彼の映画に通底する要素が如実に思い出されて興味深い。たとえば、彼の映画に登場する子どもと両親との関係を巡る描写がスピルバーグ自身の経験を反映しているとよく云われてきたけれど、本作を観るとそれがどういった形で各作品に息づいているのか──『未知との遭遇』(1975)は逆転して描いていたのか、という発見もあった──を、改めて認識することができるだろう。

また、スピルバーグが常に様々な最新技術を取り入れながら作品を撮る監督になったことも、少なからず両親からの影響があったのだという種明かしも興味深い。冒頭、幼いサミーが両親に連れられてはじめて出かけた映画館でのやりとりを思い出そう。技術者の父は「映画は科学だ」とサミーに説き、芸術家肌の母は「映画は夢よ」と諭す。この相反するようなふたつの観点を両立してきたのが、まさしくスピルバーグ映画だったことは論を待つまい。彼の映画はいつも、最新の映画技法やテクノロジーを用いて、僕ら観客に夢を与えてくれるものだ。


本作の惹句や予告編から受ける印象では、スピルバーグがまるで自身の体験をもとに彼の映画愛を語るような内容とも捉えられるけれど、実際に本作が描き出すのは、そんな単純で楽観的なものではない。もちろん彼の持つどうしようもない映画への愛や映画づくりの楽しさについても、数々の自主映画撮影や上映風景など、ほんとうに楽しそうで多幸感に満ちたシーンで描かれる。しかし本作がまざまざとむしろ描き出すのは、映画が持つ負の力でもある。

思い出そう。サミーは家族旅行の記録映画をつくるなかで、母のとある秘密に気づいてしまう。彼は、映画が意図しないものを映してしまうこと、そしてそれを編集によって隠せてしまうことに思いがけず発見し、狼狽する。また彼は高校の学校行事を映した記録映画をつくるなかで、映画がありもしない出来事や情感を演出や編集によって華麗に生み出せてしまうこと、そしてそれによって観客に激烈な反応を呼び起こしてしまうことを身をもって体験するだろう。サミーが手にしてしまった映画の虚構性とは、彼が思う以上に絶大な力なのだ。

これは、映画というメディアが持つ負の力──言い換えるなら「呪い」──であり、本作がサミーの姿を借りて描き出すのは、それでもなお映画をつくりたいという、スピルバーグの業にほかならない。劇後半で、サミーがとあるシーンで夢想する “「もし、いまここを撮るならどうしようか」とカメラを構える自身の姿” は、この業の恐ろしさがもっとも表れた瞬間だ。

そして本作がスピルバーグの「自伝」ではなく「自伝 “的”」作品という虚実混合のものであることも含意に満ちている。本作のラスト・ショットのカメラワークに付されたちょっとした末尾は、恐ろしく気の利いた洒脱なシャレであると同時に、本作が紛れもなく「映画」であることの高らかな宣言だ。映画の力をライト・サイドからダーク・サイドまで隅々まで知り尽くし、活用し切れるスピルバーグならではの芸当だ(普通できないよ、こんなこと)。


ことほど左様に、本作はスピルバーグの少年期グラフィティであると同時に、彼の考える「映画」についての作品であった。その他、ヤヌス・カミンスキーによる撮影は相変わらず素晴らしかったし、サミーを演じたガブリエル・ラベルのスピルバーグ感や、その両親を演じたミシェル・ウィリアムズポール・ダノの存在感と演技の機微──撮影初日、スピルバーグはふたりを目にして思わず泣いちゃって、ふたりに慰めてもらったらしい──も見応え抜群だ。とにもかくにも本作でも存分に発揮されたスピルバーグの天才性──本作を『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)制作中にちょっと時間が空いたから撮ったというのだから、恐ろしい──を堪能しに、劇場へ出かけたい1作だ。


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◆世界転覆を狙う謎の組織「ショッカー」の陰謀を阻むべく緑川ルリ子とともに闘いに挑む本郷猛の姿を描いた『シン・仮面ライダー庵野秀明監督、2023)は、なんともクセの強い、なかなか観たことのない感触の作品だった。


シン・ゴジラ *1』(同総監督、2016)、『シン・ウルトラマン *2』(樋口真嗣監督、2022)に続く『シン・』特撮リブート第3作である本作でも、これまでのシリーズの持ち味を存分に堪能できることだろう。いささか難解さ──ハッタリこみで──をまとった独特のSF用語や設定に台詞回し、枝葉を出来る限り削ぎ落したソリッドな脚本、そしてありとあらゆる撮影機材を用いることで可能になった庵野作品らしい徹底したグラフィカルさと新鮮さを備えた画面レイアウトのショットの連続を食い気味に繋ぐ編集などを駆使して、これまでにない『仮面ライダー』の味わいを醸している。


とくに本作では、『仮面ライダー』など東映特撮のお家芸──もちろんこれは制作当時の技術やバジェットの制約/限界から生まれたものであるだろう──ともいえる風味を、これでもかとブラッシュアップしている。

それはたとえば、戦闘中にロケーションAを映すショットからライダーが「とうっ!」と跳躍する姿だけを映したショットに飛び、着地するとまったく別のロケーションBになっているマッチカットのような繋ぎ方や、ショットが変わると不意にどこからともなく戦闘員がすでに立っている繋ぎのジャンプカットにも似た手法だ。これらに前述した庵野映画特有の画面レイアウトの卓越したカッコよさと小気味のよい編集とが融合することによって、もはや得も言われぬケレン味の境地に至っている。とにかく本作の戦闘シーンにみられる力技な撮影と編集──しかし、単にチャカチャカしているわけではない──は、新鮮で気持ちがいい。同時に、無茶なスタントをロングショット1カットで捉えるような場面を、近年のVFX技術を用いて迫力満点にブラッシュアップしている部分もあるので、そのメリハリもバッチリだ。


そして、中盤に繰り広げられるライダーと怪人の超高速バトルの殺陣の感じは、かつて庵野秀明が撮った実写版『キューティーハニー』(2004)で用いられた「ハニメーション」──アニメで作画されたアクションに従って、役者を1コマずつ写真撮影し、それを動画化する手法──を思い起こさせるもので、当時からこういうことをやりたかったのだなと、翻って得心もさせられた。

もちろん、本作で用いられたアクションの編集はある種の強引さもあるので、シーンによっては判りづらさのほうが勝っている点も否めない。なかんずくクライマックスでの大乱戦追走シーンはロケーション設定も相まって画面が暗すぎであり、状況や動きがほんとうに吞み込みづらかった。画面にもうすこしの明るさとコントラスト比の高さが加わっていれば、もっと見応えのある──たとえば『悪女/AKUJO』(チョン・ビョンギル監督、2017)などの追走シーンにも匹敵するような──シーンになったのではないだろうか。


また、本作の作劇上での最大のネックは、市井の人々が──ほんの数ショットを除いて──まったく登場しないことだろう。なぜなら、これによってショッカーの怪人たちが暗躍することで具体的にどういった被害が出るのか、台詞での説明は多少あるものの、映像的な手掛かりがほとんどないからだ。

これが『ゴジラ』や『ウルトラマン』なら、怪獣が暴れればビルが壊れるというビジュアルが必然的に付随するので、それほど違和感は生じまい。しかしながらが、等身大ヒーローである『仮面ライダー』たる本作においては奇妙なノイズとして画面に定着されている(というか映っていない)印象があるのは拭えない。ライダーが一般市民の人命救助をしたり、なんなら怪人が出現して人々が「きゃーっ」と逃げ散らばったりするシーンもないどころか、車道に対向車すら最後まで出てこないことには正直驚いた。ある意味で本作は、究極の箱庭映画ないし “ごっこ遊び” 映画といえるかもしれない(あるいは、本作の「ショッカー」の設定的に、この世界がほんとうに “箱庭” だったのかも、という深読みも可能だろう)。

ところがぎっちょん、それが難点ばかりかといえば、そうでない側面もある、というのが本作の不思議なところだ。

前述のように市井の人々が画面に登場しないのは、本作のカメラが本編のほぼ全篇、隠密行動中の主人公・本郷猛(ライダー)とヒロインの緑川ルリ子から離れないためだ。カメラがふたりから離れるのは、ショッカー内での怪人たちの必要最低限の会話シーンくらいである。したがって僕ら観客がスクリーンから得られる情報は、知らぬあいだに改造人間──劇中の呼称では「オーグ」──にされてしまった本郷猛と彼を先導する緑川ルリ子が見聞きするものとほぼ同等のものであり、これによってふたり(の物語)への没入感やシンクロ感が高まっているのは間違いない。テレビシリーズとは違って尺の短い映画作品において主人公たちに感情移入させるべく採られてたであろう、この情報の取捨選択はクレバーともいえるだろう。


ことほど左様に、本作はアクションにせよ作劇にせよ、やりたいことをより具現化しようと結果として非常にクセが強く、エッジの効いたものとなっており、本作で庵野秀明が採用した諸々の演出は諸刃の剣──いみじくも劇中に “そこに一画足すのか、そこから一画引くのかで意味が逆転する漢字” の喩え話が出てくるように──だ。これらの是非をどのように捉えるかによって、観客の評価は賛否両論十人十色となるのは必至だろう。少なくとも僕自身は、本作の尖り方を新鮮に楽しんだし、好意的に評価したい。

その他、主人公を演じた池松壮亮のなんとも知れぬ “昭和” な存在感や浜辺美波のフォトジェニックさは本編の世界観にとてもマッチしていたし、そのとき動かない箇所は文字どおり静止画で表現される “あいつ” の動きは不穏でよかったし、バイクの変形や各怪人の変身の見せ方も面白かったし、基本血みどろな戦闘 *3は愉快だったし、キャスティングの重複も「あんたも好きねえ」とニッコリさせられたし、部分的に用いられていると思しきミニチュア特撮の見応えや、SEの聴き応えもあった。熱心なファンならもっと気づける小ネタやオマージュ──ロケ地やら小道具やら大道具やら展開やら──もきっとあったのだろうな、とはいえ説明不足で脈絡不明な箇所が数ヶ所はゼッタイあったよなァと思いつつ、なんやかやでこれまでの『シン・』シリーズ同様、楽しく新鮮な余韻に浸ることのできる作品だった。面白かったです。


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【ソフト】
◆とある高校の演劇部にOBがやって来たことで思いがけない珍事が巻き起こる、アイドルグループ “私立恵比寿中学” 主演の舞台『エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート』(土屋亮一演出、2015)は、シンプルにたいへん面白い喜劇作品だった。

恥ずかしながら僕は、本作が舞台作品であることも、エビ中メンバー主演であることも、そもそも彼女たちのことについても皆目知らないという、不勉強極まりない状態で観たのだけれど──ときおり先輩方と開催する映画同時視聴会の題材となったのです──とても面白かった。

高校の演劇部部室を舞台に、二転三転する展開、二重三重に交錯する登場人物たちの思惑、横滑りに雪崩れてゆく台詞の意味、個性と癖の強いキャラクター造形などなど、まことに複雑怪奇な物語をオモチロ可笑しく伝え切る脚本と演出の妙が素晴らしいし、劇場の空気と笑いをガッチリ掴んでゆくメンバーたちのコメディエンヌぶり──とくに印象に残ったのが、小林歌穂の見事な見事な膝のガクブルぶり──も見応え抜群で、終始ゲラゲラ笑い転げることとなった。とってもいいものを観ました *4


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*1:公開当時の感想: 『シン・ゴジラ』感想 - つらつら津々浦々(blog)

*2:公開当時の感想: 2022 5月感想(短)まとめ - つらつら津々浦々(blog)

*3:市川崑オマージュの流血演出もありましたね。

*4:あとで調べて知ったのですが、劇中で見事に場を搔き乱すトリックスターを演じていた松野莉奈さんは若くして急逝していたのですね。彼女のパフォーマンスも素晴らしかった。ご冥福をお祈り申し上げます。