『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』感想

1969年、かつて第二次大戦中にナチスから奪還した「アンティキティラのダイヤル」を巡って、年老いたインディが最後の冒険に出るインディ・ジョーンズと運命のダイヤル』ジェームズ・マンゴールド監督、2023)は、なるほどこういうアプローチで来たかという驚きと趣深さに溢れた1作だった。


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本作は、これまでスティーヴン・スピルバーグジョージ・ルーカスのタッグによって製作された、皆さんご存じ「インディ・ジョーンズ」シリーズの第5作にして最終作だ。

大学で考古学を教えるインディが謎に包まれた古代の秘宝を巡り、世界を股にかけて追いつ追われつの捕り物合戦を演じる冒険活劇映画シリーズが世に放たれたのは、1981年。すでにヒットメイカーとしてトップランナーになっていたスピルバーグとルーカスが「自分たち流の『007/ジェームズ・ボンド』映画を作ろう」というコンセプトのもと、彼らが大好きだった1930年代の連続活劇短篇映画やパルプ雑誌ノベルの面白さに、1950年代にハンフリー・ボガードチャールトン・ヘストンが演じた冒険家の意匠をまぶし、ジョン・フォードをはじめとする西部劇に活劇、とにかくふたりの持てる映画的知識と技術をふんだん盛り込んだ現代の娯楽大作として『レイダース/失われたアーク 《聖櫃》』が誕生した *1

スピルバーグの映画演出の確かな手腕、見事なキャスティングとしか言いようのないハリソン・フォードの出で立ちと演技、古代遺物の奇想を見事に表現した迫力のSFX、ジョン・ウィリアムズの手による誰もが1度は耳にしたテーマ曲なども相まって、その後も『魔宮の伝説』(1984)、『最後の聖戦』(1989)、『クリスタルスカルの王国』(2008)と回を重ね──またテレビドラマ『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』シリーズ(1992-1993)やノベル・シリーズなどもありつつ──、この42年ものあいだ映画史に燦然とその名を刻み続けてきた一大フランチャイズである。


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さて、本作『運命のダイヤル』を観てまず驚くのが、これまでのシリーズ4作品とまったく手触りが異なる作品になっていることだ。それもそのはず、これまで製作総指揮を務めたルーカス、そしてすべての作品でメガホンをとってきたスピルバーグが、それぞれの務めを本作では降板しているからだ。そして、スピルバーグの「フレッシュな視点獲得のために後人に託したい」という希望を受けて、今回監督に起用されたのが、ジェームズ・マンゴールドである。

マンゴールド監督といえば、1990年代から職人気質的に映画を演出してきた作家だ。スタローンの『コップランド』(1997)やウィノナ・ライダーアンジェリーナ・ジョリーの『17歳のカルテ』(1999)をはじめ、おそらく今回の起用の直接的な理由のひとつでもあろう、年老いたヒーローが迎える人生の黄昏を描いた大傑作『LOGAN/ローガン』(2017)や、近作『フォードvsフェラーリ』(2019)などを観てもわかるように、どっしりと腰を据えた硬派で丁寧な演出を用いる作風の持ち主である。したがって、スピルバーグの──とくにエンタメ作品における映画的快感原則重視の──演出とは、だいぶ系統が異なる監督であり、その違いが本作『運命のダイヤル』にも明確に表れているのは確かだろう。



本作を過去4作と比較するなら、これまでのスピルバーグ監督作にあった物語展開やアクションのダイナミズムやテンポの良さ、そしてケレンに溢れた味わいは、かなり鳴りを潜めている。強いて挙げるなら本作のアバン、1944年ドイツ領内で繰り広げられる城から列車への脱出/攻防戦の部分に、そのスピルバーグ風味を残しているくらいだろうか。

そして、その一幕を経ての、1969年現在から始まる本筋以降は一気にマンゴールド監督の映画となってゆく。過去作では基本的にインディに付きっきりだったカメラは別キャラクターや敵キャラクターの描写にも馳せ参じ、驚くべきことに過去の回想(フラッシュバック)まで登場して、しっかりと丁寧に──語弊を恐れずいうなら文学的に──人物や物語を掘り下げてゆく。アクション・シーンや編集のテンポ感もどこかゆったりとしていて、トントン拍子に映画が進行していた過去作とは決定的に違う。なんというか、どこか “ままならなさ” を感じてしまうのだ。

こんな本作を観ながら多くの観客が場面の端々で「スピルバーグなら、きっとバッサリ切ってるよね」とか「もっと効率よく(あるいは露悪的に)繋ぐよね」などの所感を持つに違いない。もしもスピルバーグが本作を撮っていたら……という、この「いつもとは違う」インディ映画をどう受け取るかで、観客それぞれが抱く本作の評価は大きく分かれるだろうことは想像に難くない。


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しかし、この「いつもと違う」感触こそが、本作に登場する「インディ・ジョーンズ」その人を描くうえで必要不可欠なものであり、監督にマンゴールドを起用した意義であろう。というのも、本作に登場するインディは、これまでの彼とは決定的に違うからだ。

隣人が大音量で流すLPの音に叩き起こされる70歳の老人インディの姿に、かつての快活さはない。教壇に立てばイケイケで学生からもモテモテだったかつての教育者としての姿も失われて久しく、学生たちはインディの講義をつまらなそうに聞き流し、本人もなげやりに教科書を解説するばかりである。知人友人親類たちはすでに多く──あるいは目の前で──亡くなり、孤独が募る日々は無為に酒浸りに過ぎてゆく。いざ冒険に出れば、思うように身体は動かず、敵にはあっさり出し抜かれて拘束され、「腰が痛い」とボヤく始末。

ことほど左様に、本作のインディはとにかく “不自由” なのだ。なにをやっても、若かったころのようにうまくいかない。そうする元気も機智もない。本作でむしろ「インディ」らしい活躍を披露するのは、今回初登場したヒロイン・ヘレナのほうである。なんとなれば、劇中でインディが常に感じているであろう、このなんとも知れぬ人生の “ままならなさ” を観客に追体験させることこそが、本作の演出意図だったに違いない。だからマンゴールドは、彼の手腕ならスピルバーグふうを完コピすることも間違いなくできたはずだが、それをしなかった。極論すれば、もしもスピルバーグが本作を撮ったなら、おそらくインディの冒険はもっとうまくいってしまったのではなかったか。

「もっと自分が若ければ/若かったころは……」という、すでに失われて決して取り戻せない郷愁に駆られることは、われわれ人間なら──たとえそれが、インディ・ジョーンズのようなヒーローだったとしても──大なり小なりあることであり、年齢を問わず普遍的な感情だろう。そしてそれゆえに、本作の「アンティキティラのダイヤル」が持つ秘密と、それを垣間見るインディの心境にグッと胸を打たれる。そして、もし自分だったらどうしてしまうだろうと……。


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本作の製作段階で、こんな逸話がある。マンゴールドは本作を作るにあたってスピルバーグから「『インディ・ジョーンズ』は、冒頭から結末まですべて予告編のようなもの。常に動いている」のだと助言を受けたというのだ。

それでもなおマンゴールドは、本作を単にスピルバーグ映画の模倣として落とし込まなかった。偉大──すぎると言っても過言ではない──先人の残した道筋を敢えて外してゆくことは、マンゴールドにとってたいへんに勇気のいる大冒険だったに違いない。そして彼は、冒険をやり抜いた。見事に本作をインディ・ジョーンズの物語として昇華し、描き切ったのだ。

もちろん、この「いつものインディ映画じゃない」本作について賛否両論あることだろう。もしもスピルバーグが引き続き本作を撮っていたらどうなっていただろう、とついつい空想もしてしまう。しかし、マンゴールドが本作『運命のダイヤル』を、彼だからこその風合いを持った堂々たる1作に仕上げたことに、大きな賛辞を贈りたい。


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その他、やっぱり村井國夫の吹替えはイイとか、とあるキャラクターが死ぬときのちょっとした照明の演出が素晴らしいとか、紙吹雪の映像がスゴイとか、しかし「そうはいうても、そんなにズレるかしらん」とか、やっぱり邦題の「と」は余計だよ──「/」でいいじゃないか──などと思うところはそこかしこにあるけれど、本作の「ついに終わるんだなァ」という美しいラスト・ショットをたしかめるためにも、ぜひ劇場でご覧いただきたい1作だ。


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*1:余談だが、これを観たジャッキー・チェンが、当時抱えていた鬱憤を晴らすべく、気の知れた仲間たちと共に自分の好きなもの全部盛りで撮ったのが『プロジェクトA』(1983)だった、というエピソードがある。