『君たちはどう生きるか』(宮﨑駿監督、2023)についての雑想あるいは妄想ノート(ネタバレ)

◆ポスター・ヴィジュアルを除くいっさいの宣伝を排したことが話題となった宮﨑駿 *1監督最新作君たちはどう生きるか(2023)は、なるほど完璧に予備知識なしで映画を観ることの新鮮さと、彼の作品ならではの絵の美しさと動きの快楽、そしてこれまで以上に「なにを見せられているのか」とあっけに取られるような感覚に呑まれるような非常に不思議な──もっといえばヘンテコな──映画体験を得られる1作だった。それでも鑑賞後あれこれ考えてみるとなるほどストンとタイトルが腑に落ちる、そんな1作でもあった。

では、本作をとおして宮﨑駿がなにをどのように語ろうとしていたのかを、鑑賞後の薄ぼんやりとした意識のなか、以下で忘備録的に考察──もとい、とりとめもなく雑想/妄想してゆきたい。


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【以下、本編のネタバレ有りにつきご注意!】


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本作は、宮﨑駿が幼少期に読んだ山本有三吉野源三郎による小説『君たちはどう生きるか』(1937)に感銘を受けたことで創り上げられ、タイトルにも引用されたという。事前にアナウンスがあったとおり、この小説が決して本作の原作というわけではなく、物語や設定としても直接的な引用はない。では、本作──すなわち宮﨑駿版──の物語を簡単に思い出してみよう。

太平洋戦争のさなか、病院の火災によって母を亡くした少年・眞人(まひと)。その後、父と共に母方の実家である屋敷に疎開した眞人だったが、地元の子どもたちにも馴染めず、父や後妻となった身重の夏子に対しても亡母への想いから複雑な葛藤を抱いてしまう。ある日、眞人は「母君に逢わせよう」と誘う不思議なアオサギを追って、敷地内の森のなかに佇む古ぼけた別館を発見する。聞けば夏子の大叔父が建設させたもので、その大叔父もあるとき別館のなかから煙のように姿をくらましたのだという。ところが、こんどはそう話してくれた夏子が行方知れずになってしまう。どうやら森の奥へと向かったらしい夏子を追う眞人は、別館から通じる異世界へと迷い込む。果たして眞人は、──アオサギや、その世界の住人らしい少女ヒミらの助けを得つつ──夏子を連れて現実世界に戻ってこられるのだろうか──? *2

というのが、本作のおおまかな流れである。


本作を観てみると、なるほど宮﨑駿監督の集大成的な冒険譚として楽しめる1作であることはたしかだろう。日本の原風景的な田舎、不可思議な洋館、森、ボリューム感のある水滴描写、そして3次元的に拡がる世界観とアクション、マスコット的なキャラクター、飛行機への愛……と、宮﨑駿の好きなもの──あるいはアイコン──が全篇に散りばめられ、久石譲の劇伴も観客をスムースにスクリーンのなかへと誘ってくれるだろう。庵野秀明今敏の作品で手腕を振るったアニメーター本田雄作画監督に据えたことで、いっそうシャープでリアリスティックになった描線も気持ちいい。


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同時に、本作は奇妙といえば奇妙な語り口の物語でもあった。『千と千尋の神隠し』(2001)あたりから徐々に指摘されてきたように、本作でも──いわゆるエンタメ作品には美しいとされる──3幕構成的な物語構造にはなっておらず、むしろ散文調、もっといえばエッセイ集のような構成でエピソードが綴られてゆく。きっと展開と上映時間との割り振りをみると、なかなかお目にかかれない構成になっていることに驚かれる観客もおられるだろう。

しかし、本作が決して意味の分からない作品であるわけではない。全篇を観終わったときには、眞人の辿る基本的な物語はスッと呑み込めるのではないだろうか。現実世界から異世界への冒険旅行の果てに、眞人が1歩成長を遂げるというシンプルなストーリー・ラインであり、彼の姿を見て観客にどう思ったかを考えてごらんなさい、というわけだ。


そこで以下では、敢えて本作にふたつの補助線を引いてみたい。そうすれば、よりいっそう本作で宮﨑駿が語ろうとしたことが明確になるように思えるからだ。では、ふたつの補助線とはなにか?

それは詩人ダンテ(1265-1321)と哲学者ニーチェ(1844-1900)だ。


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眞人がアオサギやヒミに導かれるように異世界を巡るという物語の構造は、おそらくダンテの詩篇神曲』がベースとなっている。ダンテが、あるとき迷い込んだ暗い森のなかで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、あの世──地獄から煉獄、そして天国へ──の階層を遍歴する。その旅路のなかですこしずつ罪が浄化されたダンテは、煉獄山の頂で若きころ恋した永遠の淑女ベアトリーチェと再会し、彼女の導きで天界へと昇天する……というのが、非常に大雑把な『神曲』のあらましだ *3 *4

宮﨑駿が『神曲』のイメージを援用するのは、本作がはじめてではない。たとえば前作『風立ちぬ』(2013)にラストで描かれた煉獄の情景や、二郎をそこから引き上げにやってくる菜穂子の姿はベアトリーチェのメタファーだ *5

本作で眞人が、大叔父が建てたという森の中に佇む屋敷の別館から迷い込む異世界の描写も、そこかしこに強烈な死のイメージが漂っている。どうやら1個の島であるらしいその世界のイメージ──墓石、船、林立する糸杉 *6など──は、ベックリンによる一連の絵画シリーズ『死の島』を彷彿とさせるし、海の向こうに帆船が列を成している情景は『紅の豚』(1993)に登場した飛行機乗りの墓場にも通じる描写だし、宮﨑駿ふうの「すみっコぐらし」もかくやに可愛いワラワラ *7たちは水子のようにも見える。そして、宮﨑駿がイメージするあの世の世界で眞人の案内役となるアオサギやヒミは、ウェルギリウスベアトリーチェの役割を担うだろう。


しかし、本作で宮﨑駿が『風立ちぬ』への自己回答としてか、『神曲』を越境する部分もある。

それは眞人の選択に現れている。じつはこの異世界の創造主であった大叔父から「(この世界を維持するためにこちらに留まって)あとを継いでほしい」という依頼に対して、眞人は映画前半であった喧嘩の腹いせに自ら頭を石で殴ってできた傷を見せて「罪のある自分にはそぐわない」と自身の罪と悪を認め、現実世界への戻ることを選択する。ダンテが、遍歴の果てに罪が清められて天界へと昇る『神曲』とは真逆の展開だ。

では、なぜ眞人は、ダンテや二朗とは異なる選択を最後にしたのだろうか。


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それを紐解く要素が、もうひとつのイメージとして劇中に登場する。映画前半に登場する大叔父の肖像写真を思い出そう。その姿と彼の生い立ちは、どこかニーチェを彷彿とさせないだろうか。ダンテの『神曲』が、ことごとくキリスト教的世界観に則っているのに対し、そんなキリスト教的西洋の価値観に真っ向から異議を唱えたのがニーチェであった。そんな彼の思想が、本作のそこかしこで漂っている。

勉学に秀でながら、やがて別館にひきこもって、そのじつ別の世界を創っていた大叔父が、ニーチェの似姿だったとしたら、どうだろう。大叔父が自身の考える「穢れのない天国のような世界」を創り上げようとする姿は、現実世界の常識や意義について本当に正しいのかと自ら考えに考え抜いたうえで否をとなえて絶望するニヒリズムの果てに、「超人」となって自分自身が理想と考える正しさに則って人生を生きるよう諭すニーチェの思想に共鳴するだろう *8

この超人思想を恐ろしく簡単にいうなら、キリスト教の教えなんて「神は死んだ」今日日(きょうび)アテにならないんだから、“みんな” がいうような常識にばかり囚われず、きちんと自分の頭で物事の善し悪しを考えて実践しなさいよ、ということである。そして、ニーチェのいう超人のように、眞人はその時々で自ら考え、判断し、行動に移す少年として描かれている *9。また大叔父は、おそらく自身のニヒリズムにある種とりつかれてしまったのだろう。


そして本作でもうひとつ重要なのが、「永劫回帰」の思想だ。これもまた恐ろしくかいつまんで誤謬も含みながら説明するなら、もしも自分の人生におけるすべての出来事──成功も失敗も幸福も悲劇も──が永遠に繰り返されるとしても、そしてその人生がよしんば無意味なもの *10だったとしても、これを選んで肯定する、というような考えだ。これについても、CHAGE and ASKA のミュージック・ビデオとして監督した短篇『On Your Mark』(1995)におけるループ構造について、宮﨑駿自身が絵コンテで「永劫回帰」と書き表していることから、彼にとって既知のものだったはずだ。

クライマックスにて、じつは自身の母であったことが明かされるヒミと眞人のやりとりを思い出そう。眞人は、ヒミに彼女がやがて火に焼かれて死ぬ運命にあることを告げ、「お母さんは生きていなければいけない」と、彼女がもといた過去の現実世界に帰らないよう懇願する。しかしヒミは、自身の運命を知ってなお、彼女の現実に戻ることを自ら嬉々として選び取る。

永劫回帰の思想を敢えて逆に言い換えれば、もしも自分が寸分たがわぬ人生を永久に繰り返すとしても後悔しないように、よくよく物事を自分で考えて行動し日々を生きよ、ということになるだろう。自らの苦渋に満ちた死に際を知ってなお「あなたみたいな子を産めるなら」と嬉々として自身の現実へと戻る母の選択と姿に、眞人はそれを感じ取ったのではなかったか。これまで彼がしてきたことは、もう1度まったく同じ人生を「これが生だったのか。 よし。 もう一度」と自ら進んで歩めるためだったのだと。そしてじつはヒミもまた、先立つ眞人の選択によって永劫回帰を選んでいるのである。


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ところで、このニーチェ的なスタンスは、小説『君たちはどう生きるか』のエッセンスに共鳴する部分もあるのではないだろうか *11

本書が初出版された1937年当時、世論は軍国主義に傾き、言論統制が進む時代にあった。事実、本書もその影響で後に発禁となっているし、ニーチェの著作もまた死後に改竄されてナチズムに利用されるという憂き目にあっている。そんななかで、子どもたちにいかに世界を見て物事と向き合い、現在までの常識に呑まれて反知性化するのではなく、自分で考えて生きてゆくことの大切さをコペル君が辿る物語をとおして託そうと著されたのが、小説『君たちはどう生きるか』だった。そんな著作を読んで涙を流す眞人は、前述のように、自ら考え、その意思で主体的に責任をもって行動できる少年として描かれる。宮﨑駿は、われわれ観客に、そしてこれから未来を築く子どもたちに、そうなって欲しかったのではなかったか。

ふたつの『君たちはどう生きるか』の物語と、それらに登場するふたりの少年が、われわれに伝えようとすることは、いまもって有用だろう。国内外問わず、きな臭い情勢が続いたり、閉塞感や停滞感の増す社会情勢に空気が淀む現在日本においては、きっとなおのことだ。為政者にとってもっとも都合がよい存在とは、考えることやめた衆愚なのだから。


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以上、本作『君たちはどう生きるか』をダンテとニーチェの著作や思想を補助線に深堀りを試みた。もちろん、まだ本作を1回しか観ていない身なので取りこぼしがあったり、思い違いもあることだろう。実際、本作に登場するものたちに仕込まれたメタファーは重層的なものであり、すべてが1対1で対応するものではないので、上記までのことはその一側面でしかない *12。そしてもちろん、僕の指摘が大いなる誤読であり、なにもわかっていない可能性だってある。はじめにおことわりしたように、本稿は雑想あるいは妄想である。

しかし少なくとも本作は、このような雑想/妄想を掻き立てるだけの力が満ち満ちた作品であることは、間違いないのではないだろうか。冒険の果てに眞人たちが帰還した現実世界で映されるように、美しくもクソにまみれたこの世界で「どう生きるか」と、われわれもいま一度考えてみる必要がきっとあるのだろう。


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*1:本作から、これまでの「宮崎駿」表記から、「崎」が「﨑」表記となっている

*2:本作の物語は、どこか『パンズ・ラビリンス』(ギレルモ・デル・トロ監督、2006)を思い起こさせる。デルトロは、この作品のインスピレーション源のひとつとして『となりのトトロ』(1988)を挙げている。

*3:「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とは地獄の門に打たれた銘文だが、本作『君たちは~』にもオマージュが登場している。

*4:ほかに『神曲』をベースとした映画を挙げるなら、たとえば『奇蹟の輝き』(ヴィンセント・ウォード監督、1998)や『追憶の森』(ガス・ヴァン・サント監督、2015)などがあるだろう。

*5:菜穂子の「生きて」という台詞は、絵コンテ段階だと「来て」だったのだから、より直接的だ。

*6:ここに松が加わっていたりして、和洋折衷なのが面白い。

*7:敢えて漢字をあてるなら、おそらく「童童」だろう。

*8:ヒミがパイロキネシス(発火念力)の力を持っているのは、やはり「ツァラトゥストラゾロアスター)」の末裔だからだろうか。

*9:ニーチェの超人は「幼子」として表される。これはすなわち、子どもは過去のことをすぐさま忘れて新しいものを取り込むことができるからだ。ニーチェの思想に倣った『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)で、ボーマン船長が幼子=スター・チャイルドとして地球に帰還するのは、そのイメージの援用だ。

*10:もちろんこれは、人生で善いことを重ねて意味のあるものにすればこそ天国に行ける、というキリスト教的な人生観──そのほかの宗教にも言えることだが──へのアンチテーゼである。

*11:もちろんニーチェの思想はある意味では究極の個人至上主義なので、それは相容れないところではあるだろう。

*12:たとえば、それぞれのキャラクターが宮﨑駿本人や、高畑勲鈴木敏夫といった彼の実人生で関係のあった人たちのメタファーにも取れるだろうし、大叔父の行為はそのまま映画づくりとして見ることも可能だろう。また、本作の底本のもう1作品として、すでに多く指摘のあるとおり、ジョン・コナリー『失われたものたちの本』(2006)の構造的類似もある。