2015年鑑賞映画 感想リスト/101-110

『007 スペクター』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20151203/1449139195



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ウォルト・ディズニーの約束』(2013)……ジョン・リー・ハンコック監督。1961年、作家P・L・トラヴァースは自著の『メリー・ポピンズ』を映画化したいというウォルト・ディズニーの再三の懇願に折れ、その企画会議に出席するため、ロンドンからハリウッドへ降り立った。しかし、あまりに自作を理解していないウォルトとスタッフに憤ったトラヴァースは、彼らが用意したプレゼン内容にことごとく難癖をつけてゆく。そのあまりの猛烈さに、ウォルトたちは頭を抱えるが──ディズニーのミュージカル映画メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン監督、1964)誕生に秘められたドラマを描く。

トラヴァースが録音させたという企画会議の録音テープ──エンド・ロールに実際の音声も登場する──などをもとに製作された、メイキング・オブ『メリー・ポピンズ』とでもいうべき作品。緻密に再現された1961年当時の風景や色合いももちろん見所だが、それ以上に、そのテープを聴きとおしてトラヴァースを徹底リサーチしたというエマ・トンプソンの熱演が素晴らしく、観ていてたいへん迫力がある。脚本の1行目から修正を要請し、ちょっとのことで激昂して企画を水泡に帰そうとする彼女の姿は、じつにとりとめがなく、われわれ観客はウォルトでなくとも頭を抱えてしまうだろう。結果的に映画に残っている要素──たとえば歌のメロディやペンギンのアニメーションなど──すら、1度はうっちゃらかされそうになったというのだから驚きだ。

しかし、本作はその企画会議と同時進行で、トラヴァースが負った過去も描いてゆく。幸せだった幼少時代から一転した家族の転落、そして彼女が愛してやまなかった父の姿のうちに、どうしてトラヴァースが『メリー・ポピンズ』にそこまでのこだわりを貫き、“バンクス氏を救おう(本作の原題)”としたのかが明らかにされてゆく。七転八倒する企画会議を経て映画が完成するまでのうちに訪れるトラヴァースの表情の変化に胸を打たれる。もちろん本作はドキュメンタリー作品ではないため、ここに脚色や飛躍が多分に含まれている可能性を否定できないが、本作が物語るドラマには、創作することの意味についての根源的な問いと、そのひとつの回答が示されていたのではないだろうか。



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『地下に潜む怪人』(2014)……ジョン・エリック・ドゥードル監督、脚本。亡き父の研究を引き継いで、かつて錬金術師たちが創り出したという“賢者の石”の探索を続けるスカーレット博士は、ついにそれがパリの地下納骨堂に隠された秘密の部屋にあることを突き止める。彼女は研究仲間ジョージ、ドキュメンタリー作家ベンジーや違法ガイドらを引き連れて地下納骨堂に潜入するが、やがてチームに不可解な現象が降りかかる──およそ600万もの遺骨が納められているというカタコンブ・ド・パリを舞台としたPOVオカルト・ホラー。

POV型トゥームレイダーとでもいうべき作品で、低予算でありながら、賢者の石を巡る謎解きと探検、そして襲い来る怪奇現象をスピード感溢れる筆致で描き出す快作。およそPOVホラーであれば、怪奇現象勃発までの尺が思いのほか長くてダレてしまうということが多いが、本作の場合は先述のとおり、ホラーに謎解きと探検の要素を組み込んだことで常に物語が動いており、観客を退屈させない。約90本の上映時間のなかで、それらの要素をテンポよく引っ張ってゆく主人公スカーレットの性格づけも新鮮。嫌がる研究仲間を無理やり地下納骨堂に連れ出し、ガイドの指示をことごとく無視しようとした挙句にチームを危険にさらすなど、そのド畜生(トゥ・ミー)ぶりは主人公としては珍しいタイプじゃないかしらん。あんたがいちばん怖いよ!

そんなスカーレットに負けず劣らず、ホラー要素もしっかり健在。そこにあるはずのない黒電話に掛かってくる電話や子ども時代に弾いたピアノ、そして闇にうごめく人影などなどが、地下納骨堂の狭苦しい通路という逃げ場のない空間に展開される様子は、じつに不可解で無気味な雰囲気が満点。また、向こうのほうでほのかに反響して聞こえる奇妙な音や、耳が突然おかしくなったのではと思わせるような音響効果など、舞台の閉所性を活かした音づくりにも注目したい。ラスト30分で描かれる怒涛の展開とホラー・ラッシュは、ほかにあまり類をみないスピード感で僕らを翻弄しにかかる必見のクライマックスだ。いざ、リープ・オブ・フェイス!
 


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『ランダム 存在の確率』(2013)……ジェームズ・ウォード・バーキット監督、脚本。ミラー彗星が地球に最接近する夜、エムは友人が集う夕食会で気の置けない友人たちとの団欒を楽しんでいた。ところが、付近一帯が謎の停電に見舞われ、携帯やネットも不通になってしまう。「もし今夜奇妙ななことが起こったら連絡を寄こすように」と弟に言われたというヒューは、近辺で唯一明かりの灯っている家に電話を借りに出かけるが、そのあいだにも、エムたちのいる家に不可思議な現象が起こり始めていた。それはまるでもうひとりの自分がいるかのような──いわゆる“シュレンディンガーの猫”を題材にとったSFスリラー。
本作がフックに使うアイデアについては邦題が最大のネタバレなので、その見せ方こそ本作の見所ということになるが、登場人物は8人だけ、舞台は基本的に一軒家だけという低予算映画ならではの限定空間ながら、「もし多元宇宙が同時に存在したら」という不安を、ちょっとした小道具や台詞の使い方で見せ切っているのが見事。最初こそ、ハンディ・カム撮影──本作はPOVではない──による揺れやオート・フォーカス機能によってブレる甘いピント感に辟易したが、事態が進行するにつれて、その不安定さが雰囲気作りに貢献してくるのが面白い。
加速度的に多元世界の枝が拡がってゆく後半30分で展開される「お前は“どの”お前なのか?」という実存主義的不安感はスリリングで、さながらシュレディンガーに箱に入れられた「猫」になったような不穏な気分を堪能できる。現象によってつまびらかにされる友人たちの知られざる一面がソープ・ドラマ(連ドラ)的な下世話なものであるさゆえに、誰もが余計に焦燥感に苛まれるという妙なリアリティもよかった。88分とすっきりまとめられた尺も含めて、切れ味鋭い作品だ。



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ザ・レイド GOKUDO 〈劇場公開版〉』(2014)……ギャレス・エヴァンズ監督、脚本。汚職警官のワフュを逮捕することに成功したSWAT隊員のラマだったが、その功績が強大なギャング組織の目を引き、彼と家族を危険にさらすことになってしまう。ラマは家族の安全と引き換えに、秘密特殊捜査班の一員となるのだった。手始めに彼は、組織のボスの息子ウチョが収監された刑務所に囚人として潜入、彼の信頼を勝ち取ってゆく。やがて出所したラマはウチョの右腕として、ウチョの父バンクンが組織するギャングへの潜入を成功させるのだが──イコ・ウワイス主演のインドネシア産ヴァイオレンス・アクションの第2作目。

相変わらず、やり過ぎイタ過ぎ強烈な格闘、シラット・アクション・シーンは健在。冒頭から刑務所での大乱闘シーンに始まり、雨降る運動場での文字どおり泥仕合が展開され、その熱量たるや凄まじい。また本作では、前作よりもキャラクターたちが使う得物が大鉈から金属バット、釘抜きつきトンカチと増えたことで戦い方のバリエーション、流血描写も増し増し。さらに本作では、潜入捜査員としてマフィアに潜り込んだ主人公ラマがその抗争に呑まれてゆくというストーリー面も充実。もちろんカチコミ=ストーリーだった前作からアクションの尺を削るのではなく、むしろアクションすら増やしつつストーリーも語るという上映時間1.5倍(前作比)の大盤振る舞いで、むしろ劇中のテンポに抑揚がついていいこと尽くし。とくにカー・チェイスのシーンで発揮された車外から車内、さらに反対側の車外へと延々とアクションを追い続ける1発撮りのカメラワーク──カメラを次々に手渡しという、しごくアナログな手法──も素晴らしい。

本作の魅力を格段に上げているのが、なんといっても敵キャラクター──とくに無敵の暗殺者たちのキャラクターが立ちに立っていて素晴らしい。ホームレスにしか見えないストイックな大鉈の使い手プルコソは別れた奥さんに養育費を払いながら息子に会わせてもらえず悲しみにくれ、聾唖で片目が不自由ながらトンカチで人体を抉り裂くキラー・ガールは出陣前に得物を持つのを忘れそうになるオットリ系ドジッ子、彼女の兄ベースボール・バットマンはバットで打った野球ボールで相手を殺すキワモノながら妹思いで泣かせてくれる──などなど、じつに多種多様な殺し屋模様がさりげなく描かれていて、味わい深い。いよいよ日本が舞台になるともいわれる第3作目も楽しみだ。



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アイアンマン2』(2010)……ジョン・ファヴロー監督。自身が“アイアンマン”であることを公表し、世間を騒然とさせたトニー・スターク。彼の勝手なヒーロー行為は国家問題にまで発展し、アイアンマン・スーツ没収命令まで出てしまう。そんなトニーの報道を憎悪の目で見つめる男がいた。彼は積年の怨みを晴らすべく、自ら開発した一撃で金属を分断する電磁鞭を装備した“ウィップラッシュ”として、トニーの前に現れる──マーベル・コミックス原作『アイアンマン』を実写化したシリーズ第2作。

うん、ふつうに楽しかった。スタークがブツクサ言いながら飛び回るクライマックスでの多勢に無勢な大戦闘シーンも迫力があったし、中盤の悪酔いしてブツクサ言いながらアイアンマン・スーツを着たままに癇癪を起こす誕生会シーンもスタークが最低で最高、彼が一応“ものづくり”によって次のステップに進む展開も用意されていたので、こちらが期待したトニー・スターク感は過たず入れ込まれてあったので、そこは楽しかった。本作からブラック・ウィドウが登場するとは露ほども知らなかったので、その登場には不必要に驚いたし、以外に出番の多いニック・フューリーの登場や、そこかしこでチラつくアイテムなどから醸される、“アベンジャーズ前夜祭”感がひしひしと感じられるのも、後追いながら楽しい。

ただ、残念なのは、劇中の焦点を少々『アベンジャーズ』に寄せすぎになってしまったことで、ミッキー・ローク扮する敵役ウィップラッシュの印象がどうしても薄まってしまっていること。あまりストーリーに絡んでこないし、絡んだとしても場当たり的な登場で彼がなにをしたいのやらサッパリ。また、本作は全体的にテンポが微妙に間延びしている点ももったいないところだ。それはひとえに役者同士の演技合戦──そのアンサンブルそれ自体は素晴らしい──において生じた様々な間/余白を、うまく編集で削げていないからじゃないかしら。俳優出身のファヴロー監督ゆえか、良い演技をしたショットやシーン──それ自体を単体で見れば、たしかに良い──を丸々使いたい気持ちをわからないではないけれど、全体としてはもたついてしまっているのが否めない。おそらく物語が1本線だった前作と違い、いくつかの物語が平行して進むことで余計に目立ってしまったのではないかしら。惜しいなあ。



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アベンジャーズ』(2012)……ジョス・ウェドン監督、脚本。国際平和維持組織S.H.I.E.L.D.で研究中だった四次元キューブが世界征服を目論む邪悪な神ロキによって奪われた。S.H.I.E.L.D.長官のニック・フューリーは、この未曾有の危機から地球を救うべく“アベンジャーズ計画”を発動。アイアンマンやキャプテン・アメリカといったヒーローたちを一同に介し、応戦を開始する。ひと癖もふた癖もある彼らはチームとして地球を救えるのか──マーベル・コミックが誇るスーパー・ヒーローたちによって結成されたドリーム・チーム“アベンジャーズ”を実写映画化。

いやぁ満腹! よくぞここまで! ──と、観終わって感嘆することしきり。キャラクターの能力も性格も、そもそも世界観すら違う数々のヒーローたちを総出演させたうえ、それぞれ独自にドラマ的な見せ場とアクションの見せ場を過不足なく描いたうえ、そのチーム感──ひとつになる過程も含めて──もバッチリで、しかも面白いのだから、いうことないんじゃないかしら。その分、敵側の設定がひどく粗いのもこの際目をつむるのもやぶさかではない。二兎を追う例を出すまでもなく、一兎を捕まえるだけでも大変だったであろうこのプロジェクトをここまでまとめ上げただけでも見事というほかない。本当はエドワード・ノートンがハルク役で続投してくれれば、シリーズもののルックとしてなお一貫性があったのだろうと思わなくはないが、それは贅沢か*1

全編そこかしこに盛り込まれたアクション・シーンの数々はそれぞれよく出来ていて、敵も味方も場所さえもがシッチャカメッチャカに入り乱れる混戦ながら、編集で巧みに空間と展開を整理しているので非常に見易いのもありがたい。そんななかでもコラテラル・ダメージをS.H.I.E.L.D.の隊員にすら出すまいとするブラック・ウィドウの戦い方にはグッときたし、晴れ晴れとした顔で自身を解放するハルクの姿も感動的だ。それをまこと精緻に描き込んだ映像表現/VFXは、260億円という巨額の製作費に見合って素晴らしい。とくにクライマックスの市街戦での奥までしっかりピントのあった高層ビル群は、その格子線が遠近感を強調していて、それがなんとなくコミックの紙面に描かれた画のようにも見えて面白い。

でも、本作の白眉はなんといっても、ラストもラストに描かれるヒーローたちの“あの”打ち上げシーン。チームものには必要不可欠な打ち上げシーンをして、本作は「君らはコミコン帰りのコスプレイヤーか!?」と思わず突っ込みたくなるような“あの”画の静謐なインパクトをもたらしてくれる。とはいえ、この1シーン1ショットの光景は不意を突かれるようでありながら、たしかにそうでしかあり得ない納得の構図であって、これを思い付いたスタッフは本当に天才だと思います。



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アイアンマン3』(2013)……シェーン・ブラック監督。アイアンマンことトニー・スタークは、自社の運営をすべて恋人のペッパーに任せ、彼自身はアイアンマン・スーツの改良に神経を集中していた。しかしそれは、先の“アベンジャーズの戦い”で彼の体験した敵の強大さがトラウマとなったことの裏返しでもあったのだった。そんな折、世界各地で爆破テロを巻き起こす教祖マンダリンが、次なる標的をアメリカに向けた声明を発表。時を同じくして、かつて自己再生細胞プログラムを研究していたマヤがトニーに助けを求めて来るが──マーベル・コミックス原作『アイアンマン』の実写シリーズ第3作にして完結編。

ジョン・ファブローから監督を引き継いだシェーン・ブラックといえば『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー監督、1987)などの脚本家ということで、本作はどことなくいい意味で大味な懐かしさが全編にみなぎっている。前半から中盤にかけての規模が──ヒーローものとしては──デカいんだか小さいんだか絶妙な按配の肉弾格闘戦プラス爆発、トニーとジェームズが愚痴や冗談を言い合いながら敵の本拠地に殴り込みをかけるバディもの感満点のクライマックスなど、すごく“ぽい”。さすがにペッパーにラストを持っていかせるのは盛り過ぎだろうとか、完結編としての大団円を迎えるにしては展開があまりに雑──ただ、このスピード感やよし──とか思わないでもないけれど、前作『2』で感じたテンポの愚鈍さもなく、足早に展開される物語は小気味がいい。

でも本作でいちばん燃えるのは、中盤にあるアイアンマンの人命救助シーンだろう。敵に襲撃されたエアフォース・ワンから空中へ投げ出される絶体絶命の乗組員たちを、アイアンマンがその身を呈して寸でのところで全員救出する一連の流れは、映像的な迫力も然ることながら、観ていてときどき忘れがちになるヒーローものとしての側面をしっかり思い出させてくれる名シーンだ。最近ここまで人命救助にスポットを当てていたのは『スパイダーマン』くらいじゃなかったかしら。『アイアンマン』シリーズのなかでは最も好きな作品だ。



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マイティ・ソー/ダーク・ワールド』(2013)……アラン・テイラー監督。 “アベンジャーズの戦い”から1年後のロンドンで、原因不明の重力異常が発生。天文物理学者ジェーンは調査に向かうが、そこで彼女の身体に全宇宙を闇に沈める力“エーテル”が取り込まれてしまう。愛するジェーンの異変を察知したソーは、彼女を神の国アスガルド”へと連れて行き、事態の打開を図るが、エーテルを狙うダーク・エルフの王マキレスを呼び寄せてしまう。崩壊の危機に瀕した全宇宙を救うため、ソーは幽閉された弟ロキの手を借りる危険な賭けにでるほかなくなるが──マーベル・コミックス原作の実写化シリーズ第2作。

本作はたしかに面白いのだけど、ううむ、なんだかシリーズ繋ぎのための繋ぎ作品に留まってしまった感がある。なんというか、全体的に処理が雑なのだ。オープニングからして、なぜソーたちが別の世界で戦争しているのか──もちろん“世界平和”のためなのはわかるが──いまいちハッキリしないし、ホーガンがそこで暇を申し出る展開なんていっさい説明がないし、惑星直列によって発生する特異点の位置解明もなんとなく台詞で誤魔化された感があるし……。なまじ物語が『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(ギレルモ・デル・トロ監督、2008)に似通っているぶん、脚本の練り込み不足が目立ったのかもしれない。ジェーンのお見合いデートとか、ソーが地下鉄に乗るなんて局所的なギャグ・シーンの出来はよかったし、特異点の近くなら全宇宙のどこでも携帯電話が通じるというアイデアは好きし、禍具束(かぐたば)の仮面*2を思わせるダーク・エルフ軍雑兵の無気味なマスクなど、装飾品のデザインも美しいのだけどなぁ。前作ではあんなに生き生きと描かれたアズガルドの生活感も、本作ではすっかり影を潜めてしまったのも残念(ほとんど近衛兵しか映らないんだもの)。

アクションも同様で、いわゆるチャカチャカ編集でもなければ、カメラがひどく揺れるわけでもないのだけど、いまいち画面内の位置関係が掴みづらい。おそらくカメラの位置がキャラクターの近場ばかりを追って、思い出したかのようにロング・ショットを──しかも微妙に出来事の中心からずれた位置に──挟むという感じの編集パターンのせいだろうか。舞台となる空間が文字どおり入れ替わりながら展開されるクライマックスは、いよいよ煩雑な印象が拭えない。マーベル・シネマティック・ユニバース、いわばアベンジャーズ世界をいちばん考えなくてもいいシリーズなのだから、もうちょっとドッシリしたつくりでもよかったのでないかしらん。



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キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014)……ルッソ兄弟監督。“アベンジャーズの戦い”から2年。ブラック・ウィドウとともにシールドの一員として活動するキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースだったが、第2次世界大戦期から半世紀以上の冬眠期間によるズレはいかんともしがたく、現代の生活に馴染めずにいた。さらに、S.H.EI.L.D.長官ニック・フューリーが語る巨大空中母艦ヘリキャリアによる全人類監視計画にも疑問を拭えず、自身のあり方に悩む日々が続いていた。そんななか、ついに何者かの策略によって彼自身がアメリカ政府から追われる身となったキャプテン・アメリカは事件の真相を暴くべく、単身捜査を開始するが──マーベル・コミックス原作の実写化シリーズ第2作。

良くも悪くも古色蒼然たりな雰囲気で押し通した前作のイメージを引きずったまま鑑賞したため、冒頭に展開されるタンカーへの潜入作戦からじつに驚かされた。というのも、その演出が劇中の時間経過と同様に、きょう日のソリッドなミリタリー・アクションへとことごとく変貌していたからだ。キレのある殺陣に編集、リアルな闇に沈んだ画面、緊張感を煽るミニマルな音楽使いなどなど、前作とはまるで違うルックを打ち出した続編というつくりが、とてもフレッシュだ。キャプテン・アメリカのトレード・マークにして得物である盾、この使い方のバリエーションもグッと増え、そのケレン味が馬鹿馬鹿しくならない絶妙な按配でアクションのスパイスになっているのも楽しい。

また本作は、かつてのベトナム戦争、そしてイラク・アフガン戦争の帰還兵による証言集会の呼称から取られた本作のサブ・タイトルが示すとおり、じつに今日的な政治的問題を盛り込んだ作品でもある。今回、キャプテン・アメリカが対峙するのは諸外国ではない。行き過ぎた自警主義によってアメリカと世界を内側から蝕もうとする計画を砕くため、キャプテン・アメリカとブラック・ウィドウらは独立愚連隊よろしくアメリカ政府を相手取って孤軍奮闘するのである。その姿は、さながら1970年代に多く製作されたポリティカル・サスペンスに登場する主人公たちだ。そのじつ、本作に映るランド・マークにウォーターゲート・ビルが見えたり、自身も多くのポリティカル・サスペンスに出演したロバート・レッドフォードを重要な役回りで出演させるなど、作り手たちは非常な確信を持って本作を撮ったに違いない。まあ、もはや揚げ足取りレベルの瑣末な難点を挙げるとすれば、ここまでするならクライマックスのアクションはもう少し抑え目でもよかったのではないか思わなくもないが、しかし本作は見事なポリティカル・アクションの傑作だ。

*1:余談だが、ハルクが墜落した倉庫の警備員を演じたハリー・ディーン・スタントンの存在感がえもいわれぬ味わい。

*2:ホラー映画『ノロイ』(白石晃士監督、2005)に登場する謎の呪術具──ようはマクガフィン