2020 1月感想(短)まとめ

2020年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1996年のアトランタ五輪爆破事件において、最初に爆弾を発見して犠牲者の軽減に努めた警備員リチャードだったが、それによってFBIから第1容疑者として捜査対象になってしまう『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド監督、2019)は、太刀筋軽やかながらズシンと心に迫る、さすが名人芸が光るイーストウッド実録モノだった。

例によって無駄な描写や説明を極力省き、カメラ・ワークも奇をてらわず、そして永年イーストウッド監督作に携わってきたジョエル・コックスによる一見単調だが実にテンポのよい編集──ふいに爆弾が爆発する緩急など見事──も相まって、本作が描き出すリチャード・ジュエルたちの日常が音を立てて崩れ去っていく様子はとにかく恐ろしい。リチャード・ジュエルと、のちに彼を弁護することになるワトソン・ブライアントとの出会いを描く序盤では「ふたりの関係性を描くにはコレとコレとコレだけでOK」と文字どおりポンポン時間が過ぎたり、ときおり「ハイハイ、説明的描写はココまで」とでもいうように「えっ?」というタイミングで劇伴が消えたりするのも、ひとつのイーストウッド話芸であり、ご愛嬌といったところか *1

本作で印象的なのは、登場人物の誰しもが、多かれ少なかれ “浅はか” だということだ。性欲に負けて操作機密をリークしてしまうFBI捜査官 *2、自身の名誉欲のために情報の精査もないままにリチャードを犯人に仕立て上げるニュースを書いた地方新聞記者たちも浅はかなら、リチャード自身も単なる聖人君子ではなく、浅はかな部分がある人物として描かれている。冒頭、法執行官に憧れるリチャードに対してワトソンが「権力に溺れてクソ野郎になるな」と釘を刺すにも関わらず、実際に保安官補などの職に就いた彼はその驕りによって前科を犯したり職を失ったりしているし、いざFBIの捜査対象になってからも、ついついその──ある種宗教的とでもいえるような──憧れから要らぬことをベラベラ喋ったりしてしまう。

本作が描くように、人間誰しも浅はかである。それはしかたのないことだ。その浅はかさを浅はかにも隠匿しようとすることもあるだろう。しかし、それが絶大な権力と結びついたとき加速度的に肥大化してしまう。それによって無関係な第三者に矛先が向かうこと──そして、それに対して無自覚であること──の恐怖を本作はまざまざと描き出す。ラスト、いかにも不味そうなドーナツを食べるリチャードの表情に、なにを思うだろうか。


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フェラーリ買収に失敗したフォードが、打倒フェラーリに向けてレーシング・カー開発を決定し、ふたりのはぐれ者をチームに引き入れる『フォードvsフェラーリジェームズ・マンゴールド監督、2019)は、繊細な人物描写と臨場感溢れるカー・アクションが融合した見事な1作。

本作はタイトルや予告編にある「企業」対「企業」の闘争という印象に対して、むしろフォード内部における「現場」対「中間管理職」対「幹部」間にあった軋轢や葛藤のなかで培われるマット・デイモン演じる元ドライバーの技術師シェルビーとクリスチャン・ベール演じるイギリス人ドライバーであるマイルズの “はぐれ者” コンビの関係性を軸に描いている。彼らが徐々に一心同体となってゆく過程──中盤にある仲直りのための喧嘩シーンの微笑ましさたるや──をマンゴールド監督らしい無駄なく丁寧な演出で描いており、バディものとして一級品だ。もとはマイケル・マン監督で製作される予定だったらしく、そのときにはもっと群像劇的な仕上がりを目論んでいたともいわれ、マンゴールドが監督に登板するということで現在の本作のような脚本に変更されたというが、それが実に功を奏した結果となった。

とくに本作における、誰がどのキャラクターを見ているかの視線のやりとり演出は、俳優の立ち位置や表情の機微、画面の切り取り方から編集にいたるまで非常に細やかだ。マイルズの姿にかつての自身を重ねるシェルビー、常にコースの消失点の先を見据えるようなマイルズの爛々とした瞳、現場と幹部の狭間に立つアイアコッカの絶妙な表情の変化などなど素晴らしい。また中盤、とある事情によってル・マン参戦チームを降板させられたマイルズが、倉庫のなかでひとりラジオで実況中継を聴いているシーンでの、倉庫の外を移動する牽引車の照明に照らされる自動車の列の影が、まるで彼の脳内イメージのなかで走っているかのようにマイルズの横顔の奥の壁に映されるショットといった、言葉に頼らず多くを語る映画的演出もさりげなく、しかし巧みに用いられている。

そしてもちろん、当時のル・マン24時間耐久レースのコースを再現し、実際に車を走らせて撮影したというレース・シーンも素晴らしい。決して昨今のアクション映画にあるようなVFXを多用した派手なものではない──同監督の『LOGAN/ローガン』(2017)における、VFXを使用しながら実に地味に仕立て上げたカー・アクションを見てもわかるように、本作にド派手なのを期待しては駄目よ──が、路面スレスレにセッティングしたカメラで撮影されたスピード感あるショットと車内のドライバーの表情に肉迫するショットの組み合わせ、そして腹の底を揺さぶるようなエンジン音の巧みなサウンド・エフェクトも相まって見事な臨場感を醸していて、思わず身を乗り出しそうになるほどだ。

やがてシェルビーとマイルズに訪れた2度目の青春は、彼らふたりにはどうすることのできない力によって終焉を迎えるが、舞台となる時代もあって、それはアメリカン・ニューシネマの作品群にも似た切なさや寂寥感に溢れている。しかし同時に、人間いつだって人生のアクセルを踏み込むことができると、高らかに謳い上げるようなラスト・シーンには、温かな爽やかさにも満ちているのだ。


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◆バイキングの長となったヒックとトゥースたちの精力的な活躍によってドラゴン保護区の様相を呈しだしたバーク島を狙うドラゴンハンター・グリメルらの魔の手から逃れるべく、亡き父が探し求めていた幻の地を探す旅に島民総出で繰り出すヒックとドラゴン 聖地への冒険』(ディーン・デュボア監督、2019)は、3部作の終章として見事な大団円を迎える1作だった。

前作『2』(同監督、2014)が世界的な成功にもかかわらず日本では劇場未公開(DVDスルー *3)に終わったため、1作目と3作目だけが劇場公開されるという不遇を被ったシリーズだが、なんにせよ本作を劇場のスクリーンで体感できたことは、とてもありがたいことだ。

閑話休題。こういったCGアニメーション作品を観るたびに決まり文句のように書いてしまうので恐縮だが、本作もまた、その映像美の凄まじさは前作のそれをも凌駕するものだった。滑らかで、ちょっとひんやりとしそうなドラゴンたちの体表、トゥースの大きな瞳に映り込むヒック、毛髪から産毛まで微細に描き込まれたキャラクターたちの纏う衣装のそれぞれに異なった布地、材木の温もりや葉っぱの1枚1枚のきらめき、若干の湿り気がありながらもサラサラとこぼれる砂粒といった自然物の手触り、様々に表情を変える波や雲といった流動表現などなど、カットによってはさながら実写にさえ思えるほどのリアリスティックで美しい質感表現には、たちまち目を奪われる。

また、冒頭に映される多種多様のドラゴンたちが文字どおりウジャウジャ暮らしているバーク島の風景などは、その作成過程を思うと目眩のするような情報量が画面一杯に埋め尽くされている。そしてもちろん、本シリーズ最大の売りのひとつであろうドラゴンに跨っての飛翔シーンや、縦横無尽に立体的に展開されるアクションも一層ブラッシュ・アップされており、それらの臨場感と高揚感ともに見事なものだ。実写的な撮影も美しい。

たしかに脚本に若干の粗は認められる。突き詰めて考えると本作の “聖地” の設定は若干後付け感があるような気がしないでもない──これはシリーズをとおしてのことでもあるが、そういった秘密の地がわりとすんなり見つかってしまうのも惜しい──し、ヴァイキングたちの行動の早さには驚いたし、本作の悪役グリメル以外の敵キャラたちの印象が妙に薄かったりもする。

しかし本作が、第1作『ヒックとドラゴン』(クリス・サンダースと共同監督、2010)の、とくに結末部において賛否両論となった「ペット *4か否か」問題について逃げを打つことなく向き合い、結末部において極めて誠実な回答を示してみせたことは特筆に価するだろう。「僕は自分の理想ばかり追い求めていた」と思い悩むヒックの辿り着いた結論は、ぜひご自身で確かめてみていただきたい。

1作目では少年少女だったヒックたちの姿に、みんな大きくなったなあ、と涙なくしては観られない終章だ。


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捨て猫ヴィクトリアが迷い込んだロンドンのとある路地裏で、天上へ昇って生まれ変わることのできる猫が長老猫によって選ばれる年に1度の舞踏会の幕が上がる『キャッツ』トム・フーパー監督、2019)は、なんとも名状しがたい感じの作品だった。

本作が、T・S・エリオットによる詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」(1939)を元にアンドルー・ロイド・ウェバーが作曲を手掛けたミュージカル作品(初演: 1981)の映画化であることについては、もはや多くを語る必要もあるまい。本作でも当然ながら披露される楽曲の数々は──テイラー・スウィフトによる本作のための書き下ろし曲「ビューティフル・ゴースト」も含めて──聴き応えがあるし、演者陣が披露するダンスやアクション、そして表情のニュアンス付けなどといったパフォーマンスは総じて素晴らしい。

また、本作において──いろんな意味で──最も目を惹くであろう、最新VFX技術を用いた猫の擬人化ならぬ演者陣の “猫化” も──たとえばSF映画などでひとりふたりがというのではなく、登場キャラクター全員がというのも含めて──これまで観たことのない映像の手触りがあって新鮮だ。彼/彼女らの毛並みのボリューム設定は、おそらくパフォーマンスの際に躍動する演者の筋肉の動きを余すところなく微細に捉えるために相当細かく調整されたはずで、着ぐるみでもなく衣装でもなくレオタードでもない独特の按配は、なんとも知れぬ実在感を醸している。覚えておいでだろうか、まるで舗道に敷き詰められた石畳のごとくミッチリと羅列された無数のVFXアーティストたちの名前がせり上がってゆくスタッフロールを……これだけの人物が──もちろん全員がではないだろうが──一気呵成に猫の毛を作っていたと思うと、なかなか味わい深い感慨が生まれる。しかもジュディ・デンチイアン・マッケランといった錚々たる顔ぶれが皆して猫の姿をしている画は、おそらく今後2度と拝めないのではないか。

とはいえ、本作が前述したような元よりのパフォーマンスと映像的新鮮さとを十全に活かしきれているとはいい難い。とくに気になったのがカメラワークと編集だ。

まずはカメラワークそのものだが、やたらカメラがフラフラ動くショットが多い。おそらくドキュメンタリー的な手持ちカメラ風の撮影を用いることで、観客が実際に猫の世界に迷い込んだかのような臨場感を生もうとしたのだろう。しかし画面が安定しないぶん、せっかくの演者の身体動作や、それを肉感的に切り取る精緻な猫化ヴィジュアルに集中し辛い。加えて本作の編集は基本的に1ショットが短く、カメラもショットごとにアッチに行ったりコッチに行ったりアップになったりロングになったりとせわしないため、画面内の位置関係が恐ろしくわかり難いのだ。その結果、ダンスもいまいち印象に残らない。いっとき流行ったチャカチャカしたアクション映画の編集を見た感じに非常に近いといえば、想像しやすいだろうか。それどころか、単純な切り替えしさえ出来ていない箇所すら散見──いちばんのクライマックスで180度ルールをガン無視した編集が出てきたときには、さすがにどうかと思ったよ──される。カットの前後でいっぺんに背景が変わるといった、映画ならではの編集的見所もあるぶん、たいへんもったいない。

本作がこれほどまでにVFXを多用した画作りを志すのであれば、変に実写映画として撮ろうとするのではなく、いっそアニメーション映画のように──たとえばディズニーのアニメーション作品におけるミュージカル・シーンのような方法論などを用いて──描いたほうが、むしろ本作のトーンに合っていたのではないだろうか。


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*1:中盤に登場するリチャードの悪夢シーン、あれ多分ポール・ウォルター・ハウザーに自撮りさせてるよね。

*2:この、女性記者が性行為と引き換えに情報を得たという部分については本作のかなり恣意的な創作であることは念頭に置きたいし、もうすこし別の表現がなかったのかとは思う。この点において、悪い意味でキャラクターをステレオタイプに落とし込もうとした作り手たちもまた、浅はかだったといえるだろう。

*3:【備忘録】発売当時の感想: 『ヒックとドラゴン2』(2D日本語吹替え版・Blu-Ray試写)感想 - つらつら津々浦々(blog)

*4:『1』のラストに付されたヒックによるドラゴンについてのナレーションでの表現。オリジナルの英語では冒頭が「ペスト(=害獣)」と表現されるドラゴンへのヒックたちの感情と──音的にも──対になった表現となっている。