漫画『さよなら絵梨』(藤本タツキ、2022)感想と雑考(ネタバレ)

文化祭で上映した自主映画の評判のあまりの悪さに自殺を決意した高校生・優太が、ただひとりその映画を「気に入った」という同級生・絵梨に出会う、Twitter 上でまるで「クソ映画みたい」だと話題になった漫画『さよなら絵梨』藤本タツキ、2022)は、僕にとって激烈に心へ刺さりまくるタイプの作品とまではいわないまでも、技巧的で完成度の高い、そして “映画とはなにか” について本質論的にいろいろと考えさせられる1作だった。以下、本作についてすこしばかり掘り下げつつ、考察しながらレビューしてみよう。 
(※2022.07.23 一部加筆修正)


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【以下、ネタバレありなのでご注意ください】


本作が漫画配信Web ページ「少年ジャンプ+」上で公開された際、いっときTwitter 上にて「クソ映画」としてトレンドとなっていたのは、題材として映画(撮ること/観ること)を扱っている点と、それ以上にいわゆる「爆発オチ」が採用 *1されているからのようだけれど、それと同時に本作が読者を漫画を読んでいるというよりも、まるで映画を観ているかのような感覚にさせるからでもあるだろう。

本作のページ・レイアウトはなかなか独特で、ほぼすべてのページで横長で同サイズのコマを4段配置するという、まるで絵コンテのようなコマ割りを採用している。これは、本作で描画される絵が──扉絵を除いて──すべて主人公・優太がスマホで撮影した映像素材だという設定ゆえである。この均一なそれぞれのコマの隅々まで精緻に描かれた絵の情報量はもちろんのこと、あたかも長回し撮影かのようにほぼ同一の内容のコマが延々数ページにもわたって続くのを読むうちに、まるでキャプチャー画面を順々に観ている──やがて、それがあたかも動画のように思えてくる──ような錯覚に陥る *2

その一連の流れのなかで、ふいに輪郭線をダブらせたりコントラストを変換させた絵のコマを挿し挟むことでピンボケや映像のブレを表現しているのも、これに拍車をかける。それでいて、ここぞというときに2段抜きや全段抜き、見開きの大ゴマを配することで胸の内に沸き起こる情感は、漫画ならではのインパクトだ。本作は、このヴィジュアル面での絶妙なバランス感覚がとても巧みだ。


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また、本作が読者に対して、かつて観た様々な映画作品を髣髴とさせるのも「クソ “映画” みたい」だと話題になった他方の理由だろう。すでに多くのところで指摘されているように、ヒロインの「絵梨」という名前、それに中盤やラストで語られる “吸血鬼” 設定などは、あきらかに『ぼくのエリ 200歳の少女』(トーマス・アルフレッドソン監督、2008)からの引用と思われる(僕もとっても大好きな作品だ)。

そのほかにも、少年少女が半ばドキュメンタリーのように自主映画を製作していく様子は『20世紀ノスタルジア』(原将人監督、1997)、誰かしら死にゆく大切な人物のために自主映画づくりに奔走する感は『僕とアールと彼女のさよなら』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督、2015)、かつて愛した女性の記憶を巡る物語のなかでふいに吸血鬼の例え噺が出てくるのは『抱擁のかけら』(ペドロ・アルモドバル監督、2009)、そして件の「爆発オチ」は作中にもオマージュがあった『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督、1999)や、なにより『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)を思い出した *3

もちろん、これらが引用元として明言されているわけではないので、あくまで僕個人の連想に過ぎないのだけれど、本作はそれだけ映像的/映画的記憶を呼び覚ます感覚に満ちている。しかし、それはどうしてなのだろうか? あるいは本作には映画(というメディア)の本質を突くようなエッセンスがあるような気がしてならない。


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ところで、Twitter 上に方々から投稿された本作の感想ツイートを流し読みすると、本作で描かれた内容の「どこからどこまでが現実で、いっぽう虚構なのだろうか」というような疑問や、あるいはこれについて考察をしている文章が散見されたように記憶しているけれど、そもそも本作において我々読者(=観客)に対して提示/映されるものが果たして現実か虚構かという命題はいっさい不問となるのではないだろうか。そしてもちろんこれは、本作が漫画作品だから、という理由ではない。

先述のとおり本作は、紙面に描画されるコマはすべて優太が撮影した映像素材である、という体裁をとっている。そして読者には、基本的にはそれが時系列に沿った出来事としてドキュメンタリックに提示されているため、第1ページ目の第1コマ目から優太がじゅんぐりに撮影した映像を観ている(読んでいる)のだと、われわれは理解するだろう。



しかし、本作で提示される映像素材が「順撮り」されたものである証拠はいっさいない。よくよく考えるなら、本作の映像素材のそれぞれが、いつ、どこで、どのように、さらに言えば誰の手によって撮影されたのかを判別することは不可能なことに気づくだろう。それが証拠に、あたかも「現実の出来事」であるかのように描かれる本作冒頭から前半──優太が母の死を巡る映画『デッドエクスプローションマザー』を撮って不興を買い、それによって絵梨と出会い、ふたりして映画を観始める──にすら、優太がスマホ片手にリアルタイム撮影することのできない画が混じっている。

思い出そう。文化祭後に倉庫で教師から説教を受ける優太を教師もろとも横から──あたかも隠し撮りしたかのように──撮ったシーン、あるいは絵梨に誘われた廃墟の一室に据えられたソファにふたりして座ってスクリーン(絵としてはこちら側)を眺めるシーン。これらは、あきらかに作為的なカメラワークであり、きちんと登場人物がふたり映るようにカメラ(スマホ)を設置するという準備段階を踏まねば絶対に不可能なものだ *4。このことは中盤、優太とその父、そして絵梨が食卓を囲んでいるシーンにおいて、じつはそれが映画のための演出だったと明かすことで暗示している *5。さらに本作で大人になった優太と絵梨がいま一度再会するラストシーンにおいては、それまでのドキュメンタリー映画的な文法を軽々と捨て去って、もはや劇映画のカメラワークで物語が綴られる *6



また、物語中盤であきらかになるように、前半での母の死を巡る映画や、続く絵梨との触れ合いを描く映画のなかで、優太が意図的に排除した、あるいは撮らなかった映像がある、というのも重要だ。それは、優太の亡き母が持っていた本当の意図や負の側面をじつはカットしていたという展開や、絵梨が本当は眼鏡をかけていて歯の矯正もしていたところを本人の希望で撮影の際は外させていた──しかも彼女は性格が悪かったらしい──という絵梨の数少ない友人からの証言だ。作中で「〇〇時間にもおよぶ映像素材を編集した」という旨のセリフが幾度かあるように、本作はそのじつ細かく演出され、編集されたものであり、そうであれば本編には登場しないこぼれ落ちた要素も、あるいはこそぎ落としたり覆い隠したりした要素も多々あるということである。そして本作が本作として完成したことは、そこになにかしらの意図が介在したことにほかならない。

くわえて、本作に登場する映像素材のすべてを優太自身が撮影したという断言も、これまたできない。たとえば白石晃士監督などが得意とするモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)映画のメイキングをご覧になったことがあればご存じかと思うけれど、その作中でのキャラクターとしての撮影者が、必ずしも実際の撮影者(カメラマン)ではない。実際のカメラマンのそばにくっついて、役者がそのキャラクター(の声)を演じていたり、そもそもアフレコであったりする場合が往々にしてある。

ここでページを反対にめくり返してみれば、扉絵に描かれた「スマホを構える両手」とは、いったい誰の手というのだろうか? その手の持ち主が、あたかも優太が撮影しているかのように観客に思わせようとする作為のもと、スマホを構えていたかもしれないではないか? そもそも優太たちは「現実」の存在なのか? 読者/観客が「ファンタジーをひとつまみ」というセリフに弄されるばかりに本作全体がある種の「ファンタジー=フィクション=物語」である可能性を失念しているのではないか?



ことほど左様に、演出にせよ撮影にせよ編集にせよ、どんなジャンルであれ、映画は映画であるかぎりにおいてなんらかの作為や意図をはらみ、そのことから逃れることはできない。ひるがえせば、企画を立てて脚本を書き、キャストやスタッフを集めて現場を演出し、そうして撮影した映像素材を取捨選択し、それらを情報的にも情緒的にも効果的な順序で構築してゆく編集やポストプロダクションといった作為的な行為がなければ、映像は映画たりえない。

そして、本作に2度 登場する爆発こそ、その作為性(=映画たるもの)の象徴そのものだ。


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では、なぜ記録映画であったはずの母の映画『デッドエクスプローションマザー』に、優太は作為性を必要としたのだろうか。そして、なぜ優太は母の記録映画のラストに爆発を足したのだろうか。

それは優太が、母に対して無意識にトラウマ的な記憶と欲望を抱えているからだろう。そして、その原因はモノローグで語られるような母の死そのものというよりも、優太が母から受けていたらしいDV の記憶や、これによって「母を(爆)殺したい」という後ろめたい欲望が気づかぬうちに彼の内で芽生えていたからではないかと考えられる *7。母からの肉体的ないし精神的暴力による心的ストレスや、母を殺したいと願った罪の意識から、彼の無意識下にはトラウマとしての母が蓄積されていった。このトラウマを解消すべく、母のためというよりも、優太が自身のために「母」を物語ろうとしたように捉えられる。

トラウマとは本来、当人にとって語りえないものだ。というのも抑圧されたトラウマ記憶とは、その原因となる出来事が患者にとって言葉にもしたくないほどの強烈なものであるがために、その記憶が文脈や因果関係といった言語的なつながりを持ち得ない断片となってしまうからである。それがゆえに、その記憶が映像的に突然脳裏に甦ったり(フラッシュバック)、肉体への症状(ヒステリー)などとして非言語的なもの(=症候)として幾度となく現れるのだ。そこでフロイトなどの精神分析では、患者がトラウマ記憶などの症候を治癒するためには、無意識下に抑圧されたその原因について患者自身の言葉で物語化する必要があるとされる。そしてこの際、それがいわゆる現実的な真実であったかどうかは、ひとまず不問とされるという。あくまで患者当人にとっての真実に言語的な統一感、すなわち物語を与えることが、症候の治癒へとつながるのだ。

優太が知らぬ間に抱えたトラウマを彼自身が治癒するために、そのときの彼は「良いお母さん」としての母──前述したように、優太は映画のなかの母から、彼女の負の側面をいっさいカットしている──の死を悼みつつも最後には爆殺するという作為的な物語を必要としたのだろう。こういった物語にすれば、仮にクライマックスで母を爆殺したとしても、母は「良いお母さん」だったと描くことで、その死を願う彼の内なる欲望への免罪符となってくれるだろうからだ。これによって、彼のトラウマ解消は果たされたように思われた。



しかし、優太にとって『デッドエクスプローションマザー』という物語がトラウマの治癒には不十分だったことは、のちの展開をみてもあきらかだろう。つまるところ「良いお母さん」だけを残すことは、彼のトラウマ記憶をむしろ抑圧することになるからだ。そもそも『デッドエクスプローションマザー』に描かれた「良いお母さん」もまた、じつは母の演出(=支配)によるものだった可能性が示唆されているのも象徴的だ。抑圧された母は、その後も優太の心に回帰し続ける。だからこそ彼は絵梨の映画を作りつつ、それに『デッドエクスプローションマザー』を組み込み、母の負の側面をところどころでカットバックしていたのではないだろうか。

とはいえ、絵梨についての映画でも、優太のトラウマは癒えなかった。その証拠に、絵梨の映画の完成後、彼は何度も何度も作品を再編集したことが、大人になった優太のモノローグで語られている。ひとえにこれは、絵梨の映画が優太の物語ではないからだ。絵梨の映画は徹頭徹尾、絵梨の願望によって──彼女が望む手法で、彼女が撮られたい姿で、彼女が求める展開とエンディングで「みんなをブチ泣かして」という願いのために──作られている。

そしてこのことを先の絵梨の友人の証言と照らし合わせるなら、彼女は優太にとって母の似姿であったとすら考えられる。とすれば絵梨は、まるで優太が無意識下に抑圧した母が回帰するかのごとく──かつて母がそうであったように──彼を支配することで映画を完成させようとした、ということも可能だろう *8。このように絵梨の映画が優太の物語ではない以上、彼がどんなに再編集しようとも納得できないのは当然だ。



だからこそ、彼はもう1度、こんどは絵梨についての映画もひっくるめて、作品を自分の物語に引き戻す必要があった。そして3度目の正直として、こんどこそ優太は彼自身の物語として語ることに成功した。それが、いまわれわれが観ている、完成された『さよなら絵梨』なのだ。



ここで、ラストシーンにて優太が絵梨に投げかける問いを思い出そう。

「キミは…これから大丈夫なのか? 
 周りの人はみんな絵梨より先に死んでしまう… 
 親も恋人も友人もみんな先に死ぬんだ
 そんな人生に絶望しないのか?」

このとき優太が絵梨の人生として語る内容は、直前の彼のモノローグをみてもわかるように彼自身の人生のことなのだ。そして優太は彼のファンタジーとしての絵梨に仮託して、こう言わせている。

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う…
 でも大丈夫
 私にはこの映画があるから」

ここでの絵梨の言う「前の絵梨」「私」もまた、同時に優太自身のことを指し示している。続く大ゴマにおいて、手前の人物とスクリーン上の人物がそれぞれ「優太と絵梨」「絵梨と優太」と重なり合うように描かれていることが、これの証左だろう *9。このように、やっと優太は自身の言葉で、母のことも絵梨のことも、それらを撮った自分自身のことも、すべてをひっくるめた自らの物語を語る「この映画」にたどり着いたのだ。



この映画が優太の言葉、彼のファンタジー、彼の物語としてあるからこそ、ラストにて再び優太が絵梨と邂逅するシーンでふいに映画文法がそれまでのドキュメンタリー的なものから劇映画的なものへと変化したに違いない。ブレない映像、人物同士の切り返し(その際に異なるサイズで人物を映すことも含めて)、固定カメラによる遠景、ゆったりとしたパン……これらは劇映画の文法であり、本作がフィクション *10であったことの高らかな宣言にほかならない。

こうして優太が自分の物語を語り得て、トラウマの治癒を得たからこそ、彼は母に、そして絵梨に「さよなら」をしたうえで、かつて打ち損なった爆発というピリオドを清々しい笑みのもとで打つことができたのだろう。こうして優太はフィクションの力で自身を救うことに成功し、果たして彼の映画『さよなら絵梨』は完成した。そして本作に登場した人物は──優太も含めて──皆「現実」の存在ではない。物語が語られなければならないように、映画とは作られるものであり、本作を作った「本物」の優太は、われわれと同じくスクリーンのこちら側にいるのだ。


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ことほど左様に、本作は幾重にも仕組まれた入れ子構造を用いて、じつに映画的なるものを語っているように思えてならない。しかし本作が実際に映画として──実写であろうがアニメであろうが──作られたとしても、おそらくここまでうまくいかなないだろう。読者が作者と共有する漫画の物語世界という独特のリアリティに立脚しているからこその力強さがあるのだろうし、別メディアだからこそ映画的なるものを鋭く批評的に切り取って描き出すことに成功したのではないだろうか。だからこそ、本作はむしろ読者の映画的記憶をくすぐり起こすのではなかったか。

ところで、本作を読んで “泣いた” とか “涙を流す” ほど感動したという旨の感想をそこかしこで見かける。もちろん本作が見事な完成度を誇る1作だとは思うけれど、僕はそこまで激烈な感情の揺さぶりを受けなかった。もちろん作品のせいではない。それは端的に僕がこういった「ボーイ・ミーツ・ガール」に “実感” を持たないからであり、本作に限らず色々な映画を観ているときでも、僕が勝手に独り相撲気味にシラけてしまうことがままあるのだ。まことにショーモないこととは自認しつつ、こればっかりは雨上がりのアスファルトにできた水溜りのように浅い僕の人生経験の貧弱さを呪うほかない。

とはいえ、いつも映画のことばかり考えている僕に、あるいは映画以上にいろいろな物事を──映画のことを含めて──あれこれ思い起こさせてくれた本作には、「くそう、映画みたい……」だと唸るばかりなのでありました。



砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)より。
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【補 記】
本作が、映画を消費する観客を相対化してみせることも、また興味深い。具体的には作中に2度描かれる上映会での生徒たちのリアクションの差であり、ここで受容され消費されているのは、なにをいおう2種類の “人の死” である。まず優太の母の死、そして絵梨の死である。前者において観客は「不謹慎だ」「ラストが悪かった」と辟易し、反対に後者では絵梨の「みんなをブチ泣かして」という願いどおり観客は皆一様に感動の涙を流している。

映画──もちろん、ひいては物語メディア全般──は往々にして “人の死” を扱う。本作のような病死はもちろん、事故死、殉死、老衰あるいは自己犠牲による死……、とじつに様々なバリエーションを選りすぐり、人々の感情をなんらかのかたちに揺さぶろうとするだろう。事実、2度の上映会で観客たちは映画で描かれる「人の死」に感情を大きく揺さぶられているのは間違いあるまい。とすれば、その結果が大きく異なった原因は、なんだったのだろうか。



いまここで咄嗟に思い浮かぶ原因は、“実名/実在” 性の有無にあったのではないだろうか、ということだ。前者では、優太──という同じ学校の生徒──の母というまぎれもなく実際に存在する(だろうと簡単に想像できる)人物を扱ったことが観客の情感をブーイングへと誘い、いっぽうの後者では絵梨という限りなくフィクショナルな人物を扱ったことが観客の情感を涙に濡らしたのではなかったか。

前述のように、2本目の映画に映る──われわれ読者が観ていた──絵梨の姿は、どうやら実際の──眼鏡と歯の矯正具をつけた──ものとは異なること、そして友人が極端に少なかったことが、彼女の友人の口から語られている。これはつまり、大多数の生徒にとって、スクリーンに映写される絵梨の姿に実名/実在性は希薄であり、フィクションのキャラクターと大差ない存在だったということになる。そのじつ2本目の映画の内容は、いわゆるお涙頂戴の難病恋愛モノを愚直になぞっているともいえ、であれば生徒たちはそういったジャンル映画と同じ感覚で絵梨の死を消費していると捉えられるだろう。



人の死、という最大の喪失を観客がどのように消費してしまうか、それゆえにそれをどのように描くのかの是非を巡った論争は、たとえばホロコーストを扱ったものがつとに有名であろう。

とくに劇映画でこれを題材にした際、被害者たちは人々の死をスペクタクルに描くことを徹底して良しとしない。そうすることで「死」がフィクションとして消費されてしまい、映画が終われば観客はそれを忘れるからだ。たとえば『SHOAH ショア』(1985)の監督であるクロード・ランズマンは、この観点から『シンドラーのリスト』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1993)を手厳しく否定している。いっぽう近年『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督、2015)における虐殺を直に描きつつ決定的には映さない(映すことができない)という逆説的な演出が、ようやっとアウシュビッツを語る劇映画として当事者たちに評価されたのは記憶に新しい。

優太の1本目の作品にはこういった──実名/実在性を持ちつつ、ラストで彼=観客が直視しない/できない──生々しさがあったのではないか。しかし同時に、優太が母の死を爆発という「ファンタジー」として描いてしまったために、作中にあるような激烈にネガティヴな反応を観客が催したのでないか、とすら思えてくる。映すことのできないものを映せないまま、病院から逃げ出すショットで映画が終わっていたならば、生徒たちの反応もまた違ったのかもしれない。



いっぽうで2本目の作品で描かれる絵梨の死に涙する観客の反応とはなんだろうか。

「危険な任務でも、お前の知らない誰かならよかったのか」とは、『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(金子修介監督、2001)において、いままさに死地に出撃しようとする父が娘に放ったセリフであるが、要するにフィクションのキャラクターの死とは、われわれ観客の人生に影響のない「知らない誰か」であり、それゆえにわれわれはフィクションの死をかたちはどうあれ楽しんでいるのではないか。

あるいは『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督、2001)の劇中で、ダイアナ妃の死を「若くて美しい人だったのに可哀そう」と悼むキオスクの老女に「ならダイアナ妃が年老いて醜かったら可哀そうじゃないの?」とアメリが疑問を投げかけるように、われわれは単に自分とは関わりのない美少女であるがゆえに、絵梨の死を感動として消費しているのに過ぎないのではないか──そして、きっとそうなのだ──と思わずにはおれない。そしてまた彼女の死も「知らない誰か」の死として、その場限りの涙を流すだけ流して、やがて──いや、すぐにも──忘れ去ってしまうだろう。


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*1:どうも爆発オチがクソ映画のクリシェと捉えられている向きがあるようだ。でもそれってむしろコントとかじゃないのかしら。

*2:これは、手塚治虫が初期のころからそこかしこで用いていた手法──たとえば『メトロポリス』(1949)冒頭で同サイズのコマに同じ背景を描き、最初はコメ粒ほどだった人物を遠近法的にどんどん拡大して奥から手前に走ってくるように演出する序盤のページや、ヒゲオヤジとフィフィが死に別れるシーンなど──に通じるだろう。

*3:映画作品ではないので余談ながら、全体のプロットは梶尾真治の短編小説「おもいでエマノン」(1979)を彷彿とさせる。

*4:前者では、その直前に教師が優太に向かって「おいっナニ撮ってんだ! スマホしまえ!」と叱責しているのだから尚のことだ。また、よく観ると教師の姿(=キャスティング)すら、この前後で変わっている可能性が示唆されている。

*5:また、父が絵梨に淡々の喋りながら最後には激高する(太字のフォントで叫ぶ)という流れが、教師の説教と同様なのもそれを裏づけるだろう。

*6:この鮮やかな転換は『第9地区』(ニール・プロムガンプ監督、2009)を思い起こさずにはいられない。

*7:「ラストなんで爆発させた?」と問う教師に対して優太が「最高だったでしょ?」と答えるのは、ふいにまろびでた彼の本音だったのだろう。

*8:絵梨の友人が証言するシーンのあと、1ショットだけ優太の母の姿が挿し挟まれているのは、こういった理由からではないか。

*9:ファイト・クラブ』がそうであったように、俺があいつであいつが俺で、というわけだ。

*10:絵梨の「死んだ3日後に蘇ったの」に対して優太が「映画みたいな話だね…」と返すとおり、このイエス・キリストの復活を思わせる展開は、ハリウッドのエンタテインメント映画において何度も繰り返されてきたクリシェのひとつである。みんな大好き『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督、1978)のルパンだって例に漏れない。腹を銃弾(=ロンギヌスの槍)で貫かれたルパンが昏睡状態の後、3日後に目を覚ますのは、そういう意味である。

2022 2月感想(短)まとめ +α

2022年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。それにくわえて、この2ヶ月間に劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく、なんとなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集です。


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【劇 場】
◆生活に困窮し、亡き祖父の持ち家で暮らすこととなったフィービーと兄トレヴァー、母キャリーの家族のまわりでゴーストが騒ぎ出すゴーストバスターズ/アフターライフ』ジェイソン・ライトマン監督、2021)は、「まさか」と思いつつも涙させられる素敵な続篇だった。


本作は ’80年代に一世を風靡した第1作『ゴーストバスターズ』(アイヴァン・ライトマン監督、1984)と第2作『ゴーストバスターズ2』(同監督、1989)の続篇。監督には父アイヴァンから息子ジェイソンが引き継いで登板(脚本も担当)し、30年あまりの時間差を経て制作された “久々” のパート3である。

そんな本作は、どんなにチンチクリンな格好をしても抜群の存在感と演技力でスクリーンを引き締めるフィービー役のマッケナ・グレイスを筆頭に役者陣の好演は見事だったし、テイストは尊重しつつも '80年代当時では絶対に不可能であったろう精緻なVFXによる映像の迫力も満点だ。鮮やかで微細な光の表現や、テラードッグの見事にブラッシュアップされた存在感など素晴らしい。あの人やこのゴーストにその道具と、いたるところに懐かしの面々がファン・サービスも楽しい。しかしそれ以上に驚くのが、本作全体を彩るタッチの差だろう。


『1』と『2』が、いわゆる幽霊モノにコメディの要素と、いかにも '80年代らしいトレンディドラマの風味とを掛け合わせた作劇であった──だから、暗喩的には案外エロティックな作品でもある──のに対し、本作では主人公が子どもたちということもあって、そういった要素はほぼオミットされている。舞台も大都会ニューヨークからオクラホマ州の田舎町へと、その風景の情感は大きく一変する。

もちろんこういったルックだけではない。ポツネンと暗闇に佇む家のまわりで幻想的に舞うオレンジの光、カメラ位置を低く設定して撮影されるカー・チェイス、向こうからユサユサと小麦畑を揺らしながら近づいてくる “なにか”、オープニング・タイトルの表示のさせ方やタイミング、少年少女が手を取り合って冒険する基本設定、そもそも本作の物語がシングルマザーであるキャリーと子どもたちとの関係性や、彼女の父との確執を根幹に添えていたりと、はっきり言って本作は非常にスティーヴン・スピルバーグ映画的なのである。キャリーとのあいだにロマンスが芽生えるゲイリーが、腰にキーチェーンを提げてチリチリ鳴らすショットがあるのも──その役柄としての前振りももちろんのこと──言わずもがなのオマージュだろう。

’80年代において、スピルバーグが様々なジャンルを往来しつつも、家族に生じた軋轢や確執を一貫して子どもの視点から切り取って描いてきたこと *1を思い起こすなら、同じころに作られたシリーズの続篇にそのタッチを持ち込んできたことは興味深い。1977年生まれのジェイソン監督が多感な時期を過ごすなかで、父アイヴァンの背中を間近に眺めつつ、まちがいなくスピルバーグ映画にも触れているだろうから、彼のなかでの ’80年代ノスタルジアとは、本作がスクリーンに映し出すタッチとして血肉になっていたのではないだろうか。


これらの要素がついに終結するクライマックスの展開には、自分でも驚いたことに思わず涙してしまった。物語的にも、そして「彼」がどうして本作でこういったかたちで登場したからかといえば、もちろん「彼」を演じた人物がすでに故人であるからだけれど、それも含めて見事な大団円だ。

もちろん、粗がないではない。フィービーがゴーストの存在を受け入れる展開がいくらなんでも雑だったり、彼女の新たな友だちとなるポッドキャストが不意に “文字どおり” 居なくなる場面がそこかしこにあって不自然だったり、フロントガラスまだ直してなかったンかいといったツッコミもあるけれど、これはこれでシリーズらしい御愛嬌といったところか。

いずれにせよ、久々の続篇としてたいへん満足させていただいたし、余談ながら「ややや ケッタイな」はどうなっているのかを確かめるためにも、ぜひ劇場へ出かけたい1作だ。


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【ソフト/配信】
◆遠未来、地下世界で独自の進化を遂げた人造生物「マリガン」の生態系を調査するため、主人公がひとり人知れぬ世界に挑む SFストップモーションアニメ『JUNK HEAD』(堀貴秀監督、2021)は、「こ、これを(ほとんど)ひとりで……!?」と驚愕せずにはおれない見事な作品だ。まことに個人制作とは到底信じられないような映像のクオリティも然ることながら、アクション構築の面白さ、ユーモアの楽しさ、そしてドラマ部分のちょっとした演出の機微まで、とにかく手抜きがない。これらがあればこそ、本作のなんとも知れぬ “キモ可愛い” 世界観が活き活きと実在感を持って立ち現われ、観客にも愛着を持って受け入れられるに違いない(キモいところは本当にキモいのでご注意あれ)。また、本作がそこかしこにオマージュしていると思しきアレコレの作品群って「オイラも大好きなヤツじゃん!」と親近感を抱かずにはおれない。続篇もぜひ実現してほしい。とにかく、凄いものを観させてもらった。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(1-2月)
スパイダーマン: ノー・ウェイ・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2021)……トム・ホランド版「スパイダーマン」シリーズひとまずの最終作にしてオリジンとなった本作は、これまでの映画史のなかでも類を見ないアクロバティックでかつ、きちんと筋のとおった物語と構造が見事というほかない。無論、それゆえに多大な予習が必要だいう難点もあるけれど、その労に報いるだけの1作だ。


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『クライ・マッチョ』クリント・イーストウッド監督、2021)……イーストウッド監督主演最新作として、彼がこれまで背負い、そして都度更新してきた男性性/マチズモ(マッチョ)的イメージをどのように描くのか、という点においては興味深い作品だったけれど、いささか中盤の脚本が緩すぎて崩壊しかかっているのがもったいない。


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『ハウス・オブ・グッチ』リドリー・スコット監督、2021)……ハイ・ファッションのブランド「グッチ」のお家騒動までの顛末を描く実録映画だけれど、強大な富と権力を持った家系にあるがための奇妙な狂気が全篇に溢れていて、それがもはやある種のコメディ映画としてすら成立するくらいのブラックな笑いを生んでいる。なによりグッチ家に嫁入りした主人公パトリツィアを演じたレディ・ガガの技量と存在感たるや、錚々たるキャスト陣のなかにあってまったく引けを取らない。


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バイオハザード: ウェルカム・トゥ・ラクーンシティヨハネス・ロバーツ監督、2021)……完結したミラ・ジョヴォヴィッチ版に代わって新たにリブートされた本作は、とくに序盤から前半にかけてのキチンとホラー映画として観客を恐怖させる部分に見応えがある。ただ後半以降は、これでもかと盛り込まれた原作ゲームの要素が、むしろ作品のノイズになっている感も拭い切れない。もうすこし的を絞ったほうが、まとまったのじゃないかしらん。


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『ウエスト・サイド・ストーリー』スティーヴン・スピルバーグ監督、2021)……同名ミュージカルを原作とした、『ウエスト・サイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス監督、1960)以来の再映画化だが、やっぱりスピルバーグの天才性を痛感させられる見事な作品だった。縦横無尽に動き回りながらもダンスの振り付けを安定して捉えるヤヌス・カミンスキーの撮影、光と影のリアルさと美しさが共に際立つ演出、そして今日(こんにち)だからこそ可能になった物語細部のアップデートなど、見どころを挙げだしたらキリがない。


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*1:その視点が父のものになるのは、'90年代を待たねばならない。

2022 1月感想(短)まとめ

2022年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【ソフト】
◆あることがきっかけで父や周囲と確執のある高校生ゾーイが、高校で勃発した銃乱射事件の犯人たちにたったひとりで立ち向かう『ラン・ハイド・ファイト』(カイル・ランキン監督、2020)は、ハイスクール版 “ダイハード” といった趣──作り手も、あきらかに意識しているだろう──で、ほのかに張られた伏線とみなぎる緊張感で一気に惹き込まれる見事な面白さに満ちている。たぶん『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督、2008)のジョーカーにかぶれたんだろうなと思わせる犯人の造型もいろいろと考えさせられるし、ゾーイに附せられた独特のとある設定が作劇のスパイスとして絶妙に機能している点も見逃せない。騙されたと思って、ぜひご覧なさい(でも、全米ライフル協会なんかが「ホレ見たことか」と間違った方向に喜んじゃいそうでもあるんだよな。まあ、ちゃんと観ていれば、ちっとも違うのだけど)。


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◆中国と北朝鮮国境付近に位置する白頭山(ペクトゥサン)の大噴火によって巨大地震が発生、朝鮮半島壊滅が決定的となる第4次大噴火を阻止するため特殊部隊が北朝鮮に潜入する白頭山大噴火』(イ・ヘジュン、キム・ビョンソ監督、2019)は、大迫力のVFXを含めたヴィジュアルと奇想天外な脚本をよくもまあ見事に仕立て上げたディザスター作品だ。また、キアヌ・リーヴス三船敏郎を髣髴とさせるイ・ビョンホンの風体と演技、そして『AKIRA』味を感じさせるタイトル画面が愉快 *1


     ○


◆少女誘拐目的で郊外の一軒家に忍び込んだ謎の集団だが、その家主が最強の盲目老人だとはまだ知らないドント・ブリーズ2』(ロド・サヤゲス監督、2021)は、逆転の発想とはこのことか、というべき思い切りのよい2作目だった。映画──とくにホラーやモンスターもの──がシリーズ化されたとき、本来なら恐怖の対象であるべきキャラクターがマスコット化したり陳腐化したり、あるいは観客にとってはある種のヒーローめいたものに変化したりするのは世の常だが、本作ではそれを逆手にとって、ならさっさとダークヒーローものにジャンル転換してしまおうと作劇し、かつ成功しているのが面白い。

本作は前作ともはや別モノといってもよく、本作から観てもなんら問題ないだろう。作中、そこかしこに『レオン』(リュック・ベッソン監督、1994)へのオマージュがあるのが愉快だし、これは本編とは関係ないけれど、視聴者の心理を先取りするかのようなBlu-Rayディスクの仕様 *2もちょっと新鮮だった。


     ○


◆19世紀末、絶海の孤島に立つ灯台を管理するため、ふたりの灯台守──ベテランの老人と新米の若造──がやってくるライトハウス(ロバート・エガース監督、2019)は、気がふれることとはどういう感じなのかをアトラクション的に描いた無気味な怪奇作品だった。

劣悪な環境と重労働のなか、途切れることない霧笛、四方で轟く波音、吹き荒れる暴風、止むことないカモメの鳴き声、終わることを知らないベテランからの小言が延々と耳に入り続けた結果、新米の精神はすこしずつ疲弊してゆく。やがて波音の狭間にセイレーンの呼び声が聞こえ、カモメに嘲笑されているような気がする……といった具合に、本作は観客の精神を彼同様に揺さぶろうとするだろう。すべての騒音をミックスしたような無気味で不確定な劇伴、極端に狭い画面比率(1:1.19)──いわゆるムービートーンという、トーキー映画黎明期によく使用された、サウンドトラックをフィルムに定着させるために本来画像を定着させる面積をそれに割いた画郭──にグラフィカルに構築されたモノクロ映像が、それにいよいよ拍車をかける。

監督のインタヴューなどを読むと、ふたりの登場人物をそれぞれプロテウスとプロメテウスになぞらえつつ、ポオやラヴクラフトメルヴィルらの書いた無気味なテイストを出そうとしたという。本作について、敢えて別の喩えを出すなら江戸川乱歩の「人間椅子」や「鏡地獄」、「押絵と旅する男」といった読み手の主観をぐらつかせるような作品群の読後感に近いといえよう。ウィレム・デフォーロバート・パティンソンの演技合戦も見もの。


     ○


白色テロ時代の只中にある1960年代の台湾、とある因縁を持つふたりの高校生が深夜の校舎で出会う『返校 言葉が消えた日』(ジョン・スー 監督、2019)は、発表時から高い評価を得たホラー・ミステリ・ゲーム『返校 -Detention-』(赤燭遊戲、2017)の実写化映画作品であり、これまであった数多のゲームの映画化として、変化球だが新たな傑作となった1作だ。

本作が見事なのは──ゲーム内にあった悪夢的なヴィジュアルを見事 “違和感” こみで再現したVFXだったり、2D横スクロール風のプレイ画面をそこかしこに再現した撮影の素晴らしさはもちろんのこと、それ以上に──いわゆるゲーム・プレイそのものの再現や追体験性に注力するのではなく、ゲームをクリアすることで浮かび上がるキャラクターそれぞれの内面や、真に伝えたかった物語を丁寧に語ることにこそ焦点を当てている点だ。これによって、ホラーとして消費される以上に歴史ドラマ映画として見応えのある作品となっている。

もちろんそれゆえに、ゲームの映画化としては物足りなく感じる部分がないといえば嘘になる。ハッキリ言えば、ゲームであった謎解き要素は本編序盤でだいたい分かってしまう。けれど、本作を観ることで『返校』という物語、そして人間が経てきた──あるいは繰り返そうとしている *3──歴史への理解がいっそう深まることは間違いない。必見だ。


     ○


旧ソ連の秘密衛星の破片がニューヨークに落下したために未知の巨大グモが発生する『スパイダー VS マン』(ティボー・タカクス監督、2013)は、設定だとか脚本だとかアクションだとか特撮だとかについて、本作の予算としては踏むべき定石をきちんと踏んでいるから苦もなく観られるし、CGも悪くなく、やることはきちんとやっている。

だがしかし、いかんせんカメラワークが下手というか、ふつうのドラマ映画でも「そうは撮らんだろ」という画面レイアウトばかりが頻出する極度の平板さが──ぜんぶアイラインなのだもの──肝心の特撮シーンにおいておやスケール感を伴っていないのために、ことごとく世界観をみみっちいものになっており、もったいないことこのうえない。本作の見どころは、クモの造型と、『エイリアン2』(ジェームズ・キャメロン監督、1986)にて、ダメな軍人だけれど最後の最期には観客の涙をかっさらうゴーマン中尉を演じたウィリアム・ホープが、救いようもなくダメな軍人役として登板しているところです *4


     ○


◆父の設計したマッハ号を駆る凄腕レーサーのスピードが巨大企業間の陰謀に巻き込まれるスピード・レーサーウォシャウスキー兄弟 ※現・姉妹 監督、2008)は、不勉強ながらいままでスッポカしていたけれど、とっても楽しい作品だった。いわずとしれたタツノコプロ制作『マッハGoGoGo』(笹川ひろし総監督、1967-1968)の実写化である本作は、とにかく総天然色なヴィジュアルが素晴らしい。とくに本命であるレーシング・シーンが、スピード感は実写ベースながら、いわゆるリミッテッド・アニメーション的な表現をそのままVFXに落とし込んだような表現はいまみても──もちろん技術の時代的制約でCGっぽさ全開ではあるけれど──新鮮。別個のパースを用いた背景の切り抜きをスライドさせることで立体感を出すBOOK処理を思わす背景の処理を再現した遠近感表現など、とくに面白い。劇伴の作曲がマイケル・ジアッキノで、こちらも納得の登板だ。


     ※

*1:余談だが、吹替版それ自体は悪くないものの──当方のプレイヤーの所為かもわからないが──オリジナル音声と比べて劇判のミックスが不自然なのはどうしたことなのか(ひどくモノラル寄りというかさ)。

*2:エンドクレジットに突入した途端に特典メニューへ誘導するポップアップが表示される。正直ビックリするからやめてほしい。

*3:どこでかって? まあいろいろあるけど、僕らだって他人事じゃないよ。

*4:あと、タイトルの出オチ感も、最高でした。

2021年劇場鑑賞映画ベスト10


     ○


あけましておめでとうございます。

いつのまにか、名残り惜しむ暇もなく2021年が終わってしまいました。光陰矢のごとし。
さて、以下に僕が昨年劇場で鑑賞した映画からベスト10を選んでリスト化してみました。
地方在住の偏食家ゆえ、鑑賞作品に偏りがあることを、ひとつご容赦ください。

それはさておきも、本年が皆様にとって善い年であるよう、心よりお祈り申し上げます。


     ○


【2021年劇場鑑賞映画ベスト10】

1.『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)


2.『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)

3.『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)


4.『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)

5.『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)


6.『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)

7.『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)

8.『ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)

9.『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)

10.『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)

10.『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)


     ※


【2021年劇場鑑賞映画リスト】 ※鑑賞順

『新感染半島 ファイナル・ステージ』ヨン・サンホ監督、2020)
『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』岩合光昭監督、2021)
『樹海村』清水崇監督、2021)
名探偵コナン 緋色の不在証明』(2021)
レンブラントは誰の手に』(ウケ・ホーヘンダイク監督、2019)

『43年後のアイ・ラヴ・ユー』マルティン・ロセテ監督、2019)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)
『野球少女』(チェ・ユンテ監督、2019)
トムとジェリーティム・ストーリー監督、2021)
『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)


10


モンスターハンターポール・W・S・アンダーソン監督、2020)
『騙し絵の牙』(吉田大八監督、2020)
『21ブリッジ』ブライアン・カーク監督、2019)
『サンドラの小さな家』フィリダ・ロイド監督、2020)
名探偵コナン 緋色の弾丸』(永岡智佳監督、2021)

ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督、2021)
『ジェントルメン』ガイ・リッチー監督、2019)
ガールズ&パンツァー 最終章 第3話』水島努監督、2021)
るろうに剣心 最終章 The Final』(大友啓史監督、2021)
『ザ・スイッチ』(クリストファー・B・ランドン監督、2020)


20


『ファーザー』(フローリアン・ゼレール監督、2020)
『ローズメイカー 奇跡のバラ』(ピエール・ピノー監督、2020)
るろうに剣心 最終章 The Biginning』(大友啓史監督、2021)
ザ・ファブル 殺さない殺し屋』江口カン監督、2021)
モータルコンバット(サイモン・マッコイド監督、2021)

夏への扉-キミのいる未来へ-』(三木孝浩監督、2021)
クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(ジョン・クラシンスキー監督、2020)
ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)
ピーターラビット2/バーナマスの誘惑』ウィル・グラック監督、2021)
『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)


30


『イン・ザ・ハイツ』ジョン・M・チュウ監督、2021)
クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』(髙橋渉監督、2021)
『とびだせ! ならせ! PUI PUI モルカー』(見里朝希監督、2021)
ワイルド・スピード/ジェットブレイク』ジャスティン・リン監督、2021)
『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)

『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)
『スペース・プレイヤーズ』(マルコム・D・リー監督、2021)
『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(デスティン・ダニエル・クレットン監督、2021)
『モンタナの目撃者』テイラー・シェリダン監督、2021)
『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021)


      40


テーラー 人生の仕立て屋』(ソニア・リザ・ケンターマン監督、2020)
『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)
『SEOBOK/ソボク』(イ・ヨンジュ監督、2021)
『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)
『クーリエ: 最高機密の運び屋』ドミニク・クック監督、2020)

『オールド』M・ナイト・シャマラン監督、2021)
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)
死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』(マイケル・チャベス監督、2021)
『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)
『キャッシュトラック』ガイ・リッチー監督、2021)


50


『ゾンビ-日本初公開復元版-』ジョージ・A・ロメロ監督、1978)
『映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』大森貴弘監督、2021)
『エターナルズ』(クロエ・ジャオ監督、2021)
『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)
『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション京田知己監督、2021)

『ツリーから離れて』(ナタリー・ヌリガット監督、2021) ※短篇 
『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)
『パーフェクト・ケア』J・ブレイクソン監督、2020)
『ヴェノム: レット・ゼア・ビー・カーネイジ』アンディ・サーキス監督、2021)
モスラ〈4Kデジタルリマスター版〉』本多猪四郎監督、1961、2021)


60


『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)
マトリックス レザレクションズ』(ラナ・ウォシャウスキー監督、2021)
ボス・ベイビー ファミリー・ミッション』トム・マクグラス監督、2021)
キングスマン: ファースト・エージェント』(マシュー・ヴォーン監督、2021)

【備忘録】2021年 鑑賞作品リスト

2021年に観た映画等の備忘録リストです。今年初見は193作品(短篇、TVMなど含む)とTVアニメ、OVA、ドラマそれぞれ1シリーズでした。
末尾に “◎” のあるものは劇場で観たものです。

気まぐれに短い感想を書いた作品もありますので、よろしければ過去投稿記事をご参照いただければ幸いです。

それでは皆様、よいお年を。


     ※


『ザ・ソウルメイト』(チョ・ウォニ監督、2018)
『ザ・バウンサー』(ジュリアン・ルクレール監督、2018)
『プライズ~秘密と嘘がくれたもの~』(パウラ・マルコヴィッチ監督、2011)
『新感染半島 ファイナル・ステージ』ヨン・サンホ監督、2020)◎
ジョジョ・ラビット』タイカ・ワイティティ監督、2019)

『ACTION アクション!!』(スンダル・C監督、2019)
サンクタムアリスター・グリアソン監督、2011)
『空軍大戦略ガイ・ハミルトン監督、1969)
ディープ・ブルー3』(ジョン・ポーグ監督、2020)
『WAR ウォー!!』(シッダールト・アーナンド監督、2019)


10


『超少女 マリア』(上垣保朗監督、1991) ※OV
『超少女 マリア 最期の戦い』(上垣保朗監督、1991) ※OV
『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』岩合光昭監督、2021)◎
『ゴールデン・ジョブ』(チン・ガーロウ監督、2018)
『カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇-』(リチャード・スタンリー監督、2019)

『燃えよスーリヤ!!』(ヴァーサン・バーラー監督、2018)
『頭上の敵機』ヘンリー・キング監督、1949)
『アンチグラビティ』ニキータ・アルグノフ監督、2019)
『八日目の蝉』成島出監督、2011)
『ANNA/アナ』リュック・ベッソン監督、2019)


20


ソニック・ザ・ムービー』(ジェフ・ファウラー監督、2020)
天外魔境 自来也おぼろ変』広井王子総監督、竹内啓雄監督、1990) OVA
『デッド・ドント・ダイ』ジム・ジャームッシュ監督、2019)
ZIPANG林海象監督、1990)
『マキシマム・ソルジャー』ピーター・ハイアムズ監督、2013)

『エクスペンダブルズ エクステンディッド・ディレクターズ・カット』シルヴェスター・スタローン監督、2010)
『ライブリポート』(スティーヴン・C・ミラー監督、2019)
ナイト・ウォッチャー』マイケル・クリストファー監督、2020)
『樹海村』清水崇監督、2021)◎
名探偵コナン 緋色の不在証明』(2021)◎ TVシリーズの総集編


30


『英雄都市』カン・ユンソン監督、2019)
レディ・ガイウォルター・ヒル監督、2016)
レンブラントは誰の手に』(ウケ・ホーヘンダイク監督、2019)◎
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱』ツイ・ハーク監督、1992)
『43年後のアイ・ラヴ・ユー』マルティン・ロセテ監督、2019)◎

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)◎◎
『カンフーリーグ』(ジェフ・ラウ監督、2018)
『イップ・マン 完結』(ウィルソン・イップ監督、2019)
『野球少女』(チェ・ユンテ監督、2019)◎
『コンジアム』(チョン・ボムシク監督、2018)


40


ロンドンゾンビ紀行(マティアス・ハーネー監督、2012)
トムとジェリーティム・ストーリー監督、2021)◎
『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)◎
モンスターハンターポール・W・S・アンダーソン監督、2020)◎
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地争覇』ツイ・ハーク監督、1993)

『なまくら刀 塙凹内名刀之巻』(幸内純一監督、1917) ※短篇、現存部分
『騙し絵の牙』(吉田大八監督、2020)◎
パトリオット・ゲームフィリップ・ノイス監督、1992)
『ペイン・アンド・グローリー』ペドロ・アルモドバル監督、2019)
『ザ・ヴォイド 変異世界(スティーブン・コスタンスキ、 ジェレミー・ギレスピ監督、2016)


50


『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(アグニェシュカ・ホランド監督、2019)
インスマスを覆う影』那須田淳演出、1992) ※TVM
『096 | SCP Short Film(原題)(クレイ・アビル監督、2020) ※短篇
『21ブリッジ』ブライアン・カーク監督、2019)◎
田園に死す寺山修司監督、1974)

『サドン・デス』ピーター・ハイアムズ監督、1995)
バミューダの謎 魔の三角水域に棲む巨大モンスター!』(トム・コタニ *1監督、1978) ※TVM
『サンドラの小さな家』フィリダ・ロイド監督、2020)◎
名探偵コナン 緋色の弾丸』(永岡智佳監督、2021)◎
『神経衰弱ぎりぎりの女たち』ペドロ・アルモドバル監督、1988)


60


『ロリ・マドンナ戦争』(リチャード・C・サラフィアン監督、1973)
『ディヴァイン・フューリー/使者』キム・ジュファン監督、2019)
『ハイヒール』ペドロ・アルモドバル監督、1991)
『怪怪怪怪物!』(ギデンス・コー監督、2017)
『アリス・スウィート・アリス』(アルフレッド・ソウル監督、1976)

『幸せへのまわり道』(マリエル・ヘラー監督、2019)
バッド・エデュケーションペドロ・アルモドバル監督、2004)
『キッド』チャーリー・チャップリン監督、1921) サウンド版、1971
『ミッドウェイ』ローランド・エメリッヒ監督、2019)
ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督、2021)◎


70


『バチ当たり修道院の最期』ペドロ・アルモドバル監督、1983)
『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』ダニエル・シャイナート監督、2018)
るろうに剣心(大友啓史監督、2012)
るろうに剣心 京都大火編』(大友啓史監督、2014)
るろうに剣心 伝説の最期編』(大友啓史監督、2014)

『ジェントルメン』ガイ・リッチー監督、2019)◎
ガールズ&パンツァー 最終章 第3話』水島努監督、2021)◎
るろうに剣心 最終章 The Final』(大友啓史監督、2021)◎
『ザ・スイッチ』(クリストファー・B・ランドン監督、2020)◎
ビバリーヒルズ・コップ3』ジョン・ランディス監督、1994)


80


アウト・オブ・サイトスティーブン・ソダーバーグ監督、1998)
『ゼイ・リーチ-未知からの侵略者-』(サイラス・ドール監督、2019)
サブウェイ・パニック(ジョセフ・サージェント監督、1974)
海底47mヨハネス・ロバーツ監督、2017)
ヒットマン エージェント: ジュン』(チェ・ウォンソプ監督、2020)

『悪人伝』(イ・ウォンテ監督、2019)
『ファーザー』(フローリアン・ゼレール監督、2020)◎
『ローズメイカー 奇跡のバラ』(ピエール・ピノー監督、2020)◎
『サバイバー』ジェームズ・マクティーグ監督、2015)
ゴースト・オブ・マーズジョン・カーペンター監督、2001)


90


犯罪都市カン・ユンソン監督、2017)
オキュラス/怨霊鏡マイク・フラナガン監督、2013)
るろうに剣心 最終章 The Biginning』(大友啓史監督、2021)◎
スペースウォーカー(ドミトリー・キセレフ監督、2017)
『ボルケーノ・パーク』サイモン・ウェスト監督、2019)

ザ・ファブル 殺さない殺し屋』江口カン監督、2021)◎
モータルコンバット(サイモン・マッコイド監督、2021)◎
クワイエット・プレイス(ジョン・クラシンスキー監督、2018)
『サマー・オブ・84』(フランソワ・シマールとアヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル監督、2018)
夏への扉-キミのいる未来へ-』(三木孝浩監督、2021)◎


100


クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(ジョン・クラシンスキー監督、2020)◎
ペーパー・ムーンピーター・ボグダノヴィッチ監督、1973)
ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)◎◎
『ミュータンツ 光と闇の能力者』(ジョー・シル監督、2019)
アラン・ドロンのゾロ』ドゥッチョ・テッサリ監督、1975) ※英語版

ピーターラビット2/バーナマスの誘惑』ウィル・グラック監督、2021)◎
『ザ・ハント』(クレイグ・ゾベル監督、2020)
インビジブル・スパイ』(ジャズ・ブーン監督、2019)
テリー・ギリアムドン・キホーテテリー・ギリアム監督、2018)
『恐怖に襲われた街』アンリ・ヴェルヌイユ監督、1975)


110


『ようこそ映画音響の世界へ』(ミッジ・コスティン監督、2019)
『危険を買う男』(フィリップ・ラブロ監督、1976)
いれずみの男(ジャック・スマイト監督、1969)
『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)◎
北斗の拳(トニー・ランデル監督、1995)

『五人の斥候兵』田坂具隆監督、1938)
『イン・ザ・ハイツ』ジョン・M・チュウ監督、2021)◎
リメンバー・ミーアレン・コールター監督、2010)
クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』(髙橋渉監督、2021)◎
『VETERAN ヴェテラン』(ジョー・ベゴス監督、2019)


120


『とびだせ! ならせ! PUI PUI モルカー』(見里朝希監督、2021)◎
ワイルド・スピード/ジェットブレイク』ジャスティン・リン監督、2021)◎
『G. I. ジョー バック2リベンジ(完全制覇ロングバージョン)』ジョン・M・チュウ監督、2013)
『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)◎◎
『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』ジェームズ・グレイ監督、2016)

『オー!』(ロベール・アンリコ監督、1968)
『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)◎◎
『直撃! 地獄拳』石井輝男監督、1974)
『アーカイヴ』(ギャヴィン・ロザリー監督、2020)
『必殺4 恨みはらします』深作欣二監督、1987)


130


戦国自衛隊斎藤光正監督、1979)
ルーニー・テューンズ: バック・イン・アクション』ジョー・ダンテ監督、2003)
『スペース・ジャム』(ジョー・ピトカ監督、1996)
『スペース・プレイヤーズ』(マルコム・D・リー監督、2021)◎
『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』(ディーン・パリソット監督、2020)

燃えよデブゴン TOKYO MISSION』谷垣健治監督、2020)
『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(デスティン・ダニエル・クレットン監督、2021)◎
プレイモービル マーラとチャーリーの大冒険』(リーノ・ディサルヴォ監督、2019)
『モンタナの目撃者』テイラー・シェリダン監督、2021)◎
『大頭脳』(ジェラール・ウーリー監督、1969)


140


『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021)◎
テーラー 人生の仕立て屋』(ソニア・リザ・ケンターマン監督、2020)◎
『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)◎
『第四の核』(ジョン・マッケンジー監督、1987)
『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)◎

『きつねと猟犬』(アート・スティーブンス、テッド・バーマン、リチャード・リッチ監督、1981)
『SEOBOK/ソボク』(イ・ヨンジュ監督、2021)◎
『フロッグ』(アダム・ランドール監督、2019)
『クーリエ: 最高機密の運び屋』ドミニク・クック監督、2020)◎
『オールド』M・ナイト・シャマラン監督、2021)◎


150


『ウィッチサマー』(ブレット・ピアース、ドリュー・T・ピアース監督、2019)
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)◎
KCIA 南山の部長たち』(ウ・ミンホ監督、2020)
『燃ゆる女の肖像』セリーヌ・シアマ監督、2019)
死霊館 悪魔のせいなら、無罪』(マイケル・チャベス監督、2021)◎

『暗数殺人』キム・テギュン監督、2012)
『7番房の奇跡』(イ・ファンギョン監督、2013)
『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)◎
『戦国野郎』岡本喜八監督、1963)
『キャッシュトラック』ガイ・リッチー監督、2021)◎


160


『ゾンビ-日本初公開復元版-』ジョージ・A・ロメロ監督、1978)◎
『大盗賊』フィリップ・ド・ブロカ監督、1962)
『映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』大森貴弘監督、2021)◎
『エターナルズ』(クロエ・ジャオ監督、2021)◎
スカイライン -逆襲-』(リアム・オドネル監督、2020)

『エル』ルイス・ブニュエル監督、1952)
ブルー・マインド(リサ・ブリュールマン監督、2017)
エデンの東エリア・カザン監督、1955)
『リビング・ウィズ・ゴースト ある家族の物語』(ユージン・アブィゾフ監督、2019)
『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)◎


170


『ウェイティング・バーバリアンズ 帝国の黄昏』(シーロ・ゲーラ監督、2019)
ピンチクリフ・グランプリ(イヴォ・カプリノ監督、1975)
『スパイダー パニック!』(エロリー・エルカイエム監督、2002)
『レスキュー』ダンテ・ラム監督、2020)
スプートニク(エゴール・アブラメンコ監督、2020)

『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション京田知己監督、2021)◎
『ツリーから離れて』(ナタリー・ヌリガット監督、2021) ※短篇 ◎
『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)◎
『パーフェクト・ケア』J・ブレイクソン監督、2020)◎
『黒水仙マイケル・パウエルエメリック・プレスバーガー監督、1947)


180


『プロジェクトV』スタンリー・トン監督、2020)
『赤い靴』マイケル・パウエルエメリック・プレスバーガー監督、1948)
『ヴェノム: レット・ゼア・ビー・カーネイジ』アンディ・サーキス監督、2021)◎
モスラ〈4Kデジタルリマスター版〉』本多猪四郎監督、1961、2021)◎
『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)◎

『Whisper(原題)(ジュリアン・テリー監督、2017) ※短篇
『The Nurse(原題)(ジュリアン・テリー監督、2017) ※短篇
『They Hear it(原題)(ジュリアン・テリー監督、2021) ※短篇
『Don't Peek(原題)(ジュリアン・テリー監督、2020) ※短篇
ボス・ベイビートム・マクグラス監督、2017)


190


マトリックス レザレクションズ』(ラナ・ウォシャウスキー監督、2021)◎
ボス・ベイビー ファミリー・ミッション』トム・マクグラス監督、2021)◎
キングスマン: ファースト・エージェント』(マシュー・ヴォーン監督、2021)◎


     ※


【TVアニメ】
『PUI PUI モルカー』(見里朝希監督、2021) ※全12話


     ※


OVA
るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』古橋一浩監督、1999) ※全4話


     ※


【ドラマ】
呪怨 呪いの家』三宅唱監督、2020) ※全6話


     ※

*1:小谷承靖の英語クレジット名。

2021 12月感想(短)まとめ

2021年12月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆天才ゲームクリエイターのトーマスが、意に沿わぬゲームの続篇制作を強要されることで精神をすり減らしてゆくマトリックス レザレクションズ』(ラナ・ウォシャウスキー監督、2021)は、非常に内省的で根源的な問いに立ち返るような1作だった。


すでにそこかしこで、本作について「『マトリックス』と思って観に行ったら『8 1/2』だった」というような指摘がなされているとおり、本作はたしかに『マトリックス』シリーズの続篇であるけれども、それ以上にもっと本質的なことを語ろうとする作品だった。いったい僕はなにを観ているのだろうとグラグラするようなスリリングさが楽しいとくに前半数十分に渡るパートをはじめとして、可能ならば内容を知らずにご覧になっていただきたい次第だ。

さて、本作『レザレクションズ』をひと言で表すなら、観客にとって、映画会社にとって、そしてなによりラナ・ウォシャウスキーにとって、映画『マトリックス』とはいったいなんだったのか? ──を自己言及的に語る作品だといえるだろう。前者の2方向──とくに映画会社──については劇中で露悪的なまでに語られるから、本作を観れば一目瞭然といったところだが、ではラナにとってはどうだったのか? その答えの手がかりは、そもそも3部作完結後、続篇の制作を拒み続けてきたラナ・ウォシャウスキーが本作を撮ったのかについて彼女自身が語ったなかにある。

ベルリン国際文学祭で行なわれた、脚本に関するパネルディスカッションにて彼女は本作の物語が生まれた経緯について、両親や友人との死別によって悲しみにくれていたことがきっかけだとコメントしている。そして、処理しきれないほどの悲しみのなかにあったとき突然、ネオとトリニティーを復活させる物語が誕生し、それが彼女の慰みになったのだという。このように、本作制作スタートのきっかけは、ラナの非常に個人的な心情だったのだ。


このことには──ポン・ジュノアカデミー賞でのスピーチで引用したことでも記憶に新しい──マーティン・スコセッシの「最も個人的なことこそ最もクリエイティブなこと」という言葉を思い起こしてしまう。そもそも1作目『マトリックス』自体、かつて兄弟だった姉妹が、制作当時にあった自身の性と社会の性(というシステム)と不適合による違和感から解放されるために撮り上げた作品だと後に明らかにしたように、とても個人的な心情を吐露した作品でもあった。

同じパネルディスカッションの会場でラナは「シンプルなことだけど、これこそがアートの役割であり、物語の役割。私たちを慰めてくれる」とも語っている。この彼女の言葉を借りるなら、『マトリックス』とは第1にアートや物語であり、それはとりもなおさず虚構(フィクション)である。その役割を十全に果たすからこそ、ラナは本作『レザレクションズ』を撮り、そして僕ら観客は『マトリックス』を愛する。だからこそ、クライマックスにおいてとあるキャラクターがマトリックス内の虚構世界を「美しい」と言うのだろう。本作『レザレクション』をいま一度ひと言で表すなら、芸術や物語といったフィクションとはなんなのか? ──という普遍的で根源的な問いを語る作品だといえるだろう。

ところで、フィクションの力によって人々を、世界をより善くすることが可能なのだろうか。シリーズ完結から約20年、世界の価値観は一進一退を繰り返しながら、それでも着実にアップグレードされてきている。本作で描かれるネオとトリニティーの闘いは、まさしくその変遷と結果を垣間見るような気さえする。もちろん、まだまだ不十分であるし、これからもわれわれは世界を作り変えてゆかねばならない。そのためにも物語や芸術は必要だ。事実『マトリックス』シリーズは、映画史に名を刻むだけでなく、その創造性によって映画そのものを変え、多くの人に影響を与えたことを思い出そう。物語や芸術が「赤い錠剤」となって「世界の空を七色に変える」ことの一助にならないと、どうしていえようか。


     ○


◆結婚して2児の父となったティムが、長女タビサとの距離に悩むうち、ふたたびベイビー・コープの社員とともに世界の危機に立ち向かうボス・ベイビー ファミリー・ミッション』トム・マクグラス監督、2021)は、前作の魅力はそのままに、ファミリー映画として大いに笑って楽しめる1作だ。

前作『ボス・ベイビー』(同監督、2017)は、弟の誕生によって両親からの愛を失うのではないかと恐れた長男ティムがやがて弟を受け入れてゆくまでの過程を、じつは弟の中身はベイビー・コープから派遣された社員で精神的にはオッサンという、いっぷう変わった設定を用いた一種のバディものとして、鮮やかな色彩と、すこしばかりドイツ表現主義を思わせる風味を足した絶妙なプロダクション・デザイン、迫力満点のアクションと軽妙愉快なギャグとユーモア、そして『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの「ガンダルフ」パロディを──本作にも健在──なぜか加えて、面白おかしく映像化した作品だった。いささか力技な展開もあるものの、これはティムの子ども時代の妄想なのではという視点を要所要所に組み込むことで、大きなノイズになっていないところもなかなかのバランス感覚だ。

それにしても、見事に大団円を迎えた前作の続篇をいかにして作るのか? この難題に本作はティムとテッド(ボス・ベイビー)の兄弟が既におとなとなった30年後の世界に設定し、テーマをある種のミドル・クライシスにアクロバティックにも変更して答えている。ティムは、成長とともに愛娘タビサからの愛を失うのではないかと恐れ、そしていつしか疎遠になってしまった弟との関係に悩む。そして本作では、ティムが文字どおり子ども目線に戻ることで父としても成長し、テッドや家族との関係をよりよく修復してゆく過程が描かれる。


このように書くと、本作がいかにも堅苦しい作品だと印象を与えてしまうだろうけれども、もちろんそんなことはない。前作に負けず劣らずつるべ撃ちされるギャグ──「しゃぶれ」「イヤだ」のくだりが最高──とアクションに抱腹絶倒し、そして奇想天外な展開と画面の美しさにあれよあれよと物語世界に引き込まれてしまうこと請け合いだ。前作で活躍したボス・ベイビーの部下たちもそれぞれちょっとした活躍をして続篇としても気が利いているし、舞台がクリスマスなのも相まって、なかなか小気味のいいファミリー映画に仕上がっている。

もちろん細かいツッコミどころがないではない。天空の赤ちゃんの世界をいよいよ客観的に観測──展開上処置なしとはいえ──してしまうことで、若干フィクション・ラインの位置づけが不安定なものになってしまっているし、デジタル目覚まし時計のウィジーをクライマックスで “動かして” しまうのはいくらなんでも理屈に合わないのではあるまいか。とはいえ、そういったことは観ているうちにはあまり気にならない程度のことであり、その力技で乗り切るテンションの高く肩肘の張らない作劇こそ本シリーズの魅力でもあるだろう。

ことほど左様に、年忘れ、あるいは初笑いにもってこいの1本だ。楽しかった。


     ○


◆第1次大戦前夜、歴史の裏で暗躍する謎の組織の陰謀に、英国貴族オックスフォード公が挑むキングスマン: ファースト・エージェト』(マシュー・ヴォーン監督、2021)は、アクション・シーンは相変わらず最高なんだけどなァ……といった1作だった。

なんといっても見どころは、シリーズの魅力であるアクション・シーンの数々だ。アクロバティックな殺陣を、縦横無尽に駆け巡るカメラによる思いがけないレイアウトで捉えたショットをリズミカルに編集した一連のアクションは迫力満点。前半に登場する、バレエやコサックを躍り狂うかのように攻撃を仕掛けるラスプーチンの殺陣の奇抜さは新鮮だったし、クライマックス手前で繰り広げられる、自由落下する複葉機から如何に脱出するかの空中アクションは、すこし宮崎駿のアニメーションを思わせるスラップスティックな迫力もあって見応え抜群だ。

超法規的諜報機関キングスマン」の誕生前夜を描く本作の舞台は第1次大戦の頃合。貴族であるオックスフォード公とその執事たちが、なんとか大戦勃発、あるいは大戦の拡散を防ごうとする本作の大まかな設定は、カズオ・イシグロ日の名残り』(1989)を髣髴とさせる感があって面白い。また、あのときあの事件にじつはオックスフォード公たちが関わっていたのだ、とする歴史の裏側を紐解いてゆくような脚本も嫌いじゃないし、むしろ好きなタイプである。

なのだけれども、本作の難点はアクション以外のテンポが恐ろしく単調で抑揚に欠けるところにある。というのも、本作のストーリー展開は、いわゆる3幕構成というよりもテレビドラマのシリーズ3話を無理やり繋げたような構成となっているからだ。ひとつの事件が終結すると次の事件へ向かって解決……といったように、思いのほか1本の劇映画としてのまとまりが薄いのである。あるいは過去篇ということで、かつて作られた歴史大作風のテンポ感にしたかったのかもしれないが、しかして現状アクション・シーンのリズム感にまったく合っていないのも拍車をかける。

途中、物語の主人公がいちど入れ替わるのもテンポをより鈍重にしている。なんとなれば、映画中盤に描かれるオックスフォード公の息子コンラッドに焦点を当てた西部戦線での出来事は、本作において丸々カットしてもまったく問題なかったのではないか、とすら思えてくる。あくまで主人公はオックスフォード公なのだから、彼に焦点を当ててその周りは敢えて詳しく描き過ぎないほうが、いっそう1作の映画として引き締まったものになったのではないだろうか。

ことほど左様に、もうすこし展開などを精査していたなら、より見応えのあるアクション巨編になったろうに、もったいない1作だ。


     ※

2021 “年忘れ” ひとこと超短評集

みなさん、メリークリスマス。



さて、ことし劇場で観たにも関わらず、とくにこれといった理由もなく、なんとなく書きそびれていた作品群リバイバル上映作は除く)の、ひとこと超短評集です。

年末の大掃除じゃい!


     ※


『新感染半島 ファイナル・ステージ』ヨン・サンホ監督、2020)……前作とはガラっと雰囲気を変えたディストピアちょいジュヴナイル足し映画として基本的には楽しく、クライマックスのカーチェイスは見応え抜群。ただ、ラストの愁嘆場はいくらなんでも鈍重。


     ○


『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』岩合光昭監督、2021)……人間が見たいと願うネコらしさを満喫する意味では、たいへんネコネコしい作品。T・S・エリオットが残したように「再度申し上げておくが、犬は犬、猫は猫だ」ってわけ(なに言ってんだ?)。


     ○


名探偵コナン 緋色の不在証明』(2021)……新作に向けて、赤井秀一をはじめとする赤井ファミリーを紹介するためにTVアニメシリーズをリミックスした総集編モノだが、なんだか逆に判りづらく混乱する部分が多かった。付け焼刃だったか。


     ○


レンブラントは誰の手に』(ウケ・ホーヘンダイク監督、2019)……レンブラントの絵画をはじめとした名画の売買取引の内幕を描くドキュメンタリー作品で、題材そのものは興味深いが、基本的に「はァ~ハイソ、ハイソ」な話ばかりなので「あっしは庶民だもンで」といささか食傷気味になった。


     ○


『野球少女』(チェ・ユンテ監督、2019)……プロ野球選手を目指すヒロインを演じたイ・ジュヨンの佇まいと存在感がたいへん魅力的で、そんな彼女を全力でつぶそうとするかのような “システムそのもの” への懐疑を鋭くえぐる快作。


     ○


『騙し絵の牙』(吉田大八監督、2020)……福助のような笑みを常に浮かべる大泉洋のなんとも知れぬ演技が役柄と合っており見事だし、いかにフィクションと人が関わって向き合うのかという部分が、やはり吉田監督作の味わいだ。


     ○


『サンドラの小さな家』フィリダ・ロイド監督、2020)……冷淡な社会システムのなか、それでも人と人との繋がりによって拡がる協力関係の輪を描くあたたかさと、それを一瞬で破壊するマチズモへの絶望の深さとのギャップが、観客を鋭く突く。


     ○


名探偵コナン 緋色の弾丸』(永岡智佳監督、2021)……コナン版「地底超特急西へ(ウルトラQ)」とでもいった乗り物パニックの後半が、まぁ派手なこと派手なこと。でもコナン君、そんなに観衆の注目を浴びつつ名推理を披露して大丈夫なのかしらん、といささか心配になった。


     ○


ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督、2021)……自家用車に寝泊りしながら日雇い職を求めて全米中を移動する「現代のノマド」の実像を、じつに美しい映像と、フィクションながら登場人物のほとんどを “本人” 役で登場させる不思議なリアリティラインで描く。やはり『イージー★ライダー』を思い起こすけれど、ノマドとしての生活を神話的に美化しすぎなのは、ちょっと問題なのではという疑念もある。


     ○


『ジェントルメン』ガイ・リッチー監督、2019)……洒脱な台詞まわしと時系列シャッフルを用いた初期のリッチー映画がお好きな方には間違いなくオススメ。じつにリッチーっぺえ味わいを楽しめる。


     ○


ガールズ&パンツァー 最終章 第3話』水島努監督、2021)……ガルパンは7:3(個人比)くらいでいいぞ。対「知波単学園」戦の勝敗を決するロジックが面白い。


     ○


『ザ・スイッチ』(クリストファー・B・ランドン監督、2020)……日陰者の女子高生と連続殺人鬼の魂が入れ替わることで巻き起こるテンヤワンヤが、適度なスリルとゴアとユーモアで描かれるたいへん楽しい青春殺人ラプソディ。物語は、いわゆる心のなかの天使と悪魔とが葛藤する説話構造だが、思い返せばちゃっかりヒロインが殺人鬼の人格を借りて日ごろの鬱憤をぜんぶ晴らしているのが可笑しい。観ながら、ふと『ヘザーズ/ベロニカの熱い日々』を思い出した。


     ○


『ファーザー』(フローリアン・ゼレール監督、2020)……認知症を患うとはこんな感じなのだろうか、ということをまざまざと体感させられる作品。いま画面に映っているものも人物も、時間すらも歪み、ループし、反転する。その恐怖と孤独感。


     ○


『ローズメイカー 奇跡のバラ』(ピエール・ピノー監督、2020)……ダメ人間たちのワンスアゲインを描く人情コメディ。さすがにフランス映画だけあって、中盤にある展開の倫理観のぶっ飛びかげんには笑っていいやらどうしていいやら。でも可愛らしい作品だったよ。


     ○


クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(ジョン・クラシンスキー監督、2020)……前作が『大草原の小さな家』的な西部劇の構造を持ったモンスター・ホラーなら、本作はやはり同じく西部劇『勇気ある追跡』といった趣で、そのじつ現代アメリカの姿を鏡像のように炙り出す。壁を作るのではなく、対話によってこそ邪悪をくじく展開が胸を打つ。


     ○


ピーターラビット2/バーナマスの誘惑』ウィル・グラック監督、2021)……前作同様、スラップスティックながら行き過ぎなバイオレンス描写が楽しい。


     ○


『イン・ザ・ハイツ』ジョン・M・チュウ監督、2021)……移民2世ゆえに自身のホームを迷い求める主人公たち姿を映す。主人公たちの母親がわりであるアブエラが歌う彼女の歴史パートは必見。


     ○


クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』(髙橋渉監督、2021)……クライマックスがまったくミステリと関係なかったのは残念だが、前半で丁寧に描写した学園のランドマークを余すことなく有機的に使い切った中盤の追走シーンの出来は格別。


     ○


『とびだせ! ならせ! PUI PUI モルカー』(見里朝希監督、2021)……プイプイ!(a.k.a. サイコー!)


     ○


ワイルド・スピード/ジェットブレイク』ジャスティン・リン監督、2021)……相変わらずのカーチェイス大喜利が愉快で楽しい作品。とはいえドムたちが敵の技術を流用するのは反則じゃないかしらん。アナクロだからこそ勝てた、といった展開のほうが盛り上がったのでは?


     ○


『スペース・プレイヤーズ』(マルコム・D・リー監督、2021)……まァお話の雑はともかく、実写とルーニー・テューンズが違和感なく混ざったヴィジュアルの奔放さが楽しいし、ローラ・バニーを演じた深水由美の吹替えがそれはもう素晴らしく魅力的で、うっかりケモナーの扉を開きそうになった(ナンダコレ)。それはそれてとしても、予告編で謳われた「映画のキャラクター大集合」が単にクライマックス試合の観客としてであって、その大半がメチャクチャ中途半端なコスプレだったのには笑いました。USJ のキャストか!


     ○


『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(デスティン・ダニエル・クレットン監督、2021)……香港カンフー映画×アメコミ映画といったケレンに溢れたアクションシーンがじつに素晴らしい。そしてトニー・レオンの色香よ! うっとりですよ!


     ○


『モンタナの目撃者』テイラー・シェリダン監督、2021)……適度なコンパクトさで、じつにテレビの洋画劇場向き──木村奈保子さんの解説つきで「あなたの心には、なにが残りましたか?」と問いかけられるのがしっくりくるのじゃなかろうか──な作品。悪党コンビが醸す、ブラック企業勤めのサラリーマン感がなんとも知れぬ味わい。


     ○


『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021)……自分たちの納得のいく時代劇を創意工夫のもと一生懸命に作り上げてゆく第2幕までは、たいへん可愛らしく爽やかな青春劇として大好物なのだけれど、クライマックスである上映会での展開でいっぺんに醒めてしまった。フラッシュモブへの過度な幻想というか、むしろここまでに彼女たちが作りあげた映画という作品に失礼なのじゃないかしらん。


     ○


テーラー 人生の仕立て屋』(ソニア・リザ・ケンターマン監督、2020)……きほん無口な仕立て屋のオジサンが、持ち前の創意工夫精神を活かして移動式仕立て屋店舗──ようは屋台──を作ってゆく様子はノッポさんのよう。ここに関わる人間関係の機微や顛末がなんともアモーレの国の映画だなぁ、という味わいなのが面白い。


     ○


『1秒先の彼女』(チェン・ユーシュン監督、2020)……どういうわけだか過ぎてしまったデートの日と、その日に撮られたらしい(が覚えのない)自身の写真をめぐるヒロインの探索旅行を独特な時間への解釈で描く、すこし不思議で可愛らしい作品。いうなれば梶尾真治が書くSF短篇と、『アメリ』を足したような味わいだ。


     ○


『SEOBOK/ソボク』(イ・ヨンジュ監督、2021)……『AKIRA』か『童夢』かといったサイキック描写は迫力があったけれど、話運びはいささか鈍重でまどろこしかった。


     ○


『クーリエ: 最高機密の運び屋』ドミニク・クック監督、2020)……普通のセールスマンをソ連からの機密を移送する運び屋として送り込むなんて、いやはやこんなことがあったのかと驚くことしきりの実録スパイもの。彼とソ連高官の内通者とのあいだに生まれる友情と仁義に涙する。


     ○


『オールド』M・ナイト・シャマラン監督、2021)……人生の戯画化としての展開やヴィジュアルが、なんとも知れぬ邪悪なユーモアを含めて描写されるのが面白い。ていうか、シャマラン、出たがりもいよいよだな!


     ○


死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』(マイケル・チャベス監督、2021)……ようやっと公開されたパート3にして、これまでとは異なる変則的な作劇が面白い。ただ、予告編にあった、そして本編序盤で予感されたクライマックスの1ショット──洞窟のような閉所を進むロレインを後ろから映した姿が、背景もろとも螺旋状に奥に向かって無限にうねる──が、どういうわけだか本編から削除されていて「どうして?」となった。こここそ観たかったのに!


     ○


『キャッシュトラック』ガイ・リッチー監督、2021)……ジェイソン・ステイサムまで登板してきて、いよいよ初期リッチーっぺえ作品。変則的とはいえ、“親の因果が子に報ゆ” なストーリーなので、「ステイサム、そりゃ自業自得だよ」と思わなくもないが、スコット・イーストウッドの狂犬じみた演技と、ホラー映画もかくやに顔見知りがバンバン死んでゆくラストが見もの。そして、本作の悪役たちの設定も、そのじつ現実ばなれしていないのが、もどかしというか、もの悲しいというか。


     ○


『映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』大森貴弘監督、2021)……コロコロと可愛かったけれど、前作と比べて脚本がぼんやりとバラけていてまとまりのない印象が強い。


     ○


『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション京田知己監督、2021)……本作で描かれる物語のわりに、その主軸のひとつでもあろう「人の死」についての描写が弱いのが残念。また本作、場所やら施設やら時間やら、めったやたらと字幕スーパーが出るのだけれど、いくらなんでも画コンテのト書きにあるような文言まで字幕スーパー処理するのは、どうかしらん。


     ○


『ツリーから離れて』(ナタリー・ヌリガット監督、2021)……アライグマの親子の姿を借りて、子育ての難しさと葛藤を親目線/子目線の双方を織り込んで描く短篇。内容それ自体も味わい深いけれど、驚くのがディズニー・アニメである本作がフル・アニメーションではなくリミテッド・アニメーションだったことだ(本作の映像自体は2Dアニメを模した3Dだと思うけれど、2コマとか3コマで動くんですよ)。


     ○


『ミラベルと魔法だらけの家』バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2021)……いわゆるディズニー・プリンセス的なヒロインからの脱却という試みを、ひとりだけ持たざる者としての主人公をとおして描いており、まさしく野心作。家族や世襲制の明と暗部をもまざまざと炙り出すような展開も攻めている。もちろん、南米の風味をふんだんに活かした楽曲や画面の極彩色も素晴らしく、五感を震わすだろう。


     ○


『パーフェクト・ケア』J・ブレイクソン監督、2020)……高齢者をターゲットにした一見合法的な詐欺的ビジネスを営むヒロインの底知れぬ存在感と手口が、共感こそしないが天晴れといった感じ。とってつけたような尻切れには納得ゆかない──逆のほうが、観客の世界の見え方が変わるような余韻がいっそうあったはずだ──けれど、すこぶる面白かった。


     ○


『ヴェノム: レット・ゼア・ビー・カーネイジ』アンディ・サーキス監督、2021)……アクションの画が全体的に寄り気味で捉えづらかったのは残念だが、エディとヴェノムの夫婦漫才が目一杯楽しめたのでよし。それにしても、このシリーズのヴェノムこそ大泉洋が「人間食わせなさいよ、人間」と吹替えていたらなぁと思うのだけれど、いかが? *1


     ○


『ラストナイト・イン・ソーホー』エドガー・ライト監督、2021)…… '60年代カルチャーに憧れるヒロインの目を借りて描かれる、当時のロンドン──とくにショウビズ界における女性への性的搾取──の暗黒さ加減は、ヒロインと同様に '60年代カルチャーへの憧憬のあるというエドガー・ライトだからこそ真摯に描き出した衝撃と恐怖(顔のない男たちの幻影の恐ろしさよ!)をもってフィルムに定着されている。翻って今日(こんにち)はどうなのか、と問いかけるような苦味ある鑑賞後感も素晴らしい。

*1:もちのろん、カーネイジ役は “ふじやん” でよろしく。