漫画『さよなら絵梨』(藤本タツキ、2022)感想と雑考(ネタバレ)

文化祭で上映した自主映画の評判のあまりの悪さに自殺を決意した高校生・優太が、ただひとりその映画を「気に入った」という同級生・絵梨に出会う、Twitter 上でまるで「クソ映画みたい」だと話題になった漫画『さよなら絵梨』藤本タツキ、2022)は、僕にとって激烈に心へ刺さりまくるタイプの作品とまではいわないまでも、技巧的で完成度の高い、そして “映画とはなにか” について本質論的にいろいろと考えさせられる1作だった。以下、本作についてすこしばかり掘り下げつつ、考察しながらレビューしてみよう。 
(※2022.07.23 一部加筆修正)


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【以下、ネタバレありなのでご注意ください】


本作が漫画配信Web ページ「少年ジャンプ+」上で公開された際、いっときTwitter 上にて「クソ映画」としてトレンドとなっていたのは、題材として映画(撮ること/観ること)を扱っている点と、それ以上にいわゆる「爆発オチ」が採用 *1されているからのようだけれど、それと同時に本作が読者を漫画を読んでいるというよりも、まるで映画を観ているかのような感覚にさせるからでもあるだろう。

本作のページ・レイアウトはなかなか独特で、ほぼすべてのページで横長で同サイズのコマを4段配置するという、まるで絵コンテのようなコマ割りを採用している。これは、本作で描画される絵が──扉絵を除いて──すべて主人公・優太がスマホで撮影した映像素材だという設定ゆえである。この均一なそれぞれのコマの隅々まで精緻に描かれた絵の情報量はもちろんのこと、あたかも長回し撮影かのようにほぼ同一の内容のコマが延々数ページにもわたって続くのを読むうちに、まるでキャプチャー画面を順々に観ている──やがて、それがあたかも動画のように思えてくる──ような錯覚に陥る *2

その一連の流れのなかで、ふいに輪郭線をダブらせたりコントラストを変換させた絵のコマを挿し挟むことでピンボケや映像のブレを表現しているのも、これに拍車をかける。それでいて、ここぞというときに2段抜きや全段抜き、見開きの大ゴマを配することで胸の内に沸き起こる情感は、漫画ならではのインパクトだ。本作は、このヴィジュアル面での絶妙なバランス感覚がとても巧みだ。


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また、本作が読者に対して、かつて観た様々な映画作品を髣髴とさせるのも「クソ “映画” みたい」だと話題になった他方の理由だろう。すでに多くのところで指摘されているように、ヒロインの「絵梨」という名前、それに中盤やラストで語られる “吸血鬼” 設定などは、あきらかに『ぼくのエリ 200歳の少女』(トーマス・アルフレッドソン監督、2008)からの引用と思われる(僕もとっても大好きな作品だ)。

そのほかにも、少年少女が半ばドキュメンタリーのように自主映画を製作していく様子は『20世紀ノスタルジア』(原将人監督、1997)、誰かしら死にゆく大切な人物のために自主映画づくりに奔走する感は『僕とアールと彼女のさよなら』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督、2015)、かつて愛した女性の記憶を巡る物語のなかでふいに吸血鬼の例え噺が出てくるのは『抱擁のかけら』(ペドロ・アルモドバル監督、2009)、そして件の「爆発オチ」は作中にもオマージュがあった『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督、1999)や、なにより『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)を思い出した *3

もちろん、これらが引用元として明言されているわけではないので、あくまで僕個人の連想に過ぎないのだけれど、本作はそれだけ映像的/映画的記憶を呼び覚ます感覚に満ちている。しかし、それはどうしてなのだろうか? あるいは本作には映画(というメディア)の本質を突くようなエッセンスがあるような気がしてならない。


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ところで、Twitter 上に方々から投稿された本作の感想ツイートを流し読みすると、本作で描かれた内容の「どこからどこまでが現実で、いっぽう虚構なのだろうか」というような疑問や、あるいはこれについて考察をしている文章が散見されたように記憶しているけれど、そもそも本作において我々読者(=観客)に対して提示/映されるものが果たして現実か虚構かという命題はいっさい不問となるのではないだろうか。そしてもちろんこれは、本作が漫画作品だから、という理由ではない。

先述のとおり本作は、紙面に描画されるコマはすべて優太が撮影した映像素材である、という体裁をとっている。そして読者には、基本的にはそれが時系列に沿った出来事としてドキュメンタリックに提示されているため、第1ページ目の第1コマ目から優太がじゅんぐりに撮影した映像を観ている(読んでいる)のだと、われわれは理解するだろう。



しかし、本作で提示される映像素材が「順撮り」されたものである証拠はいっさいない。よくよく考えるなら、本作の映像素材のそれぞれが、いつ、どこで、どのように、さらに言えば誰の手によって撮影されたのかを判別することは不可能なことに気づくだろう。それが証拠に、あたかも「現実の出来事」であるかのように描かれる本作冒頭から前半──優太が母の死を巡る映画『デッドエクスプローションマザー』を撮って不興を買い、それによって絵梨と出会い、ふたりして映画を観始める──にすら、優太がスマホ片手にリアルタイム撮影することのできない画が混じっている。

思い出そう。文化祭後に倉庫で教師から説教を受ける優太を教師もろとも横から──あたかも隠し撮りしたかのように──撮ったシーン、あるいは絵梨に誘われた廃墟の一室に据えられたソファにふたりして座ってスクリーン(絵としてはこちら側)を眺めるシーン。これらは、あきらかに作為的なカメラワークであり、きちんと登場人物がふたり映るようにカメラ(スマホ)を設置するという準備段階を踏まねば絶対に不可能なものだ *4。このことは中盤、優太とその父、そして絵梨が食卓を囲んでいるシーンにおいて、じつはそれが映画のための演出だったと明かすことで暗示している *5。さらに本作で大人になった優太と絵梨がいま一度再会するラストシーンにおいては、それまでのドキュメンタリー映画的な文法を軽々と捨て去って、もはや劇映画のカメラワークで物語が綴られる *6



また、物語中盤であきらかになるように、前半での母の死を巡る映画や、続く絵梨との触れ合いを描く映画のなかで、優太が意図的に排除した、あるいは撮らなかった映像がある、というのも重要だ。それは、優太の亡き母が持っていた本当の意図や負の側面をじつはカットしていたという展開や、絵梨が本当は眼鏡をかけていて歯の矯正もしていたところを本人の希望で撮影の際は外させていた──しかも彼女は性格が悪かったらしい──という絵梨の数少ない友人からの証言だ。作中で「〇〇時間にもおよぶ映像素材を編集した」という旨のセリフが幾度かあるように、本作はそのじつ細かく演出され、編集されたものであり、そうであれば本編には登場しないこぼれ落ちた要素も、あるいはこそぎ落としたり覆い隠したりした要素も多々あるということである。そして本作が本作として完成したことは、そこになにかしらの意図が介在したことにほかならない。

くわえて、本作に登場する映像素材のすべてを優太自身が撮影したという断言も、これまたできない。たとえば白石晃士監督などが得意とするモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)映画のメイキングをご覧になったことがあればご存じかと思うけれど、その作中でのキャラクターとしての撮影者が、必ずしも実際の撮影者(カメラマン)ではない。実際のカメラマンのそばにくっついて、役者がそのキャラクター(の声)を演じていたり、そもそもアフレコであったりする場合が往々にしてある。

ここでページを反対にめくり返してみれば、扉絵に描かれた「スマホを構える両手」とは、いったい誰の手というのだろうか? その手の持ち主が、あたかも優太が撮影しているかのように観客に思わせようとする作為のもと、スマホを構えていたかもしれないではないか? そもそも優太たちは「現実」の存在なのか? 読者/観客が「ファンタジーをひとつまみ」というセリフに弄されるばかりに本作全体がある種の「ファンタジー=フィクション=物語」である可能性を失念しているのではないか?



ことほど左様に、演出にせよ撮影にせよ編集にせよ、どんなジャンルであれ、映画は映画であるかぎりにおいてなんらかの作為や意図をはらみ、そのことから逃れることはできない。ひるがえせば、企画を立てて脚本を書き、キャストやスタッフを集めて現場を演出し、そうして撮影した映像素材を取捨選択し、それらを情報的にも情緒的にも効果的な順序で構築してゆく編集やポストプロダクションといった作為的な行為がなければ、映像は映画たりえない。

そして、本作に2度 登場する爆発こそ、その作為性(=映画たるもの)の象徴そのものだ。


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では、なぜ記録映画であったはずの母の映画『デッドエクスプローションマザー』に、優太は作為性を必要としたのだろうか。そして、なぜ優太は母の記録映画のラストに爆発を足したのだろうか。

それは優太が、母に対して無意識にトラウマ的な記憶と欲望を抱えているからだろう。そして、その原因はモノローグで語られるような母の死そのものというよりも、優太が母から受けていたらしいDV の記憶や、これによって「母を(爆)殺したい」という後ろめたい欲望が気づかぬうちに彼の内で芽生えていたからではないかと考えられる *7。母からの肉体的ないし精神的暴力による心的ストレスや、母を殺したいと願った罪の意識から、彼の無意識下にはトラウマとしての母が蓄積されていった。このトラウマを解消すべく、母のためというよりも、優太が自身のために「母」を物語ろうとしたように捉えられる。

トラウマとは本来、当人にとって語りえないものだ。というのも抑圧されたトラウマ記憶とは、その原因となる出来事が患者にとって言葉にもしたくないほどの強烈なものであるがために、その記憶が文脈や因果関係といった言語的なつながりを持ち得ない断片となってしまうからである。それがゆえに、その記憶が映像的に突然脳裏に甦ったり(フラッシュバック)、肉体への症状(ヒステリー)などとして非言語的なもの(=症候)として幾度となく現れるのだ。そこでフロイトなどの精神分析では、患者がトラウマ記憶などの症候を治癒するためには、無意識下に抑圧されたその原因について患者自身の言葉で物語化する必要があるとされる。そしてこの際、それがいわゆる現実的な真実であったかどうかは、ひとまず不問とされるという。あくまで患者当人にとっての真実に言語的な統一感、すなわち物語を与えることが、症候の治癒へとつながるのだ。

優太が知らぬ間に抱えたトラウマを彼自身が治癒するために、そのときの彼は「良いお母さん」としての母──前述したように、優太は映画のなかの母から、彼女の負の側面をいっさいカットしている──の死を悼みつつも最後には爆殺するという作為的な物語を必要としたのだろう。こういった物語にすれば、仮にクライマックスで母を爆殺したとしても、母は「良いお母さん」だったと描くことで、その死を願う彼の内なる欲望への免罪符となってくれるだろうからだ。これによって、彼のトラウマ解消は果たされたように思われた。



しかし、優太にとって『デッドエクスプローションマザー』という物語がトラウマの治癒には不十分だったことは、のちの展開をみてもあきらかだろう。つまるところ「良いお母さん」だけを残すことは、彼のトラウマ記憶をむしろ抑圧することになるからだ。そもそも『デッドエクスプローションマザー』に描かれた「良いお母さん」もまた、じつは母の演出(=支配)によるものだった可能性が示唆されているのも象徴的だ。抑圧された母は、その後も優太の心に回帰し続ける。だからこそ彼は絵梨の映画を作りつつ、それに『デッドエクスプローションマザー』を組み込み、母の負の側面をところどころでカットバックしていたのではないだろうか。

とはいえ、絵梨についての映画でも、優太のトラウマは癒えなかった。その証拠に、絵梨の映画の完成後、彼は何度も何度も作品を再編集したことが、大人になった優太のモノローグで語られている。ひとえにこれは、絵梨の映画が優太の物語ではないからだ。絵梨の映画は徹頭徹尾、絵梨の願望によって──彼女が望む手法で、彼女が撮られたい姿で、彼女が求める展開とエンディングで「みんなをブチ泣かして」という願いのために──作られている。

そしてこのことを先の絵梨の友人の証言と照らし合わせるなら、彼女は優太にとって母の似姿であったとすら考えられる。とすれば絵梨は、まるで優太が無意識下に抑圧した母が回帰するかのごとく──かつて母がそうであったように──彼を支配することで映画を完成させようとした、ということも可能だろう *8。このように絵梨の映画が優太の物語ではない以上、彼がどんなに再編集しようとも納得できないのは当然だ。



だからこそ、彼はもう1度、こんどは絵梨についての映画もひっくるめて、作品を自分の物語に引き戻す必要があった。そして3度目の正直として、こんどこそ優太は彼自身の物語として語ることに成功した。それが、いまわれわれが観ている、完成された『さよなら絵梨』なのだ。



ここで、ラストシーンにて優太が絵梨に投げかける問いを思い出そう。

「キミは…これから大丈夫なのか? 
 周りの人はみんな絵梨より先に死んでしまう… 
 親も恋人も友人もみんな先に死ぬんだ
 そんな人生に絶望しないのか?」

このとき優太が絵梨の人生として語る内容は、直前の彼のモノローグをみてもわかるように彼自身の人生のことなのだ。そして優太は彼のファンタジーとしての絵梨に仮託して、こう言わせている。

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う…
 でも大丈夫
 私にはこの映画があるから」

ここでの絵梨の言う「前の絵梨」「私」もまた、同時に優太自身のことを指し示している。続く大ゴマにおいて、手前の人物とスクリーン上の人物がそれぞれ「優太と絵梨」「絵梨と優太」と重なり合うように描かれていることが、これの証左だろう *9。このように、やっと優太は自身の言葉で、母のことも絵梨のことも、それらを撮った自分自身のことも、すべてをひっくるめた自らの物語を語る「この映画」にたどり着いたのだ。



この映画が優太の言葉、彼のファンタジー、彼の物語としてあるからこそ、ラストにて再び優太が絵梨と邂逅するシーンでふいに映画文法がそれまでのドキュメンタリー的なものから劇映画的なものへと変化したに違いない。ブレない映像、人物同士の切り返し(その際に異なるサイズで人物を映すことも含めて)、固定カメラによる遠景、ゆったりとしたパン……これらは劇映画の文法であり、本作がフィクション *10であったことの高らかな宣言にほかならない。

こうして優太が自分の物語を語り得て、トラウマの治癒を得たからこそ、彼は母に、そして絵梨に「さよなら」をしたうえで、かつて打ち損なった爆発というピリオドを清々しい笑みのもとで打つことができたのだろう。こうして優太はフィクションの力で自身を救うことに成功し、果たして彼の映画『さよなら絵梨』は完成した。そして本作に登場した人物は──優太も含めて──皆「現実」の存在ではない。物語が語られなければならないように、映画とは作られるものであり、本作を作った「本物」の優太は、われわれと同じくスクリーンのこちら側にいるのだ。


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ことほど左様に、本作は幾重にも仕組まれた入れ子構造を用いて、じつに映画的なるものを語っているように思えてならない。しかし本作が実際に映画として──実写であろうがアニメであろうが──作られたとしても、おそらくここまでうまくいかなないだろう。読者が作者と共有する漫画の物語世界という独特のリアリティに立脚しているからこその力強さがあるのだろうし、別メディアだからこそ映画的なるものを鋭く批評的に切り取って描き出すことに成功したのではないだろうか。だからこそ、本作はむしろ読者の映画的記憶をくすぐり起こすのではなかったか。

ところで、本作を読んで “泣いた” とか “涙を流す” ほど感動したという旨の感想をそこかしこで見かける。もちろん本作が見事な完成度を誇る1作だとは思うけれど、僕はそこまで激烈な感情の揺さぶりを受けなかった。もちろん作品のせいではない。それは端的に僕がこういった「ボーイ・ミーツ・ガール」に “実感” を持たないからであり、本作に限らず色々な映画を観ているときでも、僕が勝手に独り相撲気味にシラけてしまうことがままあるのだ。まことにショーモないこととは自認しつつ、こればっかりは雨上がりのアスファルトにできた水溜りのように浅い僕の人生経験の貧弱さを呪うほかない。

とはいえ、いつも映画のことばかり考えている僕に、あるいは映画以上にいろいろな物事を──映画のことを含めて──あれこれ思い起こさせてくれた本作には、「くそう、映画みたい……」だと唸るばかりなのでありました。



砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)より。
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【補 記】
本作が、映画を消費する観客を相対化してみせることも、また興味深い。具体的には作中に2度描かれる上映会での生徒たちのリアクションの差であり、ここで受容され消費されているのは、なにをいおう2種類の “人の死” である。まず優太の母の死、そして絵梨の死である。前者において観客は「不謹慎だ」「ラストが悪かった」と辟易し、反対に後者では絵梨の「みんなをブチ泣かして」という願いどおり観客は皆一様に感動の涙を流している。

映画──もちろん、ひいては物語メディア全般──は往々にして “人の死” を扱う。本作のような病死はもちろん、事故死、殉死、老衰あるいは自己犠牲による死……、とじつに様々なバリエーションを選りすぐり、人々の感情をなんらかのかたちに揺さぶろうとするだろう。事実、2度の上映会で観客たちは映画で描かれる「人の死」に感情を大きく揺さぶられているのは間違いあるまい。とすれば、その結果が大きく異なった原因は、なんだったのだろうか。



いまここで咄嗟に思い浮かぶ原因は、“実名/実在” 性の有無にあったのではないだろうか、ということだ。前者では、優太──という同じ学校の生徒──の母というまぎれもなく実際に存在する(だろうと簡単に想像できる)人物を扱ったことが観客の情感をブーイングへと誘い、いっぽうの後者では絵梨という限りなくフィクショナルな人物を扱ったことが観客の情感を涙に濡らしたのではなかったか。

前述のように、2本目の映画に映る──われわれ読者が観ていた──絵梨の姿は、どうやら実際の──眼鏡と歯の矯正具をつけた──ものとは異なること、そして友人が極端に少なかったことが、彼女の友人の口から語られている。これはつまり、大多数の生徒にとって、スクリーンに映写される絵梨の姿に実名/実在性は希薄であり、フィクションのキャラクターと大差ない存在だったということになる。そのじつ2本目の映画の内容は、いわゆるお涙頂戴の難病恋愛モノを愚直になぞっているともいえ、であれば生徒たちはそういったジャンル映画と同じ感覚で絵梨の死を消費していると捉えられるだろう。



人の死、という最大の喪失を観客がどのように消費してしまうか、それゆえにそれをどのように描くのかの是非を巡った論争は、たとえばホロコーストを扱ったものがつとに有名であろう。

とくに劇映画でこれを題材にした際、被害者たちは人々の死をスペクタクルに描くことを徹底して良しとしない。そうすることで「死」がフィクションとして消費されてしまい、映画が終われば観客はそれを忘れるからだ。たとえば『SHOAH ショア』(1985)の監督であるクロード・ランズマンは、この観点から『シンドラーのリスト』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1993)を手厳しく否定している。いっぽう近年『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督、2015)における虐殺を直に描きつつ決定的には映さない(映すことができない)という逆説的な演出が、ようやっとアウシュビッツを語る劇映画として当事者たちに評価されたのは記憶に新しい。

優太の1本目の作品にはこういった──実名/実在性を持ちつつ、ラストで彼=観客が直視しない/できない──生々しさがあったのではないか。しかし同時に、優太が母の死を爆発という「ファンタジー」として描いてしまったために、作中にあるような激烈にネガティヴな反応を観客が催したのでないか、とすら思えてくる。映すことのできないものを映せないまま、病院から逃げ出すショットで映画が終わっていたならば、生徒たちの反応もまた違ったのかもしれない。



いっぽうで2本目の作品で描かれる絵梨の死に涙する観客の反応とはなんだろうか。

「危険な任務でも、お前の知らない誰かならよかったのか」とは、『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(金子修介監督、2001)において、いままさに死地に出撃しようとする父が娘に放ったセリフであるが、要するにフィクションのキャラクターの死とは、われわれ観客の人生に影響のない「知らない誰か」であり、それゆえにわれわれはフィクションの死をかたちはどうあれ楽しんでいるのではないか。

あるいは『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督、2001)の劇中で、ダイアナ妃の死を「若くて美しい人だったのに可哀そう」と悼むキオスクの老女に「ならダイアナ妃が年老いて醜かったら可哀そうじゃないの?」とアメリが疑問を投げかけるように、われわれは単に自分とは関わりのない美少女であるがゆえに、絵梨の死を感動として消費しているのに過ぎないのではないか──そして、きっとそうなのだ──と思わずにはおれない。そしてまた彼女の死も「知らない誰か」の死として、その場限りの涙を流すだけ流して、やがて──いや、すぐにも──忘れ去ってしまうだろう。


     ※

*1:どうも爆発オチがクソ映画のクリシェと捉えられている向きがあるようだ。でもそれってむしろコントとかじゃないのかしら。

*2:これは、手塚治虫が初期のころからそこかしこで用いていた手法──たとえば『メトロポリス』(1949)冒頭で同サイズのコマに同じ背景を描き、最初はコメ粒ほどだった人物を遠近法的にどんどん拡大して奥から手前に走ってくるように演出する序盤のページや、ヒゲオヤジとフィフィが死に別れるシーンなど──に通じるだろう。

*3:映画作品ではないので余談ながら、全体のプロットは梶尾真治の短編小説「おもいでエマノン」(1979)を彷彿とさせる。

*4:前者では、その直前に教師が優太に向かって「おいっナニ撮ってんだ! スマホしまえ!」と叱責しているのだから尚のことだ。また、よく観ると教師の姿(=キャスティング)すら、この前後で変わっている可能性が示唆されている。

*5:また、父が絵梨に淡々の喋りながら最後には激高する(太字のフォントで叫ぶ)という流れが、教師の説教と同様なのもそれを裏づけるだろう。

*6:この鮮やかな転換は『第9地区』(ニール・プロムガンプ監督、2009)を思い起こさずにはいられない。

*7:「ラストなんで爆発させた?」と問う教師に対して優太が「最高だったでしょ?」と答えるのは、ふいにまろびでた彼の本音だったのだろう。

*8:絵梨の友人が証言するシーンのあと、1ショットだけ優太の母の姿が挿し挟まれているのは、こういった理由からではないか。

*9:ファイト・クラブ』がそうであったように、俺があいつであいつが俺で、というわけだ。

*10:絵梨の「死んだ3日後に蘇ったの」に対して優太が「映画みたいな話だね…」と返すとおり、このイエス・キリストの復活を思わせる展開は、ハリウッドのエンタテインメント映画において何度も繰り返されてきたクリシェのひとつである。みんな大好き『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督、1978)のルパンだって例に漏れない。腹を銃弾(=ロンギヌスの槍)で貫かれたルパンが昏睡状態の後、3日後に目を覚ますのは、そういう意味である。