2021 11月感想(短)まとめ

2021年11月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆人類の歴史を7,000年前から見守ってきた不死の宇宙種族たちが、地球滅亡の危機を前に再集結する『エターナルズ』(クロエ・ジャオ監督、2021)は、シリーズとしては新鮮な味わいを醸す諸々の要素が楽しい1作だった。

まずは、なんといっても撮影──ジャオ監督らしく、とくに自然を映すショット群──の美しさは、MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)史上でも格別。もちろんアクションシーンなど、VFXによる要素の追加等が施されている部分も多分にあるものの、ロケ現場の自然光を活かした撮影によるあくまでナチュラルな淡いを保った色彩設計が印象的だ(そのぶん、夜間のシーンはいささか見づらいという難点もあるのだけれど)。


本作のヒーロー「エターナルズ」の面々は、人類の歴史の曙(あけぼの)のころ、はるか彼方の宇宙に存在する上位存在「セレスティアルズ」から地球へと派遣され、人類の発展を見守りつつ、その発展を阻害しようとする「ディヴィアンツ」を討伐する存在として登場する。このような設定には、やはり『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)が思い起こされるし、エターナルズたちが、見る角度によっては巨大な黒い直方体(モノリス)のようでもある巨大な宇宙船に乗ってやってくることもまた、無関係ではあるまい。実際、原作者ジャック・カービーは『2001年~』のコミカライズを描いている。

また『2001年~』では一気にカットした、人類発展の歴史を時代を変え、場所を変え、主にその愚行に焦点を当ててカットバックする物語は『イントレランス』(D・W・グリフィス監督、1916)を思い起こさせる。この、人類史につかず離れず寄り添ってきたエターナルズの面々をみれば、人種、性別、年齢、能力、セクシュアリティ、そして性格と、様々な個性を持ったキャラクターで構成されており、彼/彼女たちもまた、ひとりひとりが異なる人間のメタファーでもあるのだろう。


そして、世界各地に存在する様々な神話や物語のタネ元がエターナルズの活躍だったり、やがて彼/彼女たちがより巨大な運命の歯車に巻き込まれてゆくという展開をみせる本作は、『暗黒神話』や『孔子暗黒伝』といった諸星大二郎の漫画作品を思わず髣髴とさせる伝奇的な味わいだ。MCU前作『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(デスティン・ダニエル・クレットン監督、2021)でもその傾向はみられたが、とくに本作ではこの風味が色濃い。したがってエターナルズのヒーロー性は、その巨大な運命にいかに立ち向かってゆくかの葛藤に寄っており、まさしく英雄譚的なものとして本作を捉えたほうが、よりグッと呑み込みやすくなるだろう。

こういった、MCUとしては新鮮なイメージの蓄積の果てに描かれるクライマックスの攻防の画はじつに美しく、迫力に満ちている。とくに──ネタバレになるのでなにがとは書かないけれど── “アレ” の巨大感演出が素晴らしい。下手に撮ったなら、相当陳腐になりかねないシチュエーション設定にもかかわらず、これはデカイと有無を言わさず納得させる見事なものだ。

役者陣の演技アンサンブルもじつに見応え抜群だが、本作の白眉はなんといってもギルガメッシュを演じたマ・ドンソク(本作ではドン・リー名義)だろう。あの豪腕を振りかざして鉄拳と張り手で敵を殴りつけるドンソク、アンジェリーナ・ジョリーをそっとエスコートするドンソク、エプロン姿で料理しつつ「ワハハ」と豪快にはにかむドンソク、仲間のいたずらで遊ばれるドンソク、そして役どころとしては1番おいしいところをかっさらてゆくドンソクと、こちらの期待を裏切らないマブリーな魅力が満載だ。


はてさて、これからのMCUはいったいどういった展開を経るのだろうか。本作で時系列がかなり過去まで遡った──地球上でだけでも7,000年前──ために、奇しくも劇中の台詞にある「どうしてこれまでの闘いにエターナルズが参加しなかったのか」という問いへの返答は一瞬納得しかけながらも「やはりサノスの目的が目的だっただけに沈黙を保ったのは矛盾してないかしらん」と思わなくもないし、あるいはここ数作で仄めかされてきた世界観を、本作で具体的に構築しはじめたのかしらんという期待感もある。

本作の置いた布石が今後どのように展開されるのか、目が離せない。


     ○


◆夫が不可解な方法で殺害されたのをきっかけに、いまだ逮捕されない謎の殺人者の悪夢に悩まされるマディソンにその魔の手が迫る『マリグナント 狂暴な悪夢』ジェームズ・ワン監督、2021)は、ワン監督のありったけが詰まった、すこぶる楽しい超弩級のごった煮ホラー映画だった。


ワン監督は、本作についてインタビューで「自分流のジャッロ映画を作りたかった」と語っている *1。ジャッロ映画とは『サスペリア』(1977)などに代表される、主にイタリアのダリオ・アルジェントやマリオ・バーヴァといった監督たちが ’70年代あたりから撮っていた、謎の殺人鬼が猟奇的な方法で人々(主に美女)を殺害する様を極彩色な色合いで映したようなジャンルを指す。彼は少年時代、こういった作品群をVHSで好んで観ていたという。

しかし本作には、それらを超えて、多種多様なホラー映画のテイストが凝縮されている。ご存知のように映画とホラーの関わりは深く、そして長い。映画産業黎明期にはすでに短篇『フランシュタイン』(1910)が制作され、サイレント時代にはサイコホラーの原典ともいわれる『カリガリ博士』(1919)が公開され、世界を恐怖に陥れた。つまるところ、本作はまるで映画史にあまねく様々に存在するホラー映画作品群のエッセンスをすべてぶち込んだような作品なのである。

吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)や『魔人ドラキュラ』(1931)といった古典的な古城怪奇もの、『回転』(1962)や『たたり』(1963)に代表される心霊もの、『狼男』(1941)や『大アマゾンの半魚人』(1954)から『エイリアン』(1979)、『プレデター』(1987)などに連なるモンスターもの、『エクソシスト』(1973)や『悪魔の棲む家』(1974)に端を発するオカルトもの、『13日の金曜日』(1980)に『エルム街の悪夢』(1984)といったスプラッター/スラッシャーもの、『ターミネーター』(1984)といったある種のダークヒーローもの、数多制作されたスティーヴン・キング原作もの、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987)といった中華武侠系ホラー、それこそワン監督による『ソウ』(2004)を連想させる監禁もの、日本から逆輸入された『リング』(1998)や『呪怨』(1999)などのJホラーもの、そして『グレイヴ・エンカウンターズ』(2011)に『コンジアム』(2018)など近頃流行りの廃墟探索ものまで、ありとあらゆるホラー演出要素が入っている。

その撮影手法もバラエティに富んでいる。画面のレイアウトをほんのすこし傾けることで不安を煽ったり、部屋の奥や窓の外の暗がりにぼんやりと影が佇ませることで “なにか” の存在を匂わせたりといった古典的手法から、特殊メイクや特殊造型といった技術をふんだんに取り入れた見せ場、CGによる超現実的な景色を画面に焼きつけるVFX、そしてもちろん立体音響によって形成されたサウンド・エフェクトも効果的に観客の恐怖心をつつくだろう。これに加えて、かなり贅沢に作られたと思しき各舞台セットの出来栄えの見事さやデ・パルマ流の凝りまくったカメラワーク、おそらくワン監督が『アクアマン』(2018)を撮影したときに味をしめたであろう、殺陣とカメラワークの超絶技巧的融合によるワンカット風アクションまで盛り込んでいる。変態的なまでの詰め込みだ。


このように本作はほぼ闇鍋状態であり、これだけ要素をメガ盛りし大丈夫なのかという疑念が生じるかもわからないが、果たして本作はすこぶる面白い。それは物語についても同様だ。そして本作の展開の面白さとは──ここまで一切の劇中のディテールの記述を避けて、外郭の説明ばかりしていることからもわかるように──なにを言ってもネタバレになりかねないタイプの作劇と展開を用いた作品であるからだ。

すこしずつ布石を置いてゆく序盤から、ホラー展開と謎解きとが観客のミスリードを巧みに呼びながら重なる中盤、そして文字どおり急転直下のツイストを経て怒涛の伏線回収とクライマックスへと雪崩れ込むという、ハイテンションを維持しつつも観客をしっかりと引っ張る脚本の整理力は見事なものである。だから、本作についての情報を可能なかぎりインプットしない状態で観ていただけたなら、きっと楽しんでいただけると思う。なにせ、ここまでトンがった映画はなかなかない。

もちろん、ここまで書いてきたように様々なホラー映画作品のエッセンスや演出/撮影の技法を一挙に詰め込んだ本作は、いっぽうで一貫性のない散漫な印象を受ける観客もおられることだろう。ハッキリ言って、思い返せば「ならアレって矛盾じゃないかしらん」といった部分もある。しかし、強引にそれを押してでも、本作『マリグナント』にてワン監督がホラー映画を総括しようとした試みは、まさしく昨今の彼のフィルモグラフィーとも通じるだろう。

それは本作の試みが、『死霊館』(2013)からワン監督が創始した「死霊館ユニバース」シリーズの試みとその方向性を同じくするからだ。“悪魔祓い” を基本のクライマックスに、作品ごとに異なるテイストの舞台や設定、ホラー演出をフィルムに焼きつける「死霊館ユニバース」は、永年積み上げられてきたホラー映画の刷新を企てる作品群だ。したがって本作は「死霊館ユニバース」を続けるなかで誕生した、ワン監督によるホラー映画史の──まるで教科書のような──総決算とも捉えられはしまいか。そのように考えるなら、後進のアニメーターを育成するために、それまで自身が東映アニメで培ってきた手法を総ざらいで詰め込んだ宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』(1978)的な作品と本作を言い表すこともできるだろう。


ことほど左様に、本作はじつに濃密で豪華で味わい深く、それゆえに新鮮な面白さに満ちた作品であった。もちろん日本公開においてR18+指定を喰らった作品だけに、グロテスクな描写もそこかしこにあるので、苦手な方はご注意くださいね。


     ※


【ソフト】
◆植民地辺境の町を平和的に治める民政官のもとに、「蛮族が攻め込んでくる」ことを恐れる大佐が中央から派遣される、J・M・クッツェーの小説『夷狄を待ちながら』(1980)を映画化した『ウェイティング・バーバリアンズ 帝国の黄昏』(シーロ・ゲーラ監督、2019)は、面白半分に「狼が来るぞ」と村人にまくし立てた結果、誰からも信じられなくなる「狼少年」というイソップ物語があるが、もしもこの少年が権力を持った体制側の勢力だったとしたらどうなるかを本作は描き出す。ただ声のデカイ奴がもてはやされる今日日(きょうび)の我々の社会とも通じる作中の寓話的描写に、とても身につまされ、考えさせられる作品だった。


     ○


◆ピンチクリフ村にある山のてっぺんで暮らす自転車修理工で発明家の老人が、ひょんなことからスーパーカーを開発してレースに挑むことになるノルウェー産のストップモーション長編アニメーションピンチクリフ・グランプリ(イヴォ・カプリノ監督、1975)は、どこか牧歌的な雰囲気のある作劇や美術と、クライマックスにて展開される大迫力のレーシング・シーンが見事な1作。

もとはノルウェーの新聞に掲載されている漫画が原作ということで、その飄々としたペンタッチを見事に立体化した人形造型とアニメーションが活き活きとして可愛らしく、また歯車やギアをとおして駆動するメカニックのレトロでアナログな描写とデザインも見ていてじつに楽しい。そして第3幕にて展開されるレーシング・シーンたるや凄まじく、ストップモーション撮影だけでなく、小型模型のラジコン操作での通常撮影、スクリーンプロセスなど様々な技術を駆使して表現される臨場感は思わず身を乗り出すほどだ。

なかでもとくに、高低差あり、曲がりくねったS字カーブありと変化の激しいコースを爆走する車体の後ろからカメラが追いかけるショットのスピード感の大・大・大迫力。それにくわえ、車の設定ごとに異なった軌道を描く走りっぷりなどのディテールも細やかで目が離せない。これは単に憶測だけれど、きっとジョージ・ルーカスも本作を観たに違いない。というのも『THX-1138』(1971)で後年CGで追加されたカー・チェイス・シーンの画、また『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(1999)でのポッド・レースのくだりは、画作りだけでなく展開まで本作にそっくりだからだ *2

ともあれ、現在もなおノルウェー興行史上歴代1位を保持しているというのも納得の作品だ。とっても面白かった *3 *4


     ※

*1:web『BLOODYDISGUSTHING』内「“My Version of Giallo”: James Wan Lets Us Know What to Expect from His New Horror Movie ‘Malignant’ [Interview]」(https://bloody-disgusting.com/interviews/3680994/james-wans-malignant-take-giallo-made-horror-fan-interview-post-9-1-11am-ct/)を参照。2021年11月18日閲覧。

*2:実際、そういった指摘をした英字サイトや比較動画もある。

*3:また、DVDに収録された日本初公開当時の吹替え版も──音質的には若干難はあるけれど──いまとなっては伝説級の声優陣総動員の素晴らしいものだった。

*4:10年ほど前に本国では次回作が制作されたようなのだけど、誰か輸入してソフト発売してくれませんか?

2021 10月感想(短)まとめ

2021年10月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/10/13/175559


     ○


◆遠い未来、宇宙で最高の価値を持った香料〈メランジ〉の原産地である惑星アラキスの覇権を巡る領家間の戦争に巻き込まれたアトレイデス家の後継者ポールの姿を描くフランク・ハーバートの古典的SF小説の傑作を実写化した『DUNE/デューン 砂の惑星ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021)は、予想の斜め上を行く、腰を抜かすほどに素晴らしい映像が体験できる傑作だった。


本作は、「U」の文字を90度ずつ回転させるだけで「DUNE」と読ませてしまうタイトル・ロゴの秀逸なデザインが端的に示すとおり、とにかく画、ヴィジュアルが素晴らしい。

デューン砂の惑星)こと惑星アラキスの広大ながらも微細に波打つ砂漠──その砂粒ひとつひとつにいたるまで──を捉えた画をはじめ、それぞれの領主が統治する惑星それぞれの表情を映し切った撮影──被写界深度を深く取ることで、より広々とした空気感を醸す画作りが印象的──が美しいのは当たり前のこと、登場する衣装から武器、戦闘機や香料収穫機といったメカニック、そして長大な建築物とその内装といったプロダクション・デザインの面白さもまた格別。映画前半に登場する領家あるいは皇帝が所有する抽象的でなめらかな質感の巨大宇宙船と、惑星アラキスの砂漠を飛翔するトンボを思わせるメカニックのディテールが楽しい戦闘機との対比など、その持ち主や使用目的によって様々に意匠の持ち味が違うのが世界観を拡げてくれるだろう。

もちろん本作の原作小説が『スター・ウォーズ』や『風の谷のナウシカ』に大きな影響を与えた作品であったり、すでに──こちらもとくにヴィジュアル面は素晴らしい──デイヴィッド・リンチ監督版(1984)もあるので、既視感がないわけではないけれど、本作でも隅から隅まで作り込まれたデザインによって、このSF世界に決定的な存在感を与えている。

その世界を生きる登場人物たちのキャスティングも見事にはまっている。なんといっても主人公ポールを演じたティモシー・シャラメはやはり印象的だ。ギリシア彫像もかくやの彫の深くノーブルで甘い顔立ちにスラリとした長身の体躯は世界観にピッタリと似合っていたし、本作において常にどこか掴みどころのないアルカイックな微笑みを浮かべるシャラメの表情は、あれよあれよと領主同士の覇権戦争に巻き込まれたポールの心境と、出来る限り説明的な描写を省いた本作の語り口に呑まれる観客の心情との架け橋になってくれるはずだ。


そして、これらを──剣戟や戦闘シーンといった比較的スピーディなものも含めて──きちんとスケール感を伴って切り取ったカメラ・ワークとVFXとの融合によって、なんなら1ショットごとすべてがキメ画と言っても過言ではないほどに、本作の映像は見事。本作の155分という長尺もまた、それぞれのショットを味わうために必要な時間であって、もちろんこれを鈍重だと感じられる観客もあるだろうが、しかしこんなにも美しく壮大なショットがポンポンと飛ばされては勿体ないことこのうえないというものだ。この画に被さるサウンド・デザイン、そしてハンス・ジマーによる劇判も、世界を重層的に盛り上げる。

ただ惜しむらくは、──これは冒頭開幕のタイトルですぐに明かされることなのでネタバレでもなんでもないの思うのだけれど──本作が「PART 1」という序章である点だ。したがって無理やりにでも物語全篇を押し込んだリンチ版とは違って、本作のみではポールの物語は終結せず、申し訳程度に原作後半部の展開や戦闘シーンがポールの予知夢として挿入されている。なんとなれば、尺が5時間でも6時間でもいいので全篇語り終えるまでこの映像世界のなかに浸っていたかった! ……というのが正直なところだ。

また、砂漠を舞台とした超大作として本作が意識していないはずがないであろう──というよりも、ハーバート自身がこれのSF版を志した──『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督、1962)*1にあった恐ろしいほどロング──尺も構図も──の1ショット1発ですべての状況を伝えきるような決定的な印象を残すショットが1ヵ所でもあれば、なおよかったのになぁ、というのは高望みが過ぎるだろうか。


とにもかくにも、僕の鑑賞した地方のシネコンのスクリーンにおいておや、映画に吸い込まれるような強烈で美しい映像を臨場感抜群に体感できたことはたしかであり、皆様方それぞれ鑑賞環境事情はあれ、できるだけベターな場所で観ていただきたい。また、平田勝茂翻訳による日本語吹替え版も良い出来だったので、映像に集中するなら、こちらのヴァージョンを選ぶのもありだろう。ヴィルヌーヴ監督、完結篇ゼッタイ作ってくださいね!


     ※


【ソフト】
◆1979年の朴正煕暗殺事件の内幕 *2を描くKCIA 南山の部長たち』(ウ・ミンホ監督、2020)は、史実モノとしての面白さとイ・ビョンホン演じる中央情報部キム部長が陥る究極の中間管理職的困り顔の機微もさることながら、終盤での画面に映る様々なアクションをいかに動かすかの演出が素晴らしすぎる。


     ※

*1:また実際に、最初の映画化企画は『アラビアのロレンス』組で製作する形で立ち上がったという。

*2:ただし、本作では登場人物の名前を架空のものに置き換えるなどしたフィクションとして作劇されている。

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』感想(ネタバレ)

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督、2021)……007シリーズ第25作目。最強の敵サフィンラミ・マレック、新たな英国諜報部員ノーミにラシャーナ・リンチ、新人CIA諜報部員パロマにアナ・デ・アルマスが登板し、レア・セドゥ、レイフ・ファインズベン・ウィショーナオミ・ハリスといったお馴染みのキャストも続投した、ダニエル・クレイグが6代目ジェームズ・ボンドを演じる最後の007作品であり、「クレイグ=ボンド」シリーズ完結編。

ジャマイカで人知れず引退生活を送っていた元英国諜報部員007ことジェームズ・ボンドは、旧知の仲であるCIAのフェリックス・ライターから助っ人を依頼される。英国にて極秘裏に開発され、先ごろ何者かに強奪された、世界を終末へと向かわせることも可能な最新ウィルス兵器 “ヘラクレス” と開発者オブルチェフ博士を回収したいというのだ。

1度は断わるボンドだったが、彼の前に英国諜報部員でかつ “00(ダブル・オー)” の称号を持つ女性ノーミが現われたこと、この事件にかつて壊滅させたはずのスペクター、そしてとある事件がきっかけで別れることとなったマドレーヌが関わっていると知り、世界を揺るがす事件解明へ向けて動き出す。しかし、ボンドですら知らない巨大で凶悪な存在が、この事件の水面下でうごめいているのだった……。


     ○


【本記事は一部ネタバレを含みます。とくに後半にて警告後、核心部のネタバレに触れる箇所がありますのでご注意ください】


     ○


ダニエル・クレイグがはじめてジェームズ・ボンドとして登場した『カジノ・ロワイヤル』(マーティン・キャンベル監督、2006)から幾星霜、1年半にもなった度重なる公開延期の果て、ようやっとクレイグ=ボンド第5作にして最終作の本作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』が公開された。

サム・メンデスがメガホンを取った前々作『スカイフォール』(2012)と前作『スペクター』(2015)において、007映画とは思えぬほどの神話的語り口による大団円を迎えてしまったあと、果たして如何にシリーズへの落とし前をつけるのか、期待と不安が入り混じったなかでの鑑賞だった。

しかし本作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、前4作をかけてすこしずつ積み上げられた “新しい007映画” らしさを十全に継承発展させつつ、ドラマとしてもきちんとピリオドを打ってみせた堂々たる傑作に仕上がっていた。


     ○


本作もやはり撮影が非常に美しい。前作『スペクター』を担当したホイテ・ヴァン・ホイテマからバトンを受け取ったのは、『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督、2016)でアカデミー撮影賞を受賞した実績もあるリヌス・サンドグレン。本作でも『ラ・ラ・ランド』でとくに評価された夕暮れ時──マジック・アワー──の美しいあわいの色合いを活かした映像を存分に楽しむことができる *1

また、霧や霞に濡れた雑木林、もしくは建造物内部の壁、雪に埋もれたノルウェーの寒々しい景色、明るい陽光に照らされたマテーラ(伊)の石造りの町並みやネオン煌くキューバの夜など、前々作での陰影をグッと強調したロジャー・A・ディーキンスや、前作での徹底的にモノ・トーンに調整されたホイテマの撮影に比べて、本作のサンドグレンの撮影は風景それ自体が持つナチュラルな魅力を余すことなく捉えているのが特徴的だ。


     ○


そんな背景の中で繰り広げられるアクションもまた面白い。予告編でも多くフィーチャーされたアバンのアクション・シーンを観てもわかるとおり、本作ではアクションの荒唐無稽さが、クレイグ=ボンドのシリーズとしては群を抜いて強調されている。

綱1本を頼りに勢いよく水道橋から飛び降りるボンド、急な傾斜を一気にバイクで駆け上って町の1区画上までジャンプするボンド、そして昔懐かしの装備を満載したアストンマーティン・DB5で敵を一掃するボンドなど、ともすればギャグ──ユーモア路線に振り切った3代目ロジャー・ムーア時代の作品すら思い起こさせる *2──になりかねないこれらのアクションを、それでもなお一定ラインのリアリティを損なわず、かつ手に汗握るスリリングな、そして007映画らしいシーンとして構築している演出手腕は見事なものだ。

このように本作では、前作『スペクター』において、ようやくクレイグ=ボンドが結実したからこその、いかにも007映画的アクション・シーンもまた存分に楽しむことができるだろう。


     ○


また、直接的なストーリー上の関連はないとはいえ、かつての007シリーズへの目配せをそこかしこに差し挟んでくるのも、ファンの心をくすぐるだろう。

たとえば、ボンドの結婚という物語を語る以上避けては通れない『女王陛下の007』(ピーター・ハント監督、1969)のメインテーマ(ジョン・バリー作曲)が、本作の中盤、ボンドとMがテムズ川のほとりで語らうシーンで変奏されるし、やはり同作のラストで流れたルイ・アームストロング歌唱「愛はすべてを越えて(We have all the time in the world)」が挿入歌として登場する。

そして、やはり本作でラミ・マレックが演じる敵役サフィンは、初期007映画を髣髴とさせるキャラクターだ。北方領土近海を思わせる海域の孤島をまるごと巨大な秘密基地としている荒唐無稽さやアジア系を髣髴とさせる出で立ち、能面を被った姿など、予告編で公開されたときから多く指摘があったとおり、彼は明らかに第1作『007/ドクター・ノオ』(テレンス・ヤング監督、1962)に登場するノオを意識して造型されたキャラクターだ。

そうであればこそ、アバン・シークェンスが終了してビリー・アイリッシュの歌う主題歌とともにオープニング・クレジットへと移行する際のグラフィック・デザインが、色とりどりの丸いドットをあしらった『ドクター・ノオ』のオープニングをストレートにオマージュしたものだったに違いない。


     ○


いっぽうで刷新されたといえば、やはりふたりの女性諜報員、英国諜報部員ノーミ *3とCIA諜報部員パロマといった女性たちの活躍だろう。これまでのシリーズでは、たとえボンドと共闘するようなボンドウーマン *4であっても、大なり小なりボンドの庇護下にあった存在であり、また彼のセックス・アピールに対しては基本的にすべて受身の存在であった。

しかし、本作に登場した女性たちは皆それぞれキッチリ独立した存在であり、ボンドの手助けを借りずとも自身の実力だけで困難に立ち向かい、これに勝利する姿はとても素晴らしい。また本作において、ボンドは女性キャラクターに対するセックス・アピールが──これまでのようには──通用しない、というか意にも介されない人物として造型されている点にも注目したい *5。ボンドがちょっとでも目配せをしようものなら「あっ、そんなこと露とも考えていなかった」と、あくまでプロとして仕事を完遂する彼女たちの姿はとても清々しい。


     ○


このように、クレイグ=ボンドが結実した007映画らしさ、といいつつも、それが単に懐古主義ではなく温故知新をモットーとした発展・継承としての新たなボンド像ないしは007映画の確立を、本作でも模索している。これは『スカイフォール』と『スペクター』の前2作においてサム・メンデスが重要視したことだった。そのためにこそ、前2作における非常に神話的──そして、作品自体が007論的──な語り口が採用され、物語においても禁じ手ともいえる展開を迎えたのである。

そして、その神話的アプローチは本作でも継承された。『スカイフォール』ではボンドの母性を巡る神話の果てに先代のM(ジュディ・デンチ)が死に、『スペクター』では彼の父性を巡る神話の果てにマドレーヌと結ばれた。では本作はどうだったか。


     ○


【以下、核心部のネタバレにつきご注意!】


     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・
     ・


     ○


あえてひと言で言い表すなら、本作は預言者と救世主を巡る神話であり、そしてだからこそ、ボンドは死ぬのである。

そう、本作が採用した最大の禁じ手──それは、007=ジェームズ・ボンドの死、そしてボンドの子の存在である。これらは、半世紀以上続いた007映画史上はじめてのことである。前作に引き続き、本作が迎える結末にもまた心底驚かされた。


     ○


さて、本作のクライマックスを簡単に構造分析するなら、次のようになるだろう。

サフィンの策略によって “ヘラクレス *6” の保菌者となってしまったがために、もはやマドレーヌと娘マチルドに触れられなくなったボンドは、人間の原罪をすべて身に引き受けたイエス・キリストの象徴であることは明かだ。ボンドがサフィンの放った銃弾によって足や脇腹を負傷することは磔刑である。そしてボンドが最後の力を振り絞って梯子を登って秘密基地の屋上に出ることは、彼がヤコブの梯子を昇って死を迎えることを先取りする演出だ。

そんなボンドと無線をつうじて愛を確かめ合い、彼の最後を遠くから見つめるのがマドレーヌであった。マドレーヌは前作において、ボンドが半世紀以上にわたって象徴してきた性的/社会的男性性を捨てさせる存在としての象徴だった。だからこそ彼女の名前の頭文字は “M” であり、ボンドはウェストミンスター橋の両岸に立って彼を待つM(マロリー)とマドレーヌから、後者を選んだのだ。

そして本作でマドレーヌには、新たな象徴が追加されている。それは、やはり同じ頭文字 “M” を名前に持つマグダラのマリアである。マグダラのマリアこそ一説にはイエスの妻とも言われ、その死を間近に見た人物のひとりであり、その復活を預言したともされる。本作のラスト・ショットで彼女が娘マチルドに「かつてジェームズ・ボンドという人がいたの」と語り聞かせることも、マグダラのマリアを思わせるものだ。


このように本作のクライマックスは聖書的なモティーフによって形成されている。もちろん、多くのアメリカ映画──とくにアクション映画──でよく使用される構図だが、こと007映画のなかでここまで愚直に聖書をなぞったのも初めてだろう *7。これには、どういった意図があったのだろうか。


     ○


まずは、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドというキャラクターを、きちんと血のかよった人間に、なんとなれば彼が父になることを描くに当たっての神話的説得力を持たせようとしたのだろう。ボンドが単に超絶に越権的な “かつて” のスパイではない一介の人間なのなら──サフィンがいみじくも語るように──「暴力にまみれた人生」のなかで犯した数々の罪は償わなければならず、永遠に生きる──役者の交代による直接的なシリーズの延命も含む──ことが叶わないなら彼には必ず死が訪れるはずだ。

さらに本作のクライマックスでは、もはやボンドはいままでの誰にも信頼が置けないがゆえに孤独であり、失うものがないゆえに最強だった男ではない。『カジノ・ロワイヤル』で愛し合い、そして失ったヴェスパーへの決別、マドレーヌ、そして自身の娘マチルドとの出会いを経て、ボンドは真に愛するもの/失うものを得たのだ。ここで本作は、ボンドに「ならばどう生きるのか?」という問いを投げかける。

ここでラストに附された、Mにマネーペニー、Q、タナー、そしてノーミだけで静かに取り交わされたボンドへの追悼を思い出そう。Mはボンドへ、『野性の呼び声』などで知られる作家ジャック・ロンドンの言葉──人間の本質は存在することではなく、生きることである。だから私は、人生をただ延ばそうと日々を無駄することなく、限られた時間を使おう *8──を贈る。このMの献辞のとおり、ボンドは一個の人間、そして父としてすべきこと、愛する者のために生命を賭すこと──それが自身の死によってでも──を選び取ったのだ。

ここにきて、本作のタイトル『ノー・タイム・トゥ・ダイ』が、重層的に聞こえてはこないだろうか。いかにも007映画らしい「死んでいる時間(暇)はない(No Time to Die)」という字義どおりの意味から、「死すべきときを知る(Know Time to Die)」へと、その意味合いを変化させていたのではなかったか。言葉遊びを多用したユーモアもまた特徴である007映画のこと、おそらく本作のタイトルもまた、このような仕掛けが施されていてもおかしくはあるまい *9


     ○


また、とくに『スカイフォール』以降のシリーズが模索していた007映画の発展・継承を語るメタ・フィクショナルな仕掛けでもあるだろう。

劇中でノーミが「“007” は永久欠番だとでも思った?」と問われたボンドが「そんなものただの数字だよ」と応えるように、いうまでもなくジェームズ・ボンドとは架空の映画のキャラクターである。たとえダニエル・クレイグが本作を最後に降板しても、次の役者がボンドを演じるだろうし、これまでもそうだった。しかし、だからといって永遠に007映画が作り続けられるのだろうか。否、映画が商業である以上、いつなんどき007映画の新作が作られなくなる(=死ぬ)やもしれない。

サム・メンデスの『スカイフォール』は、いまの時代でも007映画を作る意義があることの宣言であり、だからこそ内容の発展が必要なのだという宣誓であった。次の『スペクター』は、それにメンデスが自ら応えた “現代の007” 作品だ。

この2作を引き継いだ本作がラストで示すのは、007映画を語り継いでゆくことが次世代へボンドを繋ぐ鍵だという宣言であり、同時にこれまでこれまで007映画を語り継いできたファンへの熱い感謝を伝えるメッセージでもあったろう。ラストでマドレーヌがマチルドにボンドの人生を語って聞かせる姿は、これまでの永きに渡って過去作を、そして──いま僕がこうしてタイプしているように──本作を語る観客の姿にほかならない。

そして、シリーズがファンの声援あっての賜物である以上、後世へと007映画を繋げるためには “語り継がれるに値する” 作品を作り上げよう、というキャリー・ジョージ・フクナガをはじめとした作り手たちの宣誓でもあったことだろう。聖書がいまもって世界中に伝えられるように、007映画を未来へ繋げるためには、その絶えまぬ内容の発展・継承の闘いと努力が必要であると──。


     ○


そして、ラストの展開は俳優ダニエル・クレイグに対する餞(はなむけ)の意味合いもあったろう。ご存知のように初登板した『カジノ・ロワイヤル』では、そのキャスティングが発表された途端に大ブーイングの嵐だった。金髪で碧眼、無骨な表情と、これまで培われたボンドのイメージにまったくそぐわなかったからだ。

だが、いみじくも『カジノ・ロワイヤル』がジェームズ・ボンドが007になる物語だったように、クレイグは見事にボンドを演じ切り、作品を重ねるごとに、まさにクレイグ=ボンドでしかありえない007像を作り手たちと共に開拓していった。そのクレイグ=ボンドの有終の美として、これが誰か別の役者が継承/コピー可能な余地を作品内に残すのではなく、きっちりと引導を渡すことは──もちろん、すこしばかりもの寂しいけれど──ダニエル・クレイグへの敬意の表れではなかったか。


     ○


ことほど左様に、本作もまた、様々な側面からいろいろに楽しめる作品だ。

とはいえアバン・シークェンスは長すぎではないかと思ったし、相変わらずMI6のセキュリティ意識は低すぎるし、ノーミに “007” の称号を自ら返還させる展開はひっかかったし、そもそも本作における諸悪の根源はMではないかという疑念は拭い切れない *10。全体としての完成度も、文字どおり50年に1本の傑作だった『スカイフォール』に軍配が上がるだろう。もちろん、本来であれば第25作目を監督する予定だったダニー・ボイルの降板劇があったために製作時間が本来の3分の1程度しかなかったことも影響があるのだろう。

しかしながら、新しい007像を模索し続け、そして結実させたダニエル=ボンドのシリーズの完結編として、ぜひとも見届けたい1作であることには間違いない。


     ※


【おまけ: 備忘録】
『007 スカイフォールサム・メンデス監督、2012)について……『007 スカイフォール』感想 - つらつら津々浦々(blog)

『007 スペクター』サム・メンデス監督、2015)について……『007 スペクター』感想 - つらつら津々浦々(blog)



     ※

*1:たとえば、開幕1ショット目の「白色」の撮り分けを思い出そう。

*2:アクション・シーンではないけれど、ボンドとブロフェルドの対面シーンにおける、喧嘩した後の兄弟の会話を思わせる演出は、絶妙な可笑しみに溢れていて素晴らしかった。

*3:“007” の称号を受け継いだノーミの存在は、以前7代目ボンドは女性か、あるいは非白人か、といった噂を、作品中で回収したものだろう。

*4:本作から作り手たちが「ボンドガール」を「ボンドウーマン」と呼び表している。

*5:パロマのほうは、ボンドよりも酒に強そうなのが素敵。

*6:この名前は、英雄ヘラクレスが、ある策略によって毒ヒュードラを盛られたことから名づけたのだろう。そして、ヘラクレスがその毒のあまりの激痛に耐えかね、生きながらにして自ら焼死を選んだのは、本作におけるボンドの死に様にも通ずる。

*7:もちろんジェームズ・ボンドは基本的に成長・葛藤の物語とは無縁なので、これは当然のことだ。

*8: "The proper function of man is to live, not to exist. I shall not waste my days in trying to prolong them. I shall use my time."

*9:ボンドとマドレーヌの娘マチルドの名前も、「Ma (My) Child(自分の子ども)」というふうに聞こえなくもない。

*10:前作に登場した「C」がケアレスなら、本作のMのふるまいは、さながらマッチポンプだ。

2021 9月感想(短)まとめ

2021年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆近未来、専用機器で記憶を再体験させる稼業を営むニックが、運命的に出会い、そして愛し合ったニナの失踪の謎を探る『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)は、フィルム・ノワールの耽美さを堪能できる1作だった。

本作でまず目を惹くのが、その都市描写である。本作の主な舞台は、地球温暖化が原因で地上が半水没した近未来のマイアミだ。かつてのビル群が水面からそびえて離れ小島のような区域を形成し、そこに干拓や橋を増設することで都市としての機能を保っている。主な移動手段は自動車に代わって船となっていて、アメリカ的な街並みはそのままに、まるでベネチアや『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』(押井守監督、1995)に登場する香港を思わせるインフラ描写という組み合わせが新鮮だ。

また、この半水没した都市の水位によって、その世界の格差を描いてみせるのも上手い。ごく僅かな富裕層は海水をマシンによって掻き出して造成した土地〈ドライランド〉に豪邸を立てるいっぽう、貧困層は堤防で囲うことでなんとか完全な水没を免れているその他の区画に暮らすほかなく、そこにも段階的に水位の差がある……という描写は、『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、2019)の後半に登場する「水」を思わせる興味深い演出であり、SF的な画の面白さもあって見応え抜群だ。


さて、本作の予告編のいかにも派手な見せ方や惹句、あるいはジョイ監督の夫でありプロデューサーとして名を連ねているジョナサン・ノーランや “他人の記憶を機械的に辿る” というプロットから『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督、2010)のような作品なのかという先入観があったけれど、実際に観てみると、本作が真に目指したのは古典的なフィルム・ノワール的な世界観と物語であった。

フィルム・ノワールといえば、1940年代から1950年代にかけてにハリウッドで多く作られた犯罪映画の作品群を指すジャンルだ。うらぶれた主人公の探偵が、ふいに出会った蠱惑的で謎に満ちた女──いわゆるファム・ファタール(運命の女)──の謎に翻弄され、警察や裏社会とのパイプ、あるいは彼よりも優秀な古女房的な相棒の力を借りつつ真実に迫ろうとし、やがて苦々しい末路を辿るというのが、このジャンルでよく採用される大まかな物語である。

この物語構成は本作にそのまま当てはまるし、ことあるごとに主人公のナレーションによって彼が混迷の極みにあることを示す演出も同様である。本作のタイトルやエンド・クレジット、街を飾るネオンサインなどに使用されているフォントが、フィルム・ノワール時代を思わせるもので統一されているのも、それを裏づける。冒頭、半水没したマイアミの風景を滑空するかのように映す長い1ショットの果てに、ニックが水溜りに沈んだクイーンのトランプを拾い上げて路上生活者と交わす粋なやりとり *1をはじめ、バーで儚げに歌うニナの耽美な姿、決してスタイリッシュとはいえない無骨な戦闘シーン、退廃的な人々の暮らしぶり、そして遊園地の観覧車など、全篇をとおして本作はまさしくノワールのタッチを堪能できるだろう *2


いっぽうで本作の特徴として、前述の都市デザインとともに、むしろ陽光きらめく明るいシーンが多いことが挙げられる。ノワール(黒)という言葉が示すとおり、フィルム・ノワールは画面を暗く染める闇や影が特徴的なジャンルだが、本作がその逆転の映像を見せていることも意外性があって面白い。本作において、画面や登場人物が判別できないほど闇に埋もれるということはほとんどないし、逆光線によるシルエットを用いるような演出も禁欲的といえるほどに見当たらない *3

このように本作では闇ではなく、さんさんと照らす太陽や、水面に反射する光のまぶしさがニックの目を眩ませ、謎の真実を覆うヴェールとなる。本作に登場する記憶の再体験装置が、身体を水に浸して使用する機器であることからもわかるように、本作において「水」とは「記憶」のメタファーだ。記憶者本人が覚えているよりも明確に追体験される記憶は、それがあまりにも鮮明であるがあまり、かえって真実の隠れ蓑となってしまうという物語展開とも合致した画作りだ。


そして本作の記憶再体験装置が、第3者には鮮明な映像として──オペレータの声による意識誘導が必要なため──再生されるという設定は、この装置を扱うことが映画を作ることのメタファーであることも示すだろう。劇中、ニックがニナの行方を探ろうと幾多の記憶を何度も再体験し、散らばった謎のピースを寄せ集めようとする様子はさながら映像編集の現場を思わせるし、再体験者の意識誘導を誤ってしまい「道案内を間違った」と言いつつ別のアプローチを試みる様子は、撮影現場で演出をする映画監督そのものだ。

また、ニックが他人の──あるいは自分自身の──記憶を映像として除き見ることは、そのままわれわれが映画を観ることにも重なるだろう。ニックの元に「あの幸福だった記憶をまた見せてほしい」とやってくる顧客たちは、何度も同じ映画を観たくなるわれわれの人情を思い起こさずにはおれないし、ニックがやがて選び取る彼自身の結末もまた、アドルフォ・ビオ=カサーレスの小説『モレルの発明』(1940)を思わせるような、甘美だが苦々しく、それでいて誰もが1度は願ったことがあるものではないだろうか。手にしたくても2度とは──いや、1度たりとも──触れられない向こう側にあるものを求めてやまない人間の性(さが)を描くのに、フィルム・ノワール的語り口は、本作がそうであるように、非常に適しているのだろう。

ことほど左様に、本作はフィルム・ノワール的SF作品として、なかなかに見応えのある1作だった。その他、記憶再体験装置のモニタが型番や価格によっていちいち違っていたり、もしかチョウ・ユンファへのオマージュかと思しき中盤に登場する中華系ギャングの頭領ジョーの銃の構え方など愉快だったし、とはいえ短いシーンだけどそこに挿入するのは順序的におかしくないかしらんと思った箇所もあったり、その立体映像を立体映像たらしめる仕掛けってそういう機構だからなのだねという部分は冒頭に見せておくべきではないかしらんという気もするけれど、ぜひとも映画館の暗闇と大きなスクリーンのなかででじっくりと浸りたい作品だ。


     ※


【ソフト】
◆英国諜報部員ジョン・プレストンが、ソ連の鷹派高官による英国への核爆弾を持ち込みとテロを未然に防ごうと奮闘する『第四の核』(ジョン・マッケンジー監督、1987)は、英国側とソ連側の張り込みやら地域住民との交流(含めた諜報活動)といった地道──なんとなれば、ゆーても公務員であるからしてしごく地味──な諜報活動が丁寧に積み重ねられてゆく過程が、ぐうの音も出ないくらいに面白いエンタメとなっている。プレストン役には「ハリー・パーマー」シリーズのマイケル・ケインソ連側の潜入スパイ役には若き日のピアース・ブロスナン──しかもコードネームがジェームズ──と、新旧英国紳士スパイの対決も見ることができる。’80年代後半、たしかにSFX全盛の時代にあっては地味な見た目ではあるけれど、こんなに冗談なしに面白くて日本未公開だったのか……。


     ※

*1:ここで本作がこの街を舞台に、ニックが記憶という水溜りをさらって消えた運命の女たるニナ(ハートのクイーン)を探る物語であることをスマートに暗示している。そして、ラストにこのトランプがどうなっているかに注目したい。

*2:SF映画フィルム・ノワール的な語り口で描いた作品といえば『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)や『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)などが思い起こされる。

*3:前述のようなSF的フィルム・ノワール作品においても、やはり闇が重要なモティーフだ。

2021 8月感想(短)まとめ

2021年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
独裁国家が有する謎の「スターフィッシュ計画」壊滅のために最強の悪人たちが集められる『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)は、コメディ映画としてもヒーロー映画としても、たしかな強度と面白さを持った大・大・大傑作だった。

ガン監督といえば、トロマ映画仕込みのパロディや痛烈な皮肉をこめたユーモア、きちんとツボを押さえた作劇、そして『スリザー』(2006)や『スーパー!』(2010)でも見せた──仕方のないこととはいえディズニー傘下のMCUでの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(2014-2017)では完全にオミットされていた──露悪的なまでに凄惨な暴力演出を絶妙な按配でミックスするのに長けた作風が特徴であるが、本作ではこれらが遺憾なく発揮されている。

そのため、これまでの R指定アメコミ映画のなかでも群を抜いて登場人物が──モブも含めて──血肉を盛大にスクリーンにブチ撒けながらあれよあれよと死んでいくが、その様は圧巻。誰がどんなタイミングでムザムザ死ぬかがトンとわからない『ザ・ハント』(クレイグ・ゾベル監督、2020)の冒頭を髣髴とさせるオープニングの上陸作戦からもう血みどろジョーク満載で、それでいてきちんと本作のルール説明もこなしてしまうのだから恐れ入る *1。また中盤、ハーレイ・クインの見せ場であるアクション・シーンで、さすがに血しぶきだけでは観客が飽きると思ったのか、血の代わりに極彩色の花々が撒き散らかしていたのには大いに笑った。しかも、殺した相手が間違いでした、という酷く空気の凍る展開などもあって、いやァ本当に暴力ってよくないですよね!

またクライマックス、岡本太郎デザインの宇宙人 *2もかくやの巨大ヒトデ型宇宙怪獣スターロ──原作コミックスでも実際にそういうデザインだという──が大暴れする怪獣映画としても、本作はとびきりの見せ場を用意してくれる。人々を踏みしめ、ビルをなぎ倒しながらのし歩く巨大感演出の巧みさもあって、「こんなにサービスしてくれるとはなんてありがたい映画なのか」と、きっと劇場内での僕は満面の笑みを浮かべていたことだろう。

とはいえ本作は、単に明るく露悪的に楽しいばかりのバカ映画というわけでは決してない。なんとなれば本作は “アメリカ的正義” なるものへ痛烈な問題提起を突きつけているからだ。

たとえば本作の冒頭部を思い出してみよう。正義とは真反対の悪人チーム “スーサイド・スクワッド” の面々が、まるで『パットン大戦車軍団』(フランクリン・J・シャフナー監督、1970)の開幕にて演説するパットン陸軍大将もかくやに、画面いっぱいに映された星条旗 *3をバックに歩いてくるショットの皮肉ときたらない。また、潜入した架空の独裁国家コルト・マルテーゼの反政府組織のリーダーから「まったくアメリカ人ときたら……」といった台詞を吐かれること、あるいは後半で明かされる任務の本当の目的やそれによるチームの断絶など、ことごとく “アメリカ的正義” のメッキが剥げ、おそらくはイラク戦争をモティーフにしているであろうその暗黒面が明かされてゆく。その視線の鋭さと適確さは、──図らずもタリバン台頭による危機とそれへの各国の対応についてのニュースを見聞きするこの数日間もあって──決して絵空ごとでも他人ごとでもない。

そんなどうしようもなく絶望的な状況のなかでキャラクターたちが見せるほんのささやかな優しさこそが真に英雄的な振る舞いにつながるという展開が、本作の描く希望だ。それはたとえば、ネズミを操ることのできる少女クレオ *4が、サメ人間ナナウエに「友だちになろうよ」と声をかけたように、思い起こすなら劇中で様々なキャラクターが様々なタイミングでそういったひとかけら優しさを目の前の、あるいは隣にいる人物に投げかけ、手を差し伸べている。その小さな小さな優しさこそが、かけがえのない尊い行いなのだと、本作は大仰にではなく、さりげなく示す。

ことほど左様に、本作は派手な見た目の印象とは裏腹に、痛烈なコメディとして、そしてヒーロー映画として深く鋭く、さらに感動的なまでの射程を持った1作だ。細かなギャグのあれこれや、登場人物たちの所作のあれこれなどいちいち挙げたいがキリがないので、ここで打ち止めとするけれど、なにはともあれ見事な作品だ。もちろん、グロいのが苦手な方は注意してくださいね。


     ○


◆人々が自由な暮らしを謳歌する街の銀行員ガイが、すれ違ったミステリアスな女性モロトフにひと目惚れしたことで世界の真実に触れる『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)は、ゲーム世界を題材にしたエンタメ路線を貫きながらも、さりげなく深い洞察に満ちた作品だった。

本作は、いま我々が認知する世界が誰かの手による仮想上のものなのではないかと考える──たとえばニック・ボストロムなどが提唱する──、いわゆるシュミレーション仮説を題材とした作品である。こういった「いまある世界がじつは計算された偽物であり、そして主人公にはその真実が隠されている」という物語を持った映画作品はもちろんこれまでにもある。たとえば、それがコンピュータが人間を支配するために作り出したのでは……としたのが『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)だったわけだ。

そのほかに代表的なものを挙げるなら、とあるサングラスをかけたとき世界が異性人の侵略下にあったという真実が明らかになる『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督、1988)や、じつは世界が主人公の人生を生中継するために作られた超巨大なスタジオだった『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー監督、1998)といった作品がある。本作『フリー・ガイ』の主人公ガイの辿る世界の真実と邂逅するきっかけのひとつがサングラスをかけることであったり、クライマックスにおける彼の活躍を世界中がストリーミング配信を見ながら応援するといった展開は、明らかにこの2作からの引用であろう。


さて、本作のシュミレートされた仮想世界とは、予告篇等でも明らかにされているようにゲームである。じつはゲームのモブキャラ(NPC=ノン・プレイアブル・キャラクター)であるガイが本物だと信じて疑わない世界『フリー・シティ』とは──たとえば『グランド・セフト・オート』シリーズなどを髣髴とさせる──オープン・ワールド型のオンライン・ゲームである。このゲームでは “フリー” というタイトルのとおり、プレイヤー──プレイアブル・キャラクターはサングラスをつけているため、モブキャラたちからは「サングラス族」と呼ばれる──はありとあらゆる暴力や犯罪行為を許されており、銀行強盗や車泥棒といったミッションをクリアすることで経験値を得てレベルを上げてゆく。ガイたちモブキャラは、このフリーという無法の世界でプレイヤーからのいわれなき暴力を──なんら疑問とも思わず──日常として過ごしているのだ。

本作で面白いのは、このゲーム世界を最初からゲーム世界然として描いている点だ。こういった仮想世界に暮らすキャラクターを主人公に置いた物語では、多くの場合、彼/彼女の現実がわれわれ観客と同等のリアリティの上にあり、そこから徐々に違和感や非日常性を炙り出してゆくという段取りを踏むけれど、本作では冒頭からマシンガンをぶっぱなしながら街中を犯罪者(プレイヤー)が暴れまわり、カーチェイスを繰り広げ、そこかしこで強盗は起き、ありとあらゆるものが爆発四散する様をガンガン映すのが新鮮だ。それらが然も当然のことであるように『フリー・シティ』と自身について語るガイのモノローグとのギャップも笑いを誘う。

やがてガイがモロトフ・ガールにひと目惚れし、ひょんなことからプレイヤーのサングラスを手に入れたことで、彼らと同じ土俵に立ってから──ただし、ここではまだ彼はこの世界がゲームであるとは露とも考えていない──の展開も興味深い。ガイはその持ち前の純真純情さを発揮して、無法の世界で皆(プレイヤーたち)が暴虐の限りを尽くすなか、同様に悪事に走るのではなく、反対に「善いこと」をしてレベルを上げはじめる。この発想の転換が、現実のプレイヤーたちに衝撃を与えてゆく展開もまた興味深い。ガイの行動によって、自由と謳われた世界のなかで皆が一様に犯罪行為に走っているのは果たして本当に「自由」なのかという気づき、そしてそれまで目にもくれなかったモブキャラたち(=他者)がいることへの気づきを人々が得るのだ。

また、ガイが知らず知らずに置かれた状況は、物語上の現実ともリンクしている脚本の構成も上手い。そもそも『フリー・シティ』というゲームは、モロトフ・ガールを操るミリーと、かつての相棒キーズとがふたりで作り上げた画期的なプログラム・コードを無断転用したらしいことが物語序盤で語られる。ミリーはその証拠を得て裁判を有利に進めるためにゲーム世界を探索し、かたやキーズは『フリー・シティ』を運用するスナミ・スタジオに雇われてクレーム対応に追われる日々を過ごしている。本来であれば自由に使用できたはずのシステムを奪われたふたりは、ゲームの、そして絶対的な経済力、金、そして雇用者として権力を持つスナミ社長アントワンの──形は違えど──虜囚となっているのである。そこからいかにして──ガイが目指すように──自由を得るかという物語へと展開してゆく。


これ以降の具体的な展開に踏み込むと大きなネタバレになるので詳細は控えるけれど、ゲーム世界舞台であればこその荒唐無稽なアクションの見せ方やガイを演じるライアン・レイノルズの丁々発止の台詞まわし、ゲーム配信者──実際の人物が本人役で演じている──あるあるといった小ネタなど、基本的には明るく楽しいアクション・コメディ的演出が満載な本作はやがて、最終的には「もしも自分や自分のいる世界が虚構だとしたら、生きる価値はあるのか? そしてリアルとはなにか?」という実存的問いかけに到達する。そこで親友バディが、世界の真実に狼狽するガイに投げかける──デカルト哲学を思い起こさせるような、しかしあくまで利他的で思いやりに富んだ──言葉は感動的だ。それを聞いたとき、ガイと同様にある種の勇気や希望を得た観客も少なくないのではないだろうか。

同時に本作は、ロマンス映画としての側面を持っていることも忘れてはならないだろう。前述したような、ガイが善いことをしてレベル上げする一連のシーンは、一種のループものとして演出されている。何度も失敗しては殺されて次の日に目覚め、繰り返す鍛錬のなかで徐々に目的を達成してゆくガイの様子は、ループものロマンス『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス監督、1993)のビル・マーレイを髣髴とさせるものだ。これがじつはひとつの前振りであって、本作は『恋は~』のようにロマンス映画としても優れた着地をみせる。すべての冒険を経たエピローグにおいて、ミリーがガイの言葉によってある気づきを得るときの、ほんの数ショット──誰が誰と向かい合い、そして誰にカットバックし、続くショットの “画面” に誰がどのように映っているのか──の、さりげないが見事なカメラワークと編集、そして演出は必見だ。

このように本作が、実存主義的不安の葛藤を辿る側面とロマンス映画的側面を併置して融合したことによって、どちらの世界が上位でも下位でも、真実でも偽物でも、現実でも虚構でもなく、リアルとは別のところに宿るものなのだ──という、こういった作品としては珍しい結論に到達するのも新鮮だ。このポジティブであり誠実な感覚が、本作の大きな魅力のひとつだろう。

そのほか、嫌な社長アントワンを嬉々として演じるタイカ・ワイティティの挙動が愉快だったり、プログラムをリアルタイムで書き換えて建物の形状や配置をニョキニョキ変化させる様子は『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)っぽかったり、ウサギの着ぐるみってまさか『ドニー・ダーゴ』(リチャード・ケリー監督、2001)かしらと思ったり、クライマックスでバディが放つ「俺たちの生命も大切なんだ(lives matter)って証明してくれ!」という台詞が非常に重層的で今日(こんにち)避けては通れない台詞だったり、とはいえちょっと楽屋ネタが多いのではないかしらんと感じたりもしたが、なんにせよ、目にも心にも明るく楽しくやさしく、そして深い洞察に満ちた本作は、続篇でもスピンオフでも実写化でもない単独のオリジナル作品として、ぜひとも観ておきたい1本だ。


     ※


【ソフト】
◆近未来、ドラッグ戦争の最中に少女が逃げ込んだのは最強の退役軍人(爺さん)たちの集うバーだった『VETERAN ヴェテラン』(ジョー・ベゴス監督、2019)は、主演のスティーヴン・ラングをはじめとした燻し銀の効いた役者陣の好演と、状況設定から展開、音楽から低予算感を薄める方法にいたるまで、作り手たちはきっと『要塞警察』(ジョン・カーペンター監督、1976)をずいぶんと研究したのだろうなという愛嬌まで含めて、楽しい作品だった。惜しむらくは、フィルム・グレインを効かせすぎて画質が趣深いというよりもガタガタだったことかな。


     ○


◆近未来、山梨県の人里離れた施設でひとり研究に没頭するジョージが、亡き妻の精神情報を人工知能に落とし込もうとする『アーカイヴ』(ギャヴィン・ロザリー監督、2020)は、スローテンポながら、人工知能やアンドロイドをテーマとしたSFとしてきちんとツボを押さえた展開と、このジャンルとしては物珍しいオチまで含めて堅実なつくり。そしてなにより、本作の作りこまれたプロダクション・デザインに表れる作り手の好み──『2001年宇宙の旅』、『エイリアン』、『ブレードランナー』、『エイリアン2』、『AKIRA』、『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』、「サヴォワ邸」や「落水荘」を思わせる研究所の外観、アンディ・ウォーホルにそっくりなキャラクター、しまいにゃ何故かラーメンチェーン「天下一品」の看板まで──がことごとく僕と被っていて、妙な親近感を抱いてしまう作品だった。


     ※

*1:このアバン・シークェンスは、まさに1本の映画並みの見せ場と物語構築で素晴らしい。小鳥にはじまり小鳥に終わる構成の妙よ! あれかな、ツイッターの暗喩かな(反トランプ発言を繰り返していたガンは、親トランプ派のオルタナ右翼から10年ほど前にツイートした差別的序ジョークを掘り起こされたことで炎上、一時ディズニーからMCUをクビになる騒ぎに発展──現在はガン本人による謝罪、出演した俳優陣やファンからの嘆願によって復帰──し、そのあいだにワーナーで製作したのが本作だ)。

*2:『宇宙人東京に現る』(島耕二監督、1956)に登場するパイラ星人

*3:ヒトデ型怪獣スターロをはじめ、本作で象徴的に強調される色は、赤と青である。これを思い出すなら、スターロの今際の台詞「星が煌くなかをフワフワ漂っていて楽しかった」がなにを意味するのか、なかなか考えさせられる。

*4:彼女の物語には、ちょっと『シンデレラ』を思い出した。

2021 7月感想(短)まとめ

2021年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/02/200823


     ○


『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/30/042834


     ※


【ソフト】
◆不可思議な死体に遭遇したマーフィー刑事が、捜査の果てにとある日本人家族に行き着く『ミュータンツ 光と闇の能力者』(ジョー・シル監督、2019)は、低予算で地味な作品ではありながら、超能力者モノというジャンルをコンパクトながら丹精なドラマと役者陣の繊細な演技、そして見せるところはきちんと見せるVFXによって描いた素敵な作品だった。スティーヴ・ライヒ調の劇判も雰囲気に合致していて素晴らしい。


     ※


【コラム】
映画の感想を書くとき……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/25/010128


     ※

『竜とそばかすの姫』感想

◆とある出来事をきっかけに歌を歌えなくなった少女・鈴が親友に薦められた超巨大インターネット空間の仮想世界「U」の世界でベルという歌姫となる『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)は、やりたいことはわかるけど、いささか詰め込みすぎかつ整理不足では? という疑念を拭いきれない1作だった。


     ○


【本記事には、若干のネタバレが含まれます】


     ○


本作の予告編を観ると、細田監督作においてこれは『サマーウォーズ』(同監督、2009)以来のネット空間と現実世界とをリンクする作品であると同時に、筒井康隆原作の『時をかける少女』(同監督、2006)を髣髴とさせる青春劇でもあることを予感させるもので、本作は細田守監督作品の原典回帰的かつアップデート版的作品となるのではという期待を持たせるものであった。彼の作品から滲み出る主義思想的部分には一片の共感を持ち得ない──むしろ嫌悪さえしている──けれど、そうは言っても彼が国民的アニメ映画作家となったいま、遅まきながらいそいそと劇場に出かけてまいりました。

まず、本作のアニメーションの動きや画そのものは面白かったし、美しかった。バーチャル空間である「U(ユー)」のメイン・ルームとでもいうべき超高層ビル群が立ち並ぶ目抜き通りを数多くの色とりどりなアバター「As(アズ)」や立体ネオンサインのような光源が行き来する様子は『AKIRA』(大友克洋監督、1988)に登場するネオ東京の活気を思い出したし、かたや現実世界での鈴や弘香、忍や慎次郎、瑠果たちを中心に描かれる日常パートでのアニメーション──とくに、ロングのレイアウトのなかアニメとしてはかなり長めにじっくりと尺をとった1カットのなかでキャラクターを動かし、ときに可笑しくときに切ない彼らの感情の機微を描き切るいくつかのパート──は実在感とコミック感とが絶妙にマッチした見事なものだ。高知県でロケハンしたという背景美術も美しい *1 *2

また、やはり本作最大の見どころ──いや、聴きどころ──は、ヒロインの鈴を演じたシンガーソングライター中村佳穂が実際に歌唱し、曲によっては作詞・作曲を手がけた歌の数々だ。彼女の発する繊細で力強い歌声は、ふいに鈴がUにベルとしてログインして歌ってから絶大な支持を得る展開を含めて映画にたしかな説得力を与えている。そして歌唱シーンの映像が見せる華やかで極彩色の美しさやカメラワークの自在さも格別だ。あるいは鈴が下校中に「どんな歌がいいだろう」と鼻歌でメロディを探りながら曲を作ってゆくときの声の実在感も素晴らしい。そして、実際の演技も鈴のキャラクター性にとてもよく合っており、違和感なくすんなりと観客の耳に入ってくるだろう *3


     ○


いっぽうで、本作は様々な要素がてんこ盛りであるがゆえに、それぞれがあまり深く掘り下げられず、整理不足に陥ったことで、物語が進行すればするほど雑然としてくる感は否めない。

それはたとえば、本作で大きな舞台を占めるUからしてそうだ。全世界で総勢50億人も使用して「人生をやり直し、もうひとつの人生を生きよう」と謳うUであるが、では具体的になにができるのかが皆目示されない。せいぜいバズれば生配信ライブができるくらいのことしか描写されない。そもそもログイン時にワイヤレス・イヤホンのような機器だけを耳に装着すれば、Asと五感を共有してVR空間にいるかのように実感しつつ操作しているという描写は、いくらなんでも──いや、実際にはパソコンやスマホのモニタを見ているのかもしれないが、Asのベルと現実世界の鈴をアクションで繋ぐ編集もあるので余計に──呑み込みづらい。この点に関してはむしろ『サマーウォーズ』のほうがキーボードやコントローラを経て操作する描写があったので、まだリアルな実在感がある。これは恐らく、映像描写の面白さを重視──このこと自体は間違いではない──したものの、Uの実際はGoogle Chrome といったWEBブラウザ、あるいはもうすこし狭義に捉えるなら YouTube といった動画共有サイトTwitterInstagram といったSNSソーシャル・ネットワーク・サービス)と大差ないことから生じたものだろう。


     ○


この、語りたいものとそれを見せる演出との誤差が、物語の作劇にも見受けられる。


本作で鈴が辿る物語とは、とあるトラウマ的体験から歌うことのできなくなった彼女が、ベルというペルソナを被ることで歌を取り戻し、その成功体験によってこんどは自身の世界を拡げ、またベルではなく自分自身として他者との関わりを修復し発展させようとするものである。ここに現実世界における気の置けない悪友・弘香や、初恋の相手である忍、学校のマドンナ瑠果といった同級生に加えて、ほぼ没交渉となっている父やまわりの大人たちが関わってくるわけである。学校やネット世界での体験を糧として1歩前進する主人公の物語として、オーソドックスだが、きちんとやればやるだけの説得力が出るタイプである。

かたや、本作が重点を置くのがネット上における匿名性を盾に取った誹謗中傷やフェイクについての問題提起である。実際、劇中で登場するベルの歌についてのコメントが賛否両論──とくに非のほうの言葉づかいがかなり乱暴──であることから鈴が狼狽したり、あるいは彼女が現実世界でのとある出来事をきっかけとした女子生徒たちのラインのやりとりから大規模なイジメの対象になりかけたり、世界中で放送されるニュースやユーチューバーの配信などで振りまかれる嘘八百を執拗に描写したりと、ネットユーザーが巻き起こす負の側面を炙り出す。


そして、そういった匿名性の暴走が意図的な誤情報を流して世論を操作し、人々の断絶を深めようとすることもそうであろう。物語内では「竜」の正体探しに明け暮れるネットユーザーたちの根拠のない類推の氾濫と世論操作がUを覆い尽くし、Uの世界は分断され始める。われわれの現実世界に目を向ければ、これと同様のことが各所各方面で止むことなく続いていることは一目瞭然だ。Uの警察機構を自称する「ジャスティス」の隊長ジャスティ*4が持つ「アンベイル」という特殊な能力は、文字どおりハッキングによって個人情報を特定して拡散する “晒し” そのものだろう。

そういったネットの負の側面からの攻撃を一身に背負う役目を「竜」が担っており、そんな「竜」を救うために鈴=ベルはクライマックスにて、ある決断を下すことになる。この展開は、ネットの匿名性に巣食う病理に対する作り手の「自分たちは世界に素顔を向けてものを作っているのだ」という自負の宣言であったことだろう。ネットでは素性を隠して好き勝手言えばよいだけだが、自分たちはそうではないのだ、と *5


     ○


そして、鈴についての物語とネットについての問題提起を比べたとき、どうも作り手のなかで後者のほうに比重があったように思われてならない。そして、両者を融合し、より後者を強調できるよう持って来たのが『美女と野獣』の要素だったではなかったか。もともと本作は当初、ネット版『美女と野獣』的物語をミュージカルで作劇するという企画だったという。これからもわかるように、細田監督は相当ディズニーのアニメーション版(ゲーリー・トゥルースデイル、カーク・ワイズ監督、1991)を気に入っているようで、ヒロインの名前の引用 *6から始まって、同様の展開やシーンがこれでもかと再現される *7

ところが、これによって物語世界におけるキャラクターの役割と展開が分散されてしまってはいまいか。鈴にとって距離を縮めて関係性を発展させたいと願う忍のキャラクターは「竜」へと分裂し、彼女が他者のために利他的な行為をとるという展開は2回繰り返される。このために尺は逼迫し、掘り下げられるべき展開や関係は説明台詞による処理へと引きずり落とされる。

正直、本作の物語世界は、先に記したような鈴を軸とする関係性の規模に留めておいても充実した内容になるように思われる。ネットが持つ負の側面の被害者としての「竜」のキャラクターもまた、じつはひと晩で数多のユーザーの支持を得た鈴=ベルに課すことも可能だったのではないだろうか。それだけの支持対象ともなれば、間違いなくアンチも登場して鈴の精神を削りにくるだろうが、本作はそういった部分は前半ちょろりと触れただけで掘り下げない *8。「竜」の要素がなくとも、本作で作り手が語りたかったものは十全に作り得たのではなかったか。


     ○


ただ、作り手のメッセージそのものが間違いないものと仮定したとしても、クライマックスにおける鈴のまわりにいた人物たちの行動、もしくは描き方は非常に問題ではないか。というのも、鈴が「竜」を救うために取る行動を炊きつけたのはその場にいたまわりの友人や大人たちであり、そして彼/彼女たちは基本的に文字どおり応援しかしない。そして鈴が必死に下した決断と行動の様子ないし結果を見て「ああ、よかったよかった」と言うばかりである。

これでは、まさしく本作がそれまでの展開で問題だと提起した、ネットの匿名性を盾になんでもかんでも好き勝手やりまくるネットユーザーとなんら変わらない *9。あるいは、現実の問題から目を背け、ネットのみならずメディアが提供する上っ面の情緒や感動だけに特化した、いわゆる「感動ポルノ」的コンテンツを消費する人々の側面すら読み取れてしまう。さすがにキャラクターたちの発展のさせ方としてマズイのではないかという疑念は拭い切れない。

ただいっぽうで、これが意図された露悪的な演出なのだったら、それは大したものだと思う。鈴のうしろにいる人たちとは、これまで彼女の物語を観て、共感して応援して感動して、つまるところ消費して、勝手によかったよかったと借り物の感情で快楽を得、劇場を出ればネットに匿名で好き勝手にコメントしている「お前だァ! 稲川淳二ふうに)」と言外に僕ら観客をビシッと指差しているのなら、これほど皮肉の効いた演出はあるまい。


     ○


ことほど左様に、いささかネガティブな物言いが増えてしまったのだけれど、やはり本作の問題の根本は、語るべき題材に対して物語世界を過剰に大きくしすぎた点にあったのではないだろうか。表面的な要素をもうすこしスッキリさせたうえで、より深く掘り下げていったならば、青春物語としてもサイバー空間を扱ったSFとしても、いっそう強度を持った完成度を誇れたのではないだろうか。たとえば、鈴がベルとして成功することでの内面と仮面との葛藤や友人関係の変化、あるいは世界との繋がりを描いてゆくといった、ポップスター物語的な青春劇として描いたとしても、作り手が問題提起しようとしたネットの負の側面についても現在と同様に盛り込むことができたのではなかったか。

もちろん、先に挙げたように映像的な面白さや美しさ、そして中村佳穂歌唱による楽曲の素晴らしさは抜きん出ているので、観て損をする作品とは決して申し上げない。この部分に関しては間違いなく劇場で観た価値は大いにあった。

そして、こうして書いてきた僕もまた作り手から「お前だァ!」と指差されていることだろう。


     ※

*1:映画前半部、鈴にトラウマを与える原因となった川の水面を画面いっぱいに映し、明と暗に色分けすることで彼女の心的葛藤を表す描写などよかった。この演出が後半には影を潜めてしまって残念。

*2:また一部パートは、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『生きのびるために』のカートゥーンサルーンが担当したという。おそらく「竜」の城への道を描く一連のシーンかと思うが、このスタジオの特徴である平面的な画面づくりと柔和なカラー設計が美しかった。

*3:また、久しぶりに小山茉美の “七色の声” ぶりが聴けたのが嬉しかった。

*4:ジャスティンのいかにもジャパニメーション的な髪型、またジャスティスたちが同様のコスチュームを着て、肘先や膝下がふとましく強調された体格をしているのは、おそらく彼らが石ノ森章太郎サイボーグ009』のパロディであるからだろう。また、彼らがスポンサーを背負って立つことは、テレビアニメ『TIGER & BUNNY』(さとうけいいち監督、2011)を髣髴とさせる。

*5:この歌唱シーンの静謐な開幕から荘厳なまでの画作りと楽曲はたしかに素晴らしい。余談だけど、このシーンはあきらかに『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督、1984)のクライマックス──例の「蒼き衣をまといて金色の野に降り立つべし」ラン・ランララ・ランランラン──へのオマージュだろう。これまで各所で宮崎駿への揶揄とも思われる発言をしていた細田守の作品でこういったシーンが出てくるとは思わなかったので少々驚いた。

*6:ラスト、再度附されるタイトル・テロップには原題の下に「BELLE」が追記されている。これだと、かなり物語の意味合いが変わってしまうのではないか。というのも鈴のアバターはあくまで「BELL」であって、「BELLE」とは最初ネットユーザーが勝手に言い出したものなのだ。これでは、いよいよ素顔/真実の自分であることが善しとした物語の展開と逆転しまいか。あ、そういえば劇中でも最後になぜかベルに戻っていたな……と、このあたりに作り手の屈折した葛藤が滲み出ているように思うのは考えすぎだろうか。

*7:ベルをデザインしたのは、『アナと雪の女王』などのキャラクター・デザインを担当したジン・キムである。

*8:そもそも、どうやらベルの人気には弘香の様々なプロデュースがあったことも関係あるらしい台詞が出てくるが、具体的な描写がほとんどないので、そのあたりをむしろ掘り下げたほうが、ふたりの友人関係のドラマにもなったと思うのだけどなあ。というかこの弘香、鈴が獲得した収益を本人の了承なく勝手に「寄付しといたから」って相当ヤバいやつだよ。

*9:そして「鈴ちゃんが決めたことだから」という台詞から、現在日本を蔓延る「自己責任論」が善きこととして過剰に浮かび上がる。もちろんこれが、鈴のトラウマである母の死を乗り越えるために敢えて母の死に際と同じような状況に追い込むためだとしても、いくらなんでも乱暴である。