2013年鑑賞映画作品/31-40 感想リスト

オスロ国際空港/ダブル・ハイジャック』……キャスパー・リード監督。ショーン・コネリー主演。領事館と着陸した飛行機を同時に占拠したテロリストに対抗すべく講じられる策謀は、二転三転する展開や最終的に明かされる陰謀まで、脚本に細かく伏線とツイストが練りこまれており画としては地味ながらサスペンスフルで楽しい。

戦争のはらわた』……サム・ペキンパー監督。第2次世界大戦を舞台とした戦争映画。監督も役者も、もちろん制作国もアメリカなのに、ナチス・ドイツ側を主人公に据えた異色作。ペキンパーらしいスローモーション撮影と鮮やかな編集を駆使したアクション・シーンが美しく、鉤十字を巡る不条理な展開も胸を打つ。ところで、現在発売されているDVDに収録された字幕は、フォント選択から翻訳まで、ちょっとアンマリな出来なのが非常に残念だ。ちゃんとしたので再販を願う。

ゼイリブ』……ジョン・カーペンター監督。世界や人々が、知らぬ間に“何者”かによって支配・洗脳・操作されていたら──という恐怖を描くSF。行き過ぎた資本主義経済を痛烈に批判する展開が今日観ても十分に機能するところに、げんなりするところ。世界の“しくみ”が明かされたあとのシュールな幕切れが秀逸だ。特殊なサングラスをかける──見た目としては盲目となる──と日常に隠された世界が暴かれるというアイディアは、後に『マトリックス』で転用されたのかもしれないと連想した。

トレマーズ2』……S・S・ウィルソン監督。ほのぼの系モンスター映画の第2作。ユルさのなかにしっかりとモンスター映画の面白みと、続篇ならではの展開を持ち込んでくるあたり、見応えはたっぷり。この計算されつくしたユルさがいいなぁ。1995年公開とあって、モンスターの一部はCGで描かれているが、いま観てもたいへんリアル。ラストの大爆発も美しい傑作。

母なる証明』……ポン・ジュノ監督。殺人事件の犯人として逮捕された息子を救うべく孤軍奮闘する母の姿を描く。ようやっと鑑賞。相変わらずぐうの音も出ないほどに「変な映画だったなァ」とつぶやかざるを得ない見事な作品。「変」というのは面白おかしいだとか、珍妙奇天烈だとかいう意味ではない。むしろ映画のどの部分をとっても丁寧かつ一級の演出を施しているのである。しかし、鑑賞後には「変な映画」だったとしか言いようのない不思議な感覚に陥るのだ。オープニングから既にどこか不穏な「変さ」を醸しつつ、それを見事なミラーイメージとしてエンディングに収束させるのを観るにつけ、ジュノ監督は本当に凄い手腕だと感嘆する。僕なりに本作を説明するなら、トラウマ記憶を解消しようとして反対に抑圧する話、とでも言おうか。僕がいうまでもなく、必見。

ウィンターズ・ボーン』……デブラ・グラニク監督。氏制度が根強く残る貧しいヒルビリー(Hillbilly)の娘として生まれたヒロインが、差し押さえられた家と幼い弟妹を守るため、失踪した父を探す姿を描く。日本にいては知りようもないヒルビリー社会を描きつつ、その社会をある種の不思議の国をさまようヒロインの通過儀礼としても成立させる手腕が見事。しかし、そこで描かれる成長の果てにあるであろう未来を思うと、果たして良かったのか悪かったのか──ぽっかりと残された空洞から、今日でも残るアメリカの、ひいては社会の貧困という闇を考えさせられる。

北京原人の逆襲』……ホー・メンホア監督。ラウレンティス版リメイク『キングコング』(1976)の後に公開された、香港版キングコング的作品。ゴジラなどで活躍した日本人スタッフが特撮を制作している。緻密に、しかも巨大に組まれたミニチュア・セットをのし歩く北京原人の姿は迫力満点で、クライマックスに描かれる超高層ビル屋上での戦闘は、むしろ本家より良いくらい。本編部分はまーユルユルだが、前半の探検シーンにおけるロケの凄さと、モンド映画を思わせる動物パニックは見応えがあった。

ほえる犬は噛まない』……ポン・ジュノ監督。とある団地マンションに暮らす冴えない大学院生と、マンションの管理室で経理を担当する高卒の少女の視点から、マンション内に巻き起こる飼い犬失踪事件を描く。ジュノ監督の長編デビュー作。マンションを社会全体の縮図として、社会風刺的スケッチを淡々と積み重ねてゆくという作劇は、ジュノの長編のなかでも1番シニカルな味わいで、ほんとにもう、ひと言でコレっていうふうに説明しづらいのだけれども、卓越したユーモアセンス溢れる演出でグイグイ引き込まれる。ラストの閉じられていくカーテンと、陽光降り注ぐ山中の景色という対比に、なにを感じるだろうか。

シュガー・ラッシュ』……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20130330/1364612569


桐島、部活やめるってよ』……吉田大八監督。世間の“祭り”に乗り遅れてはや半年、ようやく鑑賞。結論からいえば、僕にとってもたいへん素晴らしい作品となったし、劇場に行きそびれたことを深く深く後悔した。あれだけの“祭り”になっていたのは故なきことではないのであって、しかるに僕がいまさら「『桐島』くらい観とけ!」と言う必要は皆無である。

さて、吉田監督作品は、不勉強ながら長編は今作がはじめて。しかし以前、短篇作品である『男の子はみんな飛行機が好き』(2002、DVD『SO-RUN MOVIE』に収録。こちらも素晴らしい作品)を観たことがあって、今回「ああ、あの監督か!」と納得することしきりだった。

映画版『桐島〜』の作品構造は、すでに多くの場所で語られているようにベケットの『ゴドーを待ちながら』にあるような、絶対的な中心の不在によって巻き起こる周辺の動きの変化を群像劇的に捉えたものである。『桐島〜』の場合、その中心とは、もちろん高校という“社会”のトップに立っていた桐島である。彼は、多くの生徒の目指すべき規範であり、言い換えれば、生徒の欲望の対象であるといえるだろう。その対象を占める位置が突如として空白になった──そもそも空虚であったことを突きつけられた──ために、あの高校はある種の混乱に呑まれてゆく。


朝井リョウによる原作小説から大きくアレンジされた映画版の脚本では、原作と比べて「桐島の不在」が強調された造りとなっており、より映画全体が「桐島の不在」性を端的に表したタイトルへと着地/収斂してゆく構造を有している。先述の短篇『男の子は〜』もまた、「一匹狼の殺し屋が宿敵のギャングとの決戦に挑む」という映画のルックからは想像もつかないタイトルへと見事に着地させる作品であり、このある種「落語」的ともいえるような作劇法が、吉田監督の作家性なのかもしれない。僕が『桐島〜』から逆算的に『男の子は〜』が吉田監督作品であることを納得した所以はここにある。

本作の、“社会”の縮図としての高校のなかにある、ピンと張り詰めた気持ちの悪い緊張感を画面から溢れんばかりに映画に定着させたその演出、撮影、編集、そして俳優陣のアンサンブル──主役級から脇に至るまでのキャスティングの妙も含めて──は見事というほかない。その意味において、本作が傑作の誉れを受けることは、まさに至極当然であるだろう。


──というのが一生懸命、客観的になろうなろうとひねり出した文章である。なぜこのようなことを書くのか……それは、この映画は多かれ少なかれ、またそのベクトルはともかくとして、観客それぞれの個人史を思い起こさせる“何か”があるのではないかと思われるからだ。

僕について書くならば、この映画ほど客観的に観ようとする試みが挫かれた映画を知らない。というのも、登場するキャラクターたちのそれぞれに、僕自身の嫌な部分をそれこそ客観的に見せ付けられているようで、ほとほと辛かったからだ。それは本作が描く高校時代に留まらない。それ以前の僕のふるまいも思い出したし、今日の出来事も脳裏に浮かんだし、きっとこれからもそうなのだろう。僕自身が映画好きなこともあって、神木龍之介が演じる映画部部長・前田に一番シンパシーを感じながら観ていたけれども、彼が出会う様々な受難それぞれに、そして彼の勇姿──と、あえてここでは書かせてもらおう──に、胸を引き裂かれるような感覚を得ていた。だからこそ、クライマックスの屋上にて前田が、彼の“理想の映画”をファインダー越しに垣間見たとき、僕はたしかに救われたのだ。遅まきながらこの映画にめぐり合えたことを幸せに思う。

余談だが、CGアニメーション映画『シュガー・ラッシュ』は、ディズニー版『桐島』とミタ!

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