『思い出のマーニー』感想

米林宏昌脚本・監督。1967年に発表されたジョーン・G・ロビンソンによる同名イギリス児童文学*1を、スタジオ・ジブリ製作で長編アニメーション化した。映画化にあたって、舞台をイギリスから日本の北海道に置き換え、主人公の少女アンナを杏奈にするなどの変更を行った。

両親を亡くし、北海道札幌市の養父母のもとで暮らす少女・杏奈は、いつのころからか周囲に心を閉ざしてしまっていた。あるとき持病の喘息の発作に見舞われた彼女は、主治医の薦めもあって、道東の小さな漁村の大岩夫妻のもとで療養することになる。大好きなスケッチに出かけた杏奈は、入江の向こう側にある古めかしい屋敷を見つける。地元で「湿地屋敷」と呼ばれるその屋敷は、いまは空き家になっていると教えられる杏奈だったが、七夕の夜、彼女は湿地屋敷でマーニーと名乗る不思議な少女に出会うのだった……。

    

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借りぐらしのアリエッティ』(2010)に続く米林監督の2作目ということで、期待半分・不安半分で──いや、どちらかというと不安のほうが若干勝った状態で──劇場に足を運んだ。というのも、『アリエッティ』は、映画開幕早々に現れる違和感──

1.舞台が日本であること。

2.サブキャラクターである翔のモノローグで映画がはじまること。

3.タイトル・テロップが挿入されるタイミング。


──に象徴されるような、映画を物語ってゆく上での脚本と演出力の弱さが目立ってしまう結果となっていて、正直イマイチな出来だったからだ(お好きなかたには申し訳ありません。※僕の当時の詳しい感想はこちらにあります>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20100822/1282441772)。果たして、本作はどうだったか。



本作『思い出のマーニー』は、イギリス児童文学を原作とし、さらに、孤独な子どもが持病の療養先で不思議な存在と出会って交流を経ることで成長する──という物語からも明らかなように、米原監督による自身のアリエッティ』の実質的なリメイクともいえる映画となっている。そして本作は、前作で僕がはばかりながらここそこがダメだなぁと感じられた部分が格段にブラッシュアップされていて*2非常にうれしかった。つまり、結論からいえば、本作『思い出のマーニー』は、瑞々しくとても素敵な映画として完成していたのである。



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本作の前半では、孤独を抱える杏奈が湿地屋敷へ至りマーニーと出会うまでの過程──すなわち、『アリエッティ』ではあまりにおざなりに済まされた主人公のひとりである少年・翔が“異界”へと赴くようすを──を、非常に丁寧に丁寧に積み重ねてゆく。

杏奈が暮らす札幌でのやりきれない日常の世界から列車で道東の町へ、そこから大岩夫妻の運転する自動車で入江の漁村へ、大岩家での杏奈の部屋、そして湿地屋敷の発見と、何層にも階層を分けて少しずつ彼女が「異界」へと足を踏み入れるようすを描いている*3

いくつものエピソードと背景美術をとおして描かれる前半部の移動シーンは、原作小説における描写よりもグッと厚みを増しており、映画の世界により一層の存在感を与えていて見事だ。




また、主人公の杏奈も愛すべきキャラクターだ。前作『アリエッティ』での問題点のひとつに、主人公がアリエッティなのか、それとも病弱な少年・翔なのかがはっきりとしていない点が挙げられるが、それを踏まえてか、本作では杏奈=主人公としてきちんと映画が構築され、彼女についても映画は丁寧に丁寧に描写を重ねてゆく。

両親を失い、養父母のもとで暮らす杏奈は、いつのころからか周囲に心を閉ざして、ひとりで「皆の輪の外側にいる」ことに自ら望んでいる。そして彼女は、そんな状況に自分を追い込んだ周囲を嫌いつつ、一方で原因を周囲に求めている自分自身を憎んでしまう──けれども、これは別に悪いことではない。これは杏奈が周囲の様子をとっさに察知して空気を読みすぎてしまうだけであり、それができてしまうのは彼女が周囲よりもちょっとばかり繊細で敏感な心を持っているからだ*4

だからこそ、状況に対して落ち着いた対応もできるし*5、その的確すぎる分析眼ゆえに「まわりも嫌いだけれど、そう思っている自分がいちばん嫌い」という自己イメージを持ち得てしまったのだ。



杏奈が迷い込んでいる、この袋小路のような状態を、映画は彼女の必要最低限のモノローグと小さなエピソードを積み重ねることによって、丁寧に描き出す。加えて原作にはない、杏奈は絵が得意だという映画独自の設定も、彼女の“見えすぎてしまう眼”を映像として表現する見事なものだ*6

また、思いがけず彼女を追い詰めてしまう周囲の人々とやんわりとした同調圧力──心配性の養母・頼子や、杏奈の同級生たちの頼子に気を遣いまくった会話、あけすけだが優しい大岩夫妻のやりとり、おせっかいな地元っ子の委員長とその過保護気味な母親──は、われわれ観客も必ずや「いるいる、こんな人!」と思えるリアルさを持っていて、それら場面のなんともいえない居心地の悪さは、杏奈が抱える孤独感をより引き立たせている。

なにより、こういった細やかで丁寧な描写を積み重ねることで、杏奈もまた僕らの暮らす世界に生きているひとりの少女なのだという実在感を獲得しているのが、ほんとうに素晴らしい*7。僕ら観客は彼女の成長を見守りながら、一方で彼女自身となって映画の世界へ入り込んでゆくことだろう*8



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本作は、前作『アリエッティ』と同様に、舞台を原作小説のイギリスから日本へと移している。前作では奇妙なノイズにしかなっていなかったこの舞台変更だが、今回はきちんとそれが映画的に機能している点もまた、本作が優れた部分だ。そして、杏奈というひとりのキャラクターを描くこと、それに深みを与えることにこそ、舞台をイギリスから日本に移した意味が生きてくる。

もちろん、杏奈の暮らす日常世界とはまったく異なる湿地屋敷の異界性、そして彼女が出会うマーニーの兼ね備えた他者性──彼女は明るく活発な性格のイギリス人(白人)の少女という、杏奈とは対照的な存在だし、ともすれば実在するかも怪しい──を描き出すことにも十二分に機能している。この明確な他者性から、杏奈にとって、もっとも自分から遠い存在かと思われたマーニーが、実は自分にもっとも近しい存在だったことに徐々に気づいてゆく展開も原作以上にドラマティックになっているといえるだろう*9

そして、この異界性/他者性が十全に映えているのは、上述のように、前半部における杏奈の日常世界とそこからの移動を丁寧に描いているからであることは、繰り返しておきたい。



しかしなにより、舞台を日本に移したことによって、杏奈に原作にはない映画独自の設定をもうひとつ織り込むことができたことが、大きな利点ではないだろうか。それは、杏奈が混血(=クォーター)であるという設定だ。

漁村の地元っ子が杏奈の目が青いことに気づき、無邪気に「ねぇねぇ」とはやし立てられて苦渋の表情を浮かべる杏奈を思い出そう。杏奈は、本人が望む望まぬに関係なく、クォーターであることによる身体的特徴という、コミュニティ内で浮き立ちがちな異質さを持ってしまっている*10。杏奈が短冊に書いた「普通に暮らせますように」という願いの“普通”が、いかに重層的な鎖として彼女を縛っているか──その切実さが、これからもわかるはずだ。このように、彼女が感じているであろう同調圧力の居心地の悪さや自身の寄る辺なさを、画/キャラクター・デザインとして如実に表現していて見事だ*11



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本作は、そんな彼女が湿地屋敷に住まうという不思議な少女マーニーとのふれあいによって、小さいながらも成長の第1歩を踏み出すという物語を描き出す。それは具体的には、杏奈が「他人(ひと)を許す」こと、そしてそれによって自分自身も許せるようになるという形で描かれる。いいかえれば、ひとを好きになることだ。

後半のある展開*12によって、杏奈はマーニーに対して「絶対に許さない」と憤ってしまう。

その後、杏奈が再びマーニーと湿地屋敷の窓越しに出会ったとき、彼女はそれでもマーニーを許す。その理由は、映画のキャッチコピーにもあるように「あなたのことが大好き」という、ただそれだけなのだ。繊細で敏感であるがゆえに様々なことを考えあぐねては、自分自身も誰も彼も嫌ってしまっていた杏奈が、ただそれだけの理由で──むしろ、理由など要らなかったのかもしれない──自分自身を覆っていた固い殻を破る姿は、とても感動的だ。



ところで本作は、この後半部分に至る展開のプロットを原作小説から大きく変更している。原作小説では、アンナとマーニーのふれあいによってアンナが成長するというパートと、アンナのイマジナリー・フレンドかと思われたマーニーの意外な正体が明かされる種明かしパートがきれいに分かれている。アンナが湿地屋敷の絵を描く婦人と出会うのも、湿地屋敷に新しい家族が越してくるのも、マーニーが彼女も前から姿を消してからからである。もちろん物語としては面白いし、映画版ではオミットされた種明かしもあるのだが、ことアンナの成長を描くという意味においては少し弱い。

そこで、今回の映画版では、ふたりのふれあいパートと種明かしパートを並行して描くことで、杏奈がマーニーを「許す」場面をクライマックスに置いて本作が杏奈の成長物語であることを明確化している。それだけでなく、プロットをない交ぜにして物語的にも映像的にも虚実の境界をあいまいに描くことで、杏奈がマーニーに感じているであろう複雑な心境──魅力的だが、「本当の人間」かどうかもわからないことへの不安や不信、とまどいなど──を観客自身も追体験できるし、映画が向かう方向やマーニーという存在についての興味の持続も原作以上に叶っている。

ことほど左様に、前作での失敗点を踏まえた様々な創意工夫によって、本作を映画として新たに作り直してくれた米林監督に、僕は敬意を表するものである。



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もちろん気になるところもあった。

とくに、漁村に暮らす無口な老漁師・十一(といち)には、中盤に杏奈と関わる何らかのエピソードを与えてやるべきではないだろうか。彼の主な出番は、映画前半部で満潮のために湿地屋敷に取り残されてしまった杏奈をボートで無言で助け出し、その後、映画の中盤から後半にかけてほとんど出番らしい出番がないままにラストで再登場して、ちょっとした見せ場を演じる。しかし現状では、このラストシーンに少々突飛な印象が目立っているのが否めない。無口で他人を寄せ付けない十一は、まさに杏奈の鏡像/分身であるのだから、彼自身が杏奈と同様に何らかの変化を経たことを示すような場面をひとつ*13どこかに入れておけば、その説得力も増しただろう。



また、キャストのクレジットを表示するタイミングもいかがなものだろうか。

本作のキャストは、杏奈がこれまでの体験を経て成長の小さな1歩を踏み出したことを示す、静かな感動を呼ぶエピローグが進むなかでクレジットされる。これだけでも、観客を映画世界からグッと引き離してしまいかねないが、加えてこのクレジットは、キャストの演じた役名を併置していないので、杏奈やマーニーといった主人公格はともかく、「誰がどの役柄を演じたのか」という疑問に思わず意識が向いてしまいはしないだろうか。

“北海道枠”として全員参加を果たしたTEAM NACSのメンバーがズラリと表示されたときなどは、とくにノイズになってしまっている気がするのだけれど……*14。やはり、本作のスタッフ・クレジットがそうであるように、没入感の強い映画である本作は、きちんと物語が終焉してからエンド・クレジットとしてまとめたほうが良いだろう。



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とはいえ、言ってはみたものの上述の点は細かな部分だ。

ラスト、柔らかなギターの音色に合わせて「わたしはひとりで皆の輪の外にはみ出していても大丈夫。けれど、わたしのことを誰か覚えていてくれる人がいるだろうか」と静かに歌うプリシア・アーンの歌声*15が聞こえたとき、目じりには思わず涙が浮かんだ。

米林監督は本作の企画意図として「大人の社会のことばかりが取り沙汰される現代で、置き去りにされた少女たちの魂を救える映画を作れるか。(……中略……)ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品を作りたい。この映画を観に来てくれる「杏奈」や「マーニー」の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています」*16と述べているが、前作『アリエッティ』から格段に進化し、杏奈というひとりの少女の小さな成長を瑞々しく描ききった本作は、それがきちんと叶えられた結晶だ。

僕は、この映画が大好きである。

*1:原作小説については現在数種類のヴァージョンで発売されていますが、筆者はジョーン・G・ロビンソン『新訳 思い出のマーニー』越前敏弥・ないとうふみこ訳、KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年──を参照しました。

*2:TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』a.k.a.タマフル”内での用語でいうところの「アマルフィ効果」。

*3:前作で、非常に妙ちきりんな場所にポンと置かれていたタイトルも、杏奈が札幌の街を特急で出発した直後という、的確なタイミングで表示されている。

*4:杏奈の性質はユング派心理学者・セラピストであるエレイン・N・アーロン氏の言葉を借りれば“HSP=The Highly Sensitive Person(とても敏感な人)”に近い。杏奈の本作の描き方は、これに照らし合わせても非常に好感が持てると、僕は思う。(エレイン・N・アーロン『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』冨田香里・訳、講談社、2000年あるいはソフトバンク クリエイティブ、2008年を参照のこと)

*5:だから、委員長に対して思わず「太っちょブタ!」と罵ってしまったとき、いかに杏奈が追い詰められていたかがわかるだろう。

*6:後のエピソード──湿地屋敷の絵を描いていた婦人・久子との出会い──では、この設定によって原作よりも自然な流れで展開することに成功している。

*7:本作で作画監督を担当した安藤雅司は、作画監督としては『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督、2001)以来のスタジオ・ジブリ作品への登板となった。この間、『東京ゴッドファーザーズ』(2003)や『妄想代理人』(2004)などの故・今敏監督作品や、『ももへの手紙』(沖浦啓之監督、2012)などのキャラクター・デザイン/作画監督を担当していたこともあってか、今回の『マーニー』の作画はややリアル目な描線が映えるもので、現実と地続きの世界を描く本作に、より適した魅力を持つものとなっている。

*8:思えば、本作のポスターのひとつで、後ろで手を組んだマーニーがこちらを見つめているイラストのもの──上の引用図──があるが、この図案は僕ら観客が杏奈と視線を共有するための下準備を意図していたのかもしれない。また、見る位置によってマーニーが現れたり消えたりする、この図案を用いた大き目のパネルを映画館でご覧になったかたもあるだろうけれど、これも観客=杏奈という構図を打ち出すための気の利いた仕掛といえるだろう。このパネルを見たとき、僕らは劇中の杏奈と同じく、現れては消えるマーニーの姿を探さずにはおれないからだ。

*9:また、ふたりが七夕の夜に出会うのも、これ以上ない素敵なタイミングではないだろうか。

*10:もちろん、これは悪いことではない。ただ、こと身体的特徴──瞳の色に限らず、背の高い低いなどなど──は子供たちにとって、そしてまた大人たちにとって格好のネタになってしまう──また、反省すべきこととして、僕らもまたしてしまいがちである──ことは、皆さんもご存知のはずだ。

*11:また、クォーターからイメージされる寄る辺なさは、杏奈がマーニーと同じ世界には行き切れないことを、当初から予感させる。

*12:自らの恐怖の対象だったサイロに登って出られなくなってしまったマーニーを救おうとした杏奈に対して、マーニーが図らずもとってしまった行動のせい。ところで、このシーンで高所恐怖表現は、明らかに『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1958)に登場するドリーズーム──カメラを後ろに移動しながら、同時に被写体をズームアップすることで、画面の遠近感だけを変える手法──の再現だが、思えば、自分の理想像となる存在と出会ってトラウマ的恐怖を解消しようとする主人公のさまよいを描くという点で、共通点が多いのかもしれない。

*13:原作では、彼が気を失ったアンナを助ける場面がある。ちなみに原作で彼の名前はアマリンボーといい、11人兄弟の末っ子として生まれた彼に母親が「11人目なんて、この子は余りんぼだよ」と愚痴ったからという、気の毒にもほどがある名前の由来の持ち主。そりゃ、だんまりにもなるよ!

*14:やっぱり、ちょっと笑ってしまって「どうでしょう」と首をひねった次第。

*15:主題歌「Fine On The Outside」は本作のための書き下ろしではなく、アーンが自身の孤独だった高校生活を歌った既存曲。とはいえ、原作にも映画版にもある「わたしは魔法の輪の外側にいる」という一節を思わせるような内容を歌う歌詞は、まるでアンナ/杏奈にそっと寄り添うかのような、これ以上ない本作の主題歌となった。

*16:web「『思い出のマーニー』公式ホームページ」内「企画意図」(http://marnie.jp/message/index.html)、2014年7月26日閲覧。