『バートン・フィンク』についての雑考

バートン・フィンク』……ジョエル・コーエン監督。1941年、ニューヨークの舞台で劇作家として活躍していたバートン・フィンクは、ハリウッドの映画会社キャピトルのリップニッツ社長に招へいされた。そこで依頼されたのは低予算のレスリング映画の脚本だった。バートンは安ホテルに缶詰になって脚本に取り組むが、一向に進まない。隣に部屋を借りていた陽気な保険セールスマンのチャーリーと仲良くなったことで、バートンは孤独なハリウッドで友人を得るが、彼の筆はなお進まない。そんなおり、バートンが当代最高の作家と心酔するビル・P・メイヒューと出会う。バートンはビルにアドバイスを求めようとするが、酒に溺れた彼の腕はすっかり駄目になっていた。そんなビルに献身的に接する秘書兼愛人のオードリーに心惹かれたバートンは、ある晩、彼女とベッドを共にする。しかし、彼が翌朝目覚めてみると、オードリーは何者かに惨殺されていた……。


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本作は1991年にコーエン兄弟によって発表された不条理劇。単なるスランプ作家の物語かと思っていたら、ひどく抽象的な表現が続いたり、クライマックスに至っては勢い超現実的な画面が展開されたりなど、何重もの暗喩に満ち満ちた作品であって、非常に不思議な印象を観客に残すだろう。

とはいえ、本作でバートンが辿る道程は、大まかには「楽園追放」の物語として捉えられると考えられる。なんとなれば四文字熟語に落とし込める作品であるにも関わらず、本作がなんとも奇妙で複雑怪奇な印象を観客に残すのは、本作がこの楽園追放を大きく分けて3つの階層を同時並列に語っているからではないだろうか。そして、この発想に基づいて本作を観るとき、曖昧模糊として不安定な印象とは裏腹に、むしろ論理的に組み上げられたひとつの成長譚として捉えることが可能になるはずである。

以下は、それについての雑考である。

※過去作ですので、本当はいつものように簡単に終わらせるつもりだったものの、すっかり長くなったので別記事としました。





◆以下、ネタバレありますのでご注意ください◆



1. オイディプス王
まず、本作を “バートンが「エディプス・コンプレックス」を克服する物語” だと捉えればどうであろうか。エディプス・コンプレックスとは、幼子が「父を殺し、母を娶りたい」という欲望を持っているとする、精神分析の始祖フロイト(Sigmund Freud, 1856 - 1939)が「オイディプス王の悲劇」からヒントを得て打ち立てた説である。


これはすなわち、母が自分だけを愛し、すべてを世話してくれる母子一体の楽園に暮らし続けたいという幼子の心理(=エディプス的欲望)を説明するものだ。

しかし、これでは幼子は一個の人間として成長できない。そこで、この心理状態を断ち切るのが「父」による介入である。これは幼子(ここでは男児)にとって「自身の男性器が切り取られるのではないか」という恐怖──「去勢不安」──に置き換わる *1。幼子が自身のエディプス的欲望と去勢不安とのあいだで葛藤し、ついに母子一体の楽園を諦めて去勢不安を自らの内に抑圧したとき、そのエディプス・コンプレックスは克服されるのだ。この一連のプロセスを「去勢」と呼ぶ。

もちろん、母子一体の楽園などあるわけもなく、これは幼子が持った幻想に過ぎない。つまり父の介入=去勢とは、幼子がやがて意識せざるを得なくなる自身の欲望と現実との大きなギャップのことである。


さらに、フロイトの理論を継承・発展したラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan, 1901 - 1981)によれば、この去勢こそ、幼子が言葉を覚える重要な契機だとしている。すなわち、去勢によって失われた母という存在の空隙(=無)を埋める代理物として駆動するシステムとして言語は捉えられているのだ。つまり、われわれが死や不在といった “無” なる概念を、イメージ──実体とでもいい換えればよいだろうか *2──ではなく、自ら納得できるかたちで獲得するには、 “無” という言葉を修得しなければ不可能だからだ。いいかえれば我々が、いまそこにない “無” を説明するとき、それは言語的な方法によってしか説明できない *3、ということである *4


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本作にも、このエディプス・コンプレックスの要素が散見される *5。まず、主人公バートンは幼子を象徴する。ニューヨークでは名の知れた劇作家であるバートンは、常に周囲からおべっかをやかれ、彼自身も「新たな劇を僕が創り出す」という理想を自信満々で周囲に語る。ラカンによれば、母子一体の楽園において幼子は、自身が母の庇護のもとにあることを当たり前と感じることからの逆説的な万能感を持つとされるが、映画前半のバートンの姿はそのような感覚に満たされた幼子そのものと考えられる *6

しかし映画は、バートンがハリウッドに招へいされてB級レスリング映画の脚本を依頼されたところから狂い始める。バートンが脚本を一切書けなくなってしまうのだ。

スランプに陥ったバートンがハリウッドで出会う登場人物のうち、彼の象徴的な父母にあたるふたりがいる。それは、彼が敬愛する先輩作家ビル・メイヒューと、その愛人オードリーのカップルである。バートンはスランプ脱出のヒントをビルに求めるが、そのうち彼が酒を呑んではわめき散らし、オードリーを折檻する強権的でどうしようもない男であることが判明し、バートンは幻滅する。その一方で、そんなビルを献身的に愛するオードリーに、バートンは惹かれはじめる。これはすなわち、バートンの「父(=ビル)を殺して、母(=オードリー)を娶りたい」という欲望にほかならない *7


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アメリカ映画の物語は、エディプス・コンプレックスを抱えた主人公ならば、これが実現することなく克服する展開が基本だ。いわゆる成長譚ないし貴種流離譚には、この構図がよく見受けられるが、そこにはすでに「母」なるものの欠如が織り込まれていることを思い出したい。たとえば『スター・ウォーズ』(1977)、『マトリックス』(1999)、『ヒックとドラゴン』(2010)などの主人公を思い出そう。彼らの冒険は、母、あるいは母的ななにか──養母や保育器など──を失うところから始まっている。

しかし本作では、バートンのエディプス的欲望がやがて1度は実現することになる。「あらすじだけでも翌日の朝、社長に話すように」とプロデューサーから厳命されたものの、バートンの筆は深夜を回っても一向に進まない。煮えきった彼は、オードリーをホテルの部屋に呼び寄せ、助けを請う。オードリーは、脚本が書けずに狼狽するバートンを「こんな夜は誰かに理解されたいと願うものよ」とベッドに誘い、ふたりは一夜を共にする。

このときのカメラワークは実に象徴的だ。ベッドで抱き合うふたりを捉えたカメラはやがて横に逸れ、そして洗面所に行き着く。さらにカメラは洗面台の流し口の穴に焦点を合わせ、ズームしてゆく。カメラと穴は、それぞれ男女の性器をしばしば象徴する。すなわち、ここでのカメラワークそのものが、いわゆる“挿入”を示していると理解できるだろう。

しかし、その情事は単に秘め事には終わらなかった。カメラは流し口をさらに進み、下水溝と思しきパイプにまで到達する。すると、どこからともなくビルらしき “男” のわめき声が聞こえてくる。バートンがオードリーをビルから──幼子が母を父から──奪おうとした罪が、ほかならぬ「父」に知れたのだ。それが証拠に、翌朝バートンが目を覚ますと、隣で眠っていたはずのオードリーは無残にも殺されていたのである。母を欲望したバートンに父が介入──去勢──したのだ*8


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オードリーの死体を見つけたバートンは、このホテルにやってきたときから親しくしていた隣部屋に住む保険セールスマンのチャーリーに助けを求める。無実を主張するバートンに、チャーリーは「お前を信じるから、落ち着け」と言って、オードリーの死体を部屋の外にどこへもなく運び出したのだった。

ひとまず社長のもとへ出向いたバートンが脚本の進捗具合をはぐらかして部屋に戻ってくると、旅支度をしたチャーリーがバートンの部屋にふたたびやって来た。チャーリーはバートンに不思議な小包を「これは俺の人生の大切なものが詰まった箱だ。あんたなら信用できるから、俺が戻るまで預かってくれ」と渡す。

チャーリーが去ったあと、バートンは中身が気になりながらも、封を開けるのを躊躇い、箱をタイプライターの脇へ置く。すると、急にバートンは脚本に取り掛かりはじめる。それだけでなく、いままで一向に進まなかった筆がどんどん進み、夜を徹して彼は映画の脚本を完成させるのだった。


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さて、チャーリーがバートンに託した箱の中身は何であろうか。それは本編で明かされることはない。しかし、後の展開から鑑みるに、ひとつの予想が立つ。おそらく箱の中身は、オードリーの首ではないだろうか。

後の展開で、保険屋チャーリーなる人物は存在せず、その正体は殺人鬼ムントであることが、ホテルにやってきたふたり組の刑事から告げられる。その手口が、被害者の首を切り取って持ち去ることから、チャーリー=ムントはオードリーの死体を持ち去ったあと、彼女の首を切って箱に詰め、バートンに渡したのだろう *9。では、箱にしまわれたオードリーの首は、いったいなにを意味するのか。

精神分析において首もまた男性器を象徴するイコンだ。首を切るとは、まさしく去勢の象徴としてしばしば分析される。「箱の中身=オードリーの首=男性器」と仮定するならば、バートンがオードリー(=母)を欲望した罪によって切り取られた彼女の首は、バートンにとって彼自身の男性器を意味し、その箱の中身を検めることは、バートンがまさしく去勢されたことを証明してしまう *10。つまり、バートンに託された箱は、彼の「父によって男性器を切り取られるかもしれない」という去勢不安そのものなのだ。そしてバートンが、その箱の中身を検めることを止めたことは、彼が葛藤の後に去勢不安を箱のなかに抑圧し、エディプス・コンプレックスを克服したことの象徴だと考えられる。

事実、箱をタイプライターの隅に追いやってからは、彼がオードリーについて思いを巡らすこともないし、その後、彼が一挙に脚本を書き上げたことにも納得がいく。前述したようなラカン的考察に基づけば、バートンは父の去勢を契機として、脚本を紡ぐ「言葉」を手にしたといえるからだ。こうしてバートンは、作家として生まれ変わったのだ。母子一体の楽園 *11をあとにして。



2. 天孫降臨
脚本を書き上げたバートンは、うれしさのあまり街のダンス・パーティに繰り出して踊り狂う。このとき彼は「俺は作家だ、クリエイターだ!」とわめいて顰蹙(ひんしゅく)を買い、まわりにいた水兵や陸兵と乱闘騒ぎになる。この台詞は重要だ。クリエイター(creator)とは「創造主」すなわち「神」を意味する言葉でもある。ここにきて、バートンは神を象徴する人物となる。彼は万能の神であるがゆえに「自分の最高傑作」といえるレスリング映画の脚本を書けた、というわけだ。


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本編には神の対立項、すなわち「悪魔」も登場する。それはもちろん、後に殺人鬼であることが明かされるチャーリーである。その明け透けな態度に人懐こい笑顔を浮かべて、チャーリーはバートンに近づく。チャーリーは、バートンが不平を漏らせば「その通りだ」と頷き、「人々が俺を悪し様に貶すんだ」と嘆いてみせ、そしてオードリーの死体を処理してやる。このように悪魔が正体を隠して神を巧みに誘惑する様子が、実は映画前半で描かれている。そう、チャーリーはたしかにセールスマンである。しかし、彼の専門は保険ではなく、魂のバイヤーなのだ。そんなチャーリーにバートンは「僕の友達は君しかいないんだ」と涙ながらに訴え、すがりつく *12

そして、クライマックスで描かれる超現実的な光景も、チャーリーがまさしく悪魔であることを示すだろう。バートンがダンス・パーティから部屋に戻ると、チャーリーを捜査する刑事ふたりがおり *13、バートンは彼らに共犯の疑いでベッドの柵に手錠で繋がれてしまう。そこへ異様な熱気を伴いながらチャーリーがやって来る。廊下へ出て、チャーリーを迎え撃つ刑事たちだったが、チャーリーは構わず彼らに向かって突進。彼の歩いたあとの廊下の壁は炎に包まれ、燃え盛る。この炎の表現は、まさしく地獄の業火にほかならない。

手にしたショットガンで刑事たちを射殺したチャーリーは、バートンのもとへやって来る。「なぜ僕を選んだ?」と問うバートンに、チャーリーは「お前が話を聞こうとしないからだ。お前は後から俺の住処へ上がり込んできたのに、音がうるさいと文句を言う」となじる。天使ルシファーを堕天使(=悪魔)として楽園から追放し、地獄に堕として住まわせたのは、誰あろう神である。その神たるバートンが、地獄に堕ちてきたのだ。バートンはチャーリーに「すまない」と謝る。「気にするな」とバートンを赦したチャーリーは、人間とは思えぬ怪力でバートンの繋がれたベッドの柵を捻じ曲げ、彼を手錠から解放するのだった *14。神が悪魔に屈した瞬間だ。


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その後、夜が明けて、リップニッツ社長に呼び出されたバートンはせっかく書き上げた脚本(=自身の最高傑作)にボツを喰らう。「これはB級レスリング映画だぞ。貴様の文学的タッチなど誰も求めてないし、こんなもの誰でもコピーできる」と紛糾する社長はさらに「お前はわが社に雇用されている身だから、給料分は脚本を書かせてやる。しかし、映画には絶対にしない」と、バートン飼い殺しを宣言する。バートンは自身の創作物を否定され、ハリウッド映画界から抹殺された。もう誰も神の言葉を聞かない。

つまり「神は死んだ」のだ。




3. 迫害されし者たち
「神は死んだ」とは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 - 1900)が残した言葉として知られる一節だ。ニーチェは19世紀後半に活動して『ツァラトゥストラはかく語りき』(1885)や『善悪の彼岸』(1886)などの著作を残しながら、死後になって、ようやくその思索が認められはじめた思想家だ。彼は徹底して、産業革命の後に科学時代に突入した時代、それまで西欧諸国を永らく覆っていた倫理や善悪の観念──つまり、キリスト教的な善きこと総て──に対して異を唱えた。それが「神は死んだ」という言葉に繋がったのだ*15

ニーチェの思想のなかで最も有名なもののひとつに「超人思想」がある。簡単にいえば、神が死んだ──これまでの倫理や善の欺瞞が明らかになった──今日において、世界の理は優れた人物たちによってすべからく書き換えられるべきだという考えで、それを成す最も優れた者たちをニーチェは「超人」と呼ぶのである*16

ニーチェのこの思想を恐ろしくかいつまんで簡単にまとめるなら、キリスト教の教えなんて今日日(きょうび)アテにならないんだから、きちんと自分の頭で物事の善し悪しを考えて実践しなさいよ、ということである。そして本来であれば個人個人がそれぞれに目指すべきものとしての彼の思想を、その「超人」といった言葉づかいを原理主義的に曲解して政治利用した者たちがいた。ナチスである。

ナチスといえば、もはや説明の必要もあるまいが、アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler, 1889 - 1945)を党首に置く「国家社会主義ドイツ労働者党」の通称だ。1933年にドイツ政権を民主選挙で勝ち取ってから極度な優性人種主義を推し進め、ユダヤ人の迫害・大量虐殺を引き起こしたのは知ってのとおりだ。そして、その優性人種主義といった思想の根拠の一端に、ニーチェの思想が引き合いに出されたのだ *17。彼らは、神に代わって優性人種(=超人)たるアーリア人の王道楽土を築こうとしたのである。


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本作の舞台となるのは1941年だ。本作のラストで、リップニッツ社長が軍に招へいされたと語っていることからも判るように、1941年はアメリカが第2次世界大戦に参戦した年である。アメリカの直接的な参戦理由は、もちろん日本による真珠湾攻撃だが、やがて欧州において対ナチス戦を繰り広げてゆくことになる。

ここで思い出したいのが、バートンがユダヤ系であるという設定だ。彼の受難は、そのまま当時の──そして過去から永らく続く──ユダヤ人のそれと重なるだろう。

その証拠に、たとえばチャーリーがホテルを去ったあとに捜査のためにやって来た刑事ふたり組のバートンに対する態度を思い出そう。刑事たちはバートンがユダヤ系であるがゆえに、名刺を手渡さず床に投げ出したり、侮蔑的な言葉でバートンをいびる *18。また、ついに悪魔としての本性を現したチャーリー=ムントが刑事たちを惨殺するときに「ハイル・ヒトラー」と捨て台詞を吐いているのも象徴的だ。


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また、バートンが部屋に置かれた机の引き出しのなかにあった『創世記』を読むシーンがあるが、ここで彼が読むくだりが“新バビロニア王国のネブカデネザル2世が見た不吉な夢の意味を、彼が登用していたユダヤ人ダニエルに問う”部分ということからも、バートン=ユダヤ民族の受難的意味合いを強調するだろう。

本作で引用されたネブカデネザル2世の夢とは──頭が純金、胸部と腕部が青銅、脛が鉄、足が鉄と陶土でできた巨大な像が現れるが、そこに投げつけられた1個の石によって像は粉々に砕かれ、今度はその石が山のようになって拡がる──というような内容だ。ダニエルはこれを次のように読み解いた。

純金の頭はネブカデネザル2世が統治する現在のバビロニア王国を意味し、そのほかは後に続くバビロニアよりも劣った国々を意味する。バビロニア王国も含め、これらはユダヤ人にとって異邦人の国々である。そして、そこに投げつけられた1個の石は神の千年王国が到来することを意味する。つまり、神の国ユダヤの国が異邦人の国をついに滅ぼすであろう、というのだ。


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ネブカデネザル2世が見た夢は、やがて来たる神の千年王国としてユダヤ民族の希望を表しているといえるが、その一方で、自国を失ったユダヤ民族の放浪と迫害がいつとも知れぬその御国の到来まで延々と続くことを意味していた。それから時代は下って1941年になっても、ネブカデネザル2世の見た夢のとおり、彼らは徹底的な支配と迫害を受けていた。ナチス・ドイツの手によってだ。ユダヤの民のもとに、神の千年王国はまだ来ない*19

しかも皮肉なことに、ユダヤ民族の神となったはずのバートンは、当のユダヤ民族からもそっぽを向かれてしまう。前述のように、映画の終盤でリップニッツ社長に脚本をボツにされたバートンは、ハリウッド映画界での生命線を絶たれてしまう。ハリウッドは、ユダヤ系が建てた街である。




おわりに. 楽園は何処にありや
本作のラスト・シーンを見てみよう。失意のバートンは、ボツになった最高傑作と箱を持って、ふらふらと海岸へとやって来る。その彼の前に、ひとりの女性がやってくる。彼女はバートンの持っていた箱に気づき、「中身はなに?」と尋ねるが、彼は「わからない」としか答えられなかった。

これはもちろん、バートンが “箱の中身” を抑圧したからにほかならない。先に、箱の中身はオードリーの首ではないか、と書いたが、ここではもはや、それが事実かどうかは問題外となる。箱の中身がオードリーの首であるかが重要なのではなく、その箱がオードリーの首を象徴しているという機能のほうが重要なのだ。象徴とは、言語の機能にほかならない。

やがて、彼女は砂浜に腰掛けて海を眺めはじめる。その構図は、バートンがホテルの部屋でたびたび眺めた壁掛けのイラストそのものであった *20。バートンはこのときなにを思っていたのか──映画は明確な答えを出さずに幕を下ろす。


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ところで、本作の中盤にバートンとビル、それにオードリーの3人が連れ立ってピクニックに出かけるシーンがある。そこで酒に酔っ払ったビルは、立小便をしながら大声で「オールド・ブラック・ジョー」を歌いはじめる。

「オールド・ブラック・ジョー(Old Black Joe)」は、“アメリカ音楽の父”とも称されるフォスター(Stephen Collins Foster, 1826 - 1864)が、1860年に発表した曲である。オールド・ブラック・ジョーという架空の黒人召使が、彼の郷愁と哀愁を歌うというものだ。

  私の心が若く陽気だった日々は過ぎ去り
  綿畑で働く友人たちも逝ってしまった
  天にあるより良い場所から
  彼らが私の名を優しく呼ぶのが聞こえる
  オールド・ブラック・ジョー
  
  私も行こう 頭を垂れて祈りながら
  私を優しく呼ぶ彼らのいる あの場所へ
  オールド・ブラック・ジョー


かつての良き日々は2度と戻らず、もはや天に召されるほかに救いはない──と静かに語るこの奴隷の歌に、これまでみてきたバートンを重ね合わせてみるとどうだろうか。

母子一体の楽園には既に戻れず、約束された神の千年王国もいまだ訪れそうにない。しかも悪魔に屈し、地上という煉獄にハリウッドの奴隷として留まるざるをえなくなった。もし、楽園があるとするならば、それはホテルの壁掛けイラストのように幻影のなかか、あるいは遥か向こうの地平線のように、いつともどことも知れぬ彼方にしかあるまい。どちらにせよ、バートンが楽園にたどり着くことは決してないだろう。なぜなら、そんなものは、もとより存在しないのだから。


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以上、大まかに3つの階層から、本作『バートン・フィンク』を「楽園追放」の物語として捉え、考察を試みた。果たして、すべてを失ったバートンにとって、本作の物語はアンハッピー・エンドなのだろうか。

しかし、そのようにばかり考えるのはいささか早計だ。古今東西にある様々な「楽園追放」の物語が、すべからく何を意味しているのかを思い出したい。それは “われわれが「人間」になること” だ。裏を返せば、かつての楽園に留まる限り、われわれは「人間」たり得ない。

それは、バートンとて例外ではない。本作のラストで、バートンは「人間」になる第1歩をようやく踏み出したのだ。


     ※

*1:女児の場合は、すでに男性器の欠けた不完全な状態で自らを産み落とした母を恨み、父へとその愛情を移行して自身の欠けた男性器の代わりに赤ん坊を得ようとすることで、母との同一化を諦める……というのがフロイトの考えだ。

*2:と、いったところで、これは原理上不可能なのだが……。

*3:穴を絵で表すことは原理上不可能なように。

*4:やがてわれわれは、母という欲望の失われた対象に代わるものを探し始める。その、かつては母が埋めていた欲望の隙間を埋めてくれるはずの──そして、実際には在りはしない──ものが、いわゆる「対象a」である。

*5:精神分析的解釈においては「父−母−子」の関係性は、あくまで象徴であって、必ずしも実際の血縁関係を意味しない。というのも、これは 幼子──あるいは、いままさにエディプス・コンプレックスに晒されようとうする当人──にとって主観的な体験だからである。

*6:また、バートンの自分勝手に喋りたいだけ喋るという自分本位な性格も、彼の幼子性だろう。

*7:ビルやオードリーがバートンよりもかなり年上に設定されているのも、よりこの仮説を裏付けるだろう。

*8:ところで、バートンがホテルで耳にする音のなかに、男女の性行為を思わせるものがある。チャーリーの部屋とは反対側の隣室から漏れ聞こえる情事の音にバートンは耳をそばだてる。その音が、彼にはどこか不気味なものに聞こえているようだ。この描写は、幼子が見るとされる「原光景」を思わせる。▼原光景とは、幼子が見てしまった父母の性行為の様子だといわれ、幼子に去勢不安を抱かせる重要な契機のひとつとされる。というのも、この光景は幼子にとって、自分だけを愛して満たしてくれると思われた母が父に奪われる光景であると同時に、母が自分ではなく父を求めている光景でもあるからだ。この理想と現実とのギャップは、幼子に大きなショックとして刻まれることになる。

*9:とはいえ、チャーリーがオードリーを殺害したかどうかは明言できない。むしろ、父の介入によって母への欲望を諦めた幼子=バートン自身が、自罰として無意識のうちにオードリーを殺したと考えることもできるだろう。

*10:さらにいえば、“オードリーの首=バートンの男性器” というイメージは、つまるところオードリーがバートンにとっての男性器を持った万能の母──いわゆるファリック・マザーであったことも示すだろう。

*11:ところで、バートンが缶詰になる安ホテルは、母の胎内を象徴すると考えられる。ホテルのなかは、常にジメッとした熱気に包まれ、その熱で糊がまるで体液のように溶け出して壁紙は剥がれ、そこから肉色のひだ状の素地が現れる。音はいつも奇妙に反響し、くぐもって聞こえる……などといった描写が、この仮説を証明しないだろうか。▼また、客の姿がバートンとチャーリー以外には具体的に登場しないのも、この舞台設定の抽象性/象徴性を高めているだろう。このホテルにほかにいるとすれば、従業員のチェットとピートだけである。彼らは、チェットの「なんでもお申し付けください」という台詞のとおり、バートンになに不自由ない──胎児が羊水に浮かんでいるときに享受する母体のように──サービスを提供してくれることだろう。チェットの登場シーンも興味深い。彼が姿を現すのは、フロントの足許にある穴倉からだ。

*12:バートンが急に脚本を書き上げられたことも、彼がチャーリーに誘惑されたからとしたらどうだろうか。エデンの園に暮らしていたアダムとイヴは、悪魔の誘惑によって「知恵の木の実」を食べ、それによって神から楽園を追放される。知恵とはまさしく言葉である。

*13:ここで彼らは、ビルがチャーリーによって殺されたことを報じる新聞をバートンに見せる。チャーリーは、バートンの「父を殺したい」という禁じられたはずの欲望すら叶えてみせる。

*14:このとき、チャーリーは「あの箱の中身は、実は俺のものではない」とバートンに語る。このことからも、箱の中身がバートン自身のなにかを象徴するものと考えられる。

*15:ホテルのエレベーターを操作する老人ピートに、バートンが「聖書を読んだことあるかい」と尋ねるシーンがある。ピートはこれに「読んだような、読まないような……。でも聞いたことはある」とぼんやりとした表情で答える。神の言葉の影響力の薄れていることを暗に示すかのようなシーンだ。しかも、それをピート=ペテロが言っているのだから皮肉極まりない。

*16:人間が超人に至るには3段階あるとされ、ニーチェは社会に隷属した人種を「駱駝(ラクダ)」、その上に立つ支配的人種を「獅子(ライオン)」、そしてそれを凌駕する新たな人種を「幼子」と呼び、超人とはこの幼子の境地に達した者のことだとした。というのも、幼子はその純真さゆえに変化を恐れない──過去をすぐさま忘れることができる、すなわち自身の価値観や在り方を常に刷新できる──からだ。スタンリー・キューブリックが映画『2001年宇宙の旅』(1968)において、これをなぞったのは有名。

*17:ニーチェ自身は既に死亡しており(1900年没)、彼の妹らがニーチェの著作をナチズム思想に見合うよう改変し、発行した。このため、ニーチェの思想は長らくナチ的としてかえりみられなかった。▼一応ここで補足すると、ニーチェのいう「超人」は必ずしも「ひとり」を意味しない。超人は、同時に何人でも、誰でもがなり得る存在であって、超人思想とは──たとえばニーチェが徹底批判したキリスト教がそうであるように──1個の決定的な価値観やルールがあまねく世界を支配するのではないのだ。超人たちはそれぞれが決めた価値観を自らで実践し、他の超人には干渉しないのである(他の超人に影響されて自己価値観を変えるのはOK)。先に「最も優れた者 “たち”」と複数形で記したのは、このためである。

*18:マストモノッチという名前から、イタリア系移民ではないかと推察される。

*19:ここで、バートンの手掛けた舞台劇が冒頭に登場するのを思い出したい。劇は、主人公 “ボロをまとった聖歌隊” たちが、希望の光を見出して終幕を迎える。聖歌隊という単語から、この劇が宗教的寓話であることは想像に難くない。つまり、希望=救世主が彼らのもとに舞い降りた、という感動のラストだったのである。これを見た観客からは拍手喝采、新聞の批評欄には「恥ずかしいほど」の絶賛が書かれているのにバートンの顔はどこか不満げだ。これもまた、彼がユダヤ系であることに関係するだろう。▼なぜなら、ここで舞い降りた救世主=神は、ユダヤの神ではないからだ。このラストに、遠方から “魚売り” の声が聞こえるという演出があったのを思い出そう。この演出は、まさに神の再来を告げる福音であるが、問題なのは、魚が原始キリスト教のシンボルだということだ。

*20:バートンは彼女に「君は picture に出てた人?」と尋ねる。もちろんこれは、字幕にある「映画」と同時に──むしろ──ホテルにあった「絵画」の意をも示すダブルミーニングである。