2014年鑑賞映画 感想リスト/141-150

『眼下の敵』……ロバート・ミッチャム監督。第二次世界大戦中の南大西洋トリニダードへ向け航行中のアメリ駆逐艦ヘインズは、浮上航行中のドイツUボートを発見し、駆逐艦と潜水艦の一騎打ちが始まる。Uボート駆逐艦のソナーを妨害しながらその直下を潜り抜けてやり過ごしたり、かたやUボートは必ずやこの進路を取るであろうと予測したりと、それぞれのリーダーが知力を尽くし、互いの先を読みあいながら展開される一騎打ちに、手に汗握る。しかも、その後に訪れる思いもよらないクライマックスには、非常に胸が熱くなった。ふたりのリーダーは、じつはふたりともある種の「戦争嫌い」ではあるが、彼らが持つ一家言が見事に昇華され──なおかつ、タイトルの真意を描いてみせ──るそのクライマックスからラストまでは、見事というほかない。米軍全面協力のもと、本物を用いて撮影されたという爆雷投下シーンなども迫力満点だ。


トト・ザ・ヒーロー』……ジャコ・ヴァン・ドルマル監督。生まれたときに向かいの金持ち家族の息子アルフレッドと取り違えられたのだと信じるトマは、自分の人生も、愛する姉も奪い去ったアルフレッドを憎むようになるが──不可思議なミステリ。非常に不思議な不思議な作品。映画は年老いて老人ホームに暮らすトマの回想を軸に進むけれど、話は完全にトマ主観で時系列は入れ替わるし、彼の妄想は紛れ込むし、そもそも彼は痴呆気味なのじゃないかという「信頼できない語り手」ぶりに、たとえば果たして彼の宿敵アルフレッドが本当に存在するのかどうかも判然としなくなってくる。しかし、巡り巡って訪れるラストの展開には、なるほど本作がトマの主観のみの世界であるからこその不思議な感動が待っている傑作だ。


吸血鬼ゴケミドロ』……佐藤肇監督。伊丹空港に向けて航行中だった旅客機は謎の発光体に遭遇して墜落、副操縦士の杉岡は生存者を束ねて救助隊を待とうとするが、やがて生存者がひとりずつ変死を遂げてゆく──松竹製作の怪奇映画。正直、いま観ると演出がちょっと間延びしていたり、画面がチャチに感じられる部分も多いが、それを補って余りある、本作に込められた怒りの力が凄い。戦争、要人暗殺、政治汚職、悪徳企業、性差別に人種差別、それらをつかさどる人間のエゴに向けられた怒りが満ち満ちていて凄まじい迫力で、終末感溢れるラストもある意味で溜飲の下がるものだ。また、謎の発光体に遭遇したことで吸血鬼に変貌してしまう寺岡を演じた高英男の存在感も、ハビエル・バルデムが『ノーカントリー』(コーエン兄弟監督、2007)で演じるシガーばりの恐ろしさ。


『感染』……落合正幸監督。ある晩、財政危機で崩壊寸前の病院に謎のウイルスに侵された患者が運び込まれてくるが、やがて院内で奇妙な出来事が巻き起こりはじめる──『夜にも奇妙な物語』のなかの一篇「急患」(同監督、1991)を長編化したパンデミック・ホラー。本作で興味深いのは、その舞台が街中にある総合病院であることだ。人里離れた絶海の孤島や山奥にある洋館や小屋ではないから、キャラクターたちはいつでもそこから逃げ出せるはずである。にもかかわらず誰ひとり病院から出て行こうとせず、その場に釘付けにされたままだ。この何故だか判らないが、なんとなく出て行けないという恐怖は『皆殺しの天使』(ルイス・ブニュエル監督、1962)を髣髴とさせるもので、やがて院内でこじれにこじれ出す人間関係の不吉で不穏な空気感の重苦しい不条理感が見事で素晴らしい。ただ、ラストで明かされるオチはちょっと反則というか、明らかにこれまで描かれた現象と矛盾している──もとのドラマ版よりは理にかなっているとはいえ──ので、もうひとつ理屈が欲しかった。


『予言』……鶴田法男監督。妻と幼い娘を連れて帰宅途中だった里見英樹は、立ち寄った公衆電話で、まさにこれから娘が事故死すると書かれた記事の載った奇妙な新聞を見つけるが、その直後、記事どおりの出来事が眼前に展開されてしまう──つのだじろうの漫画『恐怖新聞』を原作にしたホラー。過去から未来まで総ての出来事が記録されているとされる、いわゆるアカシックレコード自身が、その記述を人々に新聞のかたちで伝播させてゆくというアイディアと、人がいちどその真理に触れると死ぬまで情報をアウトプットしなければならないという呪いが非常に不穏。やがて里見はその集合的無意識の怪物ともいうべき恐怖新聞に闘いを挑むが、そこで彼が落ち込む無限地獄の凶悪さが、胸を締め付ける。その果てに訪れる結末は、救いのようでもあり、絶望のようでもあり、その余韻がなんともいえないやるせなさを残してくれることだろう。


七人のマッハ!!!!!!!』……パンナー・リットグライ監督。タイを代表する各種スポーツ選手たちが訪れていた国境近くの小村を突如としてゲリラが掌握、村人を人質に先日捕まった彼らのリーダーの釈放を要求するが──ラグビーや体操など様々なスポーツ技術を武器にゲリラを打ち倒すアクション。なんとなく観るタイミングを逃していた作品(不要な私情)。タイ製アクションということで、全編に散りばめられたアクションのそれぞれはさすがにすごいのなんの。観ているあいだ、例によって「うへへ」と変な笑いが止まらなかった。各種スポーツの動きを取り入れた殺陣も面白く、それに物語的な前フリもきちんとあるので余計に燃える。また、女子どもも容赦なくマシンガンで撃ち殺していくゲリラや、銃弾や爆弾によって生じる人体欠損描写など、意外とその他のゴア描写もハードで血みどろ。牧歌的な雰囲気で映画が始まるものだから、虚を突かれて驚いた。もうちょっと「七人の」キャラクターに掘り下げがあれば尚よかったのだろうけれど、そうすると、なんとなく展開が似ているからということで邦題の元ネタになった大作時代劇バリの尺になりかねないから、やむなしかしらん。


LEGOムービー』……フィル・ロードクリストファー・ミラー共同監督。ブロック・シティにてマニュアルどおり品行方正に暮らす極々ふつうのビル建設員エメットは、ひょんなことから世界滅亡を図るおしごと大王を倒す“選ばれし者”としてレジスタンスに加わることになるが──レゴ・ブロックをモティーフにしたコメディ・アニメーション。劇場に行き損ねて、やっとこ観られた。そんな不要情報はともかく、タイトルに偽りなしとは本作のことで、画面に映るすべて──登場人物、背景、エフェクト、砂埃やシャワー、遠大な海などなにからなにまで──がレゴで再現された映像の質感表現が素晴らしい。ちょっとした汚れ、ミニ・フィグ(=人形)の制限された動き、破壊シーンでの適度な軽さ表現、場面(=用途)によってはちゃんとミニ・フィグの足部品が前後逆になっていたりなどなど、そのレゴ感たるや半端ない。ひとりで所有できる部品だけでは再現不可能な世界観に圧倒されながらも、一方で「あ! あの部品にその部品」「あ! あのミニ・フィグ持ってたよ」と楽しむのも一興だ。そこにロードとミラーの両監督お得意のスピード感抜群のギャグ回し、下らなすぎる略称ギャグ、そしてドラッギーな主観フラッシュバック映像ももちろん健在で、情報量の多さにクラクラしてくること請け合い。レゴに映画やアメコミ・シリーズがあるのをいいことに盛り込んだ、オジサン世代爆笑必至の小ネタにもニヤリ。とにかく全篇楽しい作品だが、それだけに終始していないのが、本作のすごいところ。映画後半では、レゴの遊び方の如何をとおして、なんとなれば対立する価値観どおしの向き合い方/付き合い方という、深く普遍的なテーマについてひとつの提案を描いてみせる。その思いもよらぬストーリー・テリングも相まって、ただ単にレゴを使った映画に留まらない大傑作となった。挿入歌の一節「すべては最高!」とは、本作のことだろう。


エンゼル・ハート』……アラン・パーカー監督。私立探偵ハリーは、サイファーと名乗る男から「契約不履行のまま行方知れずとなったジョニーを探してほしい」と依頼を受けて調査するが、その先々で関係者が不審死してゆく──1950年代を舞台にした異色ノワール。カンのいい方ならば、登場人物の姓名一発でおおよその骨子は読めるとは思うけれど、探偵は空虚な存在であるというジャンル的な一般原則を逆手に取った結末を迎える脚本が面白い。また、結末に至るまでに散りばめられた退廃的で官能的な画面や、『カリガリ博士』(ローベルト・ヴィーネ監督、1921)などドイツ表現主義映画を思わせるパースで強調される影の描写など、全編を彩る不穏な雰囲気はバッチリ。ハリーを演じたミッキー・ロークの薄ぼんやりとした表情とも相まって、まるで真綿で首を絞められるようだ。


『バルト』……サイモン・ウェルズ監督。1925年、アラスカ北部の町ノームで発生したジフテリア流行に対処する血清を受け取りに犬たちがソリを走らせるがあえなく遭難、犬と狼の混血であるために仲間はずれにされていた野良犬バルトは彼らを探しに向かうが──実際の出来事をもとに製作された長編アニメーション。スティーヴン・スピルバーグがアニメーション製作母体をドリーム・ワークスに移す前に作られた最後のアンブリメーション・スタジオ作品でもある。一難去ってまた一難と展開されるアクション・シーンの数々は楽しいし、いまやなかなか見かけなくなった巨大な背景美術によるパン・カメラも効果的で、犬目線から見た世界をうまく表現している箇所が多い。また、ずぶ濡れになってしまった毛の表現も見事。バルトの相棒であるガチョウのボリスの、皮肉屋だが人情に溢れたキャラクター設定も良く、彼もまた群れから離れて孤独に生きているというバルトと対になる存在として、笑いを振りまきながらも観客を作品世界に導く狂言回しをうまく務めている。ただ、バルトの行動原理が、彼が仲間はずれにされている件、ヒロイン犬に惚れている件、人間に尽くしたい件とがわりと雑にゴッチャになったまま進むので、序盤にもう少し物語的な膨らませが欲しかった。


オンリー・ゴッド』……ニコラス・ウィンディング・レフン監督。バンコクでジムを経営するジュリアンの兄ビリーは、若い娼婦をなぶり殺しにした末に彼女の父親に殺害されるが、それを指示したのは元警官のチャンだった。チャンを始末するべくジュリアンの母クリステルがバンコクに舞い降りるが──レフン監督とライアン・ゴスリングが再びタッグを組んだアクション。なによりまず画面が美しい。赤や青といった光と影の強烈なコントラストに、シンメトリックなレイアウトを活かした非常に幻想的で象徴的な画面は、『アイズ ワイド シャット』(スタンリー・キューブリック監督、1999)の撮影を手がけたラリー・スミスの手腕が光る見事なものだ。
▼さて、この画面を見てもわかるとおり、本作のストーリーは非常に抽象的で、普通のアクション映画を期待するとおそらく虚を突かれるだろう。台詞も少なく、キャラクター同士のおよその関係性がほのめかされるだけで、具体的な話は一見するとよくわからない。しかし、僕なりの考えをとりあえず雑多にまとめておくと、その関係性こそが重要で、それはまず、象徴的な意味における“父(チャン)−母(クリステル*1)−子(ジュリアン)”と読み取れるのではないだろうか。すなわち本作の物語は、幼子であるジュリアンが、彼の渇望する強権的な母クリステルから、チャンによって引き剥がされるという、ジュリアンのエディプス・コンプレクス克服を描いたものではないだろうか。
▼エディプス・コンプレクスとは、幼児が持つとされる「父を殺して、母とまぐわりたい」という母子一体の楽園への欲望のことだが、ジュリアン視点で描かれる現実と幻影の混合具合──また、編集のあべこべさ──や彼の口数の少なさ、感情のいささか振れ過ぎる抑揚は彼の幼児性を象徴しているだろうし、彼がよく包まれている赤い照明は母の胎内を表すだろう。クリステルの口から語られる「ジュリアンが実の父を殺した」というエピソードは、彼がいまだエディプス・コンプレクスの渦中にいるかをよく示すものだ。そして、映画のラストで彼が辿る顛末は、まさしく象徴的な去勢(=母子一体の楽園の諦め=成長)を意味するように考えられる。
▼本作はさらに、この関係性を援用して“神−悪魔−人間”の闘いを描き出す。本作のタイトル“Only God Forgives(神のみぞ赦したまう)”の「神」は、もちろん映画のなかで全ての罪を裁くチャンだ。世界の悪は、彼の神性=父性(God=Father)によってあやまたず裁定され、道理を得ている。チャンは一仕事終えると必ず部下を前にしてカラオケを歌うが、その姿は説法する神の姿と重なる。とすれば、本作の真のヒーローはチャンだといえるだろう。一方、男たちをかどわかし、女たちを口汚く罵りながら、本作における悪事と復讐の連鎖の頂点に君臨するクリステルの姿は「悪魔」そのものだ。本作のクライマックスが、むしろチャンとクリステルの一騎打ちに置かれているのも、この対立項を考えると納得がいく。そしてジュリアンは、このふたりの囁きの合間を右往左往するのである。──といった具合に、ある種の寓話的映画としてみると、けっこうすっきりするのじゃないかと思ったり。この寓話性ゆえに暴力描写、ゴア描写もますます冴え渡る難解だが痛快な作品だ。
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*1:また、彼の恋人マイは、彼を無条件に愛する理想的母として振舞うだろう。