2015年鑑賞映画 感想リスト/61-70

『監視者たち』(2013)……チョ・ウィソク、キム・ビョンソ監督。韓国警察特殊犯罪課で容疑者の行動監視を専門とするファン・サンジュン班長のチームに、記憶力と洞察力に長けた新人刑事ハ・ユンジュが配属される。彼女はサンジュンたちが兼ねてから追っていた謎の強盗団捜査に加わるが、敵もまた周到に監視網をかいくぐり捜査は難航を極める──香港映画『天使の眼、野獣の街』(ヤウ・ナイホイ監督、2007)をリメイクしたサスペンス。

不勉強ながらオリジナル版を未見のため、本作と比較することはできないのだけれど、少なくとも本作は大傑作。ユンジュの採用テストと強盗団の暗躍とが同時進行かつシャッフルされて描かれる映画冒頭から非常にスリリングで、誰の目が誰を追い、そして逆に追われるのかの攻防戦の数々に思わず息がつまる。その時々に挟まれるちょっとしたカーチェイスや銃撃戦などのアクション・シーンも嬉しい。監督のひとりキム・ビョンソは、本作の撮影監督でもあり、その見事なカメラワークにも注目したい。班長のサンジュン、その下で成長するユンジュをはじめ監視班それぞれのキャラクターも誰もがきっちり──過度な説明もなく──立っており、そのチーム感は非常に楽しいし、一方で強盗団を統べるジェームズを演じたチョン・ウソンの冷徹な眼で万年筆を武器に相手を瞬殺──首筋と腹をサッとふた突き──する凶悪さも素晴らしい。

そして、ジェームズら強盗団を追うサスペンスとしても、ユンジュの成長譚としても、脚本がまた良くできている。たとえば冒頭にあった展開と同様の状況がクライマックスに現れるミラー・イメージ的構造を持ち込んでみたり、映画前半で、基本的に私服捜査にも関わらず、ユンジュが配属日にわざわざ制服を職場のロッカーにかけたのを見て先輩刑事が何気なく言う皮肉がまさかの伏線だったりして気が利きまくり。エンタテインメントとして徹底的に造り込まれた118分に脱帽。めちゃくちゃ面白いよ。



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『テロ,ライブ』(2013)……キム・ビョンウ監督、脚本。国民的アナウンサーとして活躍しながら、ある不祥事でテレビからラジオへと飛ばされたユン・ヨンファ。ある朝、彼の生放送番組に「爆弾を仕掛けた」という脅迫電話がかかり、直後、江に架かるマポ大橋が爆発。彼は放送局長を説得し、犯人への電話取材をテレビ独占生中継するが、犯人はあることを謝罪させるために「大統領を出せ」と要求した──テレビ局の放送ブースで展開されるリアルタイム・サスペンス。

最初こそ、サイコパスのテロリストに言葉だけで負け犬アナウンサーが対峙する、いわゆる勧善懲悪ベースの映画かと思っていると、これがどんどん崩れてゆく。この特ダネをネタにのし上がってやろうと野心丸出しだったヨンファも、放送局長や政府高官から矢継ぎ早に繰り出される「視聴率を上げるために犯人を煽れ」「政府がテロリストに屈するわけにはいかないから、現場の生存者は見捨てろ」などなどの腐り切った指示に、「外道! 貴様らこそ悪魔だ!」とデビルマンよろしく激高&絶望。はたして自分はどう行動すべきかに対峙せざるを得なくなる展開が刺激的だ。ほぼリアルタイムで進行するタイトな作劇に振り回される、このヨンファを演じたハ・ジョンウの存在感がまた素晴らしい。事件をとおしてむしろ彼がどんどん追い込まれていく憔悴感を見事に痛々しいほどに表現してくれる。監督、脚本のキム・ビョンウは本作が長編デビュー作。次回作が楽しみ過ぎる傑作。



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ホーリー・マウンテン』(1973)……アレハンドロ・ホドロフスキー監督、脚本。錬金術師を操る導師のもとに世界の社会を至るところで裏から支配している9人の弟子が集い、厳しい修行に耐えながら、不老不死が眠るといわれる「聖なる山」の頂を目指すが──ルネ・ドーマルの『類推の山』を原作とした不条理劇。

これはまた奇怪な! と思わずにはおれない強烈なインパクトがある作品だ。同監督の『エル・トポ』(1970)は、まだキリストの辿った物語をベースにした感じがあったものの、本作ではまずそれを茶化すところから始まり、当時の政治、経済、社会、宗教、芸術などあらゆる情勢をモンティ・パイソンよろしくバッサバッさと茶化しまくる。そのスケッチの描写が基本的に血と肉と体液と排液の戯れであり、そこに赤・青・黄の原色のペンキがぶち込まれてミックスされた感じでもう強烈に奇怪。全体的に神秘主義に傾倒しているような雰囲気があるけれど、驚くのはそれすらも、本作においては相対化されてしまうことだ。いよいよ聖なる山の頂にたどり着いた弟子たちに突き付けられるある顛末は、同時に本作そのもの、そして本作を観ている観客すら茶化しながら相対化してしまう。その清々しさがたいへん魅力的だ。文字どおりちゃぶ台を返すとはこのことだ。



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『サンタ・サングレ/聖なる血』(1989)……アレハンドロ・ホドロフスキー監督、脚本。サーカス団に生まれたフェニックスだったが、両親の仲は悪く、ついに父の浮気を巡って激高した母は父の陰部を硫酸で焼き、反対に父は母の両腕を切り落としたうえに自らの首をかき切って死亡した。この光景を見たフェニックスは永らく精神を病んで入院していたが、あるとき母が彼を迎えに訪れ、フェニックスの精神はやがて母に支配され始める──ホドロフスキーヒッチコック映画とでもいうべきサイコ・スリラー。
本作にもホドロフスキー特有の奇怪で原色──本作ではとくに赤──の隠喩表現は多く登場するものの、ヒッチコックの映画がそうであるように、それがいわゆるエディプス的不安/去勢不安に集約されるため、非常に王道で理解しやすい1本になっている。物語も、ノーマン・ベイツを主人公にした『サイコ』(1960)といった感じでちゃんとあるし。ホドロフスキー映画は、その独特の奇怪なイメージばかりに眼が行きがちだったが、本作を観て翻って今更のように気付くのは、彼が映画的文法をきちんと丁寧に踏んでいることだ。誤解を恐れずいうなら、彼の映画はたいへん観易い。ゆえに面白い。ところで、ニコラス・ウィンディング・レフン監督が『オンリー・ゴッド』(2013)でホドロフスキーに献辞を捧げていたが、なるほどその直接的なイメージ・ソースはおそらく本作だろう。



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エスケープ・フロム・トゥモロー』(2013)……ランディ・ムーア監督。妻と幼い子どもふたりを連れてディズニー・ランドを訪れていたジムの携帯電話に、突然の会社から解雇通知が届く。ジムは狼狽しながらも、ひとまず心の内に秘めて家族旅行最後の日を楽しもうとするが、なにかにつけて口うるさい妻と悪戯の過ぎる長男に辟易するばかり。そんなとき、フランス娘ふたり組にすれ違いざまに投げかけられた思わせぶりな視線に、ジムの世界は妄想に蝕まれてゆく──ディズニー・ランド内で無許可ゲリラ撮影を敢行したことで話題を呼んだサイコホラー。

映画は、つるべ落としのように訪れた中年の危機=不能感から逃れようとするジムの主観で展開されるため、何気ない風景さえ隠喩に満ち始める。巨大な球状の建物、美しく飛び交う噴水、バナナを咥えるフレンチ・ギャル──園内は、抑圧されたジムの性的ファンタジーによって少しずつ歪みはじめる(同時に、自罰的に登場する去勢イメージも興味深い)。撮影に当たっては、かなり入念なリサーチをしたことが偲ばれる、モノクロ映像による“夢の国”の異化効果はなかなかで、ときおり挿入されるCGによる一瞬のミューテイション効果もあって、かなり不気味、そして奇怪にエロティックだ。

本作の不能感に苛まれるジムの姿に、かつてジェームズ・ステュアートに自身のそれを投影したヒッチコックの姿がチラチラと浮かぶ。そんな目眩にも似た彼の妄想すらハッピー・エンドに回収してしまうディズニー・ランドの魔力の恐ろしさたるや! ストーリーは若干荒削りに過ぎる嫌いがあるものの、企画と手法が見事にマッチした快作/怪作だ。そういえば、本国版では、そのものズバリ4本指だったポスター・イラストが、日本版では5本指になっているが、これいかに……。



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『LUCY/ルーシー』(2014)……リュック・ベッソン監督、脚本。台北に留学中のルーシーは、ひょんなことから新種の麻薬“CPH4”の運び屋としてアジアン・マフィアに捕らえられてしまう。しかし、誤ってCPH4を過剰摂取したルーシーは、それによって脳が極端に活性化し、人知を超えた能力を手に入れてしまう──スカーレット・ヨハンソン主演のSFアクション。

ベッソンによる“俺の考えた『AKIRA』”チックな作品で、ところどころでは見応えのあるシーンはあった。たとえば、序盤でルーシーがマフィアに脅迫されるくだりの、理不尽で抗えない暴力に対する恐怖感と焦燥感を煽るイヤァな演出はさすがだし、超人的な能力/脳力によって時間さえも超越したルーシーが、まるでスマートフォンの画面をスクロールするかのように、中空をタップして時間をスキップする描写は新鮮だ。ただ全体的には妙に間延びした感が否めない。尺合わせのためなのかどうか、やたら説明的な台詞のやりとりが多いからじゃないかしら。さらに、モーガン・フリーマン演じる脳科学者が、ルーシーの得た超能力に関連する学説を聴衆に向かって説明するのだが、「なぜ脳が活性化することによって様々な物理法則にすら干渉可能なるのか」という疑問がむしろ目立つ格好になっていて、ルーシーが覚醒すればするだけカタルシスが遠のくためでもあるだろう。

といいつつも、本作にノれるかどうかは、『アンジェラ』(2005)以降とくに顕著になっているベッソンの“絶対的に強く、かつ奔放なヒロインに翻弄されたい”フェチにノれるかどうかによるのではなかろうか。彼のいわばファリック・マザー嗜好への傾倒とその変遷──かつてはそうじゃなかったはず──の原因は興味深いが、エンタメとしては、本作にあまりうまく機能していない。



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ポンペイ』(2014)……ポール・W・S・アンダーソン監督。奴隷剣闘士のマイロは、次なる闘技場のあるポンペイへの移送中に裕福な商人の娘カッシアを助け、ふたりは恋に落ちるが、彼女はあくどいことで知られる元老院議員コルヴスと無理やり婚約させられてしまう。マイロとカッシアの仲を知ったコルヴスは、マイロを亡き者にしようと彼に卑劣な試合を振り掛けるが──紀元後79年に大爆発を起こし、その溶岩流がポンペイを呑み込んだヴェスヴィオ火山を題材にした歴史スペクタクル。
凡庸。じつに凡庸。まあ、木曜洋画劇場で観たらそれなりに楽しめたかもしれないけれども、それにしてもなァ……。とにもかくにもカメラ・ワークが残念。CGで再現されたポンペイの街並みも、それがヴェスヴィオ火山の大噴火によって蹂躙される様子も、カメラ・ワークのせいで妙にスケール感がない。そこはこうグッと仰角で撮らないと、それを真横から撮っちゃうか、みたいなショットがてんこ盛りだ。そもそも、こっちのアンダーソンは「空」が映るとダメになるというか、どちらかというと閉所演出のほうが得意な監督なので、本作のような抜けに抜けた舞台では、その資質と合わなかったのだろう。かつゴア描写も控えめで、その両長所を抑えられては手も足も出なかったか。



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『わたしは生きていける』(2013)……ケヴィン・マクドナルド監督。夏のあいだイギリスの田舎で暮らす伯母のもとに預けられたデイジーは、自然に溢れた田舎の空気と、伯母の長男エディや次男アイザック、そして幼い末っ娘パイパーたちとふれあうなかで、父との不仲にささくれ立っていた心も少しずつ癒えはじめる。しかし、突如としてロンドンに核弾頭が投下。戦争状態のなか、従兄弟たちと離れ離れになったデイジーは、パイパーの手を取って避難所を脱走し一路、伯母の家を目指すが──メグ・ローゾフによる同名小説をシアーシャ・ローナン主演で映画化。

基本的には藤子不二雄Ⓐの『少年時代』のように、子どもの眼から見た戦争(という外延的な状況)を描く作品で、いわゆる戦闘描写などといった見せ場はほとんどないが、戦争状況に翻弄されるデイジーたちの運命を強く追体験させてくれる。前半での田舎生活の描写が健やかで和やかだったぶん、唐突に遠雷が聞こえて死の灰が降り出すシーンは強烈。その後も、従兄弟たちはイギリス軍に強制徴用されるわ、避難させられた集落は敵に襲撃されてご近所の男の子は目の前で射殺されるわ、逃げ出してからも水は思うように飲めないし、暴徒化したレイプ集団とニアミスしたりなんかして、デイジーが辿る展開は地獄のようにシビア。個人ではなんら戦闘能力を持たないから、彼女たちは状況にじっと耐えるか逃げるかのどちらかしかないことが、余計にリアルで恐ろしい。本作で描かれたような架空の状況が日に日に現実味を帯びているようにも感じるきょう日、しっかり恐がっておくことも大切ではないだろうか。



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ゴーン・ガール』(2014)……デヴィッド・フィンチャー監督。5回目の結婚記念日に失踪した妻エイミーを必死に探すニックだったが、次々に見つかる不可解な証拠とニックの言動から、世論は彼がエイミーを殺したのではないかと疑い始めるが──ギリアン・リフンによる同名小説をベン・アフレックロザムンド・パイク主演で映画化したミステリ。

抑えられた色調で捉えられ、かつ徹底的に作りこまれた硬質な画面レイアウトとカメラワークで醸される閉塞感、そしてオープニング・クレジットから最後まで絶妙に急ぎ足でショットが切り替わる編集によって煽られる焦燥感によって描かれる、フィンチャーの結婚残酷物語に胃がキリキリ舞。夫婦を演じたアフレックとパイクを筆頭に、どいつもこいつもなにを考えているのか全然わからない不穏な空気もまた、それを盛り上げる。

本作では、物語の主客が映画中盤で逆転したり、日常に潜む以上精神性をモティーフにしたりと、たとえばライムスター宇多丸氏が自身のラジオ評論で指摘したとおり、本作はヒッチコック映画──とくに『めまい』(1958)や『サイコ』(1960)──に捧げられた側面がとても強い。そう思えば、いまは亡き母──そして現在の(?)──に知らぬうちに精神的に支配されているニックは『サイコ』におけるノーマン・ベイツをそこはかとなく髣髴とさせるし、ニックを献身的に支え続ける双子の妹マーゴが眼鏡姿のオールドミスであるという設定は、『めまい』において主人公スコティを想いやるミッジの面影を思い起こさずにはおれない。
ここのところ、フィンチャー映画で描かれていたように思う“わかりあえない他人とどう折り合うか?”という問いへの強烈な回答を示す、オープニングとエンディングの円環構造に戦慄したい。



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楽園追放 -Expelled from Paradise-』(2014)……水島精二監督。ナノハザードにより地球が廃墟と化し、人類の98%は地上と身体を捨てて電脳世界ディーヴァに移り住んだ。それから約1世紀、ディーヴァはフロンティアセッターと名乗る謎の地上ハッカーによる侵入に晒されていた。捜査官アンジェラは、これを解明するために生身の身体・マテリアルボディにその個人データを移して地上に降下、地上調査員ディンゴとともに捜査を開始するが──虚淵玄が脚本を担当したSF長編アニメーション作品。

いわゆるトゥーンシェイド処理で制作されたCGアニメーションで、ヒロインの長いツインテールの揺れ方はいかにもCGらしい動きではあるが、影や描線(輪郭線)の処理が非常に2Dアニメ的に自然。最近はここまで手描きアニメ調を再現できるのだなと驚いた。電脳世界“ディーヴァ”の外縁はリンゴの芯、モビルスーツ“アーハン”は分裂する卵子、その後援機器は精子などなど、モティーフである「楽園追放」を思わせるようなメカニック・デザインはかっこいいし、後半でスピーディに描かれる戦闘シーンはエフェクト・アニメの効果も相まって迫力満点だ。マシンそのものを電子的にハッキング操縦する、操縦者不在のコックピットという画も面白い。その他、物語の謎として提示される謎のハッカーの正体と目的など、魅力的な側面は多々あるが、反面ノイズになっている部分も多い。

まず、アンジェラの衣装デザイン──ハイレグのプラグスーツ蛍光塗料つき──はどうか。冒頭に描かれるような電脳世界内でならいざ知れず、そういった意匠とは無縁の地球上では浮きすぎである。それを着なければならない理由はとくに説明されないし、彼女の目的は諜報活動なのだから、そんな格好で歩き回っては物語的に本末転倒ではないか(そりゃチンピラに絡まれるよ)。いや、巷で絶賛されているように、アンジェラの曲線美──とくにお尻──を魅せるためのデザインそのものはいいし、需要があるはわかるけれど、常に出ずっぱりなので、悪い意味で目立っているようにしか思われないのだ。内容に合わせて、も少し使いどころを絞るべきだろう*1。また、電脳世界と地上世界、その世界観の描き込みが少々不足気味で、台詞に頼ってしまった感は否めない。それを見せる画/シーンがもう少しあれば、クライマックスにおけるアンジェラの決断もより説得力を持っただろう。あと、戦闘状況真っ只中で何度も長々とキメ台詞の応酬させるのは勘弁してください。映画が止まっちゃうし、別の意味でハラハラするので。てな具合で、盛り上がる部分と盛り下がる部分が非常にピーキーな作品だった。

*1:なぜヒロインがロリ巨乳なのかについての理論武装は笑ったけれど、ほかにもっと気にするところがあるのじゃないかしらん。