『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2D字幕版)感想

ジョージ・ミラー監督、製作、脚本。構想10余年の果て、前作からじつに30年ぶりに公開されたジョージ・ミラー出世作『マッドマックス』シリーズの最新作。主人公マックスをメル・ギブソンに代わりトム・ハーディ、自由を求めて「緑の地」を目指すフュリオサをシャーリーズ・セロン、大量の兵と車を引き連れて彼らを追うイモータン・ジョーをシリーズ第1作目でも敵のボスをつとめたヒュー・キース・バーンが演じる。

放射能汚染によって荒廃し、砂漠化した世界を、過去に救えなかった命の幻に苛まれながら彷徨う元警官マックスは、その途上で“シタデル(砦)”の兵に捕らえられてしまう。シタデルは、潤沢な地下水と農作物に恵まれているものの、自らを狂信的に信奉する兵“ウォーボーイズ”を束ねるイモータン・ジョーによって徹底的に支配されていた。

そうした最中、ジョーの部隊を統率するフュリオサ大隊長は、彼が子産み親として囲っていた5人の花嫁の逃亡を実行に移す。これを知ったジョーは配下を引き連れて追走を開始。マックスはその行軍に、ジョーの配下の一兵ニュークスの「血液袋」として連れられるが……。


     ○


なんてすごい映画だろう! と感嘆してしまって、いちいち言葉にするのが億劫なくらい素晴らしい作品だった。というか、1ショットごとの情報量がいちいち膨大なうえに的確で、クラクラしている。映画とは、そもそも動き/アクションである。本作から得た感動は、まるで史上初の映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』(リュミエール兄弟監督、1896)において、画面手前に迫りくる列車のアクションに観客が感じたであろうもっとも原初的な映画的体験の一端を味わったかのようだ。

本作の予告編を観た時点ですっかり驚いていた点でもあるが、本作のメインとなるアクション・シーンの完成度ときたら素晴らしいのひと言。たとえばあの、トチ狂ったようなカー・スタントの数々をほとんど実写で撮影したというのが、今日日まずフレッシュだし、脚本執筆段階からイメージ・ボードを描いた*1というのも納得の、徹底的に構築された撮影と編集の美しさと迫力はえもいわれない。

不必要に揺れないドッシリとしたカメラ・ワークに、不必要に短くチャカチャカ切らない編集テンポが本当に見事だ。そう、あれだけトンデモナイことが画面であれよあれよと展開されるにも関わらず、そのアクションがどこで何が起こり、そしてどうなったかが、手に取るように判るのである。本来、映画がそうであるべき理想系をまざまざと見せ付けられる本作のポテンシャルの絶大な強度こそ、本作の魅力である。本作の背景のほとんどが、なにもない砂漠の荒野だということを思い出せば、いかにそれらが本作において、全篇一寸の隙もなく綿密に設計されているかを納得していただけるだろう。

あとグッとくるのが、アクション・シーンのフィルム・スピードだ。本作のアクション・シーンは、そのほとんどが早回し(=コマ落とし)で撮影されていて、動きが基本的に早いのだ。とくに『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟、1999)以降、アクション・シーンといえば、そのスケール感や情報量の多さを魅せるためにスーパー・スローモーションで映す*2のが常である昨今において、こんなに早回し撮影を多用したアクション映画を劇場で拝めるなんて! 久しく忘れていた荒々しい迫力とスピード感を、それにまさしく適した題材で、いま劇場のスクリーンで観られるとは夢に思っていなかった。最高!!!!


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ことほど左様に、全篇に渦巻く怒涛のアクション・シーンの連続に埋もれがちかもしれないが、それ以外のアクション──すなわちドラマ部分もまた、シンプルな筋書きながら重厚で豊かな演出が目白押しだ。

劣悪な環境ゆえに人間性を否応なく奪われ、野獣やモノとして生きるほかなかったマックスが、フュリオサが、5人の花嫁たちが、そしてニュークスが、それぞれのやり方で、すでに失って久しいと思われた気高い人間性を取り戻してゆく。このドラマを、本作は、役者のちょっとした表情や台詞のやりとり、小物の使い方(誰が何をどのタイミングで誰に渡すか、などなど)、前半と後半にある同じ動作/アクションに込められたの意味の反転などで、無駄なく的確に、アクション一発、映像一発で語られる。美辞麗句を並び立てるよりも、はるかに力強く胸を打つドラマが、本作には詰まっているのだ*3


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などと、興奮冷めやらぬなかモゴモゴと映画を思い出しては、その感動を言葉に落とし込もうとするけれど、言葉にすればするだけ取りこぼすばかりに思われてもどかしい。もうね、本作に関しては、いうだけ野暮! 本作には、映画に必要な要素/アクションがすべて詰まっているといっても過言ではない。そして、とびきり美しく力強い人間賛歌もだ。

間違いなく歴史的大傑作! すぐにも劇場にお出かけください!*4*5




※【追記
一応、野暮とは思いつつ、本作の物語構造をメモしておこう。

本作のシンプルゆえに力強い物語が奇妙にぼやけがちな印象を得やすいのは、観客が期待する主人公と、映画が提示する主人公とが異なるキャラクターだからじゃないかしら。つまり、本作の実質的な主人公はマックスではなく、フュリオサであることを念頭において観ると、すんなりと物語に入ってゆくことができるはずだ*6

本作の構造を簡単にいえば、主人公のフュリオサ*7が住処=砦から、異界=砂漠や緑の地へと旅立ち、敵対者*8ジョーを倒して、新たな王として元いた砦に舞い戻るということになるだろう。これは、いわゆる貴種流離譚の物語の典型的なパターンだ。マックスがジョーと実は1度も対面していないのも、彼が本作の主人公ではないからにほかならない。

そのように捉えた場合、マックスの役割は何かといえば、フュリオサを導くメンター(援助者)*9である。ふたりの関係は、最近の映画で喩えるなら『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督、2013)に登場するライアン博士(サンドラ・ブロック)とマット(ジョージ・クルーニー)の関係性を思い出せば、わかりやすいだろうか。このなかで、マットがライアンと別離してなおライアンを導くように、マックスも1度は別れたフュリオラを再び導くために、彼女のもとに舞い戻る。そして、援助者としての役目を終えたとき、彼は彼女のもとから去るのである。

ついでに、観客の男女を問わず漢泣きを誘うであろうニュークスだが、彼にはあるタイミングまで必ず“へその緒”がついていることに注目して観ると、いっそう感動できること請け合いです。「俺を見ろ!」

*1:マッドマックス2』にインスパイアされたコミックスを描いていたブレンダン・マッカーシーを招いている(脚本としてクレジット)。

*2:いや、これはこれで好きではあるのだけどね、もちろん。

*3:もちろん、イモータン・ジョー率いる悪役集団の描写も素晴らしい。こんなやつの支配する世界──でも、現在とどれほど違うのだろうね──では、ぜったい暮らしたくないと思わせる──それゆえに魅力的な悪役たらしめる──設定をテンポよく観客に見せつける冒頭の見事さたるや!

*4:アンゼたかし氏による字幕は、一部ちょっと狙いすぎてスベッてるところもありましたね。まあ、配給側の要請かもわからないけれど。

*5:ただ、日本版エンディング曲のタイアップ……てめぇだけは許さん。曲自体の出来はともかくとして、あんな余韻もヘッタクレもない無神経で無理やりなフェード・インは観たこと、いや聴いたことないよ! そんなことなら、『エクスペンダブルズ3 ワールド・ミッション』(パトリック・ヒューズ監督、2014)のエミネムみたいに、予告編だけに採用するとかでいいだろ。

*6:似たタイプをあえて喩えるなら、トールキンの『指輪物語』で、その歴史的な主人公はアラゴルン(馳夫)であるみたいなものかしらん。

*7:彼女が旅立つ理由=なんらかの喪失──たとえば、それは失った左手に象徴される──を抱えていることも重要なアイコンだ。というか、これも画一発ですっと判らせるところが、たいへんスマート。

*8:御伽噺なら、ドラゴンとか魔王とか魔女にあたる。

*9:御伽噺でいえば、たとえばアーサー王を導くマーリンのように魔法使いの意匠で登場することが多い。