2014年鑑賞映画 感想リスト/151-159

はやいもので2014年もいよいよ終わり。個人的な──そりゃそうなんですが──諸事情により下四半期ちゃんと書ききれなかった劇場で観た作品と、今日までに観たソフトについて、簡単にではありますが書き置いて、本年の締めくくりとさせていただきます。今年の映画、今年のうちに──というわけです。

それでは皆様、残り少ない2014年ではありますが、よいお年を過ごされますことを心よりお祈り申し上げます。


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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』……ジェームズ・ガン監督。宇宙を股にかける泥棒ピーター・クイル“自称スター・ロード”は、ひょんなことからアライグマのロケットと植物型ヒューマノイドのグルートの賞金稼ぎコンビや屈強なロナックス・ザ・デストロイヤー、俊敏な女暗殺者ガモーラらと徒党を組んで銀河全体を揺るがす巨悪党との戦いに巻き込まれてゆく──マーベル・コミックス原作の映画化。各所にて絶賛されているので、多くをいう必要はもはやないだろう。知る人ぞ知るようなマイナーなコミック・ヒーローたちを、一流のエンタテインメント映画としてスクリーンに甦らせたガン監督の手腕は見事だ。ひと癖もふた癖もあるキャラクターたちの織り成すストーリーの楽しさ、'70〜'80年代の楽曲を大胆に用いた嬉しさ──ラストの2曲のチョイスは反則に近い素晴らしさ!──、カラフルで美しい宇宙世界で展開される肉弾戦や空中戦のフレッシュさなどなど、おもちゃ箱をひっくり返したような多幸感に溢れた快作だ。なかでも、とくに印象に残ったのはふたつの台詞だ。まず、アライグマの姿をした賞金稼ぎロケットの「自分の怒りを他人を巻き込む理由にするんじゃない!」という啖呵は、正義として語られる/騙られる多くの欺瞞をものすごく的確に言い当てていてグッとくる。そして、もうひとつはやはり──さぁ、皆さんご一緒に──“We are Groot.”これに尽きますな(号泣)。


猿の惑星:新世紀〈ライジング〉』……マット・リーヴス監督。猿インフルエンザで人類がほぼ死に絶えた地球で、シーザー率いる猿たちはサンフランシスコ郊外に王国を築いて日々を暮らしていたが、あるときその領地に人間でマルコムらが侵入したことで、ふたたび世界の秩序にほころびが生じ始めた──リブート版「猿の惑星」シリーズの第2作目。猿と人間、この両者の融和と反目を同時進行で語り、人間社会における「戦争はなぜ起きるのか」を寓話的に描いた、まことに「猿の惑星」だった。両勢力のハト派タカ派の思想が互いに絡ませながら、ボタンが次々に掛け違ってゆくように、悪いほうに悪いほうに転がっていく展開がやるせない。シーザーとマルコムらが少しずつでも共存の道を探り、歩み寄れただけになおさらだ。猿のCGとアンディ・サーキスらによる演技──本作ではほとんどロケ撮影だったというのだから驚き──も前作からさらに進化を遂げ、また前作でも散りばめられていたオリジナル・シリーズを思わせる様々な要素──プリミティブな音楽や、キャラクターのネーミング、2作目には欠かせない地下鉄などなど──ももちろん楽しめる。一見派手そうに見えるなかに施された、細やかな演出も魅せる。期待に背かない続篇だった。


エクスペンダブルズ3 ワールド・ミッション』……パトリック・ヒューズ監督。バーニー(シルヴェスター・スタローン)率いる傭兵軍団“エクスペンダブルズ”は、依頼された仕事の現場で思いもよらない人物を目にしてしまう。それは、かつて彼らのメンバーだったストーンバンクス(メル・ギブソン)の姿だった──スタローンら'80年代筋肉もりもりマッチョマンの“使い捨て”俳優らが一堂に集う同窓会映画または養老院映画シリーズ第3弾。好事家にはたまらんよ的シーンが相も変わらず満載の愛すべきシリーズ最新作となった。脱税の罪で収監された影響で第1作に出られなかったウェズリー・スナイプスもやっとで登場し、自虐ギャグをかましながらジェイソン・ステイサムとスタローンを取り合ったり、ハリソン・フォードメル・ギブソンも加えてやんややんやのお祭り騒ぎは、まぁやっぱり楽しいよね。そうはいいつつも、とくに新キャラのひとりを演じたアントニオ・バンデラスのキャラクター描写をはじめ、シリーズ中もっとも細かな演出が施されている点も見逃せない。僕自身は疎いけれども、アイドル・グループの映画の楽しさは、本作に通じるのかしらんと思わせる(“卒業”したメンバーもいるし)。惜しむらくは、暴力描写が年齢制限対策のために若干オブラートにくるまれてしまったことか。それでも、本作では若手の雇用もしてくれるなんて、ほんとスタローンは偉いよ。


ジャージー・ボーイズ』……クリント・イーストウッド監督。1950年代から活躍し、「シェリー」や「君の瞳に恋してる」などで知られるコラース・グループ“フォー・シーズンズ”の誕生、そしてその栄光と影を描く、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化。観終わって、いの1番に思ったことが「いい映画を観たな」と「イーストウッドらしいなァ」のふたつのことだった。イーストウッド映画独特のなめらかでかつ細やかな演出は本作にももちろん健在だが、驚いたのが「第4の壁」の突破──劇中の人物がスクリーンの向こうから観客に向かって“現在進行形”で語りかけてくることだ。イーストウッド映画では、はじめての試みだが、自身の映画に盛り込むその軽やかさは流石といったところ。しかも語り手が誰かひとりではなく、フォー・シーズンズのメンバーそれぞれが代わる代わる彼らの物語を観客に向かって話すのがミソ。フラットな視点でグループに巻き起こる出来事の善し悪しを描いてみせ、観客一人ひとりに判断をゆだねるところが、イーストウッドらしい絶妙なバランスだ。というか原作という素材が、じつにイーストウッドに適していたのだろう。いっぽうでラストでは、映画でしか表現し得ないマジックを利かせて観客の涙を誘うところがニクらしい演出だ。次回作『アメリカン・スナイパー』も、いまから楽しみだ。


インターステラー』……クリストファー・ノーラン監督。人類滅亡へのカウントダウンが始まった近未来、かつて宇宙飛行士だった農夫クーパーは、ひょんなことから人類の暮らす次なる惑星を探索する恒星間飛行プロジェクトにパイロットとして加わることになるが、それは最愛の娘との永遠にも等しい別れでもあった──「ダークナイト」シリーズのノーラン監督が贈る宇宙SF大作。衝撃度という意味では『ダークナイト』(2008)に軍配があがるものの、独立した映画としては、本作がノーランの最高傑作だと思う。『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)などの往年のSF映画に物語的にも映像的にも絶大なオマージュを捧げながら、そのどちらにおいても次の地平線を目指した意欲作だ。キップソーン博士を顧問に招いて描いたという最先端科学によるブラックホールワームホールの映像の美しさはぜひとも劇場の大スクリーンで観て欲しいし、CGを極力排除して作られた特撮シーンもいま劇場で観ることが難しい映像なこともあって、むしろフレッシュに映るだろう。フレッシュといえば、なんといっても本作に登場する平たいルービック・キューブのようなロボット“TARS”“CASE”は外せない。彼らの見せるいままでにないアクションや粋な台詞にノックアウトされた方は少なくないはずだ。また、登場人物の誰ひとりとして完全な人間がいないのも印象的だった。本作のなかで、誰もが1度は、あるいはひとつは偏り歪んだ考えを持っているがゆえに後悔に呑まれてしまうのが、本作の完成度を高めているのは間違いない。もちろん、じつは映画文法的にはあんまり巧くはないノーラン的なゴタゴタした部分もありはするが──しかし、自身の農場を去るクーパーの姿に、宇宙船発信のカウントダウンの音声を絡めたシーンは屈指の出来──、それを引いても余りある魅力に満ちた傑作だ。繰り返すようだが、ぜひとも劇場でご覧ください。余談ではあるが、妙に印象的だったのが、アン・ハサウェイの「えへへへへっ!」という笑い方。こんな自然な「えへへへへっ!」は、はじめて聞いたよ。


     ※ 以下は、ソフトで鑑賞したものです。


『少女は自転車にのって』……ハイファ・アル=マンスール監督。少女ワジダは、幼馴染の少年アブダラから自転車を持っていないことをからかわれ、自分も自転車を買おうとお金を貯めはじめるが、折りよく賞金付きのコーラン暗唱大会がアナウンスされ──映画禁止のサウジアラビアではじめて女性が監督した長編作品。たいへん楽しく、可愛らしい作品。お転婆なワジダがアブダラをぎゃふんと言わせるべく、機転を利かせて自転車を買おうとする姿を瑞々しく描き出す。幼さゆえの素直さとその逆が入り混じったふたりのやりとりが微笑ましい。しかし本作は、単に少女の可愛らしい物語として観られる一方、少しずつほんとうの狙いが明らかにされる。それは、サウジアラビアにおける女性の社会的(父権的)抑圧だ。サウジアラビアといえば、女性に対する差別政策が世界でもワースト級の国として知られるが、その実情が日常として──われわれには違和感として──描かれる。彼女たちの姿は、われわれが知る普通の女性だ。しかし、彼女たちには、自転車はもちろん、自動車の運転も、お洒落して出かけることも、喋り声を他人の男性に聞かれることも、恋すらなにひとつ自由が許されない。表上は宗教的理由からといわれるが、劇中でしばしば引用されるコーランの説法自体が、この現状のいかがわしさを鋭く否定しているのがなんとも皮肉だ。そして非常にショッキングだ。映画は、とても晴れやかな感動とともに幕を閉じるが、ここで描かれた希望が実を結ぶことを切に願う。必見の1作。


バートン・フィンク』……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20141203/1417604339


『日本のいちばん長い日』……岡本喜八監督。1945年8月、ポツダム宣言の受諾決定や玉音放送に向けた原稿作成に幕僚らが喧々諤々の議論を重ねるなか、反終戦派の陸軍士官らがクーデターを起こそうと暗躍するが──大宅壮一(実際には半藤一利)の同名ノンフィクションの映画化。不勉強にして、本作に描かれるようなクーデター事件が終戦時にあったことにまず驚いた。本作では、玉音が無事に放送されるまでの24時間を、オールスターキャストによる群像劇で描いているが、淡々と出来事が重なり合う様子を、音楽などを極力抑えたドライなタッチで描く演出が見事。このドライさゆえに、終戦当時の人間が持っていた空気──価値観やコモンセンスのようなもの──がよりいっそう引き立っていて、いま観ると余計にそのギャップの大きさに驚く。画面内はしごく重々しく、人物たちも真面目に動いているにも関わらず、どこか滑稽ですらあるのだ。この冷静な距離感が好ましい。来年には松竹が同名映画を公開するが果たして……?


『さらばラバウル』……本多猪四郎監督。1944年、ラバウル海軍基地航空隊の零戦パイロット若林大尉は、その撃墜数と厳格な性格から“鬼隊長”の異名をとっていたが、米軍のエース“イエロースネーク”らによる苛烈な攻撃に部隊は次第に損耗してゆく──戦時中の流行歌『ラバウル小唄』からとられた戦争映画。最初は、歩く軍国主義のような人物として登場する若林が、自身を慕う若いパイロットたちの戦死や無謀すぎる大本営命令、イエロースネークの意外な正体などに触れることで、戸惑いながらもひとりの暖かい人間に戻ってゆく姿は感動的だ。ラスト近く、若林がひそかに想いを寄せていた看護婦・小松が日本に帰還することになり、波止場で彼女を見送る一連のシーンでの、互いに不器用で言葉少ない静かな演出も見事。エース対エースのドッグ・ファイトを描き切った円谷特撮も見事な感動作。


スキャナーズ』……デヴィッド・クローネンバーグ監督。他人の思考を読み取ることのできる超能力者(スキャナー)であるベイルは、同じくスキャナーで、世界の覇権を握ろうとするレボックとの抗争に巻き込まれる──超能力対超能力を描いたSFホラー。相手をスキャンすることで大なり小なりの肉体破壊が起こるという設定を活かした、クローネンバーグお得意の陰鬱でドロドロしたSFXシーンが楽しい。やはり見どころはクライマックスのベイルとレボックの超能力対戦で、スキャンによって互いの体内を流れる血液がまるで沸騰しているかのように膨れ上がり、少しずつ身体がボロボロと崩れ落ちながらも戦い続けるふたりの姿は、迫力満点だ。レボックを演じたマイケル・アイアンサンドの鬼気迫る演技も素晴らしい。

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以上。