2015年鑑賞映画 感想リスト/41-50

『エンド・オブ・ザ・ワールド』(2012)……ローリーン・スカファリア監督、脚本。小惑星の地球衝突が決定的となり、人類滅亡が間近に迫るなか、長年連れ添った妻に出て行かれた保険セールスマンのドッジは無気力に過ごすばかりだった。そんな折、隣人の若く奔放なペニーと偶然知り合ったドッジは、彼女とともに高校時代の恋人オリヴィアを探しに行くことになるのだが──スティーヴ・カレルキーラ・ナイトレイら主演のSFロード・ムービー。
人類滅亡を描いた映画のなかでも、本作はもっとも穏やかなもののひとつだろう。迫りくる小惑星への人類の抵抗も冒頭5分で失敗し、特撮もなし、暴徒化した人々による騒乱もほんの少ししか登場せず、ジャンル的な見せ場はほとんどそぎ落としているものの、むしろそういったジャンルの画面の外で、つつましく、そして伸びやかに最後と向き合おうとしている人々を描く本作の視点はフレッシュだ。ドッジとペニーの奇妙なふたり旅のなかで、彼が人生の忘れ物をひとつずつ清算しつつ、同時に彼の知らなかった世界や人々に出会ってゆく様子、そして彼が迎える幸せな結末は、素敵に感動的だ。
余談だが、ネビル・シュートの『渚にて』をテレビ映画化した本作と──邦題が──同タイトルである『エンド・オブ・ザ・ワールド』(ラッセル・マルケイ監督、2000)*1も併せて観られたい。



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her/世界でひとつの彼女』(2013)……スパイク・ジョーンズ監督、脚本。手紙代筆会社に勤めるセオドアは、仕事は順調なものの離婚調停中の妻キャサリンとの思い出を断ち切れずにいた。あるとき最新式AI搭載OS“OS1”を導入した彼だったが、プログラムとは思えないほどに生き生きと人間味に溢れた「サマンサ」と名乗る声に、彼はいつしか愛情を感じるようになる──人工知能との恋愛を描いたヒューマンSFドラマ。
まずは、画作りがたいへんお洒落。現在ではない、かといって離れすぎてもいない未来感を醸しだす、いまとは微妙に異なった衣装、小道具などのデザインが素晴らしいし、映画全体をほんのりと暖かに彩る色彩設計がとにかく見事だ。人工知能との恋愛という、SF的ガジェットにふさわしい結末を本作は迎えるものの、それ以上に、本作で描かれるセオドアとサマンサの関係が単に特異なものでなく、彼らの姿をとおして「他者との関係」という普遍的なテーマを見事に描き出しているのが素晴らしい。われわれは他者に出会わずには生きられない。そして、それは相手が人間であれ、機械であれ、自分以外の存在には違いない。だからこそ訪れる相互理解の可能性への歓びと、その不可能性への哀しみが、本作ではより寓話的に純化され、胸を締め付ける。



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死国』(1999)……長崎俊一監督。かつて少女時代を過ごした四国・高知県の山間にある矢狗村を訪れた明神比奈子は、幼馴染の秋沢文也と再会するが、もうひとり仲好しだった村の旧家の娘・日浦莎代里が16歳で他界したことを知る。時を同じくして、村では死者の姿が目撃されるなどの不吉な現象が起こり始めていた──お遍路や土俗信仰を題材にした坂東眞砂子の同名小説を映画化。
いわゆるJホラー的宣伝がされていたと記憶にあったのだけれど、実際に観てみると伝奇ロマンといった趣。恐怖演出はひかえめで、じわりじわりとヒロインたちが足を踏み入れてしまった異界の雰囲気を味あわせてくれる。とくにクライマックス、村の秘所でかつての幼馴染3人がついに邂逅するシーンでの超現実的な揺らぎと色合いを伴った照明演出が、莎代里を演じた栗山千明の存在感と相まって美しい。ただ、基本的にハンディカム撮影だったのか、フィックスの画面が極端に少なく、かつ意図しない揺れやブレが始終続くので、画面に日浦家の交霊儀式や怪奇現象シーンとの差がないのがもったいない。また、劇中では、お遍路の禁じ手「逆打ち」が成就すると四国が死者で溢れるとされる*2が、そういった布石が台詞でも映像でも置かれるにも関わらず、終盤なんとなくウヤムヤになってしまうのも残念。
余談だが、音楽を担当した門倉聡によって、本編の半ばにある“文也が書庫で調べ物をする”シーンに、唐突にエリック・セラ(『レオン』)オマージュと思しき劇判が挟み込まれているのが可笑しい。



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イコライザー』(2014)……アントーン・フークア監督。ホームセンターで働く真面目で穏やかなロバート・マッコールの正体は元CIA捜査官。静かな生活を望み隠遁生活を送る彼だったが、常連のダイナーでよく見かける少女娼婦テリーが、元締めのロシアン・マフィアたちから凄惨な虐待を加えられたことを知り、ついに内に秘めた正義の牙をむき出した──1984年から1989年にかけてアメリカ合衆国で放送されたテレビドラマシリーズ『ザ・シークレット・ハンター』の劇場版。
といいつつ、ほぼオリジナル作品に近いらしく、夜回り先生ミーツ必殺仕事人的な男をデンゼル・ワシントンが好演している。なんといっても本作におけるワシントン演じるマッコールの佇まいがナイス。人に親切で誰からも好かれる男でありながら、不眠症で病的なまでの几帳面さなど、ときおり垣間見せる狂気の表情がなんともいえない。彼が社会悪への怒りをふつふつと内に溜め込み、ついに自らが封じた暴力を解放するまでを、ジャンル映画としてはかなり長尺な30分をもってじっくりと描いてゆく一連のシーンがとくに素晴らしく、マッコールが徐々に日に背を向け、闇のなかに埋没して行くかのような撮影と編集が美しい。この溜めがあるぶん、彼が開眼してから一気に畳み掛けられる情け容赦のない──相手を即死させず、彼に死をじっくり味合わせるような──暴力描写による溜飲の下がり具合もグッと向上し、握りこぶしに力も入るというもの。
予告編やポスター・アートから予想していた物語は第1幕で終わり、その後さらに強大な敵との戦いにマッコールは巻き込まれてゆくが、久しくアクション映画でみることのなかったヒーローによる敵の“一網打尽”ぶりもまた天晴れ。



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『複製された男』(2013)……ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。大学で歴史を教えるアダムは、何気なく観た映画の中に自分と瓜二つの俳優アンソニーを見つけ、彼に接触。なんと彼は姿ばかりでなく生年月日や傷跡などすべてが一致することを知る──ジョゼ・サラマーゴによる同名小説の映画化。
全篇に満ちる不穏な空気感がなんともいえない。もうひとりの自分を巡って巻き起こる謎の連続や、神経症的に突如挿入される蜘蛛のモチーフ、そして現実の堰が崩れるような──いうなればディック的感覚が思う存分楽しめる。その空気感を最優先したために、正直「なにがなにやら」というか誤解を導くための仕掛けがヤマにまぶされた判じ画のようでありながら、本編を観るだけでは明確な回答は示されないので、こういった不完全燃焼感を嫌う方もあるだろう。しかし、原作や、ものの解説をみてネタを知ってしまうと「なるほど」と納得する一方で、これが本編で示されれば、これだけの奇妙なインパクトはなかったはずだ。未見の方があれば、ためしに事前知識ゼロで、ご覧になってはいかがだろう。



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ドリームキャッチャー』(2003)……ローレンス・カスダン監督。少年時代からの親友であるジョンジー、ヘンリー、ピートそしてビーバーは、かつて風変わりな少年ダディッドを助けたことで不思議な力を分け与えられていた。あるとき、休暇を雪深い森の狩猟小屋で過ごすことにした4人だったが、恐怖は彼らのすぐそばまで忍び寄っていた──スティーヴン・キングの同名小説の映画化。
少年時代の友情、超能力、政府の陰謀などなどキングが自身の十八番を足すだけ足しまくったような感じで、その次々に展開が予想の斜め上を横切るクリフハンガー状態の連続は確かに楽しいが、映画としてはどうなのだろうと首を傾げずには──笑いながらも──おれなかった。とくに、物語的にも映像的にも散々風呂敷を大きく広げておきながらの、妙にスケールの小さいクライマックスは、「それで解決かい!」となんだか納得がいかぬ。



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フェノミナ』(1985)……ダリオ・アルジェント監督。連続少女猟奇殺人事件が巷を騒がせるスイスのチューリッヒにある全寮制女学校に編入してきた昆虫と心通わせられる超能力の持ち主ジェニファーだったが、ルームメイトが殺人の被害者になったことから自身もサイコキラーに狙われることになる──当時、デビューして間もないジェニファー・コネリーがサイキック少女を演じたホラー。
コネリーが腐乱死体やウジの沸くプールに突き落とされるクライマックス、ゲーム『クロックタワー』に大きな影響を与えたというアルジェント作品ということで、どんだけエグいのかと身構えていたけれど、思いのほか描写自体はマイルド。といいつつ、フェイクとはいえ前述のプールはたいへん強烈だし、重要なキィとなるウジ虫が全篇にわたってバンバン映るので、食前食後は控えたほうがいいだろう。いわゆるサイコ・ミステリーと、サイキックものを足し合わせたジャンル・ミックス映画であり、ミステリー部分はかなりおざなりで、サイキックものとしてもジェニファーの能力の一部についてはなんの説明もなかったりと、粗が多いのは否めない。
しかし、ジェニファーの命運を巧みに照らし出す照明の効果的な演出によって映される彼女とキャラクターの魅力は、それを補って余り得る。自身の超能力のせいで学校ぐるみのイジメにあったジェニファーが、ついに感情のコントロールを失し「みんな、大好きよ」と微笑みながら、羽虫の大群を校舎に呼び寄せるシーンは必見だ(いや、クライマックスとかじゃ全然ないよ)。それにしても、ジェニファーと昆虫の絡みは、どうやって撮ったんだろうなあ。白い衣装に身を包む彼女の姿と、血みどろのスプラッタ描写の対が奇妙に味わい深い作品であった。
余談だが、英語版音声の完全復刻をぜひ望みたい。



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『アニマル・ハウス』(1978)……ジョン・ランディス監督。フェーバー大学の学長ウォーマーは、友愛会のなかでもトップ・エリート「オメガ・ハウス」と手を組み、毎晩のように呑んだくれては騒ぎの耐えない負け犬「デルタ・ハウス」を追放しようと企む。これをしったデルタ・ハウスの面々は最後の戦いに挑む──1960年代の大学を舞台にしたコメディ。
治外法権の大学ゆえか、出てくる登場人物は良くも悪くも阿呆ばかりで、基本的にはその散発的なスケッチが描かれる。とくに、デルタ・ハウスのメンバーのひとりを演じたジョン・ベルーシの下らない悪行──酒に酔う、脚立で女子寮を覗く、お高くとまったオメガ・ハウスのメンバーの面前で汚らしく飯を食う──の様子が楽しげ。もちろん、それらスケッチの数々もん楽しいのだが、ラストでは、抑圧者としての阿呆と、それにめげない奔放な阿呆との一台阿呆合戦に雪崩れ込むところが無性に感動的。阿呆に勝つために、それを上回る阿呆さで立ち向かうデルタ・ハウスの企みは小気味よいし、それゆえにオメガ・ハウスの阿呆さ加減も相対的に際立つ感じは爽快だ。人間、抑圧者にだけはなってはお終いだと、ひしひし感じながらゲラゲラ笑い転げた。



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バニシング・ポイント』(1971)……リチャード・C・サラフィアン監督。新車の陸送を生業とするコワルスキーは、休む間もなく新車の70年型ダッジ・チャレンジャーを翌日の午後3時までの15時間でコロラド州デンバーからサンフランシスコまでに運ぶと賭けをする。寝食もなしに車道を飛ばす彼をやがて警察が追い始めるが、その逃走劇を知った盲目の黒人DJスーパー・ソウルは地方ラジオを通じて、コワルスキーを鼓舞し始める──命がけの暴走を続ける一匹狼の姿を描くロード・ムービー。
不思議な映画である。コワルスキーという主人公がまず謎で、なぜ彼が陸送屋──そもそも新車をそのまま陸送して商売になるのか──をやっているのかわからないし、いわゆるフラッシュ・バック形式を用いて彼の過去も小出しにされるが、やはりそのとらえどころのなさは変わらない。ただ誰とも迎合せず、ひたすら車を飛ばし目的地へ向かおうとするばかりである。ところで本作では、冒頭で、時間が物語の終盤から序盤へ飛ぶプロットを用いているが、その切り替わり時点にちょっとした仕掛けがあって、ともすれば本作全体が永遠に終わらない無限地獄のようですらある。
しかし、そのなかでもコワルスキーはひたすらに西を目指す。彼は、その瞳が見据える消失点(バニシング・ポイント)の先にある“なにか”を希求し、アクセルを踏み続ける。彼は何度でも、その先を目指すだろう。その果てしない道のりを行く彼の姿は、感動的だ。



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THE NEXT GENERATION パトレイバー』(2014 - 2015)……総監督:押井守、監督:田口清隆、辻本貴則、湯浅弘章。汎用人間型作業機械「レイバー」の発展に伴い増大したレイバー犯罪に対抗すべく1998年に設立された警視庁警備部特科車両二課、いわゆるレイバー隊も時代の趨勢の波に呑まれて最早無用の長物と化し、運用スキル後世継承のためという名目によってかろうじて第2小隊のみが現存する2013年を舞台に、後藤田隊長率いる“無能な三代目”メンバーの活躍を描く──1988年のOVA発表以来、劇場アニメ、TVアニメ、漫画などのメディアミックス展開を経ながら高い人気を誇り続けるロボットアニメ『機動警察パトレイバー』を実写化した連作短篇シリーズ(全7章13エピソード)*3
すでにオリジナルの設定時代を当に追い越した現在において、どういった切り口で新たに、しかも実写化するのか楽しみにしていたが、勝手に予想していたように、完全リブートするでもなく、あるいは作中の設定である1998年をそのまま舞台にするでもなかった。そうではなく、本シリーズが旧来のアニメ・シリーズ──とくに押井が監督した旧OVAから劇場版1作目と2作目──からの明確な続編であるとし、作中でも現実のとおりに時間を経過させるという、思えばしごく真っ当でありつつも、“アニメ”から“実写”をシームレスに繋ぐ意外性にまず驚かされた。
そもそも、最初の旧OVA時からの演出方針として、予算削減のためにレイバー活躍シーンは極力省き(なんなら無い)、小隊ならびにレイバーの設備維持にかかるドラマ(オタク的趣味をふんだんに盛り込んだドタバタ)あるいは彼らを巻き込む事件そのものをメインに置く、さらに本来の主人公であった若者たちを押井が嫌ったことなどがあって、いわゆるジャンル的お約束から外れたところに、その特徴があったわけだが、本シリーズでもそれはきっちりと継承されている。だから、本シリーズでもレイバーはほとんど動かないし、なんなら登場さえしないエピソードすらあるが、そのぶんエピソードごとに多彩なドラマを味わえるのが非常に楽しい。
主人公(一応)である泉野明(いずみの・あきら)を演じた真野恵里菜をはじめ、初代メンバーと名前、性格、容姿等々限りなく似せながら微妙に異なる3代目にピタリとはまる見事なキャスティング*4と俳優たちの演技、使いどころを絞りかつ過たなかったVFX(たいへんリアリスティックな出来栄え!)、そして、実物大のモデルを作り置いて“そこにレイバーが普通にいる画”──すなわち世界観を実現せしめた本シリーズは、「すべての映画はアニメになる」という押井の言が、ある意味でもっとも納得されやすい形で結実したシリーズといえそうだ。素晴らしい「趣味の世界」を堪能できた本シリーズに続く、じき公開の長編『首都決戦』も楽しみだ。>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150501/1430477625

*1:余談も余談だが、『渚にて』の映像化としては、こちらのほうが好き。

*2:もちろん劇中のみの設定で、実際の「逆打ち」とは無関係。誤解なきよう。

*3:本来であれば、各7作品ごとにレビューを書くべきですが、ひとまず便宜上ひとまとめにしました。

*4:アニメ版から整備班のシバシゲオを演じた千葉繁が同役で出演しているが、さすがシバが千葉本人をモデルに造型されたキャラクターなだけあって違和感のなさは折り紙つきだ。▼また、とくに良かったのが、ロシア人と日本人とのハーフである隊員、カーシャを演じた太田莉菜。アニメ版における香貫花・クランシー的な立ち位置のキャラクターだが、彼女のおかっぱ頭の似合う(←重要!)シャープでちょっと擦れたような雰囲気と銃剣を手に大立ち回りを演じてみせるその姿は、押井好みのヒロイン像をこれでもかと実現せしめている。