『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(実写版・後編)感想

樋口真嗣監督。諫山創による同名大ヒット漫画を実写映画化したSFアクション2部作の後編にして、前作で提示された「世界の謎」を暴く完結編。主演は三浦春馬長谷川博己水原希子本郷奏多ら。

外壁修復部隊を襲った数多の巨人たちを、自らが巨人へと変身することで打ち倒したエレンは、彼の巨人化の秘密を知っているらしいソウダの指示によって、再び人間の姿に舞い戻った。しかし、エレンは修復部隊を総指揮する政府高官クバルと親衛隊によって拘束され、前線基地において衆人環視のなか軍法会議に掛けられることとなった。

アルミンの弁護も空しくエレン処刑の判決が下り、もはやこれまでと思われた。そのとき、エレンと同じく知性を持っているらしい巨人が基地の天井を突き破って出現。クバルや親衛隊、修復部隊隊員たちをなぎ倒しつつ、エレンをいずこかへと連れ去ってしまう。

巨人討伐の新たな切り札ともいうべきエレンを失ったうえ、外壁修復に使用するはずだった最後の爆薬も先の戦闘で失くし、万策尽きたと思われたが、アルミンは故郷の丘にもうひとつの切り札“不発弾”があったことを思い出す。アルミンは、ほんのわずかに生き残った隊員とともに“不発弾”を回収し、外壁の修復に向かうことを提案するが、そんな彼らにミカサは複雑な思いで眼差しを向けるのだった……。


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一部の──あるいは多く?──原作ファンやアニメ・ファンは紛糾し、映画ファンは賛否両論で分裂し、スタッフの失言は炎上し……と、本編内外を巻き込んで盛大な祭となったことのほうが、どちらかといえば印象的な感さえある『進撃の巨人』実写版。僕はといえば、前作から引き続き、原作漫画やアニメ版についてノー・タッチを通し、『進撃の巨人リテラシーの欠片もない状態で、この後編『エンド オブ ザ ワールド』に挑んだのでありました*1

結論からいえば、前作と大同小異というか、やはり

本編部分の演出はどうしようもなく稚拙であり、
特撮映像は迫力があって最高なんだけどな……ということになるだろう。


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ただ、なにより前後編に分ける必要はなかったな、という印象がいちばん強かった。



今回の実写版『進撃の巨人』が2部作となったのは、製作費の増額を条件に撮影開始直前の土壇場で決定したとのことらしい*2。そのため、もともと1作完結だったものを文字どおり半分に割る形になっており、風呂敷を拡げる前編はともかくとしても、その風呂敷を畳むばかりの後編は、はじまってすぐに世界の謎が明かされたりと、1本の映画として非常にバランスがおかしなことになっている*3

そもそも後編に映画1本(約90分弱)の尺を埋めるだけの内容が足りないのは、冒頭に付された「前作のあらすじ」がある時点で一目瞭然で、というのもこれがけっこう延々とだらだら続くのだ。こんな懇切丁寧で不必要*4な「前作のあらすじ」は、ポール・W・S・アンダーソン監督が主導する実写版『バイオハザード』シリーズ(2002 -)において、もはやお約束のギャグ*5として付されているくらいしか近頃お目にかからない陳腐な代物だし、むしろ『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(ピーター・ジャクソン監督、2001 - 2003)のように、東宝マークのあとにいきなり本編に突入したほうが、まだ掴みのインパクトは強かっただろう。それにタイトル・マークも何度も出すぎだよ。

前後編に分けたことが、完成度にいささかも貢献していないのであれば、いっそ2時間30分程度の1部作で公開したほうが、まだおさまりがよかったのではないだろうか。


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そんな感じで冒頭から臭い立つ尺の足りなさを埋めるべくかどうか、本編のドラマ部分の演出は、テンポから演技までダラダラと間延びし、カメラワーク(一部、特撮と絡むようなところを除く)から果てはSE(サウンド・エフェクト)*6までたいへん稚拙であり、編集や音楽も抑揚に掛けた気だるいテンポ感で進むので、本当に見ていてしんどい。

なかでも、ドラマ部分のカメラワークはいちいち稚拙。たとえば冒頭の軍事裁判が行われる四方を壁に囲まれた公園も、もっと閉塞感を持ってフレーミングできただろうし、逆に後半でモンゼンに向かう道中などはもっと広々と切り取れたはずだ。人物の空間配置もいまいちわかりづらいのは、編集ばかりのせいではないはずだ。ジュークボックスをモノリスに見立てて『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)ごっこばかりを喜んでやっている場合ではない。

やはり興味がないということなのか、人間ドラマになると途端にスケールもへったくれもなく、もはや間抜けですらある樋口演出の腕は、そういう意味では逆説的にたしかなものだといえるかもしれないが、それはつまり本編監督は別に立てたほうがよかったのでないか、という思いを強くするばかりである。


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前作でも噴飯モノだったフラッシュバック演出の多様も相変わらずで、テンポを崩すだけならまだしも、今作では登場人物たちが思い返すポイントがだいたい同じ──前編の冒頭に描かれた、まだ平和だった頃の町や人々の姿、そして不発弾──ということもあって、「前作のあらすじ」を含め、いったい何回同じショットや内容を映せば気が済むのか、と可愛さなくしてクドさ100倍である。

また、前作のときには敢えて触れなかったが、役者陣の演技の付け方が非常によろしくない。映画的というよりは、おそらくは舞台演劇的な演技で統一されており、これがなまじ世界観がリアリスティックであるだけに映画としてはいささか大仰に過ぎる。とくにハンジを演じた石原さとみの演技は、原作やアニメ版再現としては「有り」かも知れない*7が、本作に関してはただただ浮いたギャグにしか見えていない。

せめてハンジがその感情を最大限に爆発させるところに絞って、あの素っ頓狂な演技を付けるならまだしも、一事が万事──いたってシリアスな場面や、本作のもっとも静謐で感動的であろうラスト・シーンにおいておや──あの調子なので、本来目指したはずの雰囲気をことごとく破壊しているのが痛々しい。しかも、都合が悪くなると画面外にアウトするとか、手綱が引けていないのもいいとこだ*8。また、石原=ハンジに限らず、誰もかれもが終始「ワア」「ギャア」と叫びどおしだったり、大変な事態に囲まれているにも関わらず唐突に描かれる愁嘆場の場違い感は、もはや突っ込む気にもなれない。


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とはいうものの、本作も悪いところばかりではない。

先にも書いたように、たとえば特撮表現のうちの巨人描写は、相変わらずよかった。冒頭でエレンを掴み去る謎の巨人(=鎧の巨人)が、その周りにいる親衛隊やら外壁修復隊員たちを殴っては踏みつけて木端微塵にしてゆく描写は血肉が弾けて愉快だったし、後に展開される巨人エレンと謎の巨人とのガチンコ・バトルは着ぐるみ特撮としての楽しみに溢れていた。廃墟とはいえ、ビルをなぎ倒しながら巨人が殴り合う画は、ウルトラマン的様式美もあって迫力満点だ。

また、夜間のシーンが多く、近場しか映されなかった前編に比べて、夜が明けて以降に物語が展開する本作では遠景を映すショットが増えたのも、本作の魅力のひとつだ。丘々の彼方に見える巨大な壁や、それに囲まれた廃墟、遠くのほうで団欒する雑魚巨人の群れ、そしてエレンやミカサたちがついに見出す“世界の果て=エンド オブ ザ ワールド”の儚くも美しい光景など、グッとその世界観を拡げた背景描写も映像/特撮的な見せ場のひとつだろう。

そしてそれにも関連することだが、なにより本作がきちんと“世界の謎”を明らかにし、副題に違わず“世界の果て=エンド オブ ザ ワールド”の光景をわれわれ観客の前に現し、物語に独立した映画として一応の決着をみせてくれたことは、その内容も含めて評価に値するのではないだろうか。ミルトンの言葉を引用しつつ描かれる旧世界から新世界への物語的/映像的な移行が描かれる一連のラスト・シーンはは──演出のまずさはともかく──美しく感動的だ*9


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【以下、ちょっとだけネタバレありますのでご注意ください】


僕がとくに好きなのは、いま打ち破られた旧世界の象徴たる数多の瓦礫とともに空中を落下するしかないエレンを、ミカサが立体機動装置を駆使して間一髪で救出するシーンだ*10。ミカサの伸ばした手を、エレンがしっかりと掴む。ふたりが手を取り合った瞬間とは、強大で残酷な運命に翻弄されるがままに離散していたふたりがついに再会した瞬間であり、世界が新たなフェーズに移行した瞬間でもある。ここは絵画的にとくに美しいこともあって、黄昏の眩い光が溢れるなかに映された、その手と手を観たとき、思いがけずこみ上げるものがあった。

が、しかしである。その直後、この感動を締めくくるべきエレンとミカサそれぞれの顔のアップ・ショットの切り替えしで、どうしてふたりの
イマジナリーライン超えてしまったのか!!!!*11 
え、なに、このふたりはすれ違ったままなんですか?──そうでないのなら、どうして、ちゃんとふたりが向き合うように撮らない/編集しないのか! 映画技法の基本じゃありませんか! こんなところまで肩透かしポイントを過たず入れ込んでくる樋口流には、ほんと頭が下がります。


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ところで、本作の批判ポイントとしてよく見かけるものに、前編であれだけ猛威を振るった無気味で獰猛な雑魚巨人たちの出番が全然ないじゃないか、というものがあるが、これはむしろ彼らが出て来ないことに必然性があると僕は考えるものである。

前編を観たとき、僕は雑魚巨人の群れとは、エレンの抑圧されたトラウマや無意識的欲望が表出したもの(=イドの怪物)ではないかと書いた。だからこそ巨人は、エレンにとって然るべき人々を過たず喰い殺し、逆に然るべき人々は決して喰い殺さなかったのであり、前編で描かれる出来事とは、エレンの症候と治療過程そのもの──さらにいえば、彼の心的世界──の暗喩であるのだ*12。そして、精神分析家としての役割を担ったシキシマの働きかけによって、エレンは自身を脅かす無意識的欲望たる巨人に自ら成り代わることで、彼の症候は治癒をみたのである*13




このように前編においてエレンの症候が治癒した以上、その原因たる雑魚巨人は彼の脅威たり得ない。本作(後編)において、雑魚巨人たちがほとんど登場せず、登場したとしてもほとんど無害な存在になっているのは、おそらくこのような理由からだろう。エレンの内なる敵は去ったのだ。

では、エレンを脅かす存在は、今度はどこからやってくるのか? 本編をご覧になった方ならお分かりになると思うが、それはエレンの心の外にある存在──「他者」が、今度は彼に襲い来るだろう。

すなわち、前作から不穏な表情を浮かべる政府高官クバルや、エレンを治療したシキシマ*14たちである。彼らはエレンにとって他者であるがゆえに、自身を邪魔だてする者は分け隔てなく──雑魚巨人がエレンに起因するがゆえに死を免れた登場人物たちも──排除しながら、エレンの「心」を崩しにかかるだろう。そして、それゆえに彼らは世界の果てで父なる神として、エレンの前に立ちはだかることだろう。




とはいえ、本シリーズの売りである巨人たちの暴れっぷりがほとんど観られないことに物足りなさを感じるのは事実であって、この不完全燃焼感はどこに原因があったかといえば、先にもちょっと触れたとおり無理やり2部作にしてしまったことの弊害にほかならない。当初の企画どおり1部作であれば、そこまでの違和感ではなかったのではないだろうか。売りポイントが自身の首を絞めていては、本末転倒であるから、ほんと、なんならソフト化の際にソリッドに再編集して1部作にすれば、まだせめてだな……(以下省略)。


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というわけで、2部作として実写化された『進撃の巨人』だが、見所もあるにはあるし、それ以上にたいへん興味深い映画体験──映画の内外含めた動きにおいて──だった。前作を観たときにも思ったが、モンスター映画としてたいへん優れた側面も持っているし、後編では終末SFとしての様相も加味されて、いよいよ面白そうになりそうな展開も待っている。だからこそ、やはり本作のドラマ部分全般のなんとも知れぬユルさが、本当にもったいない。題材や特撮表現の素晴らしさ、映画独自に盛り込んだネタや物語展開など、はっきりいって日本映画史に残る大傑作になるだけのポテンシャルは十分に備えていたはずである。

しかし、そうはならなかった。こと完成度──とくに演出面──において、昨今の日本メジャー大作の病理に蝕まれたか、その杜撰さがはっきりと露呈する結果となった。観ていて非常にもどかしい。とはいえ、本シリーズは、意義深い失敗作であってほしいし、スタッフ・ロール後に仄めかされた続編があるなら是非とも作ってほしい。汚名はそそぐためにあるのだから。

そんな悲喜こもごもある結末を、ぜひ劇場でご覧ください。

*1:前編の感想はこちら>>拙ブログ「『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(実写版・前編)感想」(2015年8月27日)。

*2:脚本担当のひとり町山智浩がweb配信番組『【WOWOWぷらすと】町山智浩に聞く「進撃の巨人」後編』(2015年9月15日放送)内などで証言している。

*3:キル・ビル』2部作(クエンティン・タランティーノ監督、2003 - 2004)以降──というより、日本においては実写版『デスノート』(金子修介監督、2006)があって、なんとなく日本メジャー映画に根付いた悪癖ともいえるかもしれない。果たしてどれほどの映画が、『キル・ビル』のように1本では納まりきらないから2部作にしているのだろうか。

*4:何年ぶりかの続編であるならいざ知れず、『前編』はつい先日観たばかりだから覚えてるよ!

*5:ヒロインを演じるミラ・ジョヴォヴィッチの「私の名前はアリス」というナレーションではじまるアレ。

*6:クバルの持つ鞭が動くたびに、いちいち「ピュン、ピュン」と大袈裟なSEが付くが、ほんとダサイので止めたほうがいいよ。

*7:石原は、アニメ版で同役の声を演じた朴璐美に演技指導を仰いだそうだ。だから、演技そのものの完成度というより、映画にそぐわない演技指導をなぜ演出側が採用したかが問題である。そして、これは石原に限った話ではない。

*8:全体的に、画面のメインに据えられた人物以外の演出が、ピントが合ってないにしてもたいへんユルい。

*9:また、いまの日本を痛烈に批評するような展開もよかった。

*10:前作のラストにあった次回予告や、本作の予告編でも1ショット映っていたくだりである。

*11:いや、エレンのポーズがあれで、ミカサのポーズがそうだから、斟酌してそういう切り返しになることはわからなくもないが、しかし、ここはポージングよりも意味合いを重視すべきシーンだろうと。▼イマジナリーラインとは映像を撮影、編集する際に想定されるもので、2人の対話者の間を結ぶ仮想の線のこと。たとえば、向き合っているふたりの話者AとBを別々に映すとき、話者Aの右半身を手前に映した場合、話者Bの左半身を手前に映して切り返せば、ふたりが向き合っているように見える映像文法。詳しくは参考書籍、あるいは映画『パプリカ』(今敏監督、2006)を参照のこと。

*12:町山智浩が本作の脚本アイディアのひとつとして、村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985)を意識したと仄めかす発言をしている(TBSラジオ『たまむすび』、2015年9月15日放送内)。本作と同じくスキータ・デイヴィスのヒット曲「世界の果てまで(The End of the World)」(1962)の歌詞を巻頭言に掲げた村上の『世界の終わりと〜』において、そこに登場する「壁」に囲まれた街《世界の終わり》の地図が、まさしく語り手の心的地図の直喩であったこと、そして主人公が迎える顛末は、今回の実写版『進撃の巨人』を思い起こさせる。また、スタッフ・ロール後に付されたエピローグ部も、この小説が描き出した世界観に近しい匂いを感じるものである。

*13:同時に、エレンのエディプス・コンプレックスも象徴的去勢──片腕や片足を巨人に噛み千切られる──を経て解消された。

*14:「転移」は他者ゆえに起こることである。