『マン・オブ・スティール』感想

ザック・スナイダー監督。クラーク・ケントは死にゆく惑星クリプトンから地球へと送られたあと、ジョナサンとマーサ・ケント夫妻により養子として育てられた。しかし彼自身が持ち合わせている特殊な能力と屈強な肉体ゆえに、彼はひとり世界を転々としながら、自らの出生の謎を探っていた。そんな折、ゾッド将軍と名乗るクリプトン星人が現れ、地球をクリプトン化しようと宣戦布告した……。


     ○


正直なところ、あまり印象に残らなかった。この映画が好きな人には本当にすみません。

確かに数々のアクション・シーンやクラークの回想に登場する竜巻のシーンなどで、これでもかと描かれる破壊描写はすごい。なぎ倒されるビル郡、舞い散る瓦礫、宙を舞う自動車──どれをとっても見応えがあったし、後半のクライマックスで描かれるクラークとクリプトン星人とのガチンコバトルでは『ドラゴンボール』もかくやの高速移動と破壊のインフレが、画面を彩っている。

けどなぁ……

たぶん、話の内容の割りにアクション・シーンが長過ぎなうえに数が多いのだと思う。だから「ここがッ!」というキメの部分がないし、散漫になってはいないだろうか。僕は途中からちょっと眠たかった。


     ○


そも、映画の冒頭に付されている惑星クリプトン崩壊──という破壊とアクション──を描く一連のシークェンスが、やたら長いというのが本作の性格をよく現している。たしかに金属粒子が波打って立体映像を作り出すツールのデザインや、虫をかたどったメカや生物のデザインも良かったし、もちろん造り込まれた一連の破壊描写もすごかったけどれも、これって前菜でステーキが出てくるようなモンじゃないかしら。前半の物語が、クラーク・ケントが自らの出生の秘密を探すというある種のミステリィになっているため、冒頭で詳細にその謎の答えを描くことはサスペンスの効果を薄めることになっていて、観客の興味が続かないという問題もあるだろう*1。その謎の鍵を握るクラークの父親ジョー=エルは映画全体を通して出ずっぱりなのだから、惑星崩壊の顛末はフラッシュバックで小出しに映すとかね。


     ○


あと細かいことだが、あれだけ「スーパーマン」という言葉を出すのを嫌っていた宣伝と本編*2だったのだから、最後まで本当に使わなけりゃ、それはそれで面白い試みになったと思うのだけどなぁ。

最後に、僕が本作で一番グッときたところを紹介して終わろう。それは、ローレンス・フィッシュバーンが演じる雑誌「デイリー・プラネット」編集長ペリー・ホワイトが、スーパーマンらの戦闘に巻き込まれた挙句に絶体絶命の危機となり、ついに死を覚悟した瞬間のショットだ。全篇を通して、マスコミ人として以前に人としての正義感に溢れた人物として設定されていたが、その人柄が非常によく表れていた。

まとまりのない文章になってしまったが、これが限界である*3

*1:皆さん「モチロンご存知」の物語だったとしてもだ。

*2:ロイス「その“S”の字はどういう意味?」クラーク「僕の生まれ故郷の惑星では希望を意味するもので、アルファベットじゃないんだ」ロイス「でも地球では“S”だわ。たとえば、こんなのはどうかしら。“スーパ”」ピーッとふたりの会話を途切れさせるノイズが走る──という小芝居を予告編で観た方も多いだろう。

*3:思想哲学的クリストファー・ノーランと肉体言語的ザック・スナイダーの食い合わせがうまくいかなかったんかしら。