2017年鑑賞映画 感想リスト/21-30

不思議惑星キン・ザ・ザゲオルギー・ダネリヤ監督、1986)……1980年代モスクワ。異星人と名乗る男に声をかけたマシコフとゲデバンは、その男が持っていた移動装置によって宇宙の彼方にある砂漠の惑星へと転送されてしまう。通りかかった小型船から降りてきた現地人たちは人間とそっくりだったが、彼らは「クー」としか喋らないのであった。果たしてマシコフたちは地球へ戻れるのか──崩壊間際のソ連製コメディSF。

なんとも不思議な映画だった。基本的なプロットは見知らぬ惑星からの脱出劇なので、状況としてはたいへん緊迫しているはずなのだが、そのリズムと展開は非常にまったりとしたオフビートな笑いを醸しつつ、なんとも心地よく進む。それでいて本作が決して退屈ではなく、なにより公開当時ソ連で大ヒットしたのは、やはりSFという物語設定のそこかしこに、国内外に向けた様々な寓意や皮肉が暗に込められているにほかならない。ともすれば、よく本国で公開できたものだと思う。すべての冒険の果てに主人公たちに残された、ほんのちょっとしたものを観たとき、なにを思うだろうか。クー!


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『T2 トレインスポッティングダニー・ボイル監督、2017)……仲間たちを裏切って1万2000ポンドを持ち逃げしたマーク・レントンは、逃亡先のオランダから20年ぶりに故郷エディンバラに戻ってきたが、すでに母は他界し、実家には年老いた父がひとりで暮らしていた。一方、かつて仲間だったスパッド、サイモン、そしてベグビーは、未だに悲惨な人生を送り続けていた──1996年から21年を経て登場した、まさかの続編。

爽快さと陰鬱さに揺れ動くカラフルでフィルムグレインにざらついた画をつなぐテンポのいい編集で、年を取ったオリジナル・キャストが例のなまりのキツい英語でまくし立てるあの感じが、なんとも懐かしいなぁと郷愁に浸っていたら──前作を実際に観たのは、およそ10年前だった──映画が進むにしたがって、胸を掻きむしりたくなるような感情が溢れてきて止まらない。エンドロールへいたる1ショットに集約される、そのあまりの苦々しさに「ぎゃああっ」と叫びそうになるのを、いまは紳士的に耐えている。かろうじて。

唯一の救いは本作が、前作でも聖愚者としての役割を大いに担っていたスパッドの成長譚としての性格を持っていたこと。スパッド、おまえ本当にいいやつだもんな!


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名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)』静野孔文監督、2016)……ある夜、警視庁の極秘データを閲覧していた何者かが逃亡し、その行方をくらましてしまう。翌日、リニューアル・オープンした東都水族館にやって来た江戸川コナンたち少年探偵団の一行は、何らかの原因で記憶喪失になったらしいオッドアイの女性と出会う。彼女の所作の端々に感じられる“黒の組織”の気配に灰原哀は感づくが──劇場版シリーズの第20作目。

昨年なんとなく「劇場版だけでも観ておけばなんとかなるだろう」と安易に思い立って、19作目までの未見作品を全部観たのけれど、所詮は付け焼刃だったことをひしひしと思い知ったような気がしないでもない。アバンの格闘アクションからカー・アクションは『ワイルド・スピード』シリーズもかくやでぶっ飛んでるし、『名探偵コナン』を観ているかと思ったらジェット・リーとユン・ピョウが観覧車の上でカンフーを始める(錯乱)し、阿笠博士の発明品は万能過ぎるしで、なにがなにやらを通り越して愉快千万。無理にでもレギュラー陣は登場させようという努力はじつに涙ぐましい。

本作の唯一の欠点は、舞台が水族館である必然性がまったくなかったこと。水によるディザスターが巻き起こるでもなく、イルカに乗って犯人を追うでもなく──って、これならトロピカルランドでよかったんじゃないかしらん。


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『ターザン: REBORN』デヴィッド・イェーツ監督、2016)……19世紀末。ジャングルのゴリラに育てられた野生児“ターザン”として伝説化していたジョン・クレイトン卿と彼の妻ジェーンは、米国特使であるウィリアム博士とともに、ベルギー国王レオポルド2世から領国であるコンゴ自由国への視察に招聘される。しかし、その裏ではコンゴとジョンをおとしめんとする陰謀がうごめいていた──エドガー・ライス・バローズによる『ターザン』シリーズの後日譚的作品。

本作は、前半が妙にもたついていたり、アクションにおける決定的なショット(キメの画)がどういうわけかことごとく抜け落ちていたり、クライマックスにおけるターザンと野生動物連合軍との共闘も各種動物にもうちょっと個性的な見せ場──そも、ゴリラたちの印象がここでもっとも薄いのは致命的だろう──があってもよかったんじゃないかしらんと思ったり……など、昨今の大作アクション映画としては絶妙に煮え切らない部分も多い。

しかし一方で、本作の物語は、かつての列強国(白人)による第三世界(黒人等人種的マイノリティ)への差別と搾取に対する落とし前を、フィクションだから可能な誠実さを持って描き出そうといるのが興味深い。アレクサンダー・スカルスガルド演じる高貴で野蛮な白人ターザンとサミュエル・L・ジャクソン演じる先進的で文明的な黒人ウィリアム博士──まあ正直、ウィリアム博士の正義感あふれるキャラクターによって、米国における黒人搾取の歴史がなんとなく不問にふされている感がなくはないが、その彼ですらインディアンの殺戮には加担した過去を悔いる発言をさせていたりと、なるべく公正なバランスを保とうと重層的にコンテクストをめぐらせているとは思う──が、相棒となってゆく展開が象徴的だ。


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『ダークスカイズ』(スコット・スチュワート監督、2013)……郊外の住宅地に暮らすバレット一家。レイシーは転職活動中の夫ダニエルと、ふたりの幼い息子ジャシーとサムを支えながら、仲睦まじく暮らしていた。ところがある夜から家のなかで不可解な現象が頻発し、末っ子のサムにも異変が起こりはじめる。「サンドマンがやって来るんだ」と言って怯えるサムに、不安を募らせるレイシーだったが──監視カメラ設置型ホラー・サスペンス。

パッケージとコピーだけを見て、勝手に幽霊屋敷系ホラーと思っていたら、巻頭言がまさか亡くなるとは思いもしなかった作家の筆頭であるSFの巨匠アーサー・C・クラークのものであり、なにを隠そう本作は、ちょっとスレンダーマン風味のグレイの造型もな無気味なエイリアン・アブダクションものなのでした。開幕早々、「あら! そっちなのね」と巻頭言で驚かされるというは新鮮な体験だった。

ジャンル的ツイストでの驚きを巻頭言によって自ら排しながらも、本作は予兆から発現、対峙するクライマックスから最高に後味の悪いラストに至るまで、その恐怖演出積み重ねが堅実で、見応え充分。とくに後半、家族がどんどん地域社会から孤立してしまう展開がヒリヒリとした緊張感を煽りつつ、クライマックス直前での家族の幸せな会話に繋げるという展開が素晴らしい。監視カメラ設置のくだりも適材適所といった使われかたで、決してダレることはない。かつて中2病がゆき過ぎてしっちゃかめっちゃかになってしまったかのような映画を撮っていたスチュワート監督とは思えない手腕に驚かされる。欲をいえば、ラストのJ・K・シモンズの表情に、もう少し含みがあってもよかったのじゃないかしら。


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バイオハザード: ヴェンデッタ(辻本貴則監督、2017)……対バイオテロ組織“BSAA”のクリス・レッドフィールドは、自らの復讐のために大規模なバイオテロを画策する国際指名手配犯グレン・アリアスを寸でのところで逃してしまう。クリスはかつてのS.T.A.R.S.の仲間であるレベッカ・チェンバース教授と合流し、アリアスの陰謀を砕くべくレオン・ケネディに協力を求めるのだが──ゲームの設定を継承したフルCGアニメーション映画シリーズ最新作。

制作スタジオの変更や、製作総指揮に清水崇を置いたこともあってか、前2作よりもゴア表現が格段に増加。画面を舞う血飛沫、欠損する身体など、おためぼかしなしで大盤振る舞いである。また、辻本監督お得意のコンバット・アクションを駆使した殺陣も満載で、全篇にもりこまれた種々のアクション・シーンは、そのゴア描写ともあいまって演出がノリにノッていて楽しい。

しかし本作でも前2作と同様にその他のドラマ部分への甘さが健在で、絶妙につまらない。全体的にテンポが奇妙に悪く、なにより展開の──物語の筋そのものはともかく──積み重ね方に脈絡が足りていないため、楽しいはずの恐怖&アクション・シーンにもノイズを残してしまっているのが残念。プロット構成や編集をもっと精査すべきだった感は否めない。もったいないなあ。


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LOGAN/ローガンジェームズ・マンゴールド監督、2017)……謎の原因によってミュータントが絶滅寸前となった2029年。かつて不死身の“ウルヴァリン”として知られたローガンもまた日に日に衰弱し、いまは乗り合いリムの運転手として糊口を凌ぎつつ、キャリバンとともに“プロフェッサーX”ことチャールズを介護しながらメキシコ国境に程近い廃墟に身を隠していた。ある日、見知らぬ女性から「とある少女をカナダ国境まで乗せてほしい」という依頼が舞い込んでくる。その少女ローラこそ、絶えて久しいと思われていたミュータントの新世代だという。いぶかしむローガンのもとに、謎の武装集団の影が迫っていた──『X-MEN』シリーズ最新作。

数あるアメコミ・ヒーローの実写映画化と一線を隔するような本作の予告編をはじめて観たときから楽しみにしていた。たしかに、シリーズものゆえの取っつきにくさがあるし、語り口が妙にまごついたり、明らかにサスペンスのためのサスペンスにしかなっていないシーンもあるし、処理しきれていない登場人物たちも多かったりと、全体的にみたときマズい部分も少なくない。あまりに出来すぎの動画メッセージには、その内容はともかくちょっと苦笑してしまった。

しかし、本作を形作る様々な素材の見事な素晴らしさが、それらを補って余り得る。長年にわたってウルヴァリンとプロフェッサーXを演じたヒュー・ジャックマンパトリック・スチュアートの老いさらばえた演技、ミュータントの少女ローラを演じたダフネ・キーンの眼差しひとつで画面をさらうソリッドな魅力、本作と同じく20世紀フォックス制作でR15指定を受けたマーベル・フランチャイズデッドプール』(ティム・ミラー監督、2016)の成功なくしてはあり得なかったであろう重く凄惨な暴力描写、西部劇の傑作『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス監督、1953)と聖書的骨子を援用しつつ語られる『X-メン』そのものへの内省と昇華の物語、そして映画的としかいいようのないラストショットの美しさ……と、枚挙に暇がない。エモーショナルで力強い魅力に満ちた本作を、ぜひ見届けたい。


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怪盗グルーのミニオン大脱走カイル・バルダピエール・コフィン監督、2017)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20170810/1502325511


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『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』新房昭之総監督、武内宣之監督、2017)……夏休み真っ最中のとある海辺の町。中学1年生の典道と祐介は親友同士だったが、それぞれが想いを寄せる同級生のなずなが2学期から転校することなど知る由もなかった。折りしも町の花火大会の日、学校のプールで競争する典道と祐介を見かけたなずなは、親への反発から、勝ったほうと駆け落ちしようと、密かに賭けをする──岩井俊二による同名ドラマ(1993)を長編アニメ化。

原作のTVドラマもおろか、まったくの予備知識なしで観たけれど、興味深い作品だった。コントラストの強めな美しい色合いの映像に表れる広角レンズの多用による丸く歪んだ画面や、校舎や風車といった円形の意匠と運動、明らかにスティーヴ・ライヒミニマル・ミュージックを模した劇伴などなど映画全体に施された円環構造的な仕掛けが、繰り返す1日の物語を駆動させていて面白い。ただ、キャラクターの外部に強迫観念的に施される意匠ゆえに、そうとなれば彼/彼女たちの着る制服は、もっと没個性的なものでもよかったのではないかと、思わなくもない。

しかし、本作が僕の心をとらえて放さないのは何故なのだろうか? それは、本作に不思議な開放感に溢れているからではないか。本作が一種のタイムトラベルSFであることから早速引き合いに出されているらしい昨年公開の『君の名は。』(新海誠監督、2016)と本作をあえて比較したとき、前者が収束する物語、後者は拡散する──「どっちだっていい」──物語という区分けが可能であろう。ラストの花火とは、誰もが必ずや被る収束そのものからの解放にほかならない。なんとなれば、おそろしく純情でリリカルな『8 1/2』(フェデリコ・フェリーニ監督、1963)をみせつけられたようで、ちょっとした感動を覚えている。


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新感染 ファイナル・エクスプレスヨン・サンホ監督、2016)……ファンドマネージャーのソグは、妻と別居し、年老いた母と、娘スアンとともにソウルに暮らしていた。仕事ばかりでスアンをまったく省みていなかったソグは、娘が誕生日になにを欲しがっているのかもわからない。「釜山のお母さんに会いに行きたい」というスアンの願いに、一度は「仕事があるから」と渋るソグだったが、翌朝ふたりの姿は高速鉄道KTX101列車にあったのだった。出発の時間が迫るなか、不穏な影がソウル駅構内を駆け巡っていたとも知らず──世界的に高い評価を得た韓国産ゾンビ映画

観終わったあと、思わず「完璧か」と呟いてしまった。完璧。やがて韓国を覆うゾンビ・パンデミックが走り出した列車の窓の外でフッと現実になる序盤のシーンからはじまって、フレッシュでかつ豊富なアイディアをこれでもかと詰め込んだゾンビがらみのシーンは、どこをとっても素晴らしい。KTX車内という閉所と、駅舎やその敷地といった開けた空間のどちらにもゾンビがらみの見せ場を用意した横移動あり、縦移動ありのメリハリの効いた展開は、観る者を飽きさせず、スクリーンに釘付けにして放さないだろう。

同時に、このゾンビ・パンデミックをとおして描かれる物語もまた素晴らしい。仕事と金のことばかりで娘だけでなく他人をまったく省みなかったダメ人間ソグが、ゾンビたちの襲撃や生存者たちとのやり取り、そして、すがすがしいほどのクズ人間との対決を経るなかで、すこしずつ父として、人間として成長してゆく姿は感動的だ*1。彼だけではない。このKTXに乗り合わせたすべての乗客が、この災厄のなかでそれぞれに成長し、あるいは退行してゆく。本作におけるKTXは、人生の縮図そのものにほかならない。まさに「人生という名のSL」である。

ゾンビものとして、乗り物パニックものとして、この上ない大傑作だった。

*1:演じたのは、『トガニ 幼き瞳の告発』(ファン・ドンヒョク監督、2011)で、どんな状況でも誇りと正義の心を失わない教師を演じたコン・ユ。