2018 7-9月感想(短)まとめ

ちょこまかとtwitterにて書いていた2018年7月から9月にかけての備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】

◆若き日のハン・ソロの冒険を描くハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリーロン・ハワード監督、2018)は、たしかにおもしろく観られるのだけれど、オリジナル3部作──いいかえれば、本作の辿る未来──との関連付けをアレもコレもと盛り込みすぎた感があって、そういったノルマは達成したのだろうけど、いささか鈍重な印象が拭えない。正直、過去作との関連づけは、チューバッカとの出会いだけに絞ったほうが、よかったのではなかろうか。

まあ、本作も監督の交代劇やら脚本の修正やら再撮影やら制作途上のゴタゴタに見舞われていたので、きちんと整理する時間がなかったのかしらん。ただ、中盤にある“反乱”シーンは、まさにいまこそ描かなければならないという危機感の高まりがヒシヒシと感じられて、非常に印象深いものとなった。


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◆勤務する会社が起こした不良債券取引によって失意のどん底に叩き落された証券マンが、離れて暮らす妻子に会おうと韓国からシドニーに降り立つ『エターナル』(イ・ジェヨン監督、2017)は、画面や展開にささやかにほのめかされる伏線から、観るうちに「おそらくは、こういうオチなのだろうな」と予想はしていたのだが、その種明かしの方法があまりに変化球だったので、ものすごくビックリして、ア然としてしまった。その分、それに続くエピローグがちょっと長ったらしいのが惜しい。


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◆顔に障害を持つゆえに家庭学習で育ってきた少年オギーが、ついに普通の学校で過ごす1年間を描いたワンダー 君は太陽スティーブン・チョボスキー監督、2017)は、登場人物に対する演出の着かず離れずの距離感と、メインから脇に至るまでの役者の見事な──きわめて自然な──演技のアンサンブルに裏づけられた、単に難病感動モノに留まらない見事な1作だった。テンポのよさと的確な見せ方の按配も相まって、出番の大小に関わらず、本当にキャラクターが生き生きしている(1シーンだけ合成の甘いところがあったが、あのシーンは黄泉の国なので、あれはあれでよし!)。

たしかに本作は、“いい人”ばかりに溢れた理想主義的な映画にもとれよう。劇中の台詞にもあるように「現実の社会に即していない」と。しかし理想とは、現実に即して捻じ曲げるものではなく、われわれが目指してゆくものではなかったか。僕たちが向かうべき理想の世界を観客に示すこと、そしてわれわれ自身がそれを再認識することにこそ、本作の意義があるはずだ。必見。


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◆東京サミット開催予定地で勃発した爆破テロの容疑者として毛利小五郎が逮捕されてしまう劇場版第22作名探偵コナン ゼロの執行人立川譲監督、2018)は、近年陥りがちだったキャラ同士の馴れ合い描写への偏重と行き当たりばったりな展開がかなり抑制され、事件そのものから軸がブレずに展開されるので、かなり見易く面白い。貪欲に『君の名は。』(新海誠監督、2016)や『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)を思い起こさせる要素を取り込んでみたり、キー・パーソンである降谷零まわりのアクション演出も度が過ぎていたりで楽しい。

欲をいえば──毎度の恒例となっているとはいえ──クライマックス、謎解きの後に追加されている“2回目”のタイムリミット・サスペンス&アクションは楽しいといえば楽しいけど、蛇足だったかなあ。


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◆前作から3年後、火山活動によって壊滅寸前のイスナ・ヌブラル島から恐竜を救出するミッションに挑むオーウェンたちの冒険を描いたジュラシック・ワールド/炎の王国J・A・バヨナ監督、2018)は、第2作『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1997)のストーリーをかなり踏襲しつつ、同時に第1作『ジュラシック・パーク』(同監督、1993)の恐竜描写あるい演出への熱いオマージュに溢れた作品だった。本作で再現される1作目の恐竜描写に、四半世紀を経たVFX技術の変化に注目してみるのも面白い。

そして、なにより本作の見所は、バヨナ監督による恐竜とホラー演出の融合だろう。画面の奥に、ふっと現れる大きな影やピンボケの姿から、溜めに溜めて襲い掛かってくる恐竜の怖いこと怖いこと。本作の後半は、もはや洋館ホラー映画もかくやの展開と見せ場が目白押しで、さすが『永遠のこどもたち』(2007)を撮った監督だけのことはある。


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◆生まれたばかりの妹ミライちゃんに両親の愛を盗られたと思い込んで膨れっ面のくんちゃんの前に成長した姿のミライちゃんが現れる未来のミライ細田守監督、2018)は、なるほどカットごとの作画や背景描写などのクオリティは非常に高く、アニメーションを観ることの多幸感に溢れている。子ども特有のやわらかな肌の質感や挙動を再現した作画など、とくに素晴らしい。しかし、作劇上の問題が多いのも確かである。

とくに気になるのは、本作の劇中における「ルール」が曖昧というか適当すぎる点だ。本作は、主人公くんちゃんがことあるごとに妹に嫉妬して感情的になったとき、ふいに彼の目の前にふしぎな異世界が拡がり、未来のミライちゃんらと冒険をするという構成を繰り返す、いわばオムニバスのようなつくりだが、その異世界や体験がくんちゃんの見た夢/幻なのか、はたまたタイムトラベルなのか、そもそも実際にあったのかどうかがまるでハッキリせず、その場しのぎ的に放置されたまま次のシーンに突入してしまう。しかも、そのくせ──本作のクライマックスで殊に顕著だが──ここで言いたいことはこういうことですよと、作者の意図からテーマまですべて説明台詞で処理してしまうのだ。

これでは、きっと本作が元々目指していたのであろう、童話や昔話(=本作)がくんちゃん──引いては観客自身の再体験として──の成長を促すという役割を本末転倒にも封じている。本来、その寓意性や見立てをくんちゃんや我々が読み込むことで結実することであり、だからこそ想像力や共感性がはぐくまれ、やがては成長に繋がるのではなかったか。本作を観終わってみると、下手な道徳の教科書を無理矢理読まされた挙句に最適解を述べよと強要されているような居心地の悪さばかりが印象に残ってしまうのだ。

これはおそらく、本作に、くんちゃんと両親のふたつの視点が混在していることに起因するのだろう。本作では、先に書いたようなくんちゃんの視点と、兄妹の育児に奮闘する両親とが入れ替わり立ち代わり描かれており、彼らの世界観は決して交わらない。彼らは、お互いそれぞれの見る世界を知らぬうちに、気がつけば互いに兄/親として成長している。これはある意味では、非常にリアルな描写であり、安易な共有に逃げない本作の評価されるべき試みだと思われる。しかし、前述したような「ルール」の不明確さと同様に、1本の映画としてのすり合わせが圧倒的に足りていない。その辻褄合わせのために前述のような説明台詞の応酬に陥ってしまったのではないだろうか。

ことほど左様に本作は、くんちゃんの不思議な冒険というせっかくのお膳立てがありながら、なんら拡がりを持ち得ない1作となってしまった。もったいない。


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◆“シンジケート”の残党が組織した“アポストル*1”によって盗まれたプルトニウムを奪還すべく世界中を奔走するIMF諜報員イーサン・ハントらの活躍を描くシリーズ第6作『ミッション: インポッシブル/フォールアウト』クリストファー・マッカリー監督、2018)は、トム・クルーズ本人によるアクションがひたすら連続する驚天動地の1作。

脚本すらアクションを撮りながらリアルタイムに作っていたという本作は、追走、跳躍、カーアクション、挙句の果てには山岳地帯でのヘリ・チェイスまで、隙さえあれば熱量も高く完成度も高い、たいへんなアクション・シーンを入れ込んできており、観終わるころにはこちらもグッタリするほど。それ以外はイーサンが登場人物と漫才ないしコント的なやりとりをしまくるという、本作はいよいよジャッキー・チェンの映画めいてきている。

アクションありきで作ったため、予告編にあったアクションが話の都合上バッサリ切られていたり、そうかと思えば、そこもわざわざアクション・シーン撮るのかよと、嬉しさ半分呆れてしまったところもあるけれど、まあ凄い。その分ストーリーは、「○○だと思った? 残念、俺でしたー!」という展開の多様に頼りすぎな嫌いもあるが、それはそれとして、撮影中のキャスト同様に振り回されながらトム渾身の怒涛のアクションを堪能しよう。


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◆スーパー・ヒーロー禁止法のもと、活躍の場も生活も場も奪われたパー一家が、現状の打破と家事に育児にと奮闘する姿を描くインクレディブル・ファミリーブラッド・バード監督、2018)は、同監督による前作から14年経つにもかかわらず、前作のラストと堂々直結した開幕が清々しい。ピクサー・アニメーション・スタジオ制作ならではの物語のフィクション・ライン上で最大限にリアルスティックな質感表現はいわずもがな、本作はやはり前作に引き続き、キャラクターからメカニカル・デザイン、美術、撮影、音楽、音響にいたるまで徹底的にデザインされたレトロ・フューチャー感が素晴らしい。

そんな映像世界のなかで、ブラッド・バードらしい捻くれ具合──好みの分かれるところだろうけれど──が主人公家族とヴィランの口を借りて問答しながら物語をスウィングしていく様子が面白いし、カートゥーン調のCGアニメーションならではのケレン味に満ち、かつ計算されつくしたアクション・シーンも、たいへん臨場感があって見応えがある。ところで……アレッ? そういえば、冒頭のモグラ男はどうなったのかしらん?


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◆評判を聞いたらしい師匠と急遽出かけた『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督、2017)は、まーやられた! という感じの見事な大傑作。隅々にいたるまで的確すぎるキャスティング、緻密に重ねられた脚本と構成、間の取り方と数々の伏線の妙で、序盤からクライマックスまで、ゲラゲラ笑いながらも実に感動させられた。それだけに、元となった演劇と本作の作り手たちのあいだでの論争が、双方がきちんと納得する形で解決されることを切に願っている。


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スタジオポノック制作による3本の短篇オムニバス『ちいさな英雄 -カニとタマゴと透明人間-』米林宏昌、百瀬義行、山下明彦監督、2018)は、水の表現が凄まじい『カニーニカニーノ』、クレバスと水彩絵の具で描いたような『サムライエッグ』、フィルム・グレインの効いた『透明人間』と、おそらくは“赤ちゃん”をお題にした3本でも、それぞれに違った映像の手触りが楽しめる。

とくに面白かったのは3本目『透明人間』。誰からも見向きもされない主人公の設定も相まって、多弁に物語を語るのではなく、あくまで画とアクションを主軸に魅せてくれる。作画的な見所も多く、とくに中盤の高低差を活かした大跳躍(?)シーンは、映画館のスクリーンで観てこその迫力だ。


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◆ファッションの祭典“メットガラ”に潜入して超高級首飾りを盗み取る女盗賊チームの活躍を描いたオーシャンズ8ゲイリー・ロス監督、2018)は、実にちょうどよい湯加減の作品だった。変にシリアスぶることも、おふざけに走ることもなく、安心してサンドラ・ブロックケイト・ブランシェットアン・ハサウェイらの演技アンサンブルを楽しめる。クライマックスの大仕掛けも、いまどき珍しいくらい古典的なのも良い。まあ、ちょっとエピローグ部分が長ったらしいかな。


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◆とても賢く研究熱心な小学生アオヤマ君が、町に突如出現したペンギンと、それに関係しているらしいお姉さんの謎に挑むひと夏の冒険を描いた森見登美彦の同名小説を映画化したペンギン・ハイウェイ(石田裕康監督、2018)は、主人公アオヤマ君の性格や彼の暮らす町の様子、そしてペンギン出現事件から“ペンギンの通り道(ペンギン・ハイウェイ)”までをテンポよく的確に映し出すアバン・タイトルからオープニング・クレジットにかけての短いシークェンスが象徴するように、原作を劇映画として再構築した脚本の見事な交通整理力と瑞々しい演出、躍動感──ペンギンの総毛立つ作画が面白い──と疾走感に満ちたアニメーション、そして背景から小物に至るまでの実在感に溢れた美術設定の緻密な素晴らしさに裏打ちされた見事な映画化作品だった。

本作は、原作にあったSF的ギミックのロジックを文字どおりヴィジュアルで押し切った力技な部分もなくもないが、その分ジュブナイル的な要素を前面に押し出すことによって、実に爽やかな感動を与えてくれる。とはいえ本作は、過剰なほど直接的な感情表現が多い昨今の日本映画において、むしろそれが抑え目だ。むしろ、そんな安直な手法に頼らずとも、本作にはより一層豊かな感情が内包されている。

とくに、いくつかある本作の反復シーンを思い出してみよう。そこにはかすかな、しかし決定的な変化と成長、そして少年期の終わりと別れの予感が、多弁な映画よりもハッキリと刻印されていることに気づく。そして全篇にわたって置かれた、そういった変化のトリガーとなる風の演出にも注目したい。夏の日差しに焼けたアスファルトや石畳、草むらや木々、ひんやりとした雨、そして甘く香る長い髪を匂い立たせるような風が、キャラクターやわれわれ観客をそっと包み、次への展開へと後押ししてくれるだろう*2

ことほど左様な細部に至る緻密な演出の積み重ねによって、本作は原作小説を読んだときにそこはかとなく胸を打ったなにかを、たしかにそこに現前せしめた力作だ。ぜひとも劇場でじっくり堪能したい作品だ。ぐんない。


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◆“ソコヴィア協定”違反の咎によって自宅軟禁にあった2代目アントマン/スコット・ラングが、2年以上も絶縁状態だったピム博士とホープの父娘に突如呼び出されるアントマン&ワスプ』(ペイトン・リード監督、2018)は、第1作に引き続き、どちらかといえば捕り物合戦的楽しさを前面に出し、かつ小さくなったり大きくなったりといったアントマンの設定を活かしたアクション・シーンのアイディアと手際のよさを堪能できる良質な続編だった。ギャグが効いているのも相変わらずで、設定説明や中だるみなシーンになると、間髪入れずにユーモアを重ねてくれるのが嬉しいし、クライマックスにあるカーチェイスが──サンフランシスコが舞台ということもあるのだろう──『ダーティハリー5』(バディ・ヴァン・ホーン監督、1988)を彷彿とさせるのも興味深い。

時系列的には、先ごろ公開された『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(ルッソ兄弟監督、2018)の直前か同時くらいになると思われ、あんな世界的大災厄が進行するなかで、つい見落とされがちな市井の生活*3が描かれ、そして、シリーズ総体としてはかなりこじんまりとした冒険──今回のヴィランの苦々しい設定と、それが辿る顛末がそこはかとなく感じさせるヒューマニズム的な温もりも含め──があったことに、感動を覚えた。だからこそ、お約束のエピローグには、より深い絶望が待っているのだが……。


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◆上海沖200キロにある最新の海洋研究施設を古代より生き残ったメガロドンが襲うMEG ザ・モンスタージョン・タートルトーブ監督、2018)は、“世界イチ信頼のおけるハゲ”ジェイソン・ステイサムと“世界イチの超巨大ザメ”メガロドンとが並び立つ画でもはや100点満点の作品であり、テンポよく適度にスリリングで、時おり笑いも入る、肩肘の張らないポップコーン・ムービーとしてはなかなかの出来。文字どおりステイサムと一騎打ちする“白鯨”的な見せ場もたくさんあって、飽きさせない。もともとはディズニーが映画化しようとしていた企画ということもあったのだろうか、全篇を通して小さな女の子が現場に出ずっぱりなのも、なんとなくノホホンとした空気感もよかった。

いっぽう敢えて言い方をかえれば、このステイサムとメグという強烈な画ひとつで押し切った作品でもあって、惜しむらくは、メグの巨大さがイマイチ感じられなかったこと。水面下を巨大な影が泳ぐ俯瞰ショットなどはいいのだけど、彼が非常に巨大であり俊敏であるために、肝心の人間との接近遭遇が一瞬のうちにひと呑みにされてしまう。そして観客がそのスケールを感じる前にショットが終わってしまうのが、ひとつの要因かもしれない。多少大仰に振り切っても問題ないから、いっそバレット・タイムなり使って、しっかりと対人物比をじっくり感じられる画を盛り込んでくれれば、より一層スリルを味わえたのではないかしらん。


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◆人質救出作戦中に墜落してきたプレデターと遭遇した特殊部隊隊長マッケナが政府保有の謎の施設に連れられるザ・プレデターシェーン・ブラック監督、2018)は、丁々発止のくだらない台詞の応酬りと、半笑いで人がムザムザ死んでゆく軽妙な無惨さが延々と続く、よくも悪くもシェーン・ブラックと脚本のフレッド・デッカーらしさ満載の作品。本来の“プレデター”の意味と実際のエイリアンの習性を巡ってチマチマ言い争ったり、プレデターよりも人間のほうが露悪的に人を殺したりといった、これらの要素を好むか好まざるかで、だいぶ評価が割れそうな1本である。あ、僕ぁ好きですよ。

本作は、監督自身もかつてヤラレ第1号で出演したシュワルツェネッガー主演の1作目『プレデター』(ジョン・マクティアナン監督、1987)、そして舞台をロスに移したダニー・グローバー主演の『プレデター2』(スティーヴン・ホプキンス監督、1990)の正当な続編として作られており、プレデターのあの行為に「そんな意味が!」と驚くと同時に、本作で新たに披露される“彼”のわれわれ地球人に対するロジックを聞いて「お、お前ら勝手だな!」と思うこと必至。ただ、それは翻って鏡に映ったわれわれ自身の姿そのものであり、まさに「人のふり見て我がふり直せ」とはこのことだよなァ、と考えさせられるあたり、けっこうSFとしても上物なのではないかしらん。


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◆仕事の重責から家族と触れ合うこともままならなくなったクリストファー・ロビンの前に、かつての親友“くまのプー”が現れるプーと大人になった僕マーク・フォースター監督、2018)は、ディズニーが制作した最初期の短篇アニメ版をまとめた長編、いわゆる『くまのプーさん 完全保存版』(ウォルフガング・ライザーマン、ジョン・ラウンズベリー監督、1977)の直接の続編*4として、このエピローグ部分が本作のプロローグとしてリメイクされている*5。とにもかくにも、実際のぬいぐるみとアニメ版を非常に見事に融和したプーやティガーたちのデザインと、微細に作られたCGの造型が愛おしい1作だ。

この、ぬいぐるみたちの見事なデザインが示すように、本作ではクリストファー・ロビンの暮らす“現実”のロンドンと、あくまで幼少期のインナースペースであった100エーカーの森という、リアリティ・ラインの異なるふたつの世界を如何にしてシンクロさせるかという点に非常に苦心し、かつ慎重に構築している点が印象的だ。ある種、心霊映画的でもあるし、見ようによっては狂気に満ちたエンディングを迎えるのもたしかである。

また、本作の作り手たちが、おそらくは念頭に置いていたであろうディズニー版『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク監督、1964)と並べて観ると興味深い。ビターな画調でスウィートな味わいと醸す本作と、スウィートな画調でビターな味わいを醸す『メリー・ポピンズ』を見比べると、なにかしらの発見があるのではないだろうか。なんにせよ、心にちょっとしたゆとりを与えてくれる素敵な1作だ。


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【ソフト】

ジェームズ・ワンの“死霊館”シリーズの前々日譚に当たるアナベル 死霊人形の誕生デヴィッド・F・サンドバーグ監督、2017)は、呪いの人形──というか、シリーズ全体の主犯──の正体が“アイツ”なのは若干の陳腐さがあるけれど、本作のホラー・シーンの見せ方の巧みさに「超怖いな」と思ったら、監督が監督だけに仕方なし。


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◆架空の古代インドを舞台に、マヒシュマティ王国を巡る親子三代に渡る運命を描いた壮大な叙事詩2部作バーフバリ 伝説誕生S・S・ラージャマウリ監督、2015)とバーフバリ 王の凱旋(同監督、2017)は、壮麗なプロダクション・デザインと、それを具現化した見事なセットとVFX──いかにもなリアルさではなく、ちょっと模型っぽいCGの質感がまた良い!──を融合した見事な映像美、そして、物語の展開と感情の起伏に寄り添いつつ、なにより笑ってしまうほど──滑稽なという意味ではなく──カッコいい怒涛のアクションの連続に、度肝を抜かれること必至。これらすべてを統括する歌曲の数々も名曲ぞろいだ。

正直なところ、序盤はあまり乗り切れずにいたのだけれど、1作目の途上から2作目の大半を使って語られる過去編、すなわち主人公シブドゥ=マヘンドラ・バーフバリの父親アマレンドラ・バーフバリの物語が開幕するに至って、俄然面白くなった。アマレンドラの“真の王”っぷりが本当に素晴らしく惚れ惚れする。王たる者、こうであらねばならぬという姿をまざまざと観客に見せ付けてくれる。公開時の熱狂も納得だ。王を称えよ!


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◆実際にあった旅客機同士の衝突事故をもとに、遺族と担当管制官の葛藤を描いたアーノルド・シュワルツェネッガー主演アフターマスエリオット・レスター監督、2017)は、禁欲的ともいえるほど抑制の効いた演出が、返って事件の悲惨さや重大さを醸し出していて、観ながら胸をきつく締め付けられ、主人公たち同様に憔悴させられる重厚な人間ドラマとなっていた。実際の事件が、そして本作が辿る実にやるせない展開は、ジェイソン・ステイサム主演の『ブリッツ』(同監督、2011)で『ダーティハリー』(ドン・シーゲル監督、1971)のオマージュを見事にしてみせたレスター監督らしく、イーストウッド映画的な無常観を観る者に刻印するだろう。


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◆とあるきっかけでサマラの呪いのビデオのデジタル・コピーを見てしまったジュリアが、恋人とともにその謎に挑むハリウッド・リメイク版シリーズ久々の第3作ザ・リング/リバース』(F・ハビエル・グティエレス監督、2017)は、日本での公開規模や世評、ソフトに日本語吹替えが入っていないことなどからもお察しの──邪険にするほどつまらなくもないのだが──出来ではある。ヒロインのジュリアは過度に状況に適応しすぎだし、そもそもサマラが画面内に登場しすぎるせいで“会いに行ける怨霊”になっているしで、正直あまり怖くないのだ。

ただ一方で、近年明るみに出つつある聖職者による児童の性的虐待を軸に置いた問題提起など、買うべき部分もある。また第1作はヤコブの梯子、第2作は洗礼、そして本作はヨハネの黙示録と、やはり徹底的にキリスト教圏的なアレンジが加わっており、リメイク版シリーズとオリジナル版シリーズとを並べることで、比較文学のテクストとして有用な作品でもあるだろう。


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*1:実際の発音的には“アポッスル”のほうが近いような気もするけれど、なっちゃん訳だし仕方ないのかしらん。

*2:そして、阿部海太郎の手によるの劇伴はとても素敵だ。時おり、的確にエンニオ・モリコーネジョージ・マーティンらの楽曲をに思わせる味付けもグッとくる。

*3:冒頭に描かれるスコットの軟禁生活a.k.a.ほぼプー太郎生活が超楽しそうでね(しみじみ)。それを見たピム博士が思わず「中2かよ!」と突っ込むシーンとか最高だった。

*4:同様の立ち位置としては、『くまのプーさん』(スティーブン・アンダーソン、ドン・ホール監督、2011)がある。

*5:すなわち、本作はあくまでディズニー・アニメ版の続編であって、作者のミルンや実在のクリストファー・ロビンのその後とはいっさい関係ない