『ゼロ・グラビティ』(日本語吹替え版3D)感想

アルフォンソ・キュアロン監督。宇宙任務に初めて参加する医療技師のライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)は、ライアンは船長を務めるマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)らとともにハッブル望遠鏡の通信機能回復のため、船外活動をおこなっていた。しかしその最中、無数のスペースデブリ宇宙ゴミ)が彼らを襲う。シャトルは破壊され、ライアンとマットはふたりっきりで宇宙空間に取り残されてしまう。酸素残量が残り少なくなるなか、ふたりはISS国際宇宙ステーション)を目指して決死の宇宙遊泳に挑むが……。


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キュアロン監督といえば、前監督作の『トゥモロー・ワールド』(2007)において主人公たちが置かれた危機的、絶望的状態を様々な技法を用いた脅威の1シーン=1ショット*1によって描ききったのが記憶に新しい──それでももう7年前かぁ──が、今回もその長尺シーンをふんだんに盛り込んだ凄まじい映像美で見せ付けてくれる。

とにもかくにも、地球を臨む宇宙空間──太陽の位置によって姿を変える地球の姿、はるか彼方に拡がる星々──の映像が美しい。そして、長回しと360度縦横無尽に動くカメラ・ワーク──また被写体──によって画面に定着させられる無重力描写がリアルで、まるで本当にわれわれ観客が登場人物たちと一緒に宇宙空間にいるような臨場感を味わわせてくれる。


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そして、そんななか訪れるスペクタクル・シーンの迫力たるや! 映画では、スペースデブリが時速数万キロで飛来することで人工衛星などを破壊し、さらにそれによって新たに発生したスペースデブリによって破壊の連鎖反応が起こるケスラーシンドロームによる災害シーンを描いているが、ここでもやはり長回しと足許のおぼつかない──というか、そもそも足許などないのだが──不安定なカメラ・ワークによって、それに巻き込まれたキャラクターが感じているであろう恐怖や緊迫感を追体験させてくれる。

加えて、こちらに向かってすっ飛んでくる大小さまざまなスペースデブリが3D効果によって目の前にまで至る……思わず身をかわそうとしてしまったくらい、非常に恐ろしく、そしてまたこれまで観たことのなかったフレッシュな映像体験をさせてくれる。

3D上映方式は正直苦手な僕だが、本作ばかりは宇宙空間の途方もない奥行き表現や、迫り来るスペースデブリなどに3D上映が絶大な効果を上げているのは認めざるをえない。


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また、映像だけでなくサウンド・エフェクトの音響設計もじつに巧み。多少の誇張はあるものの、基本的には実際の宇宙空間がそうであるように無音なのだが、一方でキャラクターが宇宙服やその内部の空気の振動によって聞き取る音──たとえば、電動ねじ回しを宇宙空間で回したときのくぐもった音──が再現されており、「宇宙服を着て聞く音とは本当にこんな感じなのでは」と思わされる。映画館の大音量で聞くと「音とは空気の振動の伝播である」ということを身をもって体験し、また再確認することができた。

なので、3D上映とまではいわないけれど、とにかく映画館という環境──とくに音響面──で体験にするに相応しい作品なので、しのごのいわずにぜひ劇場にお出かけください。


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◆以下、ネタバレを含みますのでご注意ください◆

とはいえ、この作品が真に素晴らしいのは、前述のようないわゆる見世物的要素に秀でているからばかりではない。本作が真に感動的なのは、この宇宙での冒険を描くことで「人生とは何か」「生きることとはなにか」という根源的な問いに立ち向かっているからだ。

本作の主人公ライアン・ストーン博士はかつて彼女に身に降りかかった悲劇の記憶から、生きることの意義を失ってしまった人物として登場する。その彼女が、ケスラーシンドロームによる災害に遭い、マット・コワルスキーの助けを得ながら、地球への帰還を目指すという本作の物語は、彼女がもう1度、新たに生まれ直す物語なのだ。

生命も存在せず、そして無重力ゆえに制限のない宇宙空間は、その意味で逆説的に完璧な世界だ。

つまり本作において宇宙空間は、ライアンの生命を奪う究極の敵──生きる意義を失った彼女自身の心の象徴──であると同時に、彼女を包み込む母胎の象徴──すなわち、ライアンがまだ一個の生命としては生まれ出ていない世界──として描かれているのだ。

被災後、宇宙空間に放り出されたライアンを救出したマットが、彼女を自身の身体とケーブルで繋ぎ止めて移動することを思い出そう。ライアンの命綱であるケーブルは、胎児である彼女の生命を文字どおり繋ぐ「臍(ヘソ)の緒」を意味し*2、一貫してライアンの援助者として活躍するマットは、じつは本作において象徴的な母親の役割を担っている。


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そして、やがてライアンはつるべ落としのように次々に降りかかる困難に立ち向かい、解決することで徐々に“生きる”ことを取り戻してゆく。そして、彼女がマットの庇護下を離れて生きることを全肯定したとき*3、ついに地球への生還を果たす。胎児が羊水に浮かぶように無重力空間に漂っていたライアンは、着水した水底から這い上がり、自らの脚で大地を踏みしめ、立ち上がるのだ。

では、地球と宇宙空間の違いとはなにか? ──それは「重力」があることだ。無重力ゆえに制限のない世界である宇宙とは逆に、重力のある地球とは、ライアンを襲った様々な危機と同様に、生きることを常に縛る「制約」の象徴だ。しかし人間は、重力という制約に逆らって、自らの脚で立ち上がることができるではないか。そして、生きることとはライアンが地球へと自ら帰還したように、その制約の只中に自ら進んで身を置き、闘うことではないだろうか。本作のタイトル──邦題の『ゼロ・グラビティ』ではなく原題──を思い出そう。原題の“Gravity (重力)”とは、まさに“生きること”そのものの象徴だ。

*1:メイキングなどをみると厳密には編集されている。

*2:また、映画中盤でライアンが宇宙服を脱ぎ捨て、自身を抱いて胎児のように身を丸めるショットでは、よくみると彼女のヘソのあたりから画面奥にあるチューブ状のものがのぞいている。

*3:「結果がどうあれ、今回の旅は最高だった!」