『エンダーのゲーム』(日本語吹替え版)感想

ギャビン・フッド監督、脚本。オースン・スコット・カードによる同名小説を映画化。謎の地球外生命体フォーミックの侵攻を受けた人類は、辛くも勝利して絶滅を免れる。そして、さらなる侵攻に備え、優秀な子供たちを徴兵し、地球軌道上の訓練施設“バトル・スクール”でエリート戦士の養成が行われていた。そんななか、非凡な兄と姉の存在ゆえに、宇宙戦争終結させる者との期待を受け、政府の特別許可で生まれた禁断の第3子“サード”の少年エンダー。グラッフ大佐によってバトル・スクールに引き入れられたエンダーは、そこで数々の訓練に身を置くことになるが……。


     ○


不勉強ながらオースン・スコット・カードによる原作小説とそのシリーズについての知識をほとんど欠いた状態で鑑賞したが、ある種のとっつきにくさや不親切な部分はあるものの、鑑賞後には強烈な印象を、とくにタイトル“エンダーのゲーム”に収束してゆくクライマックスの展開において、僕に残してくれた作品だった。

本作で興味深いのは、エンダーが遭遇する様々な“虚構”と“現実”の決定的な距離感の対比だ。言い換えるなら“遊戯(ゲーム)性”と“暴力(と結果)”だ。

本作のおおまかな物語は、フォーミックとの戦争を“終結させる者”として選ばれた少年エンダーが、バトル・スクールと呼ばれる軍事学校で艦隊指揮官となるべく様々な訓練を受けてゆく、というものである。ここで彼に課される訓練とは、携帯型ゲーム機による戦闘シミュレーションや心理テスト、撃たれても死なない銃を使った無重力空間での陣取り合戦、そしてコンピュータ内に緻密に再現された宇宙空間を360度有視界のスクリーンに映しながらの艦隊戦指揮の訓練など、ことごとく遊戯的だ。失敗しても誰も死なないし、何度でもやり直しがきく、まさしくゲームだ。



遊戯性が強調される本編が展開されていく一方で、ときおり“現実”なるものが挿入される。それは、エンダーが実際に行使してしまう暴力だ。冒頭、悪ガキたちに絡まれたエンダーはそのリーダーに暴力をふるい、中盤にはエンダーをよく思わない上級生にケンカを売られて渋々ながらも暴力をふるってしまう。これが子どものケンカ程度のものなら可愛げもあろうかというものだが、エンダーがいわゆる「先手必勝」の法則を直感的に理解しているがために、彼は相手を再起不能にまで徹底的に打ちのめしてしまう*1。訓練(ゲーム)のように、やり直しはきかないし、下手をすれば誰かを死に追いやる危険性がある。

ゲームという虚構では勝敗という結果は確かにあるものの、反復が可能であるという性質から結果よりも“いかにして勝ったのか/負けたのか”という方法論がむしろ重要になってくるのに対し、暴力という現実では、その反復不可能性から結果ばかりが重要になる。エンダーは、自身が置かれたこのダブル・バインドな状況に苦しめられてゆく。そしてラストでエンダーが経験する両者の決定的な断絶、齟齬は、ひとりの少年の肩に背負わせるにはあまりにも重すぎるものだ(これはご覧いただくしかない)*2


     ○


カードによる最初の短篇小説が発表されたのが1977年だということを考えると、本作で描かれる戦争感は、ベトナム戦争(と以降の戦争)のそれに近いのかもしれない。つまり、テレビ・ニュースとして逐一報道される戦争だ。ブラウン管の向こう側で展開される戦争はたしかに現実だが、実際にテレビに映っているそれは、あくまでテレビ画面上の虚構に等しい産物でしかない。この現実であり虚構でもあるという感覚が、本作の物語に大きな影を落としているのは間違いないだろう。この感覚はもちろん、普段われわれが遊ぶゲームにも当てはめられるだろう。ゲーム──それも“リアル”なゲーム──が一般化した今日の社会においてこそ、よりリアルに感じられるのではないだろうか。

*1:冒頭のガキ大将は、原作では殺されてしまう。

*2:ところで、本作のラストに希望があるとすれば、それはエンダーが、彼が本当に欲しかったであろう武器(=ツール)を手にすることだ。それは、他者への想像力だ。▼本作にはエンダーの象徴的な父として、ハリソン・フォード演じるグラッフ大佐が登場するが、翻ってそれは、エンダーが子ども(幼児)の象徴であることを意味する。艦隊司令官候補生として、訓練のなかで多大な功績を勝ち取り、シミュレーションゆえに何度でも艦隊を戦争の勝利へ導く司令官としての彼の自己イメージは、幼児が母親との一体感のなかで持っているといわれる万能感に近い。思えば、エンダーが口にする「敵の戦法を知るために、相手を自身のなかに取り込んで理解したとき、僕は敵を愛してしまう」という言葉は、水面に映った自身の姿に恋をしたナルキッソスのごとく、鏡像的な幼児の自己愛に非常に近いように思われる。しかし、クライマックスで描かれる顛末で、エンダーは自己イメージを、グラッフ大佐に「そんなものは現実ではなく、虚構だ」と徹底的に打ち砕かれる。▼つまり、エンダーは象徴的な父によって「去勢」を受けることになる。しかし、だからこそエンダーは“自分だけの世界”から脱し、ついに“他者”と対峙することができるようになる。本作では、この幼年期の終わりという成長が、非常に極端な形ではあるが描かれる。これがなかったら、僕はただただ絶望して劇場を出ていたことだろう。