『オブリビオン』感想

ジョセフ・コシンスキー監督。トム・クルーズオルガ・キュリレンコら主演のSF映画

西暦2077年。60年前に起きた異星人スカヴとの戦争により地球は荒廃し、人類の大半は土星の衛星タイタンへの移住した。そんな中、地球にたった2人だけ残った元海兵隊司令官ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)とヴィクトリア・オルセンアンドレア・ライズボロー)は、上空から地上を監視する平凡な日々を送っていた。ある日パトロールの途中で彼は、墜落した宇宙船の残骸から謎の女性ジュリア・ルサコヴァ(オルガ・キュリレンコ)を助け出したことで、ジャックは忘れ去っていた*1ある事実について直面することになる……。


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〈脚注において核心部に触れるネタバレあり! ご注意を〉


2001年宇宙の旅』『猿の惑星』『2300年未来への旅』『惑星ソラリス』『華氏451』『エイリアン』『プレデター』『ターミネーター』『復活の日』『インデペンデンス・デイ』『マトリックス』『リベリオン』『WALL-E/ウォーリー』……と、古今東西ありとあらゆるSF映画に登場するイメージ──とくにメカニック・デザインとディストピア的側面──を網羅した上でアップデートしたような映像がコラージュのように綴られる。ひと言でいえば、そういう映画だった。

たとえば、ジャックが操縦する“バブルマシン”や彼が修理してまわる“ドローン”と呼ばれる無人索敵マシンのデザインは、『2001年宇宙の旅』に登場する“ディスカバリー号”とそれに搭載されているポッドを思い起こさせる*2し、彼のパートナーであるヴィカ(ヴィクトリア)のいでたちは──映画後半にあるひとつの展開をみても──『惑星ソラリス』に登場する主人公の亡き妻ハリーを連想させるものだ*3。地球の衛星軌道上に浮かぶ超巨大ステーション“テット”のデザイン*4や、中盤から後半にかけて描かれるいくつかのアクション・シーンもやはり、かつてのSF映画にあった様々な“見せ場”を想起させるものだった。

そして、僕としては本作の1番の見所であるところの、荒廃した地上の描写は、主だった舞台がニューヨークということもあり『猿の惑星』シリーズなどを思い起こさせる。ほかにもこれまでSF映画で描かれてきた様々なタイプのディストピア的風景の最新版が次々に現れる。これらの廃墟を、トム・クルーズがレーザー・ガン片手にうろうろ徘徊してまわる画面は、それだけで心躍らされる。


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こういったSF映画的画面を映画全体にまぶしつつ語られる本作の物語は、よく練られているなァという印象。「スカヴの正体とは?」「なぜ地上は滅び去ったのか?」という謎を提示しつつ、途中で物語の根底を二転三転させる捻りを加えながら、劇中でジャックが手にするディケンズの長編小説『二都物語』に収束させてゆくところをみると、なかなかに律儀な脚本*5だ。

ただ、SF映画的イコンをコラージュした──しまくった──作品ゆえに、まとまりがイマイチないのが難点。ジャックがひたすらアッチに行ったりコッチに行ったりしながらひとつひとつの小さなエピソードを順繰りに積み重ねるという構造のため、そのぶん映画をグッと引き締めるような1本の主軸が薄くなり、観客のテンションの持続が難しくなっている。たしかに前述のように律儀といえば律儀な脚本なのだけど、もう少し整理するべきではなかったか*6


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いろいろ細かな突っ込みどころはあるが、先述のように最新技術で描かれるディストピアSFの風景の数々はとても見応えがあるし、コシンスキー監督も前作『トロン:レガシー』よりは確実に演出の腕を上げている。SF映画ファンの復習編として、またSF映画初心者の予習編として、それぞれ違った楽しみ方の出来る良作ではないだろうか。

*1:タイトルであるオブリビオンoblivion)とは、忘却の意。

*2:“ドローン”についてもうちょっといえば、スカイネットがHAL-9000型コンピュータを搭載したマシンを造ったら、こんな感じになるんじゃないかしら、というようなデザインだ。

*3:また、“彼ら”が何機もの巨大なマシンを用いて地球から簒奪しようとしていたものは海水だった。吸い出されてゆく海水は、惑星ソラリスが「記憶する海」だったように、地球や人類の記憶の暗喩ではないだろうか。もしもすべての海水が奪われたとき、何もかもが忘却(オブリビオン)の彼方へ消えていったはずである。

*4:この“テット”の姿自体が、物語の核心を突くものだといえるかもしれない。僕がまず思い出したのは、アーサー・C・クラークの短篇小説「前哨」に登場する、宇宙空間で人類の進化を監視していたとされる巨大なピラミッドだ。SF映画でこそないが、後にこの短篇のアイディアが『2001年宇宙の旅』に発展したことを思えば、さもありなんではないだろうか。実際、クライマックスで“テット”がジャックに対して「私がお前を創った。ゆえに私はお前にとって神に等しい」と語りかけることは、『2001年宇宙の旅』における「人類の夜明け」は機械(=上位科学)の神によってもたらされたのだ、という主題のひとつと重なる台詞だ。

*5:フックのひとつである「俺がアイツでアイツが俺で」的な展開(←洒落だよシャレ)と、最終的にジャックがいたる運命はまさに『二都物語』だ。脚本の大きな要素の消化という意味では、同じく『二都物語』を根底に置いた『ダークナイト ライジング』(クリストファー・ノーラン監督、2012)よりも巧くいっている。

*6:たとえば、オープニングの構成もちょっと惜しい。本作のオープニングでは、まず現在の地球の様子がジャックのモノローグとともに映され、やがてタイトルへ……という流れなのだけど、この映画導入部にこそ、映画開始後しばらく経ってから思い出したように挿入されるジャックが密かに憩う湖畔のオアシスに建てた“隠れ家”を持ってきたほうが効果的だったのはないだろうか(この隠れ家が後々、重要な場所になることからみてもそうだ)。たとえば次のような感じはどうだろうか。──まず映画が始まってすぐに、ヤンキースの帽子を被り、よれたシャツを着たジャックが隠れ家で憩う姿を映す。この時点では、まだ時代がいつなのか定かではない(地上が荒廃していることや近未来のテクノロジーを思わせるものは映さない)。レコードを掛けて外へ出ると、そこは緑に囲まれた湖畔だ。うたた寝するジャックの脳裏に、何度も夢に面影をみた女性の姿がふたたび去来する。起き上がるジャック。その向こうにバブルマシンがみえる。ジャックが衣服を着替え、バブルマシンを浮上させると、荒廃した景色が地平線の果てまで拡がっている……ここから本作のSF設定の描写なりモノローグなりに繋げれば、より世界観に広がりが出たのではないだろうか。