『ローン・レンジャー』感想

ゴア・ヴァービンスキー監督、ジョニー・デップ主演。西部開拓時代のアメリカ。正義感あふれる郡検事のジョン・リードは、勇敢なテキサス・レンジャーの兄ダンを無法者一味に殺され、自らも凶弾に倒れて生死をさまよう。そんな彼の前に現われたのは、インディアンの男、トント。少年時代の忌まわしい事件のために復讐に燃える悪霊ハンターだった。トントは、その聖なる力でジョンを甦らせると、それぞれが求める復讐と正義のため手を組むことに。そしてジョンは敵を欺くべく兄の形見をマスクにして、素顔を隠したヒーロー“ローン・レンジャー”となる。こうして共通の敵=極悪非道な無法者ブッチ・キャヴェンディッシュを追って旅に出た2人だったが……。


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遅まきながら鑑賞。不勉強ながら、脈絡とあるローン・レンジャーに関する教養がほとんどない──「ハイヨー・シルバー!」ってローン・レンジャーが元だったということを観ながら思い出したような──人間だが、ヴァービンスキー監督×ジョニー・デップの前作『ランゴ』が大変素晴らしいだったので、劇場に足を運んでみた。



まずはアクション・シーンだが、これは見事だった。

映画の頭と最後の見せ場として用意された2回の列車アクション・シーンは、広告などでも大きくプッシュしているだけあって「映画史に残る」というのもまんざらウソではないなと思わされる。冷静に考えれば「どういう路線の組み方なんだ!」と思えなくもない2つの路線で同時に走る2両の列車上を互い違いになりながら演じられるクライマックスのアクションは、その画面のインフレ具合がもう楽しいのなんの! アクションひとつとっても、どこで何をするのかというアイディアが満載で、画で驚くってのはこういうことだよなァと久々に感じさせてくれる名シーンだ。その間中フィーチャーされる「ウィリアム・テル序曲」も相まってテンション上がりまくること請け合いだ。

とはいえ個人的には、冒頭の掴みとして描かれる列車アクションのほうが好み。囚われのトントと検事となって故郷に舞い戻るジョン・リードの出会いと彼らのキャラクター性、そしてその状況ゆえに否応なくふたりがバディ(相棒)化してゆく過程を無駄なくスムーズにかつアクション満載でみせてくれる一連のシークェンスは本当に見事だった。


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また『ランゴ』同様、劇中に散りばめられたウエスタン映画──とくにセルジオ・レオーネ映画──へのパロディの数々には心くすぐられた。冒頭、駅で列車の到着を待つ男たちを足許をアップに撮る構図は『ウエスタン』を髣髴とさせるし、ハンス・ジマーによる本作のメイン・テーマの旋律*1の一部は、エンニオ・モリコーネによる楽曲を思い出させるものだ。あと、クライマックス付近で橋を爆破するシーンは『続・夕陽のガンマン』っぽいなぁとか、その爆発がある種のファンファーレになって「待ってました」と主役が登場するところなどは『荒野の用心棒』だよね、といった感じに大いに楽しめた。

そんな陽性な要素がたくさんある一方で、劇中で描かれるストーリーは白人による排他的な西部開拓事業だ。ローン・レンジャーという題材や対象とする観客層もあって、描写それ自体はもちろんソフトだが、映画に登場する一部の白人によるインディアンや中国人労働者、そして貧困層に対する差別的で残虐きわまりないふるまいは、観ていて本当に「許すまじ!」と思えてくる。そういった西部開拓時代──そして、ある意味では現在でも続く──のダークな側面を物語の題材にとって描いて見せたところもまた評価に値するだろう*2


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ただ、やっぱり2時間30分の尺はいくらなんでも長過ぎるよ。あきらかに中盤にモタモタしていたし、その多くを割いているのがジョニー・デップの顔芸というのもいただけない。1回や2回程度ならギャグとしての効果もあったろうに、ちょっとやり過ぎで全体のバランスを欠いてしまっているがの残念だ。



とはいえ、冒頭とクライマックスに添えられた列車アクションの数々は本当に見事だったので、まだ未見の方は劇場に急がれたい。

*1:“ハーモニカ”(チャールズ・ブロンソン)の吹くハーモニカの旋律。

*2:それ故に、いわゆる“ポリティカリー・コレクト”によって制限された字幕翻訳(おそらく吹き替え版もそうなのだろう)が、もったいない。その当時、誰がインディアンを「ネイティヴ・アメリカン」と呼んだだろうか。ジョン──そして他の白人が持ち合わせている──「文明人」と「野蛮人」という対立/差別概念が、ドラマの重要なファクターとなっているのに。冒頭の見世物小屋にあった「高貴な野蛮人」というキャプチャーに字幕が入らないのも不自然だし、偽善的なヤダ味がして仕方がない。もちろん林完治による翻訳それ自体は悪くはないのだが……。