【備忘録】2019年鑑賞作品リスト

2019年に観た映画等の備忘録リストです。今年は初見194+α作品でした。
末尾に “◎” のあるものは劇場で観たものです。

気まぐれに短い感想を書いた作品もありますので、よろしければ過去投稿記事をご参照いただければ幸いです。

それでは皆様、よいお年を。


     ※


ジュピターズ・ムーンコルネル・ムンドルッツォ監督、2017)
『ソイレント・グリーン』リチャード・フライシャー監督、1973)
『地球最後の男オメガマン(ボリス・セイガル監督、1971)
タイクーン!!!!!』(ノンタコーン・タウィースック監督、2018)
『アリー/スター誕生』ブラッドリー・クーパー監督、2018)◎

パシフィック・リム: アップライジング』スティーヴン・S・デナイト監督、2018)
『ホーンテッドテンプル 顔のない男の記録』(マイケル・バレット監督、2016)
『追憶の森』ガス・ヴァン・サント監督、2015)
キングコング2ジョン・ギラーミン監督、1986)
ザ・シークレットマンピーター・ランデズマン監督、2017)


10


『ヘレディタリー/継承』アリ・アスター監督、2018)◎◎
『おとなの恋はまわり道』(ヴィクター・レヴィン監督、2018)◎
ザ・スクエア 思いやりの聖地』リューベン・オストルンド監督、2017)
イカリエ-XB1インドゥジヒ・ポラーク監督、1963)
トレマーズ4』(S・S・ウィルソン監督、2004)

『TAXi ダイヤモンド・ミッション』(フランク・ガスタンビド監督、2018)◎
『サイバー・ミッション』(リー・ハイロン監督、2018)◎
ニンジャバットマン水崎淳平監督、2018)
『時間回廊の殺人』(イム・デウン監督、2017)
『ヘンゼル&グレーテル』トミー・ウィルコラ監督、2013)


20


メリー・ポピンズ リターンズ』ロブ・マーシャル監督、2018)◎
『モンキー・ボーン』ヘンリー・セリック監督、2001)
スパイダーマン: ホームカミング』ジョン・ワッツ監督、2017)
『スプリット』M・ナイト・シャマラン監督、2016)
『アクアマン』ジェームズ・ワン監督、2018)◎

『劇場版シティーハンター〈新宿プライベート・アイズ〉』こだま兼嗣総監督、2019)◎
『ミネハハ 秘密の森の少女たち』(ジョン・アーヴィン監督、2005)
フェラーリの鷹』ステルヴィオ・マッシ監督、1976)
『天才作家の妻 40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ監督、2017)◎
『アリータ: バトル・エンジェル』ロバート・ロドリゲス監督、2019)◎◎


30


スパイナル・タップロブ・ライナー監督、1984
『新・ドラゴン危機一発ドニー・イェン監督、1998)
『吸血鬼ドラキュラ』(テレンス・フィッシャー監督、1958)
『黒い箱のアリス』(サドラック・ゴンザレス=ペレジョン監督、2017)
狩人の夜チャールズ・ロートン監督、1955)

『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、2018)◎
『運び屋』クリント・イーストウッド監督、2018)◎
デューン砂の惑星デヴィッド・リンチ監督、1984
大空港ジョージ・シートン監督、1970)
『グッバイ・クリストファー・ロビンサイモン・カーティス監督、2017)


40


バンブルビートラヴィス・ナイト監督、2018)◎◎
『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』ジョー・ダンテ監督、1993)
キャプテン・マーベル(アンナ・ボーデン、ライアン・フレック監督、2019)◎
『SPL 狼たちの処刑台(ウィルソン・イップ監督、2017)
『黒の怨(のろい)』ジョナサン・リーベスマン監督、2003)

『ダンボ』ティム・バートン監督、2019)◎
ラストエンペラーベルナルド・ベルトルッチ監督、1987)
ディストピア パンドラの少女コーム・マッカーシー監督、2016)
ゴースト・ストーリーズ 英国幽霊奇談ジェレミー・ダイソンアンディ・ナイマン監督、2017)
ファースト・マンデイミアン・チャゼル監督、2018)◎


50


きみへの距離、1万キロキム・グエン監督、2017)
『タクシー運転手 約束は海を越えて』チャン・フン監督、2017)
『サンダーボルト』マイケル・チミノ監督、1974)
ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷(スピエリッグ兄弟監督、2018)
名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)』(永岡智佳監督、2019)◎

『シャザム!』デヴィッド・F・サンドバーグ監督、2019)◎
ファントム・スレッドポール・トーマス・アンダーソン監督、2017)
『ラスト・ボーイスカウトトニー・スコット監督、1991)
ウィンド・リバーテイラー・シェリダン監督、2017)
ぼくの名前はズッキーニクロード・バラス監督、2016)


60


アルカディア(アーロン・ムーアヘッド、ジャスティン・ベンソン監督、2017)
アベンジャーズ/エンドゲーム』アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)◎
『名探偵ピカチュウ(ロブ・レターマン監督、2019)◎◎
スカイスクレイパーローソン・マーシャル・サーバー監督、2018)
スカイライン -奪還-』(リアム・オドネル監督、2017)

死霊館のシスター(コリン・ハーディ監督、2018)
アンタッチャブルブライアン・デ・パルマ監督、1987)
『ジェニファー8』ブルース・ロビンソン監督、1992)
『ラ・ヨローナ~泣く女~』(マイケル・チャベス監督、2019)◎
『この子の七つのお祝いに』増村保造監督、1982)


70


バトル・オブ・ザ・セクシーズ(バレリー・ファリス、ジョナサン・デイトン監督、2017)
ハドソン・ホークマイケル・レーマン監督、1991)
リプレイスメント・キラーズ』アントワーン・フークア監督、1998)
インパクト・クラッシュ』(サンカルプ・レッディ監督、2017)
『The Witch 魔女』パク・フンジョン監督、2017)

『レディ・ブレイド(イップ・ウィン・チョー監督、1971)
『貞子』中田秀夫監督、2019)◎
『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』平尾隆之監督、2013)
『フェブラリィ -悪霊館-〈※ソフト題: フェブラリィ ~消えた少女の行方~〉(オズグッド・パーキンス監督、2015)
ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)◎◎◎


80


大人のためのグリム童話 手をなくした少女セバスチャン・ローデンバック監督、2016)
『ロサンゼルス』マイケル・ウィナー監督、1982)
『ぼくとアールと彼女のさよなら』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督、2015)
『秘密が見える目の少女〈※ソフト題: ウィッチ・アンド・ドラゴン 秘密が見える少女〉(ケネス・カインツ監督、2015)
バイス(アダム・マッケイ監督、2018)◎

search/サーチアニーシュ・チャガンティ監督、2018)
海獣の子供(渡辺歩監督、2019)◎
『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン(デヴィッド・リーフ、ジョン・シャインフェルド監督、2006)
10億ドルの頭脳ケン・ラッセル監督、1967)
メン・イン・ブラック: インターナショナル』F・ゲイリー・グレイ監督、2019)◎


90


『天使の処刑人 バイオレット&デイジー( ジェフリー・フレッチャー監督、2013)
『ギャザリング』(ブライアン・ギルバート監督、2002)
スターリンの葬送狂騒曲アーマンド・イアヌッチ監督、2017)
太平洋奇跡の作戦 キスカ丸山誠治監督、1965)
ザ・ファブル江口カン監督、2019)◎

イット・カムズ・アット・ナイト(トレイ・エドワード・シュルツ監督、2017)
スパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』(ジョン・ワッツ監督、2019)◎
『霧につつまれたハリネズミ(ユーリイ・ノルシュテイン監督、1975)
私はあなたのニグロではないラウル・ペック監督、2016)
『アラジン』ガイ・リッチー監督、2019)◎


100


恋人はスナイパー羽住英一郎監督、2001) ※TVM
恋人はスナイパー EPISODE 2』六車俊治監督、2002) ※TVM
恋人はスナイパー 《劇場版》』六車俊治監督、2004)
キスキス,バンバンシェーン・ブラック監督、2005)
『センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島(ブラット・ペイトン監督、2012)

『MUFUNE: THE LAST SAMURAI(スティーブン・オカザキ監督、2016)
リグレッションアレハンドロ・アメナーバル監督、2015)
トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)◎
『SF核戦争後の未来・スレッズ』ミック・ジャクソン監督、1984) ※TVM
エンジェル、見えない恋人ハリー・クレフェン監督、2016)


110


『ペット』(クリス・ルノー、ヤーロー・チーニー監督、2016)
ミニオンズ: アルバイト大作戦』(グレン・マッコイ監督、2016)
『ペット2』(クリス・ルノー、ジョナサン・デル・ヴァル監督、2019)◎
ミニオンのキャンプで爆笑大バトル』(2019)◎ ※短篇
『ロング・キス・グッドナイト』レニー・ハーリン監督、1996)

『007 カジノロワイヤル』ジョン・ヒューストンケン・ヒューズロバート・パリッシュ、ジョセフ・マクグラスヴァル・ゲスト監督、1967)
『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』(デイヴィド・カー監督、2018)
『惑星大戦争福田純監督、1977)
ワイルド・スピード/スーパー・コンボ』デヴィッド・リーチ監督、2019)◎◎
ビューティフル・デイ(リム・ラムジー監督、2017)


120


『100万年地球の旅 バンダーブック手塚治虫演出、1978) ※TVM
『海底超特急 マリンエクスプレス出崎哲監督、1979) ※TVM
『フウムーン』坂口尚監督、1980) ※TVM
1987、ある闘いの真実チャン・ジュナン監督、2017)
『ミスター・ガラス』M・ナイト・シャマラン監督、2018)

『マネーショート 華麗なる大逆転』(アダム・マッケイ監督、2015)
『ポリス・ストーリー REBORN』(レオ・チャン監督、2017)
ガールズ&パンツァー 最終章 第2話』水島努監督、2019)◎
『ディザスター・アーティスト』ジェームズ・フランコ監督、2017)
ライオン・キングジョン・ファヴロー監督、2019)◎


130


『ANON アノン』アンドリュー・ニコル監督、2018)
ブリグズビー・ベア(デイヴ・マッケイ監督、2017)
ロケットマン(デクスター・フレッチャー監督、2019)◎
ルパン三世 グッバイ・パートナー』川越淳監督、2019) ※TVM
ゴッホ 最期の手紙(ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン監督、2017)

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』クエンティン・タランティーノ監督、2019)◎◎
クローバーフィールドパラドックス(ジュリアス・オナー監督、2018)
アナイアレイション -全滅領域-アレックス・ガーランド監督、2018)
『Jurassic World: Battle at Big Rock(原題)』(コリン・トレヴォロウ監督、2019) ※短篇
そして誰もいなくなったルネ・クレール監督、1945)


140


『王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン』ツイ・ハーク監督、2018)
アナベル 死霊博物館』(ゲイリー・ドーベルマン監督、2019)◎
『アド・アストラ』ジェームズ・グレイ監督、2019)◎
『SHADOW 影武者』チャン・イーモウ監督、2018)◎
『新聞記者』藤井道人監督、2019)◎

スパイダーマン: スパイダーバース』(ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン監督、2018)
『明日、君がいない』(ムラーリ・K・タルリ監督、2006)
『ミカドロイド』原口智生監督、1991) ※OV
『レゴ®ムービー2』(マイク・ミッチェル監督、2019)
『アローン』ダヴィド・モロー監督、2017)


150


『ジョーカー』トッド・フィリップス監督、2019)◎
『恐怖の報酬【オリジナル完全版】』ウィリアム・フリードキン監督、1977)
ジョン・ウィック: パラベラム』チャド・スタエルスキ監督、2019)◎
『マウス・オブ・マッドネス』ジョン・カーペンター監督、1994)
ガリーボーイ』(ゾーヤー・アクタル監督、2019)◎

『ムーラン』(バリー・クック、トニー・バンクロフト監督、1998)
スペシャルアクターズ』上田慎一郎監督、2019)◎
『アラン─阿娘─』(アン・サンフン監督、2006)
手塚治虫物語 ぼくは孫悟空りんたろう、波多正美監督、1989) ※TVM
『ピラニア』ジョー・ダンテ監督、1978)


160


『ハンターキラー 潜行せよ』(ドノヴァン・マーシュ監督、2018)
ジェミニマン』アン・リー監督、2019)◎
『パターソン』ジム・ジャームッシュ監督、2016)
西遊記 女人国の戦い』(ソイ・チェン監督、2018)
IT/イット THE END “それ”が見えたら終わり。』アンディ・ムスキエティ監督、2019)◎

サスペリアダリオ・アルジェント監督、1977)
『ボディ・スナッチャーズ』アベルフェラーラ監督、1993)
ターミネーター: ニュー・フェイト』ティム・ミラー監督、2019)◎
女王陛下のお気に入りヨルゴス・ランティモス監督、2018)
『ユニバーサル・ソルジャー: リジェネレーション』(ジョン・ハイアムズ監督、2010)


170


『リトル・プリンス 星の王子さまと私』(マーク・オズボーン監督、2015)
『英雄は嘘がお好き』(ローラン・ティラール監督、2018)◎
ルビー・スパークスジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリス監督、2012)
『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』(まんきゅう監督、2019)◎
ミッドナイト・ランナーキム・ジュファン監督、2017)

まぼろしの市街戦』フィリップ・ド・ブロカ監督、1966)
アナと雪の女王2』クリス・バックジェニファー・リー監督、2019)◎
サスペリアルカ・グァダニーノ監督、2018)
『僕のワンダフル・ジャーニー』(ゲイル・マンキューソ監督、2019)◎
ブラック・ジャック 劇場版』出崎統監督、1996)


180


『イエスタデイ』ダニー・ボイル監督、2019)◎
地獄の黙示録・特別完全版』フランシス・フォード・コッポラ監督、1979、2001)
ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち』キム・グエン監督、2018)◎
『ドクター・スリープ』マイク・フラナガン監督、2019)◎
『ハロウィン』ジョン・カーペンター監督、1978)

ルパン三世 THE FIRST』山崎貴監督、2019)◎◎
『ザ・マミー』(イッサ・ロペス監督、2016)
アンダー・ザ・シルバーレイクデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督、2018)
『イップ・マン外伝 マスターZ』ユエン・ウーピン監督、2018)
『屍人荘の殺人』(木村ひさし監督、2019)◎


190


『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』(リチャード・スターザック、ウィル・ベッカー監督、2019)◎
スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』J・J・エイブラムス監督、2019)◎◎
『孤独なふりした世界で』(リード・モラーノ監督、2018)
ジュマンジネクスト・レベル』ジェイク・カスダン監督、2019)◎


     ※


【TVアニメ】
ポプテピピック(青木純、梅木葵監督、2018)
『SSSS.GRIDMAN』(雨宮哲監督、2018)
ルパン三世 PARTⅢ』青木悠三ほか演出、1984-1985)


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OVA
ブラック・ジャック出崎統監督、1993-2000)
ブラック・ジャック FINAL』出崎統監修・シリーズ名誉監督、桑原智、西田正義総監督、2011)

2019 12月感想(短)まとめ

2019年12月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆展望台ホテルの惨劇から生還したものの、やがて父同様にアルコール依存症に苦しむようになったダニーが、同じ能力を持つ少女アブラとともに闇の勢力との戦いに巻き込まれてゆく姿を描いたスティーヴン・キング原作の『ドクター・スリープ』マイク・フラナガン監督、2019)は、いかにもキングらしいサイキック・バトルものだった。

本作は、予告編が謳っていたような──あるいは前作『シャイニング』(スタンリー・キューブリック監督、1980)をそのまま継承したような──心霊ホラーやサイコ・ホラー的なテイストがじつは薄めの作品だ。もちろん、気がつけば林の奥に人影が……といったような『回転』(ジャック・クレイトン監督、1961)を思わせるような気味の悪いショットなどは散りばめられているものの、どちらかといえば作中で「シャイニング」と呼ばれるテレパシー能力を持つダニーらと、同じ能力を悪用し、人の「生気」を食糧にすることで永遠に生きながらえようとするローズ・ザ・ハットらの──ヒッピー的生活を送るドラキュラのような──コミュニティとの超能力合戦がメイン。喩えるなら、世界が滅亡するほどではないものの、町角や裏山でひっそりと行われているかもしれない “幻魔大戦” といった趣だ。

そんな本作の見所のひとつは、カメラワークだ。前作においては、キューブリックが得意とする左右対称に固定されたレイアウトに、当時使用されはじめて間もないステディカムによる移動撮影──ダニーがホテル内を三輪車で走る姿を延々後ろから追うショットなど──が追加されることで、ことさらに水平感が強調されていたのに対し、本作においては──とくに登場人物たちが超能力を発動するシーンにおいて──文字どおり画面の軸が回転して90度に直立したままカメラが登場人物を追って移動するといったような、垂直感が強調されていたのが興味深い。画面の構図そのものは極めてシンプルだが、それが返ってあまり観たことのない不思議な感覚を最大限に与えてくれる。

また、ユアン・マクレガーが演じる中年ダニーの、アルコール依存症に苦しみつつも後に克服し、やがて自らの超能力を持って戦いに身を投じるというダニーの役柄は、なんとなればマクレガーの代表作に数えられるであろう『トレインスポッティング』シリーズ(ダニー・ボイル監督、1996-2017)のレントンと、『スター・ウォーズ』プリクエル三部作(ジョージ・ルーカス監督、1999-2005)のオビ=ワンを合体したようなキャラクターであるので、彼のお家芸を堪能できるのは楽しい。また本作には、前作のキャラクターが “そのまま” の姿で幾人か登場するのだけれど、これを近頃流行りのストックフッテージからの合成や、そっくりそのまま形成されたCGモデルを用いる──これはこれで良い面も多分にあるし、驚かされるのだけれど──のではなく、雰囲気の似た役者をきちんと登用しているのも、むしろかつての「続篇」感を思い出させてくれるようで趣がある *1

やがて、いささか荒廃はしているものの、かつての邪悪さはそのままに登場する展望台ホテルにおけるクライマックスでの顛末は、あれだけ前作を毛嫌いしていたキングが本作を許したわけがなるほど理解できるつくりだった。展望台ホテルへの山道を風雪のなか移動する車を追う空撮ショット──前作当時には技術的に描けなかったであろう──をはじめ、まるで名所名跡を巡る観光旅行のように、立ち会う人物を換えながら前作の怪異が律儀に再現されてゆくけれど、その後に本作が辿る道筋は、まさしくキングが「本当は『シャイニング』をこう映画化してほしかった」ように前作を語り直したものにほかならない *2

その他、頭のなかの図書館描写や、さすがにちょっと直裁に過ぎるのではと思った「生気」捕食描写、ほんのすこしテンポがよくてもよかったのではないかしらん、といったキング映画あるあるも十全に楽しめる作品だ。さすがに本作ばかりは前作を観ていないと「なんのこっちゃ」となると思われるので、『シャイニング』を観て、劇場に出かけたい。


     ○


◆1960年代初頭、かつて初代が盗み損ねたと云われる秘宝「ブレッソン・ダイアリー」を巡る凶悪な陰謀に天下の大泥棒ルパン三世たちと考古学好きの少女レティシアが挑むルパン三世 THE FIRST』山崎貴監督、2019)は、映像と映っているアクションは見事だけれども、話運びにいささか難アリな1作だった。

モンキー・パンチによる原作漫画の映像化の歴史のなかで初の3DCG長編アニメーション映画となる本作の予告編が解禁されたとき、熱心にとは言わないまでも、長年それなりにアニメ版 *3に親しんできた身としては期待と不安が五分五分といった気持ちで受け止めたことを思い出す。映像はともかくとして、かつて山崎貴監督には同様の企画『STAND BY ME ドラえもん』(2014)でかなり手痛い目に合わされていたからだ *4

閑話休題。まず、本作『THE FIRST』のルックは見事というほかない。日本において、どちらかといえば主流な印象のあるトゥーンシェイドによる2D手描きアニメーション風の画を採用せず、欧米で制作されたの諸作品──ピクサーやディズニー製のものに近いかな?──を思わせる、いかにもコンピュータ・グラフィックス・アニメーションといった映像を採用した本作の画面の完成度は、非常に高いものだ。

画面内に登場する各種プロダクション・デザインの数々は映像的な手触りなども含めて素晴らしい。立体的にも不自然のないように、しかもこれまでのアニメ版からも逸脱しないように注意深く形成されたキャラクター・デザイン──次元の髭には苦労したんだろうな──の絶妙さ、衣服ごとの素材によって異なる肌触りを醸した質感表現のこまかやかさにはとくに驚いたし、実在感に溢れた背景美術や小道具、そしてそれらを彩るライティングと撮影も美しい。実写的でありながらも、同時に間違いなく漫画映画的であるアクションも楽しく、これまた日本アニメでは珍しいプレスコで収録された台詞にバッチリ合った口元の演技にも注目したい。ことほど左様に本作の画に関しては、現状における日本映画のなかで、ひとつの到達点を見せられたようで、たいへん満足だ。

本作の「インディ・ジョーンズ」シリーズや「007」シリーズ──もちろん原作のコンセプトのひとつが和製007ではあるし、「インディ~」シリーズの元ネタのひとつもまた「007」シリーズである──をやりたかったのだろうなとありありと判る本編そのものも、概ね楽しめるものだ。本作が時代設定をあえて1960年代初頭においたのも、それらのシリーズでお馴染みのアイテムや人物、組織を不自然なく登場させたかったためだろう。本作のゲスト・ヒロインの「レティシア」という名前は、おそらく『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督、1967)のヒロインからの引用かと思われる。

そして同時に、1968年が舞台である皆大好き『~カリオストロの城』(宮崎駿監督、1979)へのオマージュもあれこれ──銭型警部がインターポールといいつつ埼玉県警を引き連れたり、「昭和ひとケタ」といった台詞を言わせてみたり、「ごくろうさん」マークを随所で登場させたり、などなど──挿し込みたかったのだろう。また終盤には、いかにも山崎貴監督らしいメカニック・デザイン──トンボみたいな例のデザインがほんとに好きなんだねェ──も登場し、セルフ・オマージュをも挿入している。

ただ、表面的/表層的な部分では楽しめたところも多かったぶん、重要な本筋の脚本や演出の詰めの甘さが余計にもったいなく感じられた。公式ホームページ等を参照すると、本作ではストーリー構築に日本映画としては異例なほど力を入れているようだが、それにしては奇妙に粗が多いのも事実だ。

たとえば前半部にある、ルパンとレティシアが敵の巨大飛行艇の内部へと潜入し、艇内で「ブレッソン・ダイアリー」の捜索と秘密の解明を経て、艇内から脱出するまでの流れは、いくらなんでも不自然過ぎる。具体的な潜入の経路やアクションを端折っているので、艇内の構造が不鮮明だったり、見つかるか見つからないかのサスペンス的スリル感が削がれているからだ *5。しかもルパンたちがそんな閉所空間──あろうことか敵の本拠地のなか──でワアキャア喋りどおしだったのは、敵に泳がされたフリをしていたにしても不自然極まりない *6。そののちに展開される自由落下アクションからチェイス・シーンに連なる見せ場そのものはアニメ的なケレンに満ちていて楽しいのだけど、降りた先のあの荒野がいったい地球上のどこなのか──ここだけ場所のキャプションが “あえて” 出ないのもあって──サッパリわからないため、妙なノイズが残っている。

あるいは後半に登場する、クリアされるべき遺跡の仕掛け──もろに『~最後の聖戦』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1989)チックでしたな──の具体的な解除方法が奇妙にボカされているので「え、その部品取っていいの? そんなことして、また仕掛けが発動しないの?」、「そのキメポーズは格好いいけど、それで仕掛け解除されるの? とおり抜けた先になんかスイッチとかないの?」と要らぬところでサスペンスが生じてしまっているし *7、せっかく付与されたアイテムのとある設定 *8をアクションにあまり活かせていない面もある。ラスト近くでの愁嘆場は相変わらず妙に長い *9

また、レティシアは着ている “黄色い” ジャケットを──衣装デザインそれ自体は良いのだけれど──前述の飛行艇のなかでの “とある” やりとり以降で脱ぐなり、別のものに交換するなどしておいたほうが、より物語の展開に画的な説得力が──海外マーケティングを考えるならいっそう──増したことだろう。黄色い衣服は、キリスト教絵画においてイエスを売ったユダの身につけた衣の色として使用されることから、ときとして「裏切り」や「不実」を表すことがあるからだ。

その他、地球上あちこち出かけるわりに序盤のパリ市街を除いて舞台のご当地感──前述の荒地も含め──どんどんが薄れていっているし、ガヤの音声が極端に少なすぎやしまいかと思うし、不二子の着替えシーンでその繋ぎ方はいくらなんでも無理があるだろうとか、あの娘は後ろ手にくくられた縄をいつ解いたんだ! ……と、大小さまざまに気になる点が多かった。

アラ探しが過ぎる、といわれればそれまでではあるけれど、なんにせよ本作最大の見所である精細なCG映像それ自体は巨大なスクリーンでこそ映えると思われるので、大きなハコで上映しているうちに、出かけてみてはいかがかしらん。わしゃ責任取れんけど。


     ○


◆「神紅大学のホームズとワトソン」の異名を持つ自称学生探偵・明智と万年助手・葉村が、謎の少女探偵・剣崎に連れられて訪れたとあるサークルの合宿先のペンション「紫湛荘」で起こる不可解な殺人事件に巻き込まれる、今村昌弘による同名小説を原作とする『屍人荘の殺人』(木村ひさし監督、2019)は、もうすこしやりようはなかったのかしらん、といささか首を捻らざるを得ない1作だった。

たしかに、主人公・葉村を演じた神木隆之介が醸す相変わらずの年齢不詳感や、剣崎を演じた浜辺美波の可憐だがミョウチキリンな美少女ぶりなど、一部原作小説から役柄の設定を変えるなどして集められたキャスト陣の存在感はよかった。キャラクターに合ったイイ顔を揃えている。

しかし、彼/彼女らに面白くもないギャグやヘンテコなひと言を言わせては変顔させてみたり、そのたびに「ポコペン」といった面白気なSEをのべつまくなしに鳴らしてみたり、字体もサイズも内容もダサいキャプションを入れてみたりと、気を利かせたつもりが総じて寒い *10。だいたいノッケからそんな非日常的な演出をしては、本作の肝である──ネタバレ厳禁な──ツイストの衝撃が薄れるわ、後半にいたっても緊張感が出ないわ *11で理に適ってないのではないか。

まあ、そのあたりは作り手の座組から事前に予想されるので100歩譲るとしても、しかし本格ミステリ小説を原作とする本作において、その隔絶された舞台(クローズド・サークル)となるペンション「紫湛荘」の見せ方に、いかほども工夫もみられないのはいかがなものか。少なくとも序盤から前半にかけて、どういった立地にある建物なのか、どの外観と内装が一致するのかなどをキッチリ描いておかなければ──本作では、とくにそれがトリックや展開に重要なだけに──観客の興を削ぐばかりではないか。「1階」だ「2階」だのといったキャプション──それがなんども登場する──で済まそうとしているあたり、もはや演出の放棄も甚だしい。

原作小説の筋の面白さでなんとか観られるものの、したり顔であの映画作品 *12フッテージを引用している場合じゃないよ。あの映画から学ぶべきところはたくさんあったのではないかしらん。


     ○


◆半年前に攻略して破壊したはずの「ジュマンジ」を、スペンサーが修復してゲーム内に舞い戻ったことを知った仲間たちが再びゲームに挑むジュマンジネクスト・レベル』ジェイク・カスダン監督、2019)は、前作の魅力をより一層深めた楽しい1作だった。

予告編で謳われていたほどにはゲームのバグり感がなかったのは残念だったが、砂漠に市場、山間のつり橋から雪山の要塞にかけて展開される高低さを活かしたアクション・シーンはそれぞれに見応えがあって楽しいし、ゲーム内の無国籍感というか、ごった煮感というか、なんでもかんでも雑多に詰め込んだかのようなプロダクション・デザインの数々も見ていて面白い。

また、前作に引き続いてゲーム内のアバター役を演じたドウェイン・ジョンソンジャック・ブラックケヴィン・ハートそしてカレン・ギレンらの芸達者ぶりが本作でも堪能できる。前作では、彼らのキャリアとあまりに異なるプレイヤー(=役柄)の内面を演じきっていたのがフレッシュで笑いを誘ったが、本作ではプレイヤーとアバターの組み合わせがアベコベになったり、果ては老人ふたりがプレイヤーに紛れたりしてさらにややこしいことになっている。役者陣がこれを見事に、また楽しそうに演じていることで生まれるアンサンブルが楽しい。老人ふたりがテレビゲームに馴染みのないために自分たちがどこにいるのか、なかなか理解できない前半の天丼ギャグのやりとりなど最高だった。

ふんだんなギャグとアクションで突き進む本作が描くのはしかし、自分自身としてはなかなか素直になることのできない人間の性分だ。楽しそうに青春生活を送る仲間に引け目を感じてしまったがために凶行に及んだスペンサーの心境はいたたまれないし、同時にひょんなことからゲーム内に巻き込まれてしまったスペンサーの祖父エディと、彼と仲違いしたままになっている級友マイロが織り成すドラマも味わい深い。誰しもが他人の姿と声を借りればこそ自分や友だちに素直になれるというテーマは、ある意味では現代社会の合わせ鏡であり、だからこそ観客の心を掴んで離さない魅力があるのだろう。そして、そうなれたときには、決定的に手遅れである場合だってあることも描いた本作のちょっとばかりほろ苦い顛末は──描き方に多少の問題はあろうが──胸を打つものだ。

それにしてもダニー・グローヴァーダニー・デヴィート、老けたなあ! *13


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◆きょうも平和な農場に現われた迷子の宇宙人ルーラをお家に帰すため、ショーンたちが奮闘する『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』(リチャード・スターザック、ウィル・ベッカー監督、2019)は、大いに笑ってほがらかな気持ちになれる作品だった。

アードマン・アニメーションズによるストップモーション・アニメのアクションやカメラワーク、編集のテンポ感が織り成す見事な完成度は相変わらずで、よくぞここまで実在感を醸す画がつくれるものだと感嘆することしきり。そして例によって、隙あらば1カットごとに、これまた実に気の利いたギャグやユーモアを入れ込んでくれるので、常に笑顔がまろび出てしまった。序盤も序盤におけるフライド・ポテトを巡って延々と展開されるギャグや、「作業員たち」のなんとも知れぬ挙動の可愛さをはじめとして枚挙に暇がない。それでいてきちんと物語の展開にハラハラさせ、最後にはちょっとした感動すら与えてくれるストーリー・テリングの達者さには舌を巻く。

また、今回の物語がおよそ『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1982)を下敷きにしていうることもあるのだろうけれど、映画冒頭のアードマンのロゴ表示シーンが明らかに『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1977)のクライマックス──と、なぜか『空飛ぶモンティ・パイソン』の「オルガン奏者」を掛け合わせたような──であったりするほか、標識の文字など、往年の宇宙人SFを思わせる小ネタも満載だ。

年忘れにもってこいの1作だった。


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レイア姫の率いる反乱軍に敵の総攻撃が迫るなか、レイやフィン、ポーそしてカイロ・レンら若者たちが辿る命運を描くスター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』J・J・エイブラムス監督、2019)は、なにはともあれ、といった1作だった。

というのも、本作は冒頭のオープニング・ロール1文目から「いきなりそれ言うの!?」といった内容ではじまり、「前フリなんか知ったことか」と新キャラに新要素と怒涛の展開をブチ込んで、めまぐるしく上映時間が過ぎてゆくからだ。おそらくは前作『最後のジェダイ』(ライアン・ジョンソン監督、2017)において監督登板の条件として脚本をも自筆したジョンソンが物語を、当初のエイブラムスや製作のキャスリーン・ケネディらの思惑とは相当異なったものに変更したため──誤解なきように申し上げておくが、僕自身はこの破戒的な『最後のジェダイ』が、その破戒的さゆえに大好きである──に、それを自身の下へと軌道修正しようとしたのだろう。

本作の脚本的な容量は、いつもの「スター・ウォーズ」なら1.5~2作分はあろうかというもので、前半から中盤にかけてのやや単調にも見える展開の矢継ぎ早さ──エイブラムスお得意の「まさか!」な展開もまた、気を抜くとすぐ入ってくる──が、それを物語っている。ここでその詳細を語ることは差し控えるが、ひとつ思ったのは「さては J・J、宮崎駿風の谷のナウシカ』(徳間書店、1982-1994)を読んだな?(邪推)」ということだ。

さて、本作の映像面はさすがの出来で、様々に色合いを変える宇宙空間や惑星ごとの自然描写や生物描写はバラエティに富んでいて楽しいし、予告編でもちらりと登場した圧倒的物量を持つ敵艦隊の重々しい質感とそれに立ち向かうファイターたちが織り成すドッグファイトのスピード感や、常に新しい殺陣に挑むライトセーバー戦の新鮮さなど──ちょっと今回フィルム・グレインが効き過ぎな嫌いもあるけれど──見応え十分。そして暗鬱に塗り込められてゆく画面のなかで、戸惑い、迷いながらも凛として立つ若者たちの姿は、デイジー・リドリーアダム・ドライバーら役者陣の好演もあって美しい。また、様々な形のパートナーシップを大いに画面に刻印したことにも、本作の今日性があるだろう。

それにしても『フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督、2015)から本作『スカイウォーカーの夜明け』にかけての新3部作は、“血(縁)” という過去の呪縛からの解放を謳う物語だったのだと、本作を観てつくづく思う。レイやカイロ・レンが本作で迎える結末は──シリーズの陣頭指揮を執っていたエイブラムスには、3部作としては不満の残るものだったのかもしれないが──そういう意味では必然であり、しかし同時にとても風通しのよいものだ。だからこそ、本作にひとつだけ──いや、まあいろいろ突っ込みどころや不満点はあるけれど──苦言を呈すなら、最後のあの “ひと言” がすべてを台無しにしている、ということだ。こんなところにまでエイブラムス節(=ちゃぶ台返し)を入れ込まなくってもなあ……。

その他、「チューイよかったね」とか「ヤッチャー!」とか「その話はまた今度──の件どうなった?」とか諸々あるけれど、ひとまずはシリーズの区切りである本作がなにはともあれ遂げた大団円を劇場で見届けたい。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評】
『劇場版シティーハンター〈新宿プライベート・アイズ〉』こだま兼嗣総監督、2019)は、良くも悪くも “まんま” だったのが妙味。しかたがないこととはいえ、絵の “感じ” というか色気は若干薄れていたかしらん。

『シャザム!』デヴィッド・F・サンドバーグ監督、2019)は、孤児であった主人公ビリーを迎える家族の面々のあたたかみや、サンドバーグらしい恐怖演出が楽しかった。ただ、もうちょっと尺が短ければと思わないでもない。

『新聞記者』藤井道人監督、2019)は、ズンと重苦しい空気感の醸し方や、第2幕で突然物語を切る構造などがフレッシュな余韻を残す。ただ、真に恐ろしいのは本作を実録モノで撮らせなかった社会そのものだよ。

『SHADOW 影武者』チャン・イーモウ監督、2018)は、セットや衣装に小道具といった美術、遠景を描くCGなどを駆使して、色彩をほぼ白と黒だけで統一した水墨画のような画面が凄まじい。出し抜けに映画のジャンルが変わる後半に虚を突かれたりもしたが、傘型の秘密兵器の格好良さとアクションのケレン *14水墨画的画面に滴る赤い血の生々しさが印象的。

ガリーボーイ』(ゾーヤー・アクタル監督、2019)は、インド社会を覆う問題や軋轢のなかで乱れ飛ぶライミングが爽快感に満ちている。また、すべての曲に字幕をつけてくれた心意気やよし!

『英雄は嘘がお好き』(ローラン・ティラール監督、2018)は、笑ってよいやらドン引きしてよいやら絶妙な味わいがなんとも知れぬ魅力をたたえている。ジャン・デュジャルダンメラニー・ロランらの演技アンサンブルも素晴らしい。

『僕のワンダフル・ジャーニー』(ゲイル・マンキューソ監督、2019)は、犬はいいなァ(それにひきかえ人間はなァ)、としみじみ感じ入る作品だった。大中小様々な犬が犬で可愛い。「黄泉の国」の表現は美しさと寂寥感が混在していて面白い。

『イエスタデイ』ダニー・ボイル監督、2019)は、曲はなんとなく知っているが、具体的にはあまりビートルズを知らない世代を主人公にしたのが面白い。後半に訪れるとある展開には号泣。それにしてもヒロインがいい人でね……。


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*1:あるいは、権利関係でそうするほかなかったのかもしれないけれども。ほら、『レディ・プレイヤー1』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2018)にも彼だけはキチンとは登場しなかったし。

*2:父と子の、交わらないカメラワークが切ない。

*3:原作漫画は不勉強ながら数話ほどしか読んでおらず、映像化作品についてもすべてはカバーできていない。これを書いている2019年12月現在までに観たもの──▼『パイロットフィルム』全2種。▼TVシリーズ:『1st』全話、『2nd』飛び飛びで1/4くらい、『Part III』全話、『峰不二子という女』全話。▼長編映画: 本作を含め全作。▼中篇映画「LUPIN THE ⅢRD」シリーズ: 最新作『峰不二子の嘘』を除く全作。▼TVSP: 最新作『プリズン・オブ・ザ・パスト』を除く全作。▼OVA:『風魔一族の陰謀』、『生きていた魔術師』、『GREEN vs RED』の3作。以上。 ▼また、北村龍平監督の実写版。

*4:などとブツクサ書いていたら、スタッフ続投による『2』の製作が発表された。い、嫌じゃあ。ドラ泣きなんか、もうしとうないんじゃァ(12月12日記)。公開当時の感想: 『STAND BY ME ドラえもん』(2D版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

*5:そりゃ、直前のシーンからおもんぱかって積荷にまぎれてってことかもしれないが、であれば、そこをきちんと描くべきではないか。本作が──予告編も含めて──やたらと関連づけたがる『カリオストロの城』はそのあたりをきちんと描写していたし、アニメーション的/映画的な見せ場としても成立させているのであって、取り込むならこういうところをもっと取り込むべきだろう(というか、ケイパーものである本作が潜入描写をちゃんとしてないのが、そもそもおかしいんだって)。前述したような台詞だマークだとか、FIAT-500だ可憐なゲスト・ヒロインだとかいった表面的な目配せばかりやってる場合じゃないよ。作り手たちは多分勘違いしているのだけど、そういったキャラクターやガジェットを出したから『~カリオストロの城』が面白いわけじゃないんだから。

*6:ルパンたちはどうやってか難なく潜入した飛行艇からの脱出を「警備が厳重だから」と諦めて艇内に留まってブレッソン・ダイアリーの解読に移るが、たとえば後に続くシーンの順番を多少変更して、先に飛行艇を発進させるだけでもだいぶ違うと思うのだけれど。

*7:あと2番目の仕掛けについては「クリアするアイテムは、ここまでさんざん登場させてきた古代遺物の欠片のほうが気が利いてない? というかその仕掛け、単にあいつがあれを使えない状態を作り出すために逆算で考えただけだろ」と思ったりもした。古代人の声を聞こうよ。

*8:最初の仕掛けでルパンが手に入れる、重力を自在に操ることのできるボール。というか、「エクリプス」というオーパーツが重力を意のままに操ることのできる装置だからこそ、それを圧縮してブラックホールを生むことができるのだ、くらいのちょっとした説明台詞もあってもよかっただろう。

*9:また例によって、あんな離島に置いてけぼりされたかのように見えるレティシアが、どうやって帰還するのか心配になる。うしろの遠景にでも、ICPOの増援部隊がやって来ている画を──それこそ『~カリオストロの城』がやっぱりちゃんとしていたように──追加してもよかったのではないか。

*10:寒いといえば、夏が舞台のはずなのに撮影時期を隠すこともなく、総じてキャラクターの吐く息は白いのであった。だいたい冒頭の「彼女(=剣崎)は夏だというのに長袖のカーディガンを着ているから不自然だ」という旨を言っている明智自身がいちばん厚着なのはどうなのか。

*11:アップテンポの16ビートをとりあえず流しとけば緊張感が煽れると思ってない?

*12:ショーン・オブ・ザ・デッド』(エドガー・ライト監督、2004)。メイクも安いし、クリティカル・ヒット描写も酷いというか、ンなもの繰り返してるんじゃないよ。くどいわ! なにより、映画部の前田君を呼んでおいてコレかよと、うなだれたのでありました(いろいろ混同した文章)。

*13:今回鑑賞したのは日本語吹き替え版だったのだけど、彼らふたりの世代を考慮してか、思わず「久々に聞いたよ!」となるような懐かしの流行語などが飛び出したりするキレのある翻訳がなんとも素晴らしいし、なんと加山雄三が担当したグローヴァーのジュマンジ内のアバター(=ケヴィン・ハート役の伊藤健太郎)に加山雄三のキメ台詞を言わせるというなんとも回りくどいギャグをやったりなどしていて可笑しい。

*14:目抜き通りを空飛ぶガメラの群れの行進か、といわんばかりに疾走するシーンは必見。

2019 11月感想(短)まとめ

2019年11月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆DIA(米国防情報局)に雇われる凄腕の狙撃手ヘンリーが何者かの陰謀によって、若き日の自分に生き写しの暗殺者に追われるジェミニマン』アン・リー監督、2019)は、画面内に使用された技術は凄いのであろうことは感じられるSFアクションだった。

というのも、本作を鑑賞するにあたっては本来であれば作り手たちが想定した「3D + in HFR(ハイ・フレーム・レート)」という上映形態──今作では通常の映画が24fps(秒24コマ)であるのに対して120fps(秒120コマ)からなる素材を3D映像化するというものだという──に近い環境での望ましいのだろうけれども、いかんせん自分が足を運べる劇場にそんな設備もなく、通常の映画上映形態と同様にダウンコンバートしたヴァージョンしか観ることは叶わなかった。とはいえ、明らかに普段観る作品とは映像の手触りの異質さは、雰囲気としては実感できた。とくに、今策最大の見所であるデジタル技術によって画面に定着された若きウィル・スミスの精緻なリアルさには──明るい昼間のシーンでは、ほんのわずかに違和感が残るものの──驚かさる。

また、アクション・シーンも面白く、とくに映画中盤にあるコロンビアはカルタヘナを舞台にした一連のシーンは、その白眉だろう。ウィル・スミスが若いウィル・スミスとはじめて対峙してから始まる銃撃戦から街中を駆けるバイク・チェイスまでの諸々のアクションは、建物の階上と階下、道路と脇の塀といった高低差を介してウィル・スミス同士が対決するので、文字どおり縦横無尽/立体的な臨場感に溢れているし、1ショット長回し──おそらく擬似的なものとは思うけれど──で彼の乗ったバイクを捉え続ける撮影も見事だった。的確にヘンリーをアシストするヒロインのダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド演)の所作も見応えがある。

しかし正直なところ、およそ予告編で語られること以上には発展しない「クローン」を巡るスパイ映画的な本作の脚本──企画自体、相当古いものらしい──には物足りなさを感じたし、愁嘆場のシーンも妙に長ったらしいのは否めない。ウィル・スミスの老若それぞれが同じ内容の心情の吐露を別のシーンで1回ずつやるというのは、さすがにどうかな。おそらく本作最大のネックは、使用された革新的撮影・上映技術に対して、つまらないとまではいわないまでも、あまりに本編そのものが淡白な点であろう。それが逆に、本作のジャンル映画的軽やかさを削いでいない、ともいえるだろうけれども。


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◆27年前、在りし日の子ども時代に封印したはずのペニーワイズが復活したという報せを受けた “負け犬クラブ” の面々が再び集結するIT/イット THE END “それ”が見えたら終わり。』アンディ・ムスキエティ監督、2019)は、怖さと可笑しさ、そして郷愁が絶妙にミックスされた堂々たる大長編だった。

ペニーワイズを真に封印する儀式には、それぞれ子ども時代の思い出の品が必要だということで、その探索の途上で折々に回想シーンが差し挟まれる──ここでの現在から過去へ/過去から現在への移行を表現するカメラワークが面白い──のだが、誰しもが「あの頃のことをほとんど覚えていない」という設定によって、前作『IT/イット “それ”が見えたら終わり。』(同監督、2017)に登場さえしなかったシーンを次々に盛り込んでくる構成が、妙な新鮮味があって面白い。

そしてもちろん、そのたびにペニーワイズがあの手この手で主人公たちの心を挫こうと仕掛けてくるホラー表現もバラエティに富んでいて楽しい。冒頭のつかみである、橋桁の下に無数に浮かぶ赤い風船の無気味な色合いに始まり、ギーガー的雰囲気を醸すグロテスクな闇鍋と化すおみくじクッキー、会話の間がギクシャクと噛み合わない老婆、イカれたブラウン管に映ったように狂った色彩になる公園、そして古典的な「わっ!」という驚かしまで、上映時間169分という長尺──寡聞にして、こんなに長いホラー映画がこれまであったろうか──を感じさせる暇もない。

ところで本作の特徴は、じつはめっぽう笑えるシーンが多いことだ。日常や回想シーンのみならず、ペニーワイズが跋扈するホラー演出シーンにおいてもコメディ演出やギャグが──前作を観ていれば爆笑必至の天丼ネタや、ほかのスティーヴン・キング作品のパロディも含めて──ふんだんに使用されている。これが本作の興を削いでいないのは、本作が大人になった主人公たちの主観から描かれるからだろう。本シリーズのペニーワイズ=イット(それ)とは、各々が子ども時代に恐怖したものの代理表象だ *1。それと同様に僕ら観客にもまた子ども時代に恐怖した大なり小なりのイットがあったわけで、それをいま思い返したとき存外に陳腐だったり滑稽だったりすることは、ままあるだろう。本作が採用したホラーとコメディの融合は、そんなノスタルジックな味わいを──無論、ペニーワイズによって容赦なく死人は出るけれど──喚起させる。そしてだからこそ、前作と本作におけるペニーワイズ打倒の方法が、対になるように設定されているのではないだろうか *2

なんにせよ、本作を観終わるころには「みんな大きくなったなあ」と感慨深くため息がもれること請け合いだ。


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◆メキシコに暮らす少女ダニーの生命を狙う新型ターミネーター「REV-9」と、それを追って同じく未来から送り込まれてきた強化人間グレースらの死闘を描くターミネーター: ニュー・フェイト』ティム・ミラー監督、2019)は、スピーディな展開とアクション、そして強く気高くたくましい女性たちが見所の1作だ。

『2』(ジェームズ・キャメロン監督、1991)よりこちら、幾度もキャメロン抜きでパラレルに続篇が作られてきた「ターミネーター」シリーズ *3だが、再びのし切り直しとなった本作では、今回久々にキャメロンが製作として、なおかつ初期2作でサラ・コナーを演じたリンダ・ハミルトンが同役に復帰したということで、いやがおうにも期待値は高まっていた。まず結論から言えば、本作はその期待に充分に応えてくれる1作となった。

展開的にも映像的にも驚かされる冒頭10分を皮切りに、ダニーと、彼女を護衛するグレース、そしてひょんなことから彼女たちに合流するサラ・コナー、アーノルド・シュワルツェネッガー演じる「T-800」──彼がいまどうしているのかは、ぜひともご自身の目で確認されたい *4──を執拗に追うガブリエル・ルナ演じるREV-9 *5との攻防戦に目が釘付けになる。役者やスタントマンらによる生身の殺陣とデジタル・スタントとを適宜うまく入れ替え組み合わせながら展開されるアクションの数々は、殊に肉弾戦においてシリーズのなかでも、じつにスピーディで立体的なものだったし、主に登場する車両のそれぞれがかつての画面で見覚えのある外見をしているなどといった目配せも楽しい。

そして、前述のとおり復帰したリンダ・ハミルトンの燻し銀の効いた『2』にも勝る格好良さ、REV-9とサシで渡り合う改造人間グレースを演じたマッケンジー・デイヴィスの鍛え抜かれた所作の美しさ、そして──『1』(ジェームズ・キャメロン監督、1984)におけるサラがそうであったように──庇護されるばかりの存在から自ら闘いへと挑む人物に成長する少女ダニーを演じたナタリア・レイエスの凛々しさを伴った表情が、展開によりいっそうの力強さと色鮮やかさを与えるだろう。なにより彼女たちの活躍をとおして、シリーズが無意識に継承してきた “「母」としての女性が大切なのだ” という価値観を、そうではなく 、“「あなた」自身が大切なのだ” と言い切った点も素晴らしい進化だ *6

もちろん食い足りない部分がないわけではない。これはここ10年くらいの潮流であるので本作だけに限った話ではないのだが、やはりナイト・シーンでの画面の “リアル” な暗さがどうしても目につく……というか見づらいのは否めない。現実的には嘘でもいいので、かつてのようにもうすこし照明を当ててくれたなら、本作の激しいアクションに没入できただろう。また、展開の速さを重視するばかりに情緒面が若干弱いのも気になった点だ。そういったものはたいてい短い台詞のやりとりのみに限られている──ダニーとグレースの歩み寄りには、後の展開を描くためにも、もうちょっと尺を割いたなら、よりエモーショナルになったのではないかしら──し、とくに冒頭での掴みの部分でREV-9が遂行したはずの殺戮シーンをきちんと見せないのはもったいない。それがあったからこそ、T-800を演じたシュワルツェネッガーや、『2』において宿敵である液体金属型ターミネーター「T-1000」を演じたロバート・パトリックが映画史のなかで永遠に記憶される悪役になったのではなかったか。

ともあれ、もしあなたが『2』から一足飛びに本作を観るなら、時間経過による映像技術や価値観といった様々な刷新ぶりに、それこそタイム・トラベルをしたかのような感触をもたらすことだろう。面白かった。


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◆行きつけの喫茶店の地下にあった飛び出す絵本の世界に吸い込まれた「すみっコ」たちが、そこでひとりっぼっちの「ひよこ?」と出会い、様々なおとぎ話の世界を旅する『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』(まんきゅう監督、2019)は、「たれぱんだ」や「リラックマ」などを生み出したサンエックスに所属する横溝友里がデザインし、書籍やゲームなど各種メディアにグッズ展開されて人気を博しているキャラクター群「すみっコぐらし」について、ほんのひとかけらの予備知識もなしに観たけれど、たいへん可愛らしい作品だった。

部屋の隅が好きな動物や植物、果ては埃や食べかけの料理*7まで、さまざまなものをキャラクタライズしたデザインが秀逸で、シンプルで太い描線と温かみのあるカラーリングに彩られた丸っこい「すみっコ」たちが、3Dモデリングを用いたアニメーションによって画面内を行き来する姿はコロコロと可愛らしいし、彼らが冒険することになる様々なおとぎ話の世界観ごとに設定された美術も変化があっておもしろい。すこしばかり『ザ・ビートルズ/イエロー・サブマリン』(ジョージ・ダニングほか監督、1968)を思い起こさせるような「ひよこ?」をめぐる顛末には──その物語を表現する映像技法も含めて──思わず感動した *8

惜しむらくは──たとえ本作がファミリー向けであったとしても──いささかナレーションが多すぎること。たとえば『くまのプーさん』(スティーブン・アンダーソン、ドン・ホール監督、2011)などと比べても、かなり多いほうかと思われる。とくに気になったのは、異なったページ(=別々のおとぎ話の世界)へと散り散りになった「すみっコ」たちの姿をカットバックしながら追う際に、シーンが切り替わるごとにいちいちおとぎ話のタイトルをナレーションとして被せている点で、これは──背景美術などでの世界観の描き分けもあるのだから──さすがにやりすぎではあるまいか。それでも、本作のクライマックスにおいてはナレーションをほぼ排し、画とアクションで魅せてくれたことは嬉しい。

ともあれ、思わぬ拾いモノだった。あと、「ざっそう」可愛い。


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◆海辺の王国アレンデールの女王エルサが、夜な夜な自身を呼ぶ不思議な声に誘われて、かつての戦争で親交が断絶したノーサルドラの民たちの住む閉ざされた精霊の森へと赴くアナと雪の女王2』クリス・バックジェニファー・リー監督、2019)は、社会的情勢の暗喩に富んだ重層的なエンタテインメント作品だった。

とにかく目を惹くのが、例によってコンピュータ・グラフィックスによる精緻で微細ながらも大胆な自然現象の映像表現。本作ではとくに、様々に流れの表情を変える川や海といった “水” の表現──中盤にある荒波や終盤にある濁流の細やかさたるや!──と木々や大地を覆う数多の──それこそ何万枚あるのだろう──木の葉の表現が見所だ。どちらもじつにリアリスティックでありながら、アニメーションとしての躍動感も損なわず多彩な方法で描かれていて舌を巻いた。そして全篇にわたって画面のどこかに青紫系の色をさり気なく入れ込んだ色彩設計もまた、劇中の季節である秋の終わりから本格的な冬の訪れを感じさせる空気のキンと張り詰めた冷たさを醸していて凄まじい。本作の画面を観ているだけで体感気温がいくらか下がったかのように感じられること請け合いだ。

さて、前作(同監督、2013 *9)において主人公であるエルサとアナの姉妹が “自分自身” としての──フェミニズム的観点からも刷新されたものだったろう *10──アイデンティティを確立するという物語は十全に語り切っていたので、その続きとしてどのようにふたりの物語を展開させるのかと思っていたのだけれど、本作ではふたりが社会的存在として──つまり王族としての義務を果たすことで──成長する物語に仕上がっていて、なるほどなと得心した *11

本作の物語の基盤はハッキリ言って政治劇であり、ノーサルドラの民たちのキャラクター・デザインがどこかヒスパニック系やモンゴロイド系を思わせること──そのなかに白人であるアナとクリストフの鏡像である人物が登場することや、やがて明かされる姉妹の出自についても興味深い展開が待っている──や、キーとなる建造物 *12が指し示すとおり、それが昨今のアメリカにおける政治情勢への暗喩になっているのではなかったか。そして、アナたちが開かれた他者理解と共感をもって、新たな歴史を紡ぎはじめるという本作の結論は、とても今日(こんにち)的な希望と願いに満ちたものだ。

ただ本作にもネックはあって、表面的には、世界的な旋風を巻き起こした「レット・イット・ゴー (Let It Go)」に匹敵する劇中歌がなかったことが挙げられる。もちろん本作に登場する様々な楽曲はそれぞれ総じてレベルの高いものであり、聴き応え──エルサのまとうレオタード基調の衣装デザインがいまにもエアロビクスを踊れそうだったり、クリストフの歌う「恋の迷い子(Lost in the Woods)」が楽曲もミュージカル・シーンもMTV風だったりで、多分に ’80年代風なのも楽しい──もある。しかし、1度聴いたら耳から離れない──そして、作り手たち自身が、この曲が完成したところで、この曲のために脚本を大幅に修正してしまった──ほどのキャッチーさには、いまひとつと欠けるのは否めない。

そしてなにより、本作におけるタイム・リミットと地理関係の描写はかなり雑であり、果てしていつまでに事件を解決せねばならないのか、あるいは──劇中1カットだけ地図が登場するものの──キーとなる場所がどこにあって如何ほどの距離なのかがイマイチ呑み込みづらく、サスペンスとして盛り上がらないのはもったいない *13。こういった情報を補うような図像を伴なった会話/会議シーンを──たとえばノーサルドラの民のキャンプ地でのシーンなどで──もうすこし組み込んでもよかったのではないだろうか。

でもね、笑いと涙を両方かっさらってゆく本シリーズの良心ことオラフの活躍は100点満点だよ。


     ※

*1:そして監督によれば──本作冒頭の救いのないゲイのカップルを巡るシークェンスこそが示すように──「僕たちは今、恐怖が道具として使われている時代に生きています。僕たちのリーダーは、僕たちの政府は、僕たちを分断している。互いの対立を煽っている。”それ”は、僕たちを分断しようとする、現実世界のモンスターの象徴」にほかならない。監督は続けて言う「『IT/イット』は、今を生きる僕たちにとって重要なテーマがあるんです。「クソ野郎を信じるな」というメッセージです。みんなで団結して、嘘や分断に立ち向かえと。「みんな違う人たちだ」とか言う奴らに立ち向かえと。恐怖に屈してはいけない。恐怖に立ち向かわなくてはならない。恐怖は、僕たちに悪いように利用されているからです」と。web『THE RIVER』内 『IT/イット THE END』監督が日本のファンに本気で語った「真面目な話」 | THE RIVER、2019年11月14日参照。

*2:前作が文字どおり無意識下への抑圧なら、本作では言い換えによる物語化だ。

*3:これまで『2』を起点として、まずは『3』(ジョナサン・モストウ監督、2003)→『4』(マックG監督、2009)と来て『4』を含む未来篇3部作が予定されていたが頓挫。また同時期、映画とは別の続篇としてTVシリーズサラ・コナー・クロニクルズ』(2008-2009)がセカンド・シーズンまで製作された。さらに映画版で『新起動/ジェニシス』(アラン・テイラー監督、2015)にて、やはり『2』を起点に再リブートされ、こちらもシリーズ化の予定があったようだが、やはり頓挫となった。

*4:彼が自らにつけた「カール」という名は西ゲルマン語由来のもので、「男」ないし「自由農民」を意味するものだという。これと同時にシュワルツェネッガーオーストリア出身であることを思い出せば、なるほど含蓄に富んだ命名だ。それにしても明治の某スナック菓子がもうすこし長生きしていたなら、素敵なコラボレーションが実現していたのかもなあ。

*5:骨格部と筋肉部とを分離させることで分身できるという設定は面白い。

*6:もちろん作品それ自体の完成度や面白さは別にしてである。しかし、その価値観の是非は常に問われ続けられねばならないだろう。

*7:このへんの設定はけっこうブラックなユーモアがある。

*8:そもそも本作の、様々なおとぎ話の世界を旅するすみっコたちという物語のおおまかな流れそのものが、「時間の海」や「無の海」といった様々な海を旅するビートルズの面々を描いた『ザ・ビートルズ/イエロー・サブマリン』がタネ元ではないかと思わせるし、「ひよこ?」の出自はジェレミーを髣髴とさせる。というのも、本作の脚本を担当した角田貴志が所属するヨーロッパ企画を主催した上田誠がかつてシリーズ構成と脚本を担当した森見登美彦原作のTVアニメ『四畳半神話大系』(湯浅政明監督、2010)内には『イエロー・サブマリン』へのオマージュを思わせる表現が──たとえば、第1話における、いわゆる「三条の土下座像」をグルリと素早く周回するカットや、ソフトに収録されたオマケの短篇──散見されるからだ。さらに森見は彼のデビュー作となった『太陽の塔』(新潮社、2003)のなかに、同作をちょっとした形で登場させている(そういえば、ナレーターのひとり本上まなみは森見の憧れの人だった)。

*9:当時の感想: 『アナと雪の女王』(2D日本語吹替え版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

*10:およそディズニー・プリンセスらしくないアナの元気溌溂でガサツな性格設定も、当時新鮮だった。

*11:だから、本作のクライマックスを経てようやくアナとクリストフが結婚という社会的契約を結ぶのも故なきことではない。

*12:ノーサルドラの領地に建築された巨大なダム。これによって自然のバランスが崩れ、精霊の怒りを買い、森が隔絶されることとなったのだ。映画評論家・町山智浩によれば「ノルウェー政府のダム建設に少数民族サーミ人が抵抗した実際の事件を元にしているからだ」という。なるほど。

*13:まァ前作でも、アレンデールは氷産業が盛んらしいくせに、なんで氷で困ってしまうのか、という微妙なツッコミどころはあったけれど。

2019 10月感想(短)まとめ

2019年10月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1970年代後半、スタンダップ・コメディアンとして成功することを夢見ながらピエロの出張役者として貧しい暮らしを送る青年アーサーが、やがて狂気と暴力に呑まれてゆく姿を描く、DCコミックスバットマン』に登場する最強の悪役の誕生譚『ジョーカー』トッド・フィリップス監督、2019)は、観た者に重々しく痕を残す、ひとりの人間の物語だった。

本作の時代設定がそうであることや、ホアキン・フェニックス演じるアーサーが憧れるトークショーの司会者マレー役にロバート・デ・ニーロが登板していることからもわかるように、彼が主演した『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976)や『キング・オブ・コメディ』(同監督、1983)をはじめとして、本作には1970年代ごろに製作された様々な映画群──『フレンチ・コネクション』(ウィリアム・フリードキン監督、1971)や『狼よさらば』(マイケル・ウィナー監督、1974)に『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン監督、1975)、『狼たちの午後』(シドニー・ルメット監督、1975)などなど──へのオマージュに溢れている。それは単に画調やアクションといった表面上のものに留まらない。本作は、こういった作品群が思索してきた人間と狂気、そして暴力がいかにして発動するのか、そもそも暴力とはなにかを観客に問いかけるような本質を見事に継承している。

本作の「ジョーカー」らしくないアーサーを思い出そう。彼は、急に笑い出してしまう病に苦しみながら、病弱の年老いた母を懸命に介護し、道化役として子どもたちに笑顔を与え、同僚や他のコメディアンが発する差別ネタには決して笑わない心優しい──過ぎるくらいに──男だ。それゆえに方々から馬鹿にされ、いじめられ、抑圧され、希望が打ち砕かれながらも、アーサーは笑顔を浮かべてグッと堪え続ける。しかし、前述の映画群の主人公たちがそうであるように、ついに限界に達して耐えることが難しくなってくる。この過程は、観ていて本当に胸を抉られるような思いに駆られた。そして、ついに狂気に呑まれたアーサーが、自宅近くの長い長い階段を軽やかにステップを踏みながら、まるで嬉々として地獄の底に飛び込んでゆくように駆け下りる姿には、哀しいけれども清々しくもある爽快感に満ちている。

「俺の人生は悲劇だと思っていたが、傍から見れば喜劇だ」というアーサーの台詞は、喜劇王チャールズ・チャップリンの「人生はクロースアップでは悲劇だが、ロングショットでは喜劇だ」という言葉から来ている。本作では、同じくチャップリンの名作『モダン・タイムス』(チャールズ・チャップリン監督、1936)*1から映像が引用され、主題曲「スマイル *2」が流れ、“心が痛んで哀しいときこそ笑ってごらん” と歌いかける。しかし、それすらも不可能になったとき、どうすればよいのか? どうなってしまうのか? ──と本作は問いかけているように思えてならない。ピエロのように、笑いのメイクに涙を描き込むほかないのではないのか。そして、それは劇中のアーサーの狂気がそうであったように、スクリーンの前に座る僕らにも伝染するのである。

たとえ、すべてがジョーク *3だったとしても。


     ○


◆殺し屋たちが集う「コンチネンタル・ホテル」内での殺人という禁を犯したために、世界中の殺し屋たちに追われることとなったジョン・ウィックの闘争を描くシリーズ第3作ジョン・ウィック: パラベラム』チャド・スタエルスキ監督、2019)は、冒頭から終盤まで思いつく限りのアクションを斬新さをもって詰め込んだ大盤振る舞いな1作だった。

図書館所蔵の本を使ったり、追い迫るバイク集団を馬でやり過ごしたり、犬をけしかけたり、おなじみの “ガンフー” からシラット、日本刀でのチャンバラなど、よくもまあここまで多様なアクションを思いつき、そして実践してみせるものだと、圧巻。これらをこなしてしまうキアヌ・リーヴスジョン・ウィックの鮮やかさはもちろんのこと、敵もさるもの、その誰しもが伝説の殺し屋であるジョンのファンであるために「憧れの先輩と闘えて光栄の至りッス!」と言わんばかりに嬉々として襲い掛かってくるのが微笑ましい。本作でマーク・ダカスコスが演じた宿敵ゼロの、ジョンを目の前にして笑みが押し止められない感じなど最高だった。

また、防弾着の発達ゆえに銃弾が基本的に無効化されたクライマックス手前での銃撃戦などは、ステージをクリアするごとに敵の防御力の上がるテレビ・ゲームもかくやのちょっと見たことのない領域の画面が展開される*4。闇夜に浮かぶネオン・ライトのような照明効果を活用した、しっとりと鮮やかに画面を彩る美しい撮影も、本作にある数多のアクション・シーンを盛り上げてくれる。そして、たとえば『続・夕陽のガンマン』(セルジオ・レオーネ監督、1966)でイーライ・ウォラックがみせた動作や、『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)でキアヌ自身が発した台詞の再現など、そこかしこに往年のアクション映画へのオマージュが忍ばせてあるのも憎らしい。

とはいいつつ、前作『チャプター2』(同監督、2017)からその気(け)はあったのだけれど、ちょっとアクション・シーンのそれぞれが若干冗長なのが難点といえば難点だ。とくに中盤にあるモロッコでの銃撃戦シーンは不必要に長い。もうちょっと上映時間をタイトに切り上げれば、それぞれの見せ場が一層印象的になったのではないかしらん。


     ○


◆緊張すると気絶してしまう持病ゆえにひとつも売れない俳優・和人が、ひょんなことから演じることで顧客の依頼をなんでも解決する俳優事務所に所属し、やがてカルト詐欺団体の撲滅に挑むスペシャルアクターズ』上田慎一郎監督、2019)は、役者たちのアンサンブルが可笑しくて心地のよい良質なコメディだった。

主人公・和人を演じた大澤数人──情けないにも程がある挙動が最高!──をはじめとして、登場する俳優たちそれぞれのアクションや表情づけ、当人の持つ雰囲気などによって醸される実在感が素晴らしい。とくに長回しのショットで写される彼/彼女らのやりとりの絶妙な呼吸が、なんともしれぬ魅力をたたえている。なんとか自分を「ボス」と呼ばせたい事務所所長や、詐欺団体「ムスビル」の怪しさ溢れる欺瞞感や、旅館の番頭の濃い顔もよかった。前作『カメラを止めるな!』(同監督、2017)同様、役者の魅せ方は抜群だ。

これまた例によって、なにを言ってもネタバレになる脚本ゆえに詳細は控えるけれども、あれよあれよとコトが大きくなってゆく展開のワクワク感や、和人が少年期から心の拠り所として何度も繰り返し観ているVHSに録画された安い──たぶん「日曜洋画劇場」なんかの捨て駒週に放送されたのかしらん、と思わせるような──洋画『レスキューマン』(もちろん本作のための劇中映画)を活用した、なんとも心許ない感じが余計にグッと来るクライマックスなども見所だ。

もちろん粗がないではない。いささか構成の仕方が垢抜けてなかったり*5、編集が若干モタついていたり*6三谷幸喜作品的な本作の大オチ──監督のサービス精神なのか周囲からの期待ないし要請なのかはわからないけれど──も返って興を削いでいる感は否めない*7。それでもなお本作のような、若い才能が作り上げた良質なコメディが全国津々浦々のシネコンで上映されて観ることができるのはたいへん嬉しい。ぜひとも劇場へ駆けつけたい。

ムッスー。


     ※


【ソフト】
◆ある日の午後2時37分、学校で自殺したひとりの生徒とは誰だったのかを、それぞれに問題を抱える生徒たちのその1日を追って描く『明日、君がいない』(ムラーリ・K・タルリ監督、2006)は、身体的、精神的、性的、そして環境的に様々な問題に悩む6人の生徒への──まるでドキュメンタリーのような──インタビュー動画によるモノローグを時折挿入する構成や、視点を幾たびも変えて同時刻を描く絶妙なカメラワークと編集──校舎の階段を昇り降りするだけの動作を、かくも象徴的に、ドラマチックに捉えられるものか、とも驚嘆──といった語り口が非常に秀逸。これらによって集約される、ことの真相は、その歯がゆさとやるせなさが胸に迫る、生涯忘れえぬ体験となった。真摯で、かつ見事な作品だ。


     ※

*1:製作年からして、まだまだ世界恐慌の余波があったころの作品であろうし、本作のオープニングにエイゼンシュテインロシア・アヴァンギャルド作品に見られるようなの弁証法モンタージュがあるのは偶然ではないのだろう。それにしても、今回久しぶりに観返したのだけれど、なんと物悲しい可笑しさに満ちた作品なのだろう。

*2:チャールズ・チャップリン作曲。もとは劇伴だが、後に1954年にジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズが歌詞とタイトルを加え、ナット・キング・コールによって歌われスタンダード・ナンバーとなった。今回本編で使用されたのはジミー・デュランテによるバージョン。

*3:本作を観ればわかるとおり、アーサーは決して信頼の置ける語り手ではない。前述の引用は、あるいはアーサーが劇場で観た映画だったのかもしれないじゃないか。

*4:このシーンでは安全地帯であるセーブ・ポイントめいた部屋まで登場し、ある意味で正しくアクション・ゲームの実写化的側面もあるといえるかもしれない。

*5:たとえば、ポスター等にも使用されていたイラストを使ったオープニング・クレジットは、むしろエンド・ロールの前に配置してドーンと観客を盛り上がらせたほうが効果的なのではないかしらん。

*6:役者陣の好演を切れなかったのかしらん。

*7:あるいはデヴィッド・フィンチャー監督の “あの” 作品を思い出した(仲間由紀恵のやつぢゃないよ)。

2019 9月感想(短)まとめ

2019年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1969年、スタントマンのクリフ・ブースが永年コンビを組みんでいる現在キャリア停滞中の俳優リック・ダルトンの邸宅の隣にロマン・ポランスキー監督と女優シャロン・テート夫妻が越してくる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』クエンティン・タランティーノ監督、2019)は、当時のフィルムを思わせる乾いた色調で描かれた、なるほどタランティーノの語る “おとぎ話” といった作品だった。

もちろん本作には、タランティーノ自身が子供時代を過ごしたという1960年代終盤のハリウッド界隈を象徴する様々な小ネタの数々は、もはや1度では回収しきれないほど詰め込まれている。各種映画のポスターから看板、ポップ・ミュージック、マカロニ・ウエスタン、ヒッピー・ムーヴメントにミニスカート、スティーブ・マックィーンがいてブルース・リーもいる!──と観ていてキャッキャッとはしゃぎたくなるような楽しさだ。

そんな時代に活躍した様々なアクション俳優の要素を混ぜ合わせて*1創造された、本作が初共演となるレオナルド・ディカプリオブラッド・ピット演じる落ち目の俳優リック・ダルトンと彼の専属スタントマンであるクリフ・ブースの親友以上夫婦未満のブロマンス感溢れるやりとりもまた楽しい。自身のままならなさにメソメソ泣いてはブラピに「よしよし」と慰められ、自身の至らなさにシクシク洟をすすっては共演者である年端もいかない子役の少女──演じたジュリア・バターズもめちゃくちゃ巧かった──に「よしよし」と慰められるレオ様の表情など最高だった*2し、55歳とは思えないバキバキの肉体を然したる意味もなくスクリーン上に披露するブラッド・ピットの無骨な存在感も素晴らしい。

その他、本作における重要なポイントであるカルト集団マンソン・ファミリーのリネット・フロムを演じていたのがダコタ・ファニングだったのには驚いたし、同じくファミリーの一員であるスーザン・アトキンスを演じたマイキー・マディソンは本人の雰囲気もあるいっぽうで梶芽衣子っぽくもあった。もちろん、シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーの天真爛漫な軽やかさも忘れがたい。

本作は、いわゆるハリウッド的な強固な物語があるわけでもなく、どちらかといえばあてどない日常スケッチが続くわけだが、タランティーノの軽妙な語り口──それから脚/足へのフェティッシュなこだわり──や、通りを人が歩いているだけなのに妙な緊張感が走るサスペンス演出の巧みさはいまだ健在で、161分という長尺も無理なく観ることができる。昨今のタランティーノ監督作の傾向を鑑みれば──というか、予告編の惹句が全部言っちゃってるのだけれど──本作の迎える結末それ自体に驚きは少ないものの、そのぶん「そこまでやるか!」と思わず笑ってしまうほどエクストリームなクライマックス・シーンも見所だ。

いっぽうで「昔むかしハリウッドで……」というタイトルが示すとおり、本作には古典的な “おとぎ話” の構造が通低されているのもまた興味深い。すなわち、冒頭でハリウッドに越してくるロマン・ポランスキーシャロン・テート夫妻は──ポランスキーが後にパーティで着る衣装からもわかるように──お城に住む国王と女王(ないし王子と王女)、リックはその城下で暮らす騎士であり、彼のそばにずっと寄り添うクリフは従者なのだ。馬の代わりに自動車を駆り、舞踏会はLP盤をバックに開かれ、女王はお忍びで城下町を視察し、騎士は従者を引き連れてドラゴンを退治するというわけだ*3

もちろん、史実としてはマンソン・ファミリーが妊娠中のシャロン・テートたちを惨殺した痛ましい事件*4があって、ラブ&ピース終焉のひとつの要因ともなったわけで、本作を観終えると快哉を叫びたくなると同時に──タランティーノの近作を観たときもそうだったけれど──、「歴史が本当に映画で描かれたとおりであったなら、ほんのすこしでも世界はより善くなっていたのかな」と切ない気持ちにもなるのだった。もちろん本作のように、現実にはなかなか訪れない「幸せな結末」を語ることこそが物語の力のひとつなのはたしかである。


     ○


◆近未来、海王星軌道上での探査計画中に消息を絶った父の行方と目的を追うために太陽系の果てへと旅立つ宇宙飛行士ロイの冒険を描く『アド・アストラ』ジェームズ・グレイ監督、2019)は、なるほどそういうアプローチで来たか、という意外性のある1作だ。

本作に登場する宇宙服や宇宙船、月面基地や小道具といったプロダクション・デザインの数々、そしてもちろん宇宙空間や惑星の外観の描き方まで、そのルックはあくまでも──本作にも時折オマージュが登場する『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)から連綿と続く──現在の宇宙科学技術を始点に考え得る限りの徹底したリアル志向で統一された、いわばハードSF的なものである。そのため本作において、宇宙空間は無音──宇宙服内に振動で伝わる感触の音声は除く──であり、映像は光陰がバッキリと分かれたハイ・コントラストな感触*5となっている。冒頭、しれっと登場する軌道エレベータならぬ軌道アンテナも、たいへん実在感に溢れる造型だ。

しかし同時に本作の目指すところは、前述のような映画のルックを限りなく活かした、主人公ロイの内面/心的世界の描写にある。行方不明となっている父の捜索というロイの行動を支える動機は、彼が生きるうちに抱えた葛藤の構造そのものであり、太陽から遥か彼方に浮かぶ──深い瑠璃色が美しい──海王星という目的地は、彼の心の奥底(=無意識*6)に沈みこんだ葛藤の在り処にほかならない。そして数々の検閲*7や抑圧が、彼の行く手を阻もうとするだろう。

このように本作は、いかにもリアルな “外宇宙(アウター・スペース)への旅” を描くいっぽうで、同時にロイ自身の内省的で抽象的な “内宇宙(インナー・スペース)への旅” を語っているのだ。喩えるなら、コンラッド村上春樹的な語り口とでもいおうか。ゆえに本作を、予告編で謳われるようなスリリングでアクションに富んだSF活劇として観ようとするなら、おそらく観客は面喰らうことになろう。

ただ、まるで幾何学的で抽象的なデザインのように描かれた光の反射を変容を、宇宙服ヘルメット内からの主観で捉える本作最初の長い長いショットに一瞬映り込むものがなんだったかを思い起こすなら、本作の優れた作劇が染み入ってくる。そう、ロイや観客が知らぬうちに求め、そして帰還する先は、最初から示されている。それこそ、心の拠りどころだなのだ。


     ○


◆イギリスのミュージシャン、エルトン・ジョンの半生を、彼の音楽パートナーであったバーニー・トーピンとの関係を軸に描くロケットマン(デクスター・フレッチャー監督、2019)は、不勉強ながらエルトン・ジョンの人生や楽曲について、ほぼ知識なしの状態での鑑賞だったけれども、心の奥底をグッとつかまれるような美しい説得力を持った作品だった。

劇中で使用された数々のエルトン・ジョンの楽曲は、なんともポップで軽やかで美しいメロディ・ラインがいわずもがなの見事さで、これを劇中にあるように、詩を渡されてほとんど即興で作り上げていったというのだから凄まじい。そういった意味では、本作の白眉のひとつである「僕の歌は君の歌」の作曲シーンのなんとも知れぬ豊潤さには、タロン・エガートンの名演*8も相まって、天性の彼の才の凄みを──そして、その後の人生をついてまわる物悲しさも──体感できることだろう。そのいっぽうでエルトンが抱える様々な孤独感や寂寥感を彼以上に詩として表現してゆくバーニーとの、芸術的には完璧な合致具合でも、一対の人間関係としては互いの求めるところに微妙な差があるがゆえに生じる、愛すれど心寂しい軋轢やすれ違いは観ていて胸を掻きむしりたくなるような切なさに溢れている。

本作で興味深かったのは、本作がエルトン・ジョンの子供時代から現代までを描く伝記的作品ながら、その都度その都度の心象を彼の既存曲を全面に用いて歌い踊るミュージカル*9であるという点だ。特定のアーティストの既存曲だけを使用したミュージカルといえば、ビートルズの楽曲で構成された『アクロス・ザ・ユニバース』(ジュリー・テイモア監督、2007)や、アバの楽曲で構成された『マンマ・ミーア!』(フィリダ・ロイド監督、2008)*10が思い起こされるが、これらの物語はアーティストとは関係のないフィクションの物語であって、アーティスト当人の人生を、しかも人生の出来事や楽曲発表との時系列を混在化させながら描いたというのは、寡聞にして珍しいのではないだろうか。

もちろん本作が、ド派手な悪魔的衣装に身を包んだエルトンが、グループ・カウンセリングの場で自身の人生を回想し、語るというフラッシュ・バックを折々に繰り返す構成になっているのは、このある種の時系列シャッフルを成立させる効果的な作劇だ。すなわち、画面に映し出されるエルトンの人生とは、すなわち過去を振り返る彼の心象風景そのものであることにほかならならず、だからこそのリアルさなのだ。そして、彼が自ら成功と孤独感とのあいだに揺れ動いた人生を語りながら、すこしずつ衣装からも言葉からも──自らを守る鎧としての──虚栄が剥がれてゆき、やがて文字どおり自分自身と向き合って赦しを得るクライマックスには、喩えるならTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督、1995-1996)の最終話にも似た、えもいわれぬ感動がある。

たしかに本作には、僕のようにはじめてエルトンに触れるような観客にも呑み込めるような、ある種の単純化──類型化や史実の単純化など──はあったろう。彼の実際の人生は、もちろん本作のようにガッチリと──構造主義的に──組み上がったものではないはずだ。しかし、作り手たちが見出した彼の人生の核心についての描写には、ある種の真実が宿ったのではないだろうか。だからこそ胸を打つ。少なくとも本作は、映画というメディア、ひいてはフィクションの持つ、それを語り直すこと力強さが、遺憾なく発揮された作品だといえるだろう。


     ○


◆1972年、心霊研究家ウォーレン夫妻の出張中に留守番をすることになった娘のジュディとベビーシッターの女子高生メアリー、そして彼女の友人ダニエラが遭遇する一夜の恐怖を描いた「死霊館シリーズ」最新作アナベル 死霊博物館』(ゲイリー・ドーベルマン監督、2019)は、シリーズ生みの親のひとりジェームズ・ワンのコメント「アナベル版 “ナイト・ミュージアム” になるのさ」が言い得て妙のポップで楽しいアトラクション作品だった。

本作はこれまでのシリーズにも登場してきた、ウォーレン家の地下室にある呪われた収集品用保管室が本格的な舞台になるということで楽しみにしていた。実際に本編を観てみると、本シリーズの顔である死霊人形アナベルをはじめ、呪われたウェディング・ドレスに鎧兜やブレスレット、ボードゲームからモンキーシンバルなどなど、保管室の棚にヤマと詰まれたありとあらゆる悪霊が一気呵成に──といいつつ、ターン制で──攻めてくるので、若干話運びに雑な部分は多いけれど、驚かし演出やサスペンス演出といったホラー描写が見世物市のように手を変え品を変えポンポン飛び出して来てキャアキャアと楽しく怖がることができるだろう。

といいつつ、本作の白眉はやはり前半部にある、本作の怪奇現象の元凶となってしまうダニエラの行動だ。亡き父への想いから霊界に通じたいとコッソリ保管室に忍び込んだダニエラが、これに手を触れ、その戸を開き、あの封を切り……と、踏まんでもいい布石をことごとく踏み抜いていくシーンは、まだホラー演出が始まってもいないのに恐ろしくサスペンスフルで引きつった笑いすら漏れそうだった。

シリーズ恒例となった悪魔祓いシーンは本作にももちろん健在。その方法も有効なのか、と思いがけず得心したシーンもあったり、なによりも主要登場人物が少女3人──今回ジュディ*11を演じたマッケナ・グレイスがすっかり大きくなっていた──というのも相まって、なんだかTVドラマ『来来! キョンシーズ』(朱克榮、周彦文監督、1988)もかくやの可愛らしいポップさもあって微笑ましいし、これまでのシリーズと同様、最終的には足取り軽く劇場をあとにできるホッコリしたエンディングも嬉しい。

来年本国公開が予定されているシリーズ最新作『The Conjuring 3(原題)』(マイケル・チャベス監督、2020)も楽しみだ。


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【ソフト】
◆エネルギー危機解決のために各国から集められたエンジニアたちが宇宙ステーション「クローバーフィールド」での実験中に起きた不可解な現象に遭遇するシリーズ第3弾クローバーフィールドパラドックス(ジュリアス・オナー監督、2018)は、題材やキャスト、プロダクション・デザインや音楽など申し分ないものの、本作の肝である “問題発生とその解決” にまつわる前振りが決定的に足りない1作であった。一事が万事、いま解決すべき問題がどのような困難を抱えているかのネタ出しが不十分ために、行使される問題の解決方法に合点がゆきにくいという悪循環に陥っている*12。惜しい。


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◆ひと気のない海岸沿いの湿地帯に突如発生した「シマー」と呼ばれる異常領域に足を踏み入れた調査隊が体験する恐怖を描いたジェフ・ヴァンダミア原作のアナイアレイション -全滅領域-アレックス・ガーランド監督、2018)は、遺伝情報の突然変異によって様々な動植物がない交ぜになった悪夢のようなシマー内の風景とクリーチャーの無気味な美しさを堪能できる一作。水面に張った油膜に光が反射したようななんとも知れぬきらめきを放つシマーの境界面をはじめとした色彩設計も美しく、ほとんどグリーンバックに頼らず実写で撮影された映像も相まって、たしかな手触りのある異世界表現に仕上げているのが素晴らしい。本作に登場するクマの恐ろしさは格別なので、ぜひ観てみたい。


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【TVアニメ】
◆記憶喪失で目覚めた高校生・響祐太がコンピュータ内に存在するグリッドマンと合体することで、突如として街に現出した怪獣と闘うことになる『SSSS.GRIDMAN』(雨宮哲監督、2018)は、第50回星雲賞メディア部門受賞も納得の見事なSFシリーズだった。

もちろん巨大ヒーローに怪獣の数々──ソフビ感溢れるデザインが素晴らしい!──、そしてアスファルトはじけ飛ぶ “ガイア着地” などなど、個人的好物がたくさん盛り込まれていたのも嬉しいし、精緻な背景美術や安定した作画と演技によって得られた画面の実在感も素晴らしい。なにより本作が “そういう” 展開を経るとは夢にも思っていなかったので、第1話の時点でかなり虚を突かれて惹き込まれたし、それでいて “そういう” 展開を “こういう” 見せ方で “ああいう” 着地を見せるというのは、なるほど最新アップデート版ともいえそうな構成や顛末──それゆえに、バンクの使用さえ、ある種の説得力を獲得している──、ソリッドな演出など新鮮で見応えがあった。

主人公・響祐太や、彼を支える内海将、宝多六花、新条アカネといったメイン・キャラクターたちもそれぞれ魅力的だ。そして、本作を “そういう” 点から思い起こすなら、なるほど彼らのキャラクター・デザインの細部にもイチイチ納得だ*13。お見事。


     ※

*1:代表例はスティーブ・マックィーンと専属スタントマンだったバド・イーキンズ、バート・レイノルズハル・ニーダムの両コンビやクリント・イーストイッドなどが挙げられるだろう。しかし、リックは彼らのようになれなかった人物なのだ。

*2:あと、スティーヴ・マックィーンをリック・ダルトンに置き換えた──そのほかは実際の本編映像である──『大脱走』(ジョン・スタージェス監督、1963)のマッチしてなさ具合も最高だった。

*3:そして、そのささやかな褒美として、お城で開かれる晩餐会に騎士は招かれるのだ。

*4:しかもマンソンが本来標的にしていたは前に同邸宅に住んでいたテリー・メルチャー──本作前半でチラリと名前だけ出てきた──であり、彼女たちが亡くなったのは完全に不条理としかいいようがない。しかも、メルチャーがマンソンのレコードを出してくれなかったための逆恨みという、なんともチンケな動機なのがいたたまれないし、かといって自ら手を下そうとしないあたりが本当にもうね……。本作に不満があるとすれば、マンソン自身に天誅が降らなかった点だろう。

*5:撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマの仕事が相変わらず美しい。

*6:フロイト的に考えるなら、無意識が無時間的な領域なればこそ、トミー・リー・ジョーンズ演じるロイの父は10数年もあの閉鎖空間で生きながらえてきたのだ。

*7:たとえば冒頭で、ロイが軌道アンテナの外部設備メンテナンスをしている際に海王星から放たれる強大な電波サージは、彼の無意識から発せられたものが変形したものだ。

*8:本作では、彼が歌唱も担当している。

*9:既存曲で作り上げられたミュージカルを、ジュークボックス・ミュージカルと呼ぶ。

*10:もとは舞台作品。

*11:これまで彼女を演じたスターリング・ジェリンズは、本作の位置する時系列──1971年が舞台の『死霊館』(ジェームズ・ワン監督、2013)直後であり、1977年が舞台の『死霊館 エンフィールド事件』(同監督、2016)よりも前──のためいったん降板。

*12:あと、オチね。ありゃあいくらなんでもでかすぎやしないかい?

*13:予備知識なしで観たため、六花ママがはじめて画面に登場したとき、見た目から声からハルハラハル子みたいだなと思ったら、担当声優が新谷真弓ということで、そのまんまだったのは面白かった。思い返せば、本作にはちょっとOVAフリクリ』(鶴巻和哉監督、2000-2001)を思わせる部分もある。

2019 8月感想(短)まとめ

2019年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
飼い主のケイティが結婚して誕生した男の子リアムを自分の子供のように思う小型犬マックスの冒険を描く『ペット2』(クリス・ルノー、ジョナサン・デル・ヴァル監督、2019)は、映画のルックがそうであるような軽やかで可愛らしい作品だった。

前作『ペット』(クリス・ルノー、ヤーロー・チーニー監督、2016)に引き続き、マックスやその相棒である大型犬デュークといった動物たちのデフォルメされたデザインと、戯画化──そして適度に擬人化──された動作との按配がじつに愛らしく、犬や猫、あるいは乳児のこういうところが可愛いんだよなと思い出すかのようだ。また、そんな彼らに合わせて設定された背景美術のポップなデザインや色使いの暖かさ──さんさんと照らす陽光を反射する摩天楼の美しさ!──と、バンド・デシネのコマ割りを思わせるようなとてもシンプルな画面レイアウトとが相まって、まるで小さな箱庭を眺めているような楽しさを味わさせてくれるだろう。ジャズの風味を効かせたスコアも心地よい。

たしかに、本作は脚本にいささか難がある。本作の脚本は、①マックスとデュークが家族と田舎に旅行する件、②マックスのガールフレンド犬ギジェットが、彼から預かったボールを巡って冒険する件、③自分をヒーローだと思い込むウサギのスノーボールが、囚われのホワイトタイガーを救い出そうする件……という3本のストーリー・ラインを同時進行で見せる構成になっており、一応クライマックスで3者は合流するものの、それぞれがそれぞれに独立したテーマを内包していることもあって、そこまで有機的には噛み合わないし、キャラクターの掘り下げも中途半端に終わってしまったのは否めない*1 *2。子を思う親の心境となった非人間が主人公であることからどうしても思い出される『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)の脚本のようにスキなく組み上げられているわけではないし、マックスとデュークが相棒になるまでという主軸を持った前作と比べても、本作の空中分解寸前とさえ思える脚本の弱さは露呈してしまっている*3

ただいっぽうで、マックスたちはあくまで「動物」を戯画化したキャラクターであるという線引きは明確になされていて、そもそも彼ら自身が──もはや「人間」のキャラクターであるウッディたちと違って──そこまで深刻になりようがないため、彼らの特徴をそれぞれ活かした可愛らしい大小さまざまギャグを連発する様子を笑って観ているぶんには、そこまでお話部分のスキや粗がノイズになることもなかった。むしろ、彼らが辿るほんのささやかな冒険とほんのささやかな変化を描く本作の──決して堅苦しくなく、偉ぶるでもない──軽やかさこそが本作の魅力なのではないだろうか。

最後に、本作で僕がもっとも気に入ったところを挙げるならば、なんといってもウサギのスノーボールだろう。前作では人間に復讐を誓う捨てられペットのギャング団のリーダーだった彼が、そのラストで本作の飼い主と出会い再びペットになったことで、困っている動物を救うスーパーヒーロー──と思い込んでいる──へと華麗に転進をきめた彼の一挙手一投足が、もう可愛くて可愛くて。いちばん擬人化されたキャラクターというのもあるのだろうが、アクションも大きく見せ場も多いのでたいへん笑わせてくれるし、日本語吹替え版にて彼を引き続き演じた中尾隆聖のキレッキレで見事なパフォーマンスも素晴らしい。

パンダッ☆-(ノ゚∀゚)八(゚∀゚ )ノパンダッ☆!


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◆元アメリカ外交保安部捜査官ルーク・ホブスと元MI6諜報員デッカード・ショウがタッグを組み、世界滅亡に繋がる殺人ウィルス「スノーフレーク」を巡って悪と闘うワイルド・スピードスーパーコンボデヴィッド・リーチ監督、2019)は、『ワイルド・スピード』シリーズが回を追うごとに増えるレギュラー・キャラクターと各々の見せ場によって、ある種のゴシック様式的な様相を呈している──それでもなお、過不足なく、ちゃんと自動車アクション大喜利を踏まえてきちんと作り切ってみせるのがエラいところ──のに対し、本作では番外編ということで登場人物の数をスッキリと人員整理したことで、たいへんシンプルな──なんなら本作から観ても問題ない──バディ冒険活劇映画として楽しめる1作となっている。

本作は、ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムという世界でもトップクラスに信頼の置ける筋肉ハゲ俳優たちが、ハゲしく罵りあいながらハゲしく悪を殴り倒してゆくのがすべて、といえるほどにふたりの息の合ったコンビネーションが楽しめる。一点突破型の重い打撃重視のジョンソンに、素早く効率的に立ち回って数をこなすステイサムという両者のアクションの描き分けも楽しく、この真逆のアクションの方向性がいかにして融合するか、というのが本作のいちばんの見所だ。また、本作から参戦した──あるいは、ふたりの睦みあいに割って入る──ショウの妹(いたのかよ!)ハッティを演じたヴァネッサ・カービー、変形自在の自走型オートバイを駆る悪の改造人間ブリクストンを演じたイドリス・エルバらの画になりっぷりも素晴らしい。

もちろん近年のアクション映画の傑作『ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキと共同監督、2014)、『アトミック・ブロンド』(2017)、そして『デッドプール2』(2018)を手がけたリーチ監督らしくアクションの見せ方は秀逸で、たとえば高層ビル内にあるオフィスでの攻防から一気に窓を破って壁を地面まで駆け下り、続けざまにカー・チェイスに突入するという前半のロンドンでの一幕のように、横移動と縦移動を巧みに組み合わせた立体的なアクション構築を、全篇に渡って楽しむことができるだろう。またクライマックスにおいて──正直、ヤンキー母校に帰る的展開は心底どうでもよかったが*4──ホブスの故郷であるサモアの地域性を前面に出したアクションも面白かったし、ムカデ人間もかくやの荒唐無稽な自動車アクションも見事な説得力を保っていたし、雨降りしきるなか展開される顔面パンチ合戦で乱発されるバレット・タイムにも大いに笑った。

もちろん、ほとんど機能していないタイムリミット・サスペンスを筆頭に突っ込みだしたらキリのない脚本ではあるし、デッカード・ショウの “前科” 問題は依然くすぶっているし、尺がもうすこし短ければなと思うところもいろいろあるけれど、そういったこともゴリ押しで吹き飛ばすに足る豪快な作品だ。


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◆冬の戦車道大会「無限軌道杯」初戦にてBC自由学園チームに苦戦する大洗女子学園チームの闘いの行方を描くガールズ&パンツァー 最終章 第2話』水島努監督、2019)は、遊戯としての戦車チーム対決の映像的、そしていかにして勝つかというロジック込みの面白さと、立体音響で鳴り響く砲弾と履帯とエンジンの唸りが相変わらず──というか、さらにブラッシュアップされて──楽しい1作だ。

いちおうOVAでもある性質上、今回もじつにいいところで終わってしまい「続きは来年……観られるのかしらん?」と思ったりもしたが、いっぽうで上映時間が56分と短いぶん、見せ場をきっちりと盛り込みつつも、ドラマ部分が『劇場版』(同監督、2015)*5にあったように間延びをすることもなくサクサク進んで爽快だ。

それにしても、本シリーズは2D手描きアニメ(一部3DCG使用)におけるPOV描写の実験場となっているところがあって、隙あらば多種多様な主観映像を本作では前作『第1話』(同監督、2018)以上に使用している。臨場感溢れるそれらの映像を映画館のスクリーンで観ていると、まるで遊園地のライド──いみじくも本作にも、『劇場版』から改修された「ボコランド」のアトラクションとして登場するが──に乗っているかのような楽しさへと観客を誘ってくれることだろう。また、走行/戦闘中の戦車から身を乗り出したキャラクターの芝居やアクション、髪や衣装のはためきが豊富かつ細やかに描き込まれており、さらにこれを前述したようなPOV的カメラワークと組み合わせてくる*6ので、たいへん情報量が多くて目に楽しく、じつにコマ送りをしたくなる衝動を生む作品であった。

お約束なので、ガルパンはいいぞ、それなりに、とひと言書き添えておこう。


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◆動物たちの暮らす楽園プライド・ランドを統べるライオンの王の子として誕生したシンバの冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作と誉れ高い長編アニメーションをフルCGでリメイクしたライオン・キングジョン・ファヴロー監督、2019)は、ひとまず「こんな映像観たことない」と驚くことはたしかな1作だ。そして同時に、元々内包されていた問題点がより浮き彫りになった作品でもある。

とにもかくにも、もはや実写と見紛うばかりに作り込まれたライオンをはじめとする各種動物たちの体毛や皮膚、そして筋肉といった質感表現は凄まじいのひと言。フルCGで描かれた実写的なリアリティ・ラインでありながら人間がいっさい登場しない画面──加えて、恐ろしくリアルな動物たちが英語台詞に合わせてリップ・シンクするのだから──は、これまで観たことのない感触だ。強いて近い感触の作品を挙げるなら、『ダーククリスタル』(ジム・ヘンソンフランク・オズ監督、1982)だろうか*7

ただ、動物描写を限りなく実写的にしたために、オリジナル版(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994)よりもアクションやギャグといった動きの振れ幅や、個々のキャラクターの視認性、それによる見せ場の作り方や色彩表現に制限が生じてもいたので、本作の採用したリメイクの手法は、一長一短といったところだろうか。オリジナル版にあった象の墓場での見せ場が大幅に削られていたのは残念。

さて、本作の物語は、多少の差異はあれどオリジナル版にほぼ忠実だ。本作の持つ物語構造は、高貴な血筋に生まれついた少年ないし青年がやむなく故郷を追われながらも、冒険や仲間との出会いの果てに帰還して本来の王座に就くという、神話/物語史のなかで連綿と再生産されて語り続けられてきた、いわゆる貴種流離譚と呼ばれるものであり、これを丁寧になぞった本作の筋立ては、もはや人間の遺伝的に問答無用で盛り上がるものだともいえよう*8。つまらないわけはないし、それほど強固な物語構造を持ったシナリオなのだ*9

ただ同時に──これは元々のシナリオの問題点であり、ここにこそ僕がずっと違和感を抱いていた核心があるのだけれど──本作をはじめとする一連の『ライオン・キング』の世界観を支える「生命の輪(サークル・オブ・ライフ)」に用いられるロジックには、若干のヤダ味や欺瞞感が相変わらずどころか、本作ではさらに説明が若干追加されているので余計に残っている。つまり本作が立脚するのは、ライオンを百獣の王として──そのほかの動物が頭(こうべ)を垂れて跪(ひざまず)く描写などが示すように──動物の種類によって明確に “優劣” が決定されているという世界観なのだ*10

そんななかで本物のようにリアルな動物たちが──ドキュメンタリーならまだしも──いかにも人間的な物語を人間のごとく演じるのであるから、ここにある種の優性思想が見え隠れしているように思えてならないのである。この優性思想が、かつて──いや、今日(こんにち)の世界中においてすら──危険で愚劣な蛮行をもたらしているか、詳しく説明することもあるまい。

さらに付け加えるなら、前述したとおり本作における動物たちは多分に人間の戯画化した存在であり、ここにおいてライオンや肉食獣がシマウマなどの草食獣を “食い物” にしていること──そして、それが是であるとしていること──に、様々な暗喩を読むことは不可能ではない……というか漏れ出ている。ゆき過ぎた自由主義経済社会における格差、いまなお現実世界を蝕み続ける性差別や人種民族差別などなど、様々にある正されるべき問題について逆行するかのような、ただただ強者──あるいは、そう思い込んでいるだけの阿呆──の自分本位な危うい思想が透けて見える。

本作ではとくに、オリジナル版の手描きアニメーションとしてディズニー的戯画化の施されたリアリティから、ひと足飛びに実写的リアリティのラインに映像が高まったことで、これらの問題点がより前面に押し出されることになった。

もちろん、うまく隠し通せばよいということではない。むしろ、より前景化してしまったことにこそ、本作の意義があったというべきだ。それにしても、なにゆえ『ライオン・キング』がこのような危うさを──意図してか意図せずしてか──内包し、観客はこれに熱狂してしまったのだろうか。あるいは、オリジナル版が公開された1994年当時の──『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督、1994)*11がアカデミー作品賞を獲ってしまうような──反動的な空気感が、そうさせたのかもしれないけれども。人間の無意識的欲望の無気味さに身震いする。


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【ソフト】
◆英国イチのボンクラ諜報部員が三度(みたび)世界を救う『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』(デヴィッド・カー監督、2018)は、ローワン・アトキンソンによる安定の芸で始終クツクツと笑わせてくれるし、ハワード・グッドールによる劇伴も無闇にかっこいい。それでいて現代日本にもじゅうぶんあり得るべきゾッとするような危機を描いているあたり、コメディとしても切れ味バツグンだ(オカミがバカだと大変だよね)。そして字幕翻訳はもちろんのこと、在りし日の民放洋画劇場を髣髴とさせる素晴らしい翻訳と岩崎ひろしらのアドリブ感溢れる演技が堪能できる日本語吹替え版は必聴だ。


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◆太平洋横断超特急マリンエクスプレス」の開通披露走行に集った私立探偵ヒゲオヤジこと伴俊作たちの思惑が交錯する手塚治虫によるTVM『海底超特急 マリンエクスプレス出崎哲監督、1979)は、手塚漫画らしいユーモアと後年の『アトミック・トレイン』(D・ジャクソン、D・ローリイ監督、1999)ばりに後半で突然ジャンルが変わる乗り物パニック感が合致した楽しい作品だ。


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◆マッド・サイエンティストの実験によって生まれたバイオロイド兵士がジャッキー・チェンを襲う『ポリス・ストーリー REBORN』(レオ・チャン監督、2017)は、観ながら「えっ、SF?」と面喰うし、トロンかダフト・パンクかというような敵兵部隊の衣装はどうかと思うし、アバン・タイトルの見せ場がいろんな意味でピークだったかなとか、いろいろ思うところは多分にあるけれど、ジャッキーの年齢以上のアクションの動きとサービス精神に「ジャッキー、楽しい映画をありがとう」となる作品だ。


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*1:新キャラクターのデイジーの飼い主はどんな人物なのかまったく見えてこない──すわ、まさかジョン・ウィックか!?──し、いくらなんでもクライマックスにデューク不在はまずかろうと思う。

*2:ハリソン・フォードがはじめて声優として登板したという牧羊犬ルースターは、ぜひ原語版でも聴いてみたい(近所の映画館では、日本語吹替え版しか上映がなかった)。 内藤剛志による吹替えも悪くなかったけれど、せっかくのフォード初登板なのだから、ここは耳に馴染んだフィックスの村井国夫磯部勉あたりにアテて欲しかったなァと思わないでもない。

*3:まあ、前作でもかなり強引なところはあったけれど。クライマックスのバスとか。

*4:だってルークはなんにも悪いことしてないじゃないか。

*5:備忘録: 『ガールズ&パンツァー 劇場版』感想 - つらつら津々浦々(blog)

*6:自身が指揮を執るS35から身を乗り出した安藤(BC自由学園)のうしろにカメラが乗っている体(てい)で、彼女が左右や後方の確認と指示を繰り出しながら、それに従ってS35が延々と後進し、転進する長い1カットはとくに印象に残っている。

*7:監督名を見てもわかるとおり、架空の──人間のいない──ファンタジー世界の住人を、ほとんどすべてマペットアニマトロニクスで作り上げた作品だ。

*8:古くは『オデュッセイア』に “スサノオの神話” から “モーゼの物語” もそうだし、古英語の研究をしていた言語学者J・R・R・トールキンが著した『指輪物語』(1954-1955)──とくに馳夫(ストライダー)として身を落としたアラゴルンを巡るくだり──もまた、紛うことなき貴種流離譚の一例である。 ▼時代は下って映画作品でもさんざん援用されてきた。もちろん代表例としては、ムファサ王役のジェームズ・アール・ジョーンズダース・ベイダーの声を演じた『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、1977)にはじまるシリーズが挙げられるだろう。そもそもルーカスが、神話の体系をまとめたジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』を読んで作ったのが……(長くなるので割愛)。 ▼余談だが、この貴種流離譚的物語構造を現代的にアップデートした最近の成功例としては『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュボア、 クリス・サンダース監督、2010)がそうだろう。本作がいかに現代的な物語の回答を示したかは実際に本編を観ていただくとして、簡単な構造分析をしておくなら、主人公の少年ヒックはヴァイキングが暮らす島の族長の息子でありながら、頭はいいが弱々しく変わり者のために居場所がない。つまり彼は心理的に里を追われることで、やがてトゥースというドラゴンの相棒を得、これまでほかのヴァイキングが考えもつかなった道を切り開き、民を導く王としての成長を遂げてゆくことになる。

*9:だから、撮影と編集もカッチリしていて、もっともわかりやすいのが、玉座へ向かう動物たちの動きの方向だ。王を称える側は、画面左から右へと移動し、辞去する際には右から左へと向かい、王族のシンバは玉座に向かう際、そして玉座から流離する際に彼らと反対の動きをたどる。

*10:これは、たとえば同じく多種多様な動物たちだけの世界で語られたディズニーの『ロビン・フッド』(ウォルフガング・ライザーマン監督、1973)とは大きく異なるものである。そして付け加えるなら、後述する『ライオン・キング』的世界観の問題を後に乗り越えようとしたのが、『ズートピア』(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2016)だったといえよう。

*11:フォレスト・ガンプが聖痴愚であること隠れ蓑に、公民権運動やカウンター・カルチャーの歩みを排除した非常に保守的で白人至上主義的な戦後を再構築し、しかもそれを原作がある種ナンセンスなユーモア小説であるにも関わらず感動大作として仕上げてしまった問題の多い作品だ。公開当時、映画で描かれるフォレストが、政府のいうことに──純粋であるがゆえに──疑うことなく従い、それゆえに成功してゆく様子をこそ、真にアメリカ人的であるとして、共和党の選挙キャンペーンの引き合いに出されたりもしたのだ。町山智浩『最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで』(集英社、2016)などに詳しい。

2019 7月感想(短)まとめ

2019年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
アベンジャーズの決死の活躍によってサノスの野望が砕かれ、徐々に世界が平穏を取り戻しつつあった夏、クラブの修学旅行でヨーロッパに向かったピーター・パーカーがまたもや世界の危機に直面するスパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2019)は、続編として、なにより娯楽映画として申し分ない見事な作品だった。楽しい、というのは本作のようなことをいうのだ。

本作は、まずなにより画面が楽しい。ヨーロッパ各地に二転三転するロケーションの変化が鮮やかなので観光映画としても楽しめるし、そんななかを暴れる敵の巨大さもあって、まるで怪獣映画を観ているかのような面白さにも溢れている。もちろん見せ場のアクション構築も素晴らしい。ロケーションや物語上重要となる装置群を使った立体的な舞台立てのなかを文字どおり縦横無尽に跳びまわるスパイダーマンの活躍は手に汗握る迫力があるし、これを切り取るカメラ・ワークと編集は、VFXとの相乗効果もあって躍動感に溢れつつも適確で判りやすいものとなっており、まるでピーターと一心同体となったかのような臨場感に満ちている。また、「親愛なる隣人」ことスパイダーマンの面目躍如ともいうべき人命救助描写も多いので、アクションがとてもエモーショナルなのも好印象だ。

もちろん、前作『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)以降の世界の様子を手短にかつ面白おかしく伝える冒頭からスタートする、ヨーロッパへ訪れたピーターを取り巻くコメディチックな青春ドラマ・パートも秀逸だ。人種性別宗教多種多様な生徒が所属するクラブの修学旅行風景は実に楽しそうだし、気の置けない親友ネッドとの相変わらずのコンビぶりや、MJとのひどく不器用でもどかしいけれども誠実なロマンスは、観ているとなんとも幸福な気持ちになる。また、ある種の父親代わりだったトニー・スタークから贈られた超高性能A.I.バイス付きサングラス「イーディス(E.D.I.T.H.)」を巡る顛末は、まるで藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に登場する小噺のような毒っ気のある可笑しみに満ちている。

こういったささやかな幸せに溢れた日常描写に、本作がヒーロー映画であるがゆえにピーターが巻き込まれてゆく様々なトラブルや葛藤、そして彼なりのヒーローとしての成長を盛り込んだ脚本のバランス感覚も適確だ。とくに本作のヴィランの持つ、その虚構(フェイク)性こそが真の悪であるとする設定は、まことに今日(こんにち)の世相を反映しているようで興味深いし、それによって寄って立つ現実感を喪失するピーターの恐怖は、想像するだに恐ろしい*1。また、シリーズ前作『ホームカミング』(ジョン・ワッツ監督、2017)に引き続いて描かれた、身に余るほど強大な力との付き合い方を、ピーターが自分なりに模索してゆく姿は──彼を見つめる、かつてスタークの右腕だったハッピーの優しい視線も相まって──感動的だ。

その他、そのクリフハンガーはズルいとか、開いた口が塞がらなかった驚愕のオチなど色々あるが、笑いとスリルと感動に満ちた本作は、久々に心から「楽しい!」と思える作品で、たいへん満足だ。


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◆貧しくとも心優しい青年アラジンが魔法のランプを手に入れたことで辿る冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作長編アニメーションを実写リメイクした『アラジン』ガイ・リッチー監督、2019)は、いろいろアップデートされている──否、しようとしたのはわかる──けれども、いささか分の悪い勝負だったのかしらん、といった残念さが目立つ作品だった。

たしかに手描きアニメでは不可能だったろう絢爛豪華で複雑な模様を施された登場人物の衣装や宮殿といったデザインや、メインの舞台となるアグラバーの雑多な町並みは見応えがあるし、パルクールを用いた上へ下への追走シーンや、現在のVFX技術ならではの魔法の絨毯の質感や小猿アブーら動物の実在感は見事なものだ。とくに、本作において、よりいっそう強い独立心とリーダーシップ性を付加された王女ジャスミンのキャラクターは、実に今日的な改変として素晴らしい点だろう*2

そういった具合に、本作はオリジナル版『アラジン』(ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督、1992)に今日としては不足である部分を改良しようとはしている。しかしながら、本作ではむしろオリジナル版にあった美点を削いでしまった点のほうが多い。

とくに残念だったのは脚本の練り不足。本作ではオリジナルの脚本にかなり手を入れており、物語の展開の仕方や見せ方、そして見せ場の数が大きく異なっている。前述のジャスミンのキャラクター性の変化もそのひとつであるが、それらの要素それぞれは悪くないものの組込み方がかなり雑で十全には活かしきれておらず、取ってつけた感が甚だしい。また、同時に物語の展開のさせ方──たとえば、開幕直後に「彼」を出すのはいかがなものかと思うし、オープニング・クレジットのおざなり感も非常に残念*3──や、キャラクター描写などが呑み込みづらくなっている点は否めず、キャラクターによっては描写がハッキリ薄くなっている人物すらある。空間や世界観もむしろ狭まった感もあって、見せ場の「ホール・ニュー・ワールド」のシーンですら、中途半端に画面が暗く色彩にも欠くので、いまいち解放感に乏しいのだ。

これはなんとなれば、キャラクターの描写を含めた脚本とプロット構成の無駄がなくテンポのよい適確な展開、空間的拡がりの見せ方からアクションやミュージカル・シーンの構築まで、ハッキリ言ってオリジナル版が完璧だというほかない。そういう意味では、本作の出た勝負は分が悪かったのかもしれない。本作の上映時間が128分なのに対してオリジナル版は90分だという点からも、推して知るべきだろう。それほどまでに本作はマゴついているのだ。

過去作とまったく同じものを作ってくれなんていうつもりは毛頭ないのだけれど、それでもオリジナル版の様々な美点を殺さずにより現代的にアップデートする方法は、まだまだあったはず。アラジンが空気を読めない言動を重ねてしまって一同が──カメラも含めて──引きまくる、といったリッチー監督らしいギャグ・シーンなど、好きなところもけっこうあっただけに、いささか残念だ。


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◆かつての持ち主アンディにはいちばんのお気に入りだったウッディが新たな持ち主である少女ボニーになかなか遊んでもらえないなか、彼女は先割れスプーンで自作した「おもちゃ」をフォーキーと呼んで大切にしはじめるトイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)は、前作『3』(リー・アンクリッチ監督、2010)において、たしかにウッディとアンディの物語は終わったが、語られるべき、そして救われるべき魂はここにまだあったのだと思わされる見事な作品だった。

なにをおいてもまず驚かされるのが、第1作『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター監督、1995)から4半世紀余りを経て進化・熟成されたCG技術によって徹底して作り込まれた画面だ。ウッディやバズたち御馴染みのおもちゃの面々を形作るの原材料それぞれ──ゴムやプラスティック、編み込まれた布地につややかな陶器などなど──に異なるテクスチャの描き分けはもちろんのこと、揺れる草むらの波、夜露に濡れるアスファルト、降りしきる雨水に照り返す家の灯りといった自然──しかも、おもちゃの視点から映すので、よりいっそう大きく作る必要がある──の情景にいたるまで、微細にかつリアリスティックな──しかし、あくまでもCGアニメーション調であることにもこだわった──設定が施された質感表現の機微には舌を巻く。

そして、この映像技術の進歩あってこその光/照明演出の機微にもぜひ注目したい。もっとも観客の目を引くであろう、ウッディたちが迷い込む骨董品店「セカンド・チャンス*4」に飾られている色とりどりの照明が、窓から差し込む夕陽に反射して万華鏡のように店内を彩るシーンの美しさ──話題が重複するが、『2』(ジョン・ラセター監督、2000)以来の登場となった本作の実質的なヒロインである陶器人形ボー・ピープの肌の表面で滑らかに反射する光による質感表現も素晴らしい──には嘆息したし、そのほかにも、ちょっとした光源の移動や、むしろしっかりと暗闇に落とし込まれた陰影によって醸されるキャラクターたちの感情表現にもハッとさせられる。

また、ウッディが、彼の新たな持ち主となった少女ボニーの工作によって誕生したお気に入りの「おもちゃ」フォーキーや、たくましく自立したボー・ピープたちとの冒険や問答を経て辿る本作の物語も感動的だ。自分がこうだと思っていた自身の “役割” ──アンディからボニーに継承されたおもちゃになることや、その他のおもちゃのリーダーとしてふるまうこと──に無意識に固執するばかりにウッディが悩み苦しむ姿には胸が痛んだし、それがすでに自分のものではないと気づいたときに見せる──そして、自分の “中身” を差し出すことを決意したときの──彼の表情が語る言語化し得ない感情のうねり、そしてラストで彼が選び取った次の人生に向けてみせる晴れやかな、しかしすこしのせつなさを伴った表情を見たときには非常に胸を打たれる*5

本作の特報──アンディの部屋に施された青空の壁紙を背景に、輪になって踊るウッディたちをスローモーションで映した──において使用されたジュディ・コリンズ歌唱の楽曲「青春の光と影」(Joni Mitchell, Both Sides, Now, 1967)が、最恐ホラー『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督、2018)の主題歌だったことが一部で話題になったけれど*6、たしかに本作は人生におけるひとつの “役割” が終わったときに訪れるべき継承と、同時にそこからの脱却とを描き切った──しかもエンタテインメントとしての間口は相当広い──力作だ*7


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【ソフト】
◆米ソ緊張の果てに勃発した核戦争に巻き込まれた英国と、その後を描くBBC制作のTVM『SF核戦争後の未来・スレッズ』ミック・ジャクソン監督、1984)は、時折『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督、1957)を思わせる寒々しいカメラ・ワークや、フッテージ・フィルムと特殊撮影を用いたドキュメンタリックで冷酷なまでに淡々とした編集によって、ささやかな日常が脆くも崩れ去った挙句に地獄が訪れる様を映し出す、とても怖ろしい恐ろしい、背筋が心底ゾッとする見事な作品だ。米ソ冷戦が終わったからではなく、つねに──いまだからこそ、なお──我々が陥りかねない事態を思い起こさせてくれる。必見。


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*1:それは現実社会の鏡像であると同時に、ピーターは映画のなかにヒーローを求めてやまないわれわれ観客の似姿でもあるだろう。本作はそこかしこに、物語やフィクションについて鋭い視点を投げかけている。

*2:ただ、どういうわけだか本作において彼女の運動能力はオミットされている。また、本作の見せ方だと、ジャスミンがアラジンと出会うきっかけが、オリジナル版での突発的な家出というよりも、彼女は日常的に宮殿から抜け出して町を見て回って──次期国王としてより善い治世をおこなうための視察をして──いるようにしか映らず、となれば後半の「わたしは世界を本でしか知らない」という旨の台詞が矛盾して聞こえてしまってはいまいか。彼女のために書き下ろされた新曲「スピーチレス~心の声」が素晴らしかっただけに、非常にもったいない。

*3:商船の船長らしきウィル・スミスが自分の子供たちに「昔々……」という具合に挿入歌「アラビアン・ナイト」を歌い始め、その歌詞の合間合間にアグラバーの昼間の町並みと、既にどういうわけだか雑踏に紛れているアラジンとジャスミン、そして秘密の洞窟がいきなり「ダイヤの原石をーっ!」と叫んで見ず知らずの盗人をバクッとやる様子を擬似的な1カット処理風に映すのだが、文脈がまったくないので恐ろしくあやふやな印象しか与えない。オリジナル版の、当時としては最先端のCG技術を用いつつ、夜のアクラバーの路地をカメラが──いまから思えば、完全にPOV風に──奥へ奥へと入ってゆき、「アラビアン・ナイト」のサビの部分で画面いっぱいに美しい宮殿が映され、やがて曲の静まりとともに裏通りの屋台に行き着き、そこの親父が観客に向かって行商を始めつつ、魔法のランプのいわれを話し始めて本筋がスタートするという、この流れるように観客をまずは架空の国アグラバーへ、そして次に昔話の世界へと誘うオープニングとは比べる由もない。

*4:ウッディたちがここで出会うこととな本作の重要キャラクターのひとりギャビー・ギャビーの、取り巻きを従えつつ醸す “オタサーの姫” 感と、同時に永年持ち主を求めて暮らすいじらしさが最高の按配だ。取り巻きベンソンの最後の活躍にも涙。

*5:もちろんバズや、CMとは違ったばかりに持ち主から捨てられたデューク・カブーン──彼と一緒にラストのピクサー・ロゴに登場する白いコンバット・カールの顛末にも涙──、縁日の景品となっているぬいぐるみタッキー&バニーたちを巡る物語の面白おかしさと、その作劇の周到さも見逃せない。

*6:予告編で使用されたザ・ビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」(Tony Asher & Brian Wilson, God Only Knows, 1966)もまた、本作を観てみるとなるほどな選曲だ。

*7:ピクサー映画恒例である「ピザ・プラネット」などのイースター・エッグにはほとんど気づけなかったのだけれど、ピクサー作品ではもっとも好きな『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター監督、2009)に登場する「エリー・バッジ」が映ったときにはグッときました。