2021 9月感想(短)まとめ

2021年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆近未来、専用機器で記憶を再体験させる稼業を営むニックが、運命的に出会い、そして愛し合ったニナの失踪の謎を探る『レミニセンス』(リサ・ジョイ監督、2021)は、フィルム・ノワールの耽美さを堪能できる1作だった。

本作でまず目を惹くのが、その都市描写である。本作の主な舞台は、地球温暖化が原因で地上が半水没した近未来のマイアミである。かつてのビル群が水面からそびえて離れ小島のような区域を形成し、そこに干拓や橋を増設することで都市としての機能を保っている。主な移動手段は自動車に代わって船となっていて、アメリカ的な街並みはそのままに、まるでベネチアや『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』(押井守監督、1995)に登場する香港を思わせるインフラ描写という組み合わせが新鮮だ。

また、この半水没した都市の水位によって、その世界の格差を描いてみせるのも上手い。ごく僅かな富裕層は海水をマシンによって掻き出して造成した土地〈ドライランド〉に豪邸を立てるいっぽう、貧困層は堤防で囲うことでなんとか完全な水没を免れているその他の区画に暮らすほかなく、そこにも段階的に水位の差がある……という描写は、『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、2019)の後半に登場する「水」を思わせる興味深い演出であり、SF的な画の面白さもあって見応え抜群だ。


さて、本作の予告編のいかにも派手な見せ方や惹句、あるいはジョイ監督の夫でありプロデューサーとして名を連ねているジョナサン・ノーランや “他人の記憶を機械的に辿る” というプロットから『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督、2010)のような作品なのかという先入観があったけれど、実際に観てみると、本作が真に目指したのは古典的なフィルム・ノワール的な世界観と物語であった。

フィルム・ノワールといえば、1940年代から1950年代にかけてにハリウッドで多く作られた犯罪映画の作品群を指すジャンルだ。うらぶれた主人公の探偵が、ふいに出会った蠱惑的で謎に満ちた女──いわゆるファム・ファタール(運命の女)──の謎に翻弄され、警察や裏社会とのパイプ、あるいは彼よりも優秀な古女房的な相棒の力を借りつつ真実に迫ろうとし、やがて苦々しい末路を辿るというのが、このジャンルでよく採用される大まかな物語である。

この物語構成は本作にそのまま当てはまるし、ことあるごとに主人公のナレーションによって彼が混迷の極みにあることを示す演出も同様である。本作のタイトルやエンド・クレジット、街を飾るネオンサインなどに使用されているフォントが、フィルム・ノワール時代を思わせるもので統一されているのも、それを裏づける。冒頭、半水没したマイアミの風景を滑空するかのように映す長い1ショットの果てに、ニックが水溜りに沈んだクイーンのトランプを拾い上げて路上生活者と交わす粋なやりとり *1をはじめ、バーで儚げに歌うニナの耽美な姿、決してスタイリッシュとはいえない無骨な戦闘シーン、退廃的な人々の暮らしぶり、そして遊園地の観覧車など、全篇をとおして本作はまさしくノワールのタッチを堪能できるだろう *2


いっぽうで本作の特徴として、前述の都市デザインとともに、むしろ陽光きらめく明るいシーンが多いことが挙げられる。ノワール(黒)という言葉が示すとおり、フィルム・ノワールは画面を暗く染める闇や影が特徴的なジャンルだが、本作がその逆転の映像を見せていることも意外性があって面白い。本作において、画面や登場人物が判別できないほど闇に埋もれるということはほとんどないし、逆光線によるシルエットを用いるような演出も禁欲的といえるほどに見当たらない *3

このように本作では闇ではなく、さんさんと照らす太陽や、水面に反射する光のまぶしさがニックの目を眩ませ、謎の真実を覆うヴェールとなる。本作に登場する記憶の再体験装置が、身体を水に浸して使用する機器であることからもわかるように、本作において「水」とは「記憶」のメタファーだ。記憶者本人が覚えているよりも明確に追体験される記憶は、それがあまりにも鮮明であるがあまり、かえって真実の隠れ蓑となってしまうという物語展開とも合致した画作りだ。


そして本作の記憶再体験装置が、第3者には鮮明な映像として──オペレータの声による意識誘導が必要なため──再生されるという設定は、この装置を扱うことが映画を作ることのメタファーであることも示すだろう。劇中、ニックがニナの行方を探ろうと幾多の記憶を何度も再体験し、散らばった謎のピースを寄せ集めようとする様子はさながら映像編集の現場を思わせるし、再体験者の意識誘導を誤ってしまい「道案内を間違った」と言いつつ別のアプローチを試みる様子は、撮影現場で演出をする映画監督そのものだ。

また、ニックが他人の──あるいは自分自身の──記憶を映像として除き見ることは、そのままわれわれが映画を観ることにも重なるだろう。ニックの元に「あの幸福だった記憶をまた見せてほしい」とやってくる顧客たちは、何度も同じ映画を観たくなるわれわれの人情を思い起こさずにはおれないし、ニックがやがて選び取る彼自身の結末もまた、アドルフォ・ビオ=カサーレスの小説『モレルの発明』(1940)を思わせるような、甘美だが苦々しく、それでいて誰もが1度は願ったことがあるものではないだろうか。手にしたくても2度とは──いや、1度たりとも──触れられない向こう側にあるものを求めてやまない人間の性(さが)を描くのに、フィルム・ノワール的語り口は、本作がそうであるように、非常に適しているのだろう。

ことほど左様に、本作はフィルム・ノワール的SF作品として、なかなかに見応えのある1作だった。その他、記憶再体験装置のモニタが型番や価格によっていちいち違っていたり、もしかチョウ・ユンファへのオマージュかと思しき中盤に登場する中華系ギャングの頭領ジョーの銃の構え方など愉快だったし、とはいえ短いシーンだけどそこに挿入するのは順序的におかしくないかしらんと思った箇所もあったり、その立体映像を立体映像たらしめる仕掛けってそういう機構だからなのだねという部分は冒頭に見せておくべきではないかしらんという気もするけれど、ぜひとも映画館の暗闇と大きなスクリーンのなかででじっくりと浸りたい作品だ。


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【ソフト】
◆英国諜報部員ジョン・プレストンが、ソ連の鷹派高官による英国への核爆弾を持ち込みとテロを未然に防ごうと奮闘する『第四の核』(ジョン・マッケンジー監督、1987)は、英国側とソ連側の張り込みやら地域住民との交流(含めた諜報活動)といった地道──なんとなれば、ゆーても公務員であるからしてしごく地味──な諜報活動が丁寧に積み重ねられてゆく過程が、ぐうの音も出ないくらいに面白いエンタメとなっている。プレストン役には「ハリー・パーマー」シリーズのマイケル・ケインソ連側の潜入スパイ役には若き日のピアース・ブロスナン──しかもコードネームがジェームズ──と、新旧英国紳士スパイの対決も見ることができる。’80年代後半、たしかにSFX全盛の時代にあっては地味な見た目ではあるけれど、こんなに冗談なしに面白くて日本未公開だったのか……。


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*1:ここで本作がこの街を舞台に、ニックが記憶という水溜りをさらって消えた運命の女たるニナ(ハートのクイーン)を探る物語であることをスマートに暗示している。そして、ラストにこのトランプがどうなっているかに注目したい。

*2:SF映画フィルム・ノワール的な語り口で描いた作品といえば『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)や『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)などが思い起こされる。

*3:前述のようなSF的フィルム・ノワール作品においても、やはり闇が重要なモティーフだ。

2021 8月感想(短)まとめ

2021年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
独裁国家が有する謎の「スターフィッシュ計画」壊滅のために最強の悪人たちが集められる『ザ・スーサイド・スクワッド “極” 悪党、集結』ジェームズ・ガン監督、2021)は、コメディ映画としてもヒーロー映画としても、たしかな強度と面白さを持った大・大・大傑作だった。

ガン監督といえば、トロマ映画仕込みのパロディや痛烈な皮肉をこめたユーモア、きちんとツボを押さえた作劇、そして『スリザー』(2006)や『スーパー!』(2010)でも見せた──仕方のないこととはいえディズニー傘下のMCUでの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(2014-2017)では完全にオミットされていた──露悪的なまでに凄惨な暴力演出を絶妙な按配でミックスするのに長けた作風が特徴であるが、本作ではこれらが遺憾なく発揮されている。

そのため、これまでの R指定アメコミ映画のなかでも群を抜いて登場人物が──モブも含めて──血肉を盛大にスクリーンにブチ撒けながらあれよあれよと死んでいくが、その様は圧巻。誰がどんなタイミングでムザムザ死ぬかがトンとわからない『ザ・ハント』(クレイグ・ゾベル監督、2020)の冒頭を髣髴とさせるオープニングの上陸作戦からもう血みどろジョーク満載で、それでいてきちんと本作のルール説明もこなしてしまうのだから恐れ入る *1。また中盤、ハーレイ・クインの見せ場であるアクション・シーンで、さすがに血しぶきだけでは観客が飽きると思ったのか、血の代わりに極彩色の花々が撒き散らかしていたのには大いに笑った。しかも、殺した相手が間違いでした、という酷く空気の凍る展開などもあって、いやァ本当に暴力ってよくないですよね!

またクライマックス、岡本太郎デザインの宇宙人 *2もかくやの巨大ヒトデ型宇宙怪獣スターロ──原作コミックスでも実際にそういうデザインだという──が大暴れする怪獣映画としても、本作はとびきりの見せ場を用意してくれる。人々を踏みしめ、ビルをなぎ倒しながらのし歩く巨大感演出の巧みさもあって、「こんなにサービスしてくれるとはなんてありがたい映画なのか」と、きっと劇場内での僕は満面の笑みを浮かべていたことだろう。

とはいえ本作は、単に明るく露悪的に楽しいばかりのバカ映画というわけでは決してない。なんとなれば本作は “アメリカ的正義” なるものへ痛烈な問題提起を突きつけているからだ。

たとえば本作の冒頭部を思い出してみよう。正義とは真反対の悪人チーム “スーサイド・スクワッド” の面々が、まるで『パットン大戦車軍団』(フランクリン・J・シャフナー監督、1970)の開幕にて演説するパットン陸軍大将もかくやに、画面いっぱいに映された星条旗 *3をバックに歩いてくるショットの皮肉ときたらない。また、潜入した架空の独裁国家コルト・マルテーゼの反政府組織のリーダーから「まったくアメリカ人ときたら……」といった台詞を吐かれること、あるいは後半で明かされる任務の本当の目的やそれによるチームの断絶など、ことごとく “アメリカ的正義” のメッキが剥げ、おそらくはイラク戦争をモティーフにしているであろうその暗黒面が明かされてゆく。その視線の鋭さと適確さは、──図らずもタリバン台頭による危機とそれへの各国の対応についてのニュースを見聞きするこの数日間もあって──決して絵空ごとでも他人ごとでもない。

そんなどうしようもなく絶望的な状況のなかでキャラクターたちが見せるほんのささやかな優しさこそが真に英雄的な振る舞いにつながるという展開が、本作の描く希望だ。それはたとえば、ネズミを操ることのできる少女クレオ *4が、サメ人間ナナウエに「友だちになろうよ」と声をかけたように、思い起こすなら劇中で様々なキャラクターが様々なタイミングでそういったひとかけら優しさを目の前の、あるいは隣にいる人物に投げかけ、手を差し伸べている。その小さな小さな優しさこそが、かけがえのない尊い行いなのだと、本作は大仰にではなく、さりげなく示す。

ことほど左様に、本作は派手な見た目の印象とは裏腹に、痛烈なコメディとして、そしてヒーロー映画として深く鋭く、そして感動的なまでの射程を持った1作だ。細かなギャグのあれこれや、登場人物たちの所作のあれこれなどいちいち挙げたいがキリがないので、ここで打ち止めとするけれど、なにはともあれ見事な作品だ。もちろん、グロいのが苦手な方は注意してくださいね。


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◆人々が自由な暮らしを謳歌する街の銀行員ガイが、すれ違ったミステリアスな女性モロトフにひと目惚れしたことで世界の真実に触れる『フリー・ガイ』ショーン・レヴィ監督、2021)は、ゲーム世界を題材にしたエンタメ路線を貫きながらも、さりげなく深い洞察に満ちた作品だった。

本作は、いま我々が認知する世界が誰かの手による仮想上のものなのではないかと考える──たとえばニック・ボストロムなどが提唱する──、いわゆるシュミレーション仮説を題材とした作品である。こういった「いまある世界がじつは計算された偽物であり、そして主人公にはその真実が隠されている」という物語を持った映画作品はもちろんこれまでにもある。たとえば、それがコンピュータが人間を支配するために作り出したのでは……としたのが『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)だったわけだ。

そのほかに代表的なものを挙げるなら、とあるサングラスをかけたとき世界が異性人の侵略下にあったという真実が明らかになる『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督、1988)や、じつは世界が主人公の人生を生中継するために作られた超巨大なスタジオだった『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー監督、1998)といった作品がある。本作『フリー・ガイ』の主人公ガイの辿る世界の真実と邂逅するきっかけのひとつがサングラスをかけることであったり、クライマックスにおける彼の活躍を世界中がストリーミング配信を見ながら応援するといった展開は、明らかにこの2作からの引用であろう。


さて、本作のシュミレートされた仮想世界とは、予告篇等でも明らかにされているようにゲームである。じつはゲームのモブキャラ(NPC=ノン・プレイアブル・キャラクター)であるガイが本物だと信じて疑わない世界『フリー・シティ』とは──たとえば『グランド・セフト・オート』シリーズなどを髣髴とさせる──オープン・ワールド型のオンライン・ゲームである。このゲームでは “フリー” というタイトルのとおり、プレイヤー──プレイアブル・キャラクターはサングラスをつけているため、モブキャラたちからは「サングラス族」と呼ばれる──はありとあらゆる暴力や犯罪行為を許されており、銀行強盗や車泥棒といったミッションをクリアすることで経験値を得てレベルを上げてゆく。ガイたちモブキャラは、このフリーという無法の世界でプレイヤーからのいわれなき暴力を──なんら疑問とも思わず──日常として過ごしているのだ。

本作で面白いのは、このゲーム世界を最初からゲーム世界然として描いている点だ。こういった仮想世界に暮らすキャラクターを主人公に置いた物語では、多くの場合、彼/彼女の現実がわれわれ観客と同等のリアリティの上にあり、そこから徐々に違和感や非日常性を炙り出してゆくという段取りを踏むけれど、本作では冒頭からマシンガンをぶっぱなしながら街中を犯罪者(プレイヤー)が暴れまわり、カーチェイスを繰り広げ、そこかしこで強盗は起き、ありとあらゆるものが爆発四散する様をガンガン映すのが新鮮だ。それらが然も当然のことであるように『フリー・シティ』と自身について語るガイのモノローグとのギャップも笑いを誘う。

やがてガイがモロトフ・ガールにひと目惚れし、ひょんなことからプレイヤーのサングラスを手に入れたことで、彼らと同じ土俵に立ってから──ただし、ここではまだ彼はこの世界がゲームであるとは露とも考えていない──の展開も興味深い。ガイはその持ち前の純真純情さを発揮して、無法の世界で皆(プレイヤーたち)が暴虐の限りを尽くすなか、同様に悪事に走るのではなく、反対に「善いこと」をしてレベルを上げはじめる。この発想の転換が、現実のプレイヤーたちに衝撃を与えてゆく展開もまた興味深い。ガイの行動によって、自由と謳われた世界のなかで皆が一様に犯罪行為に走っているのは果たして本当に「自由」なのかという気づき、そしてそれまで目にもくれなかったモブキャラたち(=他者)がいることへの気づきを人々が得るのだ。

また、ガイが知らず知らずに置かれた状況は、物語上の現実ともリンクしている脚本の構成も上手い。そもそも『フリー・シティ』というゲームは、モロトフ・ガールを操るミリーと、かつての相棒キーズとがふたりで作り上げた画期的なプログラム・コードを無断転用したらしいことが物語序盤で語られる。ミリーはその証拠を得て裁判を有利に進めるためにゲーム世界を探索し、かたやキーズは『フリー・ガイ』を運用するスナミ・スタジオに雇われてクレーム対応に追われる日々を過ごしている。本来であれば自由に使用できたはずのシステムを奪われたふたりは、ゲームの、そして絶対的な経済力、金、そして雇用者として権力を持つスナミ社長アントワンの──形は違えど──虜囚となっているのである。そこからいかにして──ガイが目指すように──自由を得るかという物語へと展開してゆく。


これ以降の具体的な展開に踏み込むと大きなネタバレになるので詳細は控えるけれど、ゲーム世界舞台であればこその荒唐無稽なアクションの見せ方やガイを演じるライアン・レイノルズの丁々発止の台詞まわし、ゲーム配信者──実際の人物が本人役で演じている──あるあるといった小ネタなど、基本的には明るく楽しいアクション・コメディ的演出が満載な本作はやがて、最終的には「もしも自分や自分のいる世界が虚構だとしたら、生きる価値はあるのか? そしてリアルとはなにか?」という実存的問いかけに到達する。そこで親友バディが、世界の真実に狼狽するガイに投げかける──デカルト哲学を思い起こさせるような、しかしあくまで利他的で思いやりに富んだ──言葉は感動的だ。それを聞いたとき、ガイと同様にある種の勇気や希望を得た観客も少なくないのではないだろうか。

同時に本作は、ロマンス映画としての側面を持っていることも忘れてはならないだろう。前述したような、ガイが善いことをしてレベル上げする一連のシーンは、一種のループものとして演出されている。何度も失敗しては殺されて次の日に目覚め、繰り返す鍛錬のなかで徐々に目的を達成してゆくガイの様子は、ループものロマンス『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス監督、1993)のビル・マーレイを髣髴とさせるものだ。これがじつはひとつの前振りであって、本作は『恋は~』のようにロマンス映画としても優れた着地をみせる。すべての冒険を経たエピローグにおいて、ミリーがガイの言葉によってある気づきを得るときの、ほんの数ショット──誰が誰と向かい合い、そして誰にカットバックし、続くショットの “画面” に誰がどのように映っているのか──の、さりげないが見事なカメラワークと編集、そして演出は必見だ。

このように本作が、実存主義的不安の葛藤を辿る側面とロマンス映画的側面を併置して融合したことによって、どちらの世界が上位でも下位でも、真実でも偽物でも、現実でも虚構でもなく、リアルとは別のところに宿るものなのだ──という、こういった作品としては珍しい結論に到達するのも新鮮だ。このポジティブであり誠実な感覚が、本作の大きな魅力のひとつだろう。

そのほか、嫌な社長アントワンを嬉々として演じるタイカ・ワイティティの挙動が愉快だったり、プログラムをリアルタイムで書き換えて建物の形状や配置をニョキニョキ変化させる様子は『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督、1998)っぽかったり、ウサギの着ぐるみってまさか『ドニー・ダーゴ』(リチャード・ケリー監督、2001)かしらと思ったり、クライマックスでバディが放つ「俺たちの生命も大切なんだ(lives matter)って証明してくれ!」という台詞が非常に重層的で今日(こんにち)避けては通れない台詞だったり、とはいえちょっと楽屋ネタが多いのではないかしらんと感じたりもしたが、なんにせよ、目にも心にも明るく楽しくやさしく、そして深い洞察に満ちた本作は、続篇でもスピンオフでも実写化でもない単独のオリジナル作品として、ぜひとも観ておきたい1本だ。


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【ソフト】
◆近未来、ドラッグ戦争の最中に少女が逃げ込んだのは最強の退役軍人(爺さん)たちの集うバーだった『VETERAN ヴェテラン』(ジョー・ベゴス監督、2019)は、主演のスティーヴン・ラングをはじめとした燻し銀の効いた役者陣の好演と、状況設定から展開、音楽から低予算感を薄める方法にいたるまで、作り手たちはきっと『要塞警察』(ジョン・カーペンター監督、1976)をずいぶんと研究したのだろうなという愛嬌まで含めて、楽しい作品だった。惜しむらくは、フィルム・グレインを効かせすぎて画質が趣深いというよりもガタガタだったことかな。


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◆近未来、山梨県の人里離れた施設でひとり研究に没頭するジョージが、亡き妻の精神情報を人工知能に落とし込もうとする『アーカイヴ』(ギャヴィン・ロザリー監督、2020)は、スローテンポながら、人工知能やアンドロイドをテーマとしたSFとしてきちんとツボを押さえた展開と、このジャンルとしては物珍しいオチまで含めて堅実なつくり。そしてなにより、本作の作りこまれたプロダクション・デザインに表れる作り手の好み──『2001年宇宙の旅』、『エイリアン』、『ブレードランナー』、『エイリアン2』、『AKIRA』、『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』、「サヴォワ邸」や「落水荘」を思わせる研究所の外観、アンディ・ウォーホルにそっくりなキャラクター、しまいにゃ何故かラーメンチェーン「天下一品」の看板まで──がことごとく僕と被っていて、妙な親近感を抱いてしまう作品だった。


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*1:このアバン・シークェンスは、まさに1本の映画並みの見せ場と物語構築で素晴らしい。小鳥にはじまり小鳥に終わる構成の妙よ! あれかな、ツイッターの暗喩かな(反トランプ発言を繰り返していたガンは、親トランプ派のオルタナ右翼から10年ほど前にツイートした差別的序ジョークを掘り起こされたことで炎上、一時ディズニーからMCUをクビになる騒ぎに発展──現在はガン本人による謝罪、出演した俳優陣やファンからの嘆願によって復帰──し、そのあいだにワーナーで製作したのが本作だ)。

*2:『宇宙人東京に現る』(島耕二監督、1956)に登場するパイラ星人

*3:ヒトデ型怪獣スターロをはじめ、本作で象徴的に強調される色は、赤と青である。これを思い出すなら、スターロの今際の台詞「星が煌くなかをフワフワ漂っていて楽しかった」がなにを意味するのか、なかなか考えさせられる。

*4:彼女の物語には、ちょっと『シンデレラ』を思い出した。

2021 7月感想(短)まとめ

2021年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/02/200823


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『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/30/042834


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【ソフト】
◆不可思議な死体に遭遇したマーフィー刑事が、捜査の果てにとある日本人家族に行き着く『ミュータンツ 光と闇の能力者』(ジョー・シル監督、2019)は、低予算で地味な作品ではありながら、超能力者モノというジャンルをコンパクトながら丹精なドラマと役者陣の繊細な演技、そして見せるところはきちんと見せるVFXによって描いた素敵な作品だった。スティーヴ・ライヒ調の劇判も雰囲気に合致していて素晴らしい。


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【コラム】
映画の感想を書くとき……https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2021/07/25/010128


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『竜とそばかすの姫』感想

◆とある出来事をきっかけに歌を歌えなくなった少女・鈴が親友に薦められた超巨大インターネット空間の仮想世界「U」の世界でベルという歌姫となる『竜とそばかすの姫』細田守監督、2021)は、やりたいことはわかるけど、いささか詰め込みすぎかつ整理不足では? という疑念を拭いきれない1作だった。


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【本記事には、若干のネタバレが含まれます】


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本作の予告編を観ると、これは『サマーウォーズ』(同監督、2009)以来のネット空間と現実世界とをリンクする作品であると同時に、筒井康隆原作の『時をかける少女』(同監督、2006)を髣髴とさせる青春劇でもあることを予感させるもので、本作は細田守監督作品の原典回帰的かつアップデート版的作品となるのではという期待を持たせるものであった。彼の主義思想的部分には一片の共感を持ち得ない──むしろ嫌悪さえしている──けれど、そうは言っても彼が国民的アニメ映画作家となったいま、遅まきながらいそいそと劇場に出かけてまいりました。

まず、本作のアニメーションの動きや画そのものは面白かったし、美しかった。バーチャル空間である「U(ユー)」のメイン・ルームとでもいうべき超高層ビル群が立ち並ぶ目抜き通りを数多くの色とりどりなアバター「As(アズ)」や立体ネオンサインのような光源が行き来する様子は『AKIRA』(大友克洋監督、1988)に登場するネオ東京の活気を思い出したし、かたや現実世界での鈴や弘香、忍や慎次郎、瑠果たちを中心に描かれる日常パートでのアニメーション──とくに、ロングのレイアウトのなかアニメとしてはかなり長めにじっくりと尺をとった1カットのなかでキャラクターを動かし、ときに可笑しくときに切ない彼らの感情の機微を描き切るいくつかのパート──は実在感とコミック感とが絶妙にマッチした見事なものだ。高知県でロケハンしたという背景美術も美しい *1 *2

また、やはり本作最大の見どころ──いや、聴きどころ──は、ヒロインの鈴を演じたシンガーソングライター中村佳穂が実際に歌唱し、曲によっては作詞・作曲を手がけた歌の数々だ。彼女の発する繊細で力強い歌声は、ふいに鈴がUにベルとしてログインして歌ってから絶大な支持を得る展開を含めて映画にたしかな説得力を与えている。そして歌唱シーンの映像が見せる華やかで極彩色の美しさやカメラワークの自在さも格別だ。あるいは鈴が下校中に「どんな歌がいいだろう」と鼻歌でメロディを探りながら曲を作ってゆくときの声の実在感も素晴らしい。そして、実際の演技も鈴のキャラクター性にとてもよく合っており、違和感なくすんなりと観客の耳に入ってくるだろう *3


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いっぽうで、本作は様々な要素がてんこ盛りであるがゆえに、それぞれがあまり深く掘り下げられず、整理不足に陥ったことで、物語が進行すればするほど雑然としてくる感は否めない。

それはたとえば、本作で大きな舞台を占めるUからしてそうだ。全世界で総勢50億人も使用して「人生をやり直し、もうひとつの人生を生きよう」と謳うUであるが、では具体的になにができるのかが皆目示されない。せいぜいバズれば生配信ライブができるくらいのことしか描写されない。そもそもログイン時にワイヤレス・イヤホンのような機器だけを耳に装着すれば、Asと五感を共有してVR空間にいるかのように実感しつつ操作しているという描写は、いくらなんでも──いや、実際にはパソコンやスマホのモニタを見ているのかもしれないが、Asのベルと現実世界の鈴をアクションで繋ぐ編集もあるので余計に──呑み込みづらい。この点に関してはむしろ『サマーウォーズ』のほうがキーボードやコントローラを経て操作する描写があったので、まだリアルな実在感がある。これは恐らく、映像描写の面白さを重視──このこと自体は間違いではない──したものの、Uの実際はGoogle Chrome といったWEBブラウザ、あるいはもうすこし狭義に捉えるなら YouTube といった動画共有サイトTwitterInstagram といったSNSソーシャル・ネットワーク・サービス)と大差ないことから生じたものだろう。


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この、語りたいものとそれを見せる演出との誤差が、物語の作劇にも見受けられる。


本作で鈴が辿る物語とは、とあるトラウマ的体験から歌うことのできなくなった彼女が、ベルというペルソナを被ることで歌を取り戻し、その成功体験によってこんどは自身の世界を拡げ、またベルではなく自分自身として他者との関わりを修復し発展させようとするものである。ここに現実世界における気の置けない悪友・弘香や、初恋の相手である忍、学校のマドンナ瑠果といった同級生に加えて、ほぼ没交渉となっている父やまわりの大人たちが関わってくるわけである。学校やネット世界での体験を糧として1歩前進する主人公の物語として、オーソドックスだが、きちんとやればやるだけの説得力が出るタイプである。

かたや、本作が重点を置くのがネット上における匿名性を盾に取った誹謗中傷やフェイクについての問題提起である。実際、劇中で登場するベルの歌についてのコメントが賛否両論──とくに非のほうの言葉づかいがかなり乱暴──であることから鈴が狼狽したり、あるいは彼女が現実世界でのとある出来事をきっかけとした女子生徒たちのラインのやりとりから大規模なイジメの対象になりかけたり、世界中で放送されるニュースやユーチューバーの配信などで振りまかれる嘘八百を執拗に描写したりと、ネットユーザーが巻き起こす負の側面を炙り出す。


そして、そういった匿名性の暴走が意図的な誤情報を流して世論を操作し、人々の断絶を深めようとすることもそうであろう。物語内では「竜」の正体探しに明け暮れるネットユーザーたちの根拠のない類推の氾濫と世論操作がUを覆い尽くし、Uの世界は分断され始める。われわれの現実世界に目を向ければ、これと同様のことが各所各方面で止むことなく続いていることは一目瞭然だ。Uの警察機構を自称する「ジャスティス」の隊長ジャスティ*4が持つ「アンベイル」という特殊な能力は、文字どおりハッキングによって個人情報を特定して拡散する “晒し” そのものだろう。

そういったネットの負の側面からの攻撃を一身に背負う役目を「竜」が担っており、そんな「竜」を救うために鈴=ベルはクライマックスにて、ある決断を下すことになる。この展開は、ネットの匿名性に巣食う病理に対する作り手の「自分たちは世界に素顔を向けてものを作っているのだ」という自負の宣言であったことだろう。ネットでは素性を隠して好き勝手言えばよいだけだが、自分たちはそうではないのだ、と *5


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そして、鈴についての物語とネットについての問題提起を比べたとき、どうも作り手のなかで後者のほうに比重があったように思われてならない。そして、両者を融合し、より後者を強調できるよう持って来たのが『美女と野獣』の要素だったではなかったか。もともと本作は当初、ネット版『美女と野獣』的物語をミュージカルで作劇するという企画だったという。これからもわかるように、細田監督は相当ディズニーのアニメーション版(ゲーリー・トゥルースデイル、カーク・ワイズ監督、1991)を気に入っているようで、ヒロインの名前の引用 *6から始まって、同様の展開やシーンがこれでもかと再現される *7

ところが、これによって物語世界におけるキャラクターの役割と展開が分散されてしまってはいまいか。鈴にとって距離を縮めて関係性を発展させたいと願う忍のキャラクターは「竜」へと分裂し、彼女が他者のために利他的な行為をとるという展開は2回繰り返される。このために尺は逼迫し、掘り下げられるべき展開や関係は説明台詞による処理へと引きずり落とされる。

正直、本作の物語世界は、先に記したような鈴を軸とする関係性の規模に留めておいても充実した内容になるように思われる。ネット負の側面の被害者としての「竜」のキャラクターもまた、じつはひと晩で数多のユーザーの支持を得た鈴=ベルに課すことも可能だったのではないだろうか。それだけの支持対象ともなれば、間違いなくアンチも登場して鈴の精神を削りにくるだろうが、本作はそういった部分は前半ちょろりと触れただけで掘り下げない *8。「竜」の要素がなくとも、本作で作り手が語りたかったものは十全に作り得たのではなかった。


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ただ、作り手のメッセージそのものが間違いないものと仮定したとしても、クライマックスにおける鈴のまわりにいた人物たちの行動、もしくは描き方は非常に問題ではないか。というのも、鈴が「竜」を救うために取る行動を炊きつけたのはその場にいたまわりの友人や大人たちであり、そして彼/彼女たちは基本的に文字どおり応援しかしない。そして鈴が必死に下した決断と行動の様子ないし結果を見て「ああ、よかったよかった」と言うばかりである。

これでは、まさしく本作がそれまでの展開で問題だと提起した、ネットの匿名性を盾になんでもかんでも好き勝手やりまくるネットユーザーとなんら変わらない *9。あるいは、現実の問題から目を背け、ネットのみならずメディアが提供する上っ面の情緒や感動だけに特化した、いわゆる「感動ポルノ」的コンテンツを消費する人々の側面すら読み取れてしまう。さすがにキャラクターたちの発展のさせ方としてマズイのではないかという疑念は拭い切れない。

ただいっぽうで、これが意図された露悪的な演出なのだったら、それは大したものだと思う。鈴のうしろにいる人たちとは、これまで彼女の物語を観て、共感して応援して感動して、つまるところ消費して、勝手によかったよかったと借り物の感情で快楽を得、劇場を出ればネットに匿名で好き勝手にコメントしている「お前だァ! 稲川淳二ふうに)」と言外に僕ら観客をビシッと指差しているのなら、これほど皮肉の効いた演出はあるまい。


     ○


ことほど左様に、いささかネガティブな物言いが増えてしまったのだけれど、やはり本作の問題の根本は、語るべき題材に対して物語世界を過剰に大きくしすぎた点にあったのではないだろうか。表面的な要素をもうすこしスッキリさせたうえで、より深く掘り下げていったならば、青春物語としてもサイバー空間を扱ったSFとしても、いっそう強度を持った完成度を誇れたのではないだろうか。たとえば、鈴がベルとして成功することでの内面と仮面との葛藤や友人関係の変化、あるいは世界との繋がりを描いてゆくといった、ポップスター物語的な青春劇として描いたとしても、作り手が問題提起しようとしたネットの負の側面についても現在と同様に盛り込むことができたのではなかったか。

もちろん、先に挙げたように映像的な面白さや美しさ、そして中村佳穂歌唱による楽曲の素晴らしさは抜きん出ているので、観て損をする作品とは決して申し上げない。この部分に関しては間違いなく劇場で観た価値は大いにあった。

そして、こうして書いてきた僕もまた作り手から「お前だァ!」と指差されていることだろう。


     ※

*1:映画前半部、鈴にトラウマを与える原因となった川の水面を画面いっぱいに映し、明と暗に色分けすることで彼女の心的葛藤を表す描写などよかった。この演出が後半には影を潜めてしまって残念。

*2:また一部パートは、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『生きのびるために』のカートゥーンサルーンが担当したという。おそらく「竜」の城への道を描く一連のシーンかと思うが、このスタジオの特徴である平面的な画面づくりと柔和なカラー設計が美しかった。

*3:また、久しぶりに小山茉美の “七色の声” ぶりが聴けたのが嬉しかった。

*4:ジャスティンのいかにもジャパニメーション的な髪型、またジャスティスたちが同様のコスチュームを着て、肘先や膝下がふとましく強調された体格をしているのは、おそらく彼らが石ノ森章太郎サイボーグ009』のパロディであるからだろう。また、彼らがスポンサーを背負って立つことは、テレビアニメ『TIGER & BUNNY』(さとうけいいち監督、2011)を髣髴とさせる。

*5:この歌唱シーンの静謐な開幕から荘厳なまでの画作りと楽曲はたしかに素晴らしい。余談だけど、このシーンはあきらかに『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督、1984)のクライマックス──例の「蒼き衣をまといて金色の野に降り立つべし」ラン・ランララ・ランランラン──へのオマージュだろう。これまで各所で宮崎駿への揶揄とも思われる発言をしていた細田守の作品でこういったシーンが出てくるとは思わなかったので少々驚いた。

*6:ラスト、再度附されるタイトル・テロップには原題の下に「BELLE」が追記されている。これだと、かなり物語の意味合いが変わってしまうのではないか。というのも鈴のアバターはあくまで「BELL」であって、「BELLE」とは最初ネットユーザーが勝手に言い出したものなのだ。これでは、いよいよ素顔/真実の自分であることが善しとした物語の展開と逆転しまいか。あ、そういえば劇中でも最後になぜかベルに戻っていたな……と、このあたりに作り手の屈折した葛藤が滲み出ているように思うのは考えすぎだろうか。

*7:ベルをデザインしたのは、『アナと雪の女王』などのキャラクター・デザインを担当したジン・キムである。

*8:そもそも、どうやらベルの人気には弘香の様々なプロデュースがあったことも関係あるらしい台詞が出てくるが、具体的な描写がほとんどないので、そのあたりをむしろ掘り下げたほうが、ふたりの友人関係のドラマにもなったと思うのだけどなあ。

*9:そして「鈴ちゃんが決めたことだから」という台詞から、現在日本を蔓延る「自己責任論」が善きこととして過剰に浮かび上がる。もちろんこれが、鈴のトラウマである母の死を乗り越えるために敢えて母の死に際と同じような状況に追い込むためだとしても、いくらなんでも乱暴である。

映画の感想を書くとき

学生時代からお世話になっているとある先輩から次のような質問がありました。

まず、「映画の感想を書く時にどういうふうに(手順・気をつけてること等)書いてるのか」──そして、「何見ても『面白かった』しか言えない人間へのアドバイス」とのことでした(一部抜粋)。かつ、それをブログ投稿ないしツイートしてほしいとも。

じつに、むつかしいことを仰る。というのも僕は自身の客観視/客体化が大の苦手であるからです。映画の感想といったって、この弱小ブログに備忘録 *1のために書きなぐっているにすぎませんし、いっそ、モルモット吉田『映画評論・入門! 観る、書く、読む』(洋泉社、2017)を読んでください、と丸投げしたい(いい本です、絶版だけど)。

とはいえ、たまには自省もせねばなるまいということで、以下に簡単にまとめてみようかしらんと、キーボードを叩きはじめたのであります。したがって以下は、一般論でもなんでもなく、単に質問をくださった先輩への回答です。そもそも僕は単なる素人映画好きにすぎません。書いてみたところで、きっと毒にも薬にも、なんら参考にもならないことでしょうから「コイツ暇なんか」と思って読み流してください。


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まずは、「手順」というか、ここ数年間はこんな具合の内容の順番で書いている、というプロットですね *2。自分のなかで、こういう順序で文章を並べると書きやすいというのが──

1. 映画の簡単なあらすじ → ひと言感想(まとめ)をひと息に書く。


2. その作品のあらまし(どんなジャンルか、どこが観どころか、どんな映像か etc....)と、それについての所感。作品の周辺情報(作り手や役者、制作の経緯、インタビュー etc....)も、必要なら調べつつ書く。


3. 具体的によかった点、あるいは悪かった点を書く(演技、撮影、編集なんでもよい)。ネタバレするかどうかは、ときと場合による。


4. 3. を受けてのより詳しい所感や、必要なら構造分析をおこなう。


5. あらためて簡潔にまとめる。


──といった具合です。実際に書く順序は “1.” を最後に書くか、あるいは最初に書いたものを最終的に調整することになります。各段落の文量(とその相対)は、そのときどきによって若干変わります。


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次に「気をつけてること」ですが、これは端的に論理的であるように心がけています。それは、その映画についての説明を書くときでも、映画を観たことによって湧き出た感情を書き出すときでも同様にそうしているつもりです。

というのも、その作品についての僕の考えを、できるなら文章だけで伝えたいと思っているからです。それは、映画の感想を書かれる多くの方が、読み手のことを考えて作品ポスターや場面写真などをわかりやすいようにと添付しておられますが、僕は面倒くさがってやらないから……というショーモない理由もありますが、やはり好みなのでしょうね。映画は語ることで完成する、と押井守も言っています。

また、そうすることで誤謬を未然に防ぎたいというのもあります。このためには、多少は──ネットレベルでも──調べ物をしようかという気にもなれます。



それともうひとつ、作品の悪い点について指摘する際、決してそれを突いて終わりにするのではなく、ではどうすれば良くなるのか、という改良案を提示できるよう気をつけています。批判ではなく、できるかぎり批評でありたいからです。まあ、たまに──いや、けっこう割と?──匙を投げることもありますが……。


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さて最後に「何見ても『面白かった』しか言えない人間へのアドバイス」との質問についてですが、このアクションがよかった、この役者が可愛かった、この物語転換にしびれた──など、どんなことでもよいので、ひとつ具体的にその作品について書き出してみてはいかがでしょうか。ふいに「やあ」と出会った友人に喋るようなイメージですね。1個なにか言おうとすれば、なんとなくでもそれを詳しく伝えられるようにと、2~3文くらい芋づる式に思いつくやもしれません。書いたり喋ったりしているうちに、ふいに言いたいことを思いついたり腑に落ちたりなんてことがよくあると内田樹が各所で語るように──映画の感想もやはり言葉ですから──あるのではないでしょうか。

また、参照できるものを思い起こすことも一助になるかもしれません。これはたとえば、前に観たあの映画──あるいは小説や神話、思想など──に似ている、同じ監督/役者だ、といった自分が知っていることでも良いと思いますし、または自分自身の内面に合致するもの──単純に好みから、かつての思い出や情感とか──でも良いと思います *3。ことほど左様に、切り口は多様にあると思います。


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──といった具合に、先輩からの質問に対する僕なりの回答を、およそなんの脈絡もなく、上から下へとつらつら書き連ねてみました。これで回答になったなら幸いです。書けるわけねェや、と思っていましたが、存外文字数が増えてしまったことには「コイツ暇なんか」という疑念を拭いきれません。たぶん暇なのでしょう。


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*1:しかも最近は、コンスタントに書けていないという体たらく! ごめんなさい。

*2:手順はもはや、映画を観る → 書く(or 書かない)に尽きます。

*3:往々にしてドハマリする作品というのは、観ている自分と映画世界とに共通項がありがちです。そして、こういった場合、作品のいわゆる “完成度” など蚊帳の外に吹っ飛んでゆきます。

『ゴジラvsコング』感想(ネタバレ)

ゴジラvsコング』アダム・ウィンガード監督、2021)……全世界を股にかけて繰り広げられたゴジラキングギドラの激闘から数年。それ以降活動を沈静化していたゴジラがふいに大手テクノロジー企業APEX社の巨大工場を襲撃し、大きな被害が発生してしまう。このゴジラの行動に疑問を覚えた少女マディソンは、級友ジョシュとともに謎の真相に迫るべく、怪獣に関する陰謀論を展開する覆面ポッドキャスターのバーニーとのコンタクトを図ろうと奔走する。

いっぽう、地球空洞説を唱える科学者ネイサンは自説の正しさを証明するため、永年コングの研究と管理を担当しているモナークの元同僚アイリーン博士のもとに赴く。ネイサンはコングと、コングと唯一心を通わせる聾唖の少女ジアの先導によって地下世界を目指そうというのだ。そして、それに技術的援助を申し出たのが、APEX社のCEOウォルターだった……。

1933年にキング・コングが、1954年にゴジラが誕生し、はじめての公式戦『キングコング対ゴジラ』(本多猪四郎監督、1962)があってから幾星霜、誰もがいつかまた再戦をと願い、同時に決して叶わぬ夢物語かと思われた両者の新たな闘いがついに描かれた本作をひと言で表すなら、紛うことなき “怪獣プロレス” 映画といえるだろう。なんとなれば、観ているあいだ「オイラはいったいなにを観てるんだ」と困惑するくらい振り切った作品である。


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【本記事は一部ネタバレを含みます。とくに後半にて警告後、核心部のネタバレに触れる箇所がありますのでご注意ください】


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怪獣プロレスとは、文字どおり映画やテレビをリングに見立てて怪獣と怪獣が闘いを演じる様を言い表したもので、テレビの普及によって巻き起こった昭和のプロレス・ブームに日本中が沸いたころ制作された対戦メインの怪獣モノを指す言葉だ。前作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)からその気はあったけれども、本作は作りからして徹底している。

コングがさわやかな夜明けとともに身支度をして唯一の理解者である少女ジアと交流するという本作の冒頭を観てもわかるように、本作の善玉レスラーはコング(トレーナー、付き人、トレーラー有り)であり、いっぽうのゴジラはなにかにつけて彼を挑発して対戦を挑む悪玉(ヒール)として登場する。これまで存在をほのめかされていた地下世界を巡る旅──プロレス的にいえば巡業(?)──をしながら、コングはゴジラと第1回戦、第2回戦と対戦を繰り返しつつ勝敗を決してゆくわけだ。

このように本作は、怪獣プロレス映画の代表格であり本作の元祖でもある『キングコング対ゴジラ』を現代の最新VFXをふんだんに用いて正しくリメイクしてみせた1作といえるだろう。『キングコング対ゴジラ』では、両者リングアウトという結末を迎えるが、果たして本作ではどうなのか? ウィンガード監督は以前「勝者を決めたい」とインタビューに答えていたがその真意は? ──というのが、本作最大のフックとなろう。


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そういった作品の性質もあって、本作では前作まであったシリアスさは完全に鳴りを潜め、一貫して楽しい総天然色空想科学映画的な雰囲気で全篇が展開される。作中でのテクノロジー発展は留まるところ知らず、その虚構性の高さはほとんど天井知らずといってよい。おそらく本作を観た多くの観客の脳裏に──怪獣映画以外で──浮かぶのは、藤子・F・不二雄の「大長編ドラえもん」的なSF感ではないだろうか。

むしろ藤子SFのほうが科学考証がしっかりとしているのではないかと思えるほど、本作は一事が万事ツッコミどころだらけであることは論を待たない。前作は主要登場人物全員が怪獣級の狂人ばかりで驚いたけれども、今回は畳み掛ける展開そのものが、普通の映画と思ってみると面喰らうこと間違いなしの狂いっぷり。これまでの1度の死者数が半端ないためか、目の前で人がどれだけ死のうがまったく動じない登場人物たちも可笑しければ、劇中に登場するすべてのセキュリティはガバガバである。

とはいえ、アイリーンやネイサンたちの地下世界への冒険はジュール・ヴェルヌコナン・ドイルといった古典SF、あるいは数多あるトンデモ冒険SF映画的な楽しさもあるし、かたやマディソンとジョシュたちのAPEX社潜入を巡る冒険も『グーニーズ』(リチャード・ドナー監督、1985)のような雰囲気が満載であり、本作を「そういったものだ」と割り切ってみれば、本作は最大級の笑顔を我々に与えてくれるだろう。



そして、そんな雰囲気をより増進するのが、本作の色使いである。ここ数年来世界を席巻している ’80年代リバイバル・ブームの波がついに「モンスター・バース」シリーズにも到来したとみえて、本作では登場するメカニックは大小を問わずすべて青と赤のネオンカラーが採用されており、いうなれば『トロン』シリーズなどを髣髴とさせるポップな色世界となっている。極めつけはネオンサインきらめく香港100万ドルの夜景にて展開されるコングとゴジラの対決シーンということになろう。

もちろんトム・ホーケンバーグ(=ジャンキーXL)による劇判でも、壮大なオーケストラのなかシンセベースがビートを刻み、あまつさえ『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)で流れたヴァンゲリスの音楽にそっくりな楽曲さえ登場する。こういったオーケストレーションの方向性で伊福部昭による「ゴジラのテーマ」を聴いてみたかった気もするが、本作では登場せず残念だ。


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といった具合に、本作の持つ極端なまでの陽気で能天気な──あえて言ってしまえば──馬鹿馬鹿しさを是とするか非とするかで、評価がパッキリと分かれることだろう。ここまで書いてきた僕でさえ正直、少々やりすぎな感がしないでもない。

だが、それを差し置いても素晴らしいのは、本作の怪獣バトル──その充実さである。本作はこれまでのシリーズ──とくにゴジラが登場する2作──と比べても、格段に怪獣の見せ場はグレードアップしている。



まずは画面の見易さだ。これまでのリアルな黒味(第1作)、もしくは宗教画的な色調(前作)で統一された画面もそれはそれで魅力だったが、いささかハッキリとは怪獣が見えないという難点もあった。しかし本作では、先述のように ’80年代映画的な明るい色味が強調されたことでシーンの昼夜を問わず怪獣たちの雄姿と挙動がかなり見易くなっている。

またボリュームである。これまで怪獣同士の闘いの最中に人間パートが頻繁にカットバックされる割合が多かったのに対し、作り手たちも「怪獣プロレスなら、主役は怪獣である」と徹底したのだろう、本作ではゴジラとコングの激闘をシーンとして、きちんまとめて見せてくれるのが嬉しい。空母の上という対戦場所も新鮮なゴジラ対コング1回戦目にしても、香港での第2 および第3回戦目にしても、それぞれがそれぞれの得意技を繰り出しながらモミクチャになり、周囲のビルをなぎ倒して闘う躍動感を余すことなく、尺もしっかり取ってじっくりと映し出す。



そして、それを捉えるカメラワークも本作は素晴らしく、巨大感を強調するアオリの画も然ることながら、ときおり挿まれるアクロバティックなカメラワークも効果的。とくに、香港の高層ビルを軽やかに飛び移るコングを追いかけながら捉えるショットや、コックピットからの主観で怪獣スレスレをかすめるショットなど、ライドに乗っているような臨場感と迫力を与えてくれるだろう。

加えて、本作ではゴジラやコングの足許がきちん映されるショットが多かったのも印象的だ。「平成ガメラ」シリーズ(金子修介監督、1995~1999)以降、怪獣の巨大さを醸しつつミニチュア・セットである印象を弱めるためだろう、瓦礫の山を踏む怪獣たちの足許を捉える広い画を見かけることが少なくなった感があったけれど、本作では俯瞰でゴジラやコングを捉えるショットも頻出し、崩れ落ちたビルの瓦礫に彼らがしっかりと立ち、あるいは倒れ込んでいる様子を見ることができる。

もちろん、本作の怪獣バトルにおいてミニチュア・セットなど作られているはずもないが、このカメラワークのおかげでミニチュア感も陳腐にならない程度に醸されていて面白い。CGであればこそ、むしろこの手の映像は足許の瓦礫の挙動などを描き込まなければならないために返って手間が増えそうなものだし、怪獣の巨大感を削ぐリスクもあったろうに、敢えてこのカメラワークを選択し、かつ効果的に使用してみせたことは見事である。


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ことほど左様に、よくも悪くも怪獣プロレスに振り切った本作は、いわゆる万人向けのよくできたエンタテインメントではないかもしれない。しかし「それはそれ、これはこれ」というように、その極端なまでの一点突破型の作劇にこそ魅力のある作品だ。なにより怪獣バトルに関しては、質と量ともに、これまでのシリーズのなかでも最大級の満足感を得ることができるはずであり、この世紀の怪獣スペクタクルを観るためにこそ映画館の大スクリーンに出かけたい1本だ。


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【以下、核心部のネタバレにつきご注意!】


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さて、『ゴジラvsコング』の闘いに決着はつくのか!? ──といったところで、思い出していただきたいのは、本作が怪獣プロレス映画であるということである。プロレスにおいて起こることのひとつに乱入がある。そして本作にもそれがある。ゴジラとコングがぶつかり合っていた香港市街というリングに殴りこみをかけるヤツがいる。それは誰か。

今回、王者2匹の闘いに乱入する本作の真の悪玉とは、予告編でも仄めかされていたようにメカゴジラである。本作でメカゴジラを作ったのは、前作まで登場していた芹沢猪四郎博士(演・渡辺謙の息子・蓮(演・小栗旬)であり、彼はAPEX社の技術者としてCEOウォルターの下で密かにこれを建造していたのだ。あの親にしてこの息子ありというか、とんだグレ息子である。そして冒頭でAPEX社の工場をゴジラが襲ったのはこのためだったのだ。



本作のメカゴジラの造型は、これまで日本でのシリーズに登場したどのメカゴジラともデザインの方向性が異なるのが興味深い。昭和、平成、ミレニアム、そして怪獣惑星(一応)のシリーズに登場した機体のような洗練された線は排除され、ゴジラを模してはいるが、あくまで工業製品であること示すような姿が新鮮だ。両手などは文字どおりロボット・アーム *1のようであり、その無骨なデザインは、ガシャンガシャンと音を立てながら歩く姿にとても合っている。

操縦は遠隔で、前作のラストにちょっとだけ登場したギドラの生首(の骨)を生体コンピュータとして経由して操縦者──蓮自身──の精神を連動させて駆動するという仕組みだ。稼動域の隙間には各種ミサイルを配備し、口からレーザービームを発射して敵を圧倒する。このあたりの設定はこれまでの機体の設定からすこしずつ引っ張ってきているものだが、やはりもっとも類似しているのは昭和シリーズの『ゴジラ対メカゴジラ』(福田純監督、1974)と『メカゴジラの逆襲』(本多猪四郎監督、1975)に登場した2体だろう。

とくに精神連動によってメカゴジラを操縦するという設定は、エヴァンゲリオンや『パシフィック・リム』(ギレルモ・デル・トロ監督、2013)に登場するイェーガーというよりも、『メカゴジラの逆襲』にてヒロインのサイボーグ少女・桂が自身に組み込まれたコンピュータによって遠隔操作することの引用かと思われる *2



また、ゴジラとコングの頂上決戦に割って入る役回りが “メカ” であることは、必然である。というのも、ご存知のようにゴジラだけでなく、かのコングにもメカ版が存在するからだ。それは『キングコングの逆襲』(本多猪四郎監督、1967)に登場する電子怪獣メカニコングであり、2匹は東京の浅草を舞台に、最終的には東京タワーによじ登りつつの大格闘を演じるのだ。

思えば今回、コングが地下世界探索 *3のために氷原が拡がる南極に連れて来られた際の画面やシチュエーションは、『キングコングの逆襲』にて、悪の天才科学者フーが放射性物質「エレメントX」の採掘のためにキングコングを北極に拉致する展開にそっくりである。

このように、それまで命懸けの争いを演じたゴジラとコングが、それぞれがかつて敵対したことのある ”メカ” を相手についに共闘するというクライマックスの展開は、それはもう盛り上がること必至。重量と遠距離のゴジラ、そしてスピードと柔軟さのコングの息がついに合致して繰り出される攻撃に拍手喝采*4 *5

そして互いに健闘を称え合うように別れる両怪獣の笑顔の清々しさ! うーん、100点!


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このように、なんとなく──しかし両者の顔を立てて、とっても気持ちよく──ウヤムヤにされたように思えるゴジラとコングの決着だが、作中において第1回戦はコングの判定負け、第2回戦はゴジラのK.O.負け、そして第3回戦においてはコングのK.O.負けがしっかりと描写されている。したがって本作『ゴジラvsコング』の勝者は2勝1敗でゴジラであり、ウィンガード監督の初心はしっかりと果たされていたことは記憶に残したい。

とにもかくにも素晴らしい名勝負、名試合を活写してくれてありがとう──本作は、その実それに尽きる。


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【おまけ: 備忘録】
GODZILLA ゴジラギャレス・エドワーズ監督、2014)について……『GODZILLA ゴジラ』(2D字幕版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

シン・ゴジラ庵野秀明総監督、2016)について……『シン・ゴジラ』感想 - つらつら津々浦々(blog)

キングコング: 髑髏島の巨神』ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)について……2017年鑑賞映画 感想リスト/11-20 - つらつら津々浦々(blog)

GODZILLA 星を喰う者静野孔文瀬下寛之監督、2018)とシリーズについて……2018 10-12月感想(短)まとめ - つらつら津々浦々(blog)

ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)について……『ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』感想(一部ネタバレ有り) - つらつら津々浦々(blog)


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*1:バーニーが「ロボット・ゴジラだ!」と言った直後にジョシュが「いや、メカゴジラだよ」と訂正するのが可笑しい。

*2:本作のラストで海に帰るゴジラを映す空撮ショットは『~の逆襲』のそれにそっくりだ。

*3:余談だが、コングが地下世界で最初に闘うヘビとコウモリを合わせたような怪獣は、『キングコング』(ジョン・ギラーミン監督、1976)に登場した大蛇との闘いのオマージュだろう。ちなみに、ランス・レディックが演じるモナーク司令官の名前はギラーミンである。

*4:ところで、メカゴジラが文字どおり硬質なため、本作ではコングはもちろんのこと、ゴジラがひたすら人間くさく表情豊かなのが見所のひとつであり、少なくとも映画作品ではこれまで誰も見たことのなかった満面の笑みを浮かべるゴジラという珍しい光景を目にすることができるのも特色だ。

*5:ちなみに『キングコング対ゴジラ』において、唯一ゴジラとコングとが共同に行うのが熱海城の破壊であった。くんずほずれつの闘いを演じつつ富士山麓から熱海まで下った両者は、ふいに城を挟んで対峙したかと思うと、ものすごい勢いで両側から城に殴りかかって大破壊に興じるのだ。つまり、本作のメカゴジラ熱海城にほかならない(暴論)。

2021 6月感想(短)まとめ

2021年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆幕末の動乱期、長州派維新志士として暗躍する “人斬り抜刀斎” と呼ばれた男の前に雪代巴と名乗る女が現れるるろうに剣心 最終章 The Beginning』(大友啓史監督、2021)は、なんとも練り込み不足がもったいない1作だった。

やはりなんといっても、谷垣健治アクション監督による剣戟アクションは相変わらず見応え十分。本作は時系列が過去編ということで、剣心が持つのは後の彼が使用する “逆刃刀(さかばとう)” という斬れない刀ではなく普通に斬れる刀なので、これまでの “るろ剣” 的アクションの特徴であり、新鮮さのひとつであった刀による打撃の連続技は使えないものの、これまでのスピード感溢れる殺陣とカメラワークのダイナミクスさを持ってアップデートされた時代劇アクションを楽しむことができるだろう。またクライマックスにおいて、まるでプレデターを待ち構えるシュワルツェネッガーもかくやに、仕掛け満載で剣心に挑む闇乃武の創意工夫も観ていて楽しいし、これまでの見せ場と違って雪の舞う薄ら寂しい白の世界での攻防の色合いも美しかった。

加えて、剣戟による直接的な流血や人体損壊描写をこれまで以上に入れ込んできたことは評価したい。冒頭での剣心が魅せる大立ち回りからクライマックスのアクションにいたるまで、スクリーンは鮮血で赤く染まり、彼の太刀筋の先にある腕は切り落とされる。巴の台詞にもあるように、剣心が「血の雨を降らせる」様子を存分に味わうことができるだろう。

ただ、そういったアクション・シーンにおいておや、若干呑み込みづらい点も少々ある。たとえば村上虹郎演じる新撰組沖田総司が剣心と対決しながら急に吐血することは非常に唐突である。もちろん、これは彼が肺結核だったと云われること──とくに本作では、おそらく子母澤寛新選組始末記』──を踏まえてのことだが、その前段階でちょっとでも具合の悪そうな描写を数カット挿入すればスムーズにその展開に持ち込めただろう。あるいはクライマックスの闘いにおいて、剣心が敵の策略によって聴覚や視覚を一時的に遮断されてしまうのだが、これも数カットぶんの描写──具体的には表情のアップとその動き──が薄いのが気になった。それがあったればこそ、意図せずして剣心が巴を──あるいは彼女としては意図して──殺めてしまう悲劇性も際立ったのではなかったか。

そして、ドラマ・パートに関しては、重厚さというよりも鈍重さのほうがいささか目立っていたのが残念。作品の展開は基本的にスロー・テンポであり、そのゆったりとした雰囲気が合致している部分もあるが、全篇とおして抑揚が平板に過ぎる嫌いがある。そして、やはり観客に対する信頼が薄いのか、映像もしくは音声によるフラッシュバックが頻出することもそれに拍車をかける。すこしでも展開が動くたびに「ハイ、これはさっきのこの人ですよ」「ハイ、これはさっきの台詞が伏線ですよ」「ハイ、このときこんなことを思っていたのですよ」と──なんなら5分前くらいに映されたことまで──やるものだから、鬱陶しいことこのうえない。

なおかつ、後半の展開は前作『~The Final』の中盤にて回想/ダイジェストされたものであり、これといって新しい情報もないので、余計に時間の進み方が鈍重に感じられたのは非常にもったいない。やはり前作中における回想は必要最低限の情報に絞っておくべきではなかったか。かといって本作、巴の弟である縁まわりのシーンは中途半端にカットするものだから、いよいよ判りづらい。またラスト、本作の物語が完全に終了しているにも関わらず長々と附されたフッテージ *1については噴飯もので、そんなものなくとも、その直前でラスト・ショットとしたほうが、いっそう納まりがよかったであろう。いや、名実ともに傑作であるOVA版『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』(古橋一浩監督、1999)と同じようなラストの構成にしたかったのと、これまでのシリーズとの関連性を際立たせようとしたかったという気持ちはわかるけれども、しかしなァ。

ことほど左様に、いささか練り込み不足が目立つ出来だったという印象は拭えない。カットすべき要素はきちんと落とし、入れ込むべき要素をきちんと盛り込んでの137分を期待していたぶん、これなら20~30分くらい短くてもよかったのではなかろうか。もったいない。

また、この『最終章』2部作を俯瞰して眺めたとき、それぞれの作品に散見されたプロット上の不自然さの原因は、やはり「前後篇」と銘打ちながら時系列を逆転させて公開したことにあったのではないかという疑念は拭えない。もし前篇『The Final』と後篇『The Beginning』を逆の順で公開するように編集がなされていたならば、語り口としてもよりスッキリしたろうし、現在それぞれが同時に上映されている劇場も多いなか、チケットを買う観客に無用の混乱を与えることもなかったであろう。

なんにせよ、全5作にてシリーズ完結とあいなった実写版『るろうに剣心』シリーズは、邦画エンタメ大作が持つ可能性と課題をどちらも見せつけるものとなった。今後、日本映画界はどのような「新しい時代」を我々にみせてくれるのだろうか。


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◆人知れず歴史の裏側でおこなわれている人間界と魔界と闘いに場末の格闘家コールが巻き込まれる、同名人気格闘ゲームの約4半世紀ぶりの実写映画化モータルコンバット(サイモン・マッコイド監督、2021)は、もし普通の映画として観ようとするなら面喰うような、まさに格闘ゲームを体感させることに清々しいほど振り切った作品だった。

というのも、本作の作劇は、作中の設定や人物紹介、そしてドラマを可能な限りソリッドに削ぎ落としたものであり、残る上映時間に観客が目にするのは、とにかくキャラクターたちの戦闘に次ぐ戦闘、息つく間もなく戦闘だ。そういう意味では、1995年のポール・W・S・アンダーソン監督版はかなり『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督、1973)を意識した作劇だったぶん、いささか鈍重な印象 *2があったけれど、今回のリブート版はとにかくテンポがいい。

これはつまるところ我々が格ゲーをプレイするときの体感と同様だといえるだろう。いわゆる巻き込まれ型主人公であるコールの存在も、その一助となっている。コールの立ち位置は格ゲーないし『モータルコンバット』初心者のそれであり、本作の作劇は彼がコントローラーのボタン配置を覚え、コマンドを暗記し、「コンバット」の頭文字が本来の「C」ではなく「K」であることに突っ込んだりしたのちに、ようやっと必殺技を繰り出すことに成功するゲームプレイヤーそのものである。

もちろんゲーム『モータルコンバット』シリーズといえばの「フェイタリティ」も、本作はあますことなく再現している。これは対戦キャラクターをノックアウトさせたのちに複雑なコマンドを追加入力することで発生する追撃モーションなのだが、これがとにかく血みどろで、首を引っこ抜く、身体を真っぷたつにする、木っ端微塵に粉砕する、串刺しにする……などなど、笑ってしまうほど残虐極まるのがシリーズ最大の売りなのである。これもまた、1995年版ではレーティングの関係でオミットされた部分だったのだが、今回はレーティング有り──日本ではR15+──の容赦のない描写が目白押しで素晴らしい。

そして、本作の白眉はなんといっても真田広之であろう。彼が立ち回るチャンバラアクションのキレと美しさは相変わらずなのはもちろん、じつは彼の演じるハサシ・ハンゾウなる侍こそが本作の実質的な主人公である。それゆえに真田広之の見せ場も多く、ここ十数年来のハリウッド出演作にあった絶妙な不完全燃焼感は、本作で見事に払拭されるだろう。物語がいよいよ終盤を迎え、観客のテンションがアガリにアガリ切った瞬間に劇場に鳴り響く “あの” 曲── ! *3

といった具合に、ぜひとも劇場で観たい、もといプレイしたい作品だ。モォタルコンバーッ! ヘ(゚∀゚*)ノ ホエホエ!


     ○


◆“普通” の暮らしを目指す休業中の殺し屋ファブルの前に、かつて救えなかった少女ヒナコと殺せなかった男・宇津帆が現われるザ・ファブル 殺さない殺し屋』江口カン監督、2021)は、前作(同監督、2019)と比較して相当まともな作品となっていた。

もちろん、本シリーズ最大の売りである佐藤(仮名)ことファブルを演じる岡田潤一自身がノンスタントで立ち回るアクション・シーンは、本作ではいっそう素晴らしかった。冒頭のつかみである立体駐車場での暴走するワゴンカーからの脱出劇や、後半の見せ場である団地のマンション1棟をまるまる舞台とした戦闘シーンは、スピーディで立体的な殺陣や動き、そしてカメラワークの構築の連続が見事であり、同時に前作と転じてデイ・シーンなため画面が明るく観易いため、思わず手に汗を握ってしまう。休業中につき殺人はご法度であるファブル独特のハンディによって、倒しても倒しても敵の数が基本的に減らない──ただ、これで死人が出てないというのは無理があるだろうと思える部分が多々あるのはご愛嬌か──のも、本シリーズならではの楽しさだ。

また、前作でかなり方針のブレブレだった演出が、本作ではだいぶ一貫性を持ってなされていた点もよかった。とくに前作の前半にあったテロップ芸を代表とするような、テレビのバラエティ番組的な編集はほぼ封印されていた──ただ、序盤1ヵ所だけまさしくバラエティ的笑いを狙ったような編集があって逆に驚くのだけれど──ので、そういった寒々しさがかなり軽減され、より映画にのめり込むことができるだろう。相変わらず複数の作曲家の手による劇判も、一貫性のあるよう方向性が定められている点も改良点だろう。

もちろん課題がないではない。抑え気味とはいえ佐藤二郎演じるデザイン・オフィス社長の笑わせ芸はまだまだクドイし、それに引きずられるかのように山本美月演じる岬が現状の見せ方だと──いちおう前作のヒロインであるにも関わらず──割とイヤなヤツにしか見えないのは問題だろうし、堤真一が実に狡猾に演じる本作のヴィランである宇津帆の悪事に平手友梨奈──アニャ・テイラー=ジョイを髣髴とさせる独特の存在感がよかった──演じるヒナコがどれだけ関わっていたのか判然としないのはいささか呑み込み辛い。

とくに、前述の団地アクションの後に展開されるクライマックスは、そのシーン自体が愁嘆場であることに加えて、“その” 一瞬をいくらなんでも引き伸ばしすぎであることもあって、クドイというか鈍重というか……。もちろん、『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1970)のラストもかくやに超スローモーションで切り取られた映像それ自体は面白かったし、シーンそのものにアクションがないために見せ場としての盛りが必要だとの判断があったことは理解できるのだけれど、むしろもうすこしサッと──劇中でスピードとタイミングが重要だと、いみじくも語られるように──終わらせたほうが、緊張感の持続と解放にいっそうメリハリがあったのではないか。

ともあれ、前作よりアクションも完成度も格段に高まっていることに間違いないは作品だった。


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◆優秀な技術者の青年・高倉宗一郎が、会社の共同経営者たちの画策によって冷凍冬眠で30年後の未来へ送られてしまう夏への扉-キミのいる未来へ-』(三木孝浩監督、2021)は、まとまってはいるけれどなァ……といった印象の1作だった。

本作は、ロバート・A・ハインラインによるタイムトラベルSF小説の古典的傑作『夏への扉』(The Door into Summer, 1956)の初映画化作品である。舞台をアメリカから日本へ移して再構築された脚本は、長編である原作を適度に端折りながらも大きな破綻もなく、タイムトラベルものとしてそれなりに手堅くまとまっている。キャラクターの改変についても、ヒロイン璃子の顛末などうまくいっている点もある。ただ、だから本作がよかったかと問われたなら、なにかもの足りない。それはおそらく、画や演出の細部が諸々弱いからであろう。

たとえば、原作での主人公ダグが発明した「文化女中器(ハイヤード・ガール)」──福島正実による名訳だが、さすがに今日日(きょうび)この名称は使えまい──の代わりに登場する人間型ロボット「PETE(ピート)」──原作では、ダグが物語ののちに発明するであろう次世代機──の見せ方が、CGなどで多少見てくれは良くなっているものの基本的に『ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)に登場する「M11」のころからなにも変わっていない *4のはどうかと思うし、彼なくしては『夏への扉』を語ることのできない主人公の愛猫「ピート」についても、序盤に彼が宗一郎といかに無二の相棒なのかという描写が薄い──ピートを演じた2匹の猫は、たいへん可愛かったけど──ので、クライマックスでのカタルシスが半減している。

あるいは、宗一郎が発明しているロボットがいかなる機能を持ち動作するのか──首を振っているだけなのだもの──なにひとつ描かれないし、そして今日日のメジャー系邦画にみられがちな愁嘆場の連続と “わかりやすい” フラッシュバック演出は本作にも健在。宗一郎の着る衣装がおそらくオマージュしているであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ロバート・ゼメキス監督、1985)が、そういう陳腐なことをやっていただろうか。いまいちど確かめていただきたい。

ただ、こういったことは些細な点かもしれない。本作においてもっとも重大な失敗は、やはり1995年と2025年を行き来するという時代設定にあったのではないか。というのも、本作で描かれる2025年は現在の風景に高層ビルが描き足され、看板が多少デジタル化された程度で新しさや未来感は薄弱だし、さりとて1995年もせいぜいブラウン管があって Mr.Children をMDウォークマンで聴いている程度のノスタルジーでしかない。裏を返せば、それはいまの日本の風景とそんなに大差ないということだ。

ふたつの未来を読者に見せる──これが原作の魅力のひとつではなかったか。原作では、刊行時から約10年後の1970年を物語上の現代とし、そこからさらに30年後の2000年の未来に主人公は冷凍冬眠によって時空を移動する。このように、読者は1冊のうちで異なる未来像とその発展による差異を楽しむことができた。もちろん、ふたつの異なった未来描写を邦画の規模でやろうとするのに無理があるというのなら、せめて現代日本と30年後の2050年を舞台にし、1995年感を醸すための予算を全部こちらへまわして、きちんとセンス・オブ・ワンダーな未来像を作り上げてほしかった。そうすれば、多少のSF的飛躍も許された画が展開できただろうし、現状の本編よりもいっそうカルチャー・ギャップ演出も盛り込めただろう *5

それとも、鉄腕アトムが誕生するころだった2000年代初頭から昨今にかけての現状から、もはや我々は明るい未来を想像しえないのだろうか。かつて『STAND BY ME ドラえもん』(八木竜一、山崎貴監督、2014)に登場した未来都市を見たときにも似た、なんとも知れぬ閉塞感が本作の未来描写にも感じられる。原作でピートが教えるように「ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を棄てようとはしない」ことを、本作もまた雄弁に語ってほしかった。

そういった意味では、ぼくは本作のなかに輝く夏を見つけることは叶わなかった。そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。


     ※


【ソフト】
◆売れなくて妻子を泣かせる甲斐性なしの漫画家ジュンが勢いで描いたスパイ漫画がバズりまくるが実は……というヒットマン エージェント: ジュン』(チェ・ウォンソプ監督、2020)は、プロットや見せ方に過不足があるせいで損をしているというか、アクションや展開の伏線、ギャグなど魅せるところはトコトン魅せていて笑えて手に汗握るのに実に惜しいなァという1作だった。


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◆火星由来の原因によって人々がゾンビと化すゴースト・オブ・マーズジョン・カーペンター監督、2001)をそういえば未見だったので観たけれど、ほとばしる ’80年代感と、主人公(ナターシャ・ヘンストリッジ)が、容姿や衣装デザインや作品設定、かつ同じ吹替え担当が湯屋敦子さんとあって、前後してゲーム『バイオハザード5』のジル・バレンタイン感が凄い。そしてジェイソン・ステイサムが若い。


     ※

*1:第1作(同監督、2012)のアバン。

*2:4つ腕のゴロー王子の特撮は凄かった。

*3:「テクノシンドローム」の新アレンジ版。「オタクくんでもなんとなくわかるでしょ?」くらいにチョイ古めなトランス風アレンジなのが泣かせる。

*4:やおら「私は2025年の最新技術の結晶だから不可能はない」などと言っておいて次に映るのが、足がめっちゃ速いってオイ!

*5:だいたい、3億円事件の犯人が逮捕されたくらいで、冷凍冬眠が実用化される世界線に移行するというのは、説得力皆無である。